* 日本画 ・ 日華連合絵画展覧会 Japan and China Conbined picture Exhibition
Japan and China Conbined picture Exhibition 1921~1929
断固抗議します!
私共のサイト上の写真をクリックすると、赤地の画面に次のような悪意のある文章が大文字で写し出されました。
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▼詳細情報 】
以上
< 1月24日午前1時30分ごろ悪意ある文章の画面を発見しました。私共が公開しておりますカテゴリにある他の名前も確認しました。同様の悪現象が起こりました。
私共は退職後も社会参画したいと云う思いで
“日華連合絵画展覧会・暹羅日本美術展覧会、読画会”外のデータベース作りに邁進しています。
先考文献・研究の有無を調べ、ユニークでオリジナリティーのある作品を目指そうと今日までやってきました。
私共の企画段階で確認した事は、動乱の時代に戦争をしながらも、
同時に平和親善を理念に両国連合展覧会を開催したという事実。 人間は信じる事が出来るんだ!”
この事実を伝えたいという思いでスタートした企画です。
21世紀は平和に投資する時代です、21世紀は融和の歴史を求めています、
日中親善・日タイ国親善を理念にした絵画展覧会を実現した読画会に焦点を当ててきたのです。
そして売名行為や営業とは無関係の方針で進んでまいりました。
私共の願いはこれ等のテーマで資料集の追加・充実を次の世代に引き継いでいけたらと思っております。
今回の悪意ある文章の介入によって驚かれました皆様に対しまして、私共としまして誠に不本意な悪結果をもたらしたと、くやまれてなりません。
残念無念でなりません。
旧来通りの安定した情報公開の環境が戻るように願うばかりです。
どうか侵入しないでください。
お願いします。
ここに此の度の経緯を説明いたしました。
2012.1.24 3;26am シルバーネイル
◇ 序文
日中交流史を形成する
"日華(中日)連合絵画展覧会”
は1921~29年の間に5回開催されたと云う事です。
この基本線に沿って、 日華展 ( 日華(中日)連合絵画展覧会のこと )について
書かれた新聞記事や美術雑誌の記事
を時系列に並べて見ました。
また補完資料として
東京美術学校校長正木直彦氏の日記
“十三松堂日記”や、
内大臣牧野伸顕氏の日記等と合わせて
美術書も資料として援用し、時系列に配置しました。
〚 私共の主張 〛
私共は、
①第1回日華連合絵画展覧会
開催を実現するまでの準備活動、
②第1回から第5回までの展覧会開催
実現の下準備計画、
③第5回終了後の
日華連合絵画展覧会
復活のための計画
などを中心的に企画実行した
<読画会>
という画塾に焦点を当てゝいます。
(上野公園 読画会展覧會正面の写真
・明治44年“美術之日本”所収)
・**
*「読画堂塾」昭和17年(1942)国民美術研究所発行
日本画史の主人公である画家たち、わけても、
<読画会>
の主宰者である 荒木十畝 画伯や
読画会を支えた大きな柱であった 池上秀畝 画伯、
そして渡辺晨畝画伯、西沢笛畝画伯、
永田春水画伯、荒木月畝女史,森白畝画伯 外の会員
皆様を採り上げています。
遺憾ながら、読畫會会員の皆様は現代の日本画壇からは
全く忘れ去られた存在となって居ります。
私共は、読画会の会員皆様が、
明治・大正・昭和前期を通して
真摯に日本畫壇に尽くされた、
その功績を顕彰したいのです。
読画会々員の画家たちは、
近代日本画史を作った主人公たちです。
この読画会々員の皆様を強調することにより、
日華連合絵画展覧会史
は、広がりを持ち、豊かなシーンを見せてくれます。
この編集方針のもとに、
“日華連合絵画展覧会 集成”
を纏めました。
なお、〖 〗は見出しを、【 】は本文を表します。
日華連合絵画展覧会
新聞・美術雑誌・美術書・出典一覧
< 暦年区分 >
大正前期
日華連合絵画展覧会が開かれるまで
▲大正4年10月13日 東京朝日新聞
( China人の入選 ▽在京の留学生 鮑小游 画伯 )
鮑小游 画伯 関連記事
▲大正10年12月 4日 大阪朝日新聞
▲大正10年12月24日 大阪毎日新聞
▲大正7年1月15日発行 美術之日本
( 書画展覧会の嚆矢 北京「京師書画展覧会」に就て )
大正8年(1919)
幻の第1回
日華連合絵画展覧会 計画報道
8月26日 大阪朝日新聞
8月26日 東京朝日新聞
9月 6日 読売新聞
9月 9日 東京朝日新聞
4月15日発行 <美術之日本>
P13~19 補完資料集参照
5月18日発行 <美術之日本>
補完資料集参照
10月25日発行 美術之日本
11月20日発行 美術之日本
11月28日 大阪朝日新聞
大正9年(1920)
( 排日運動・日米戦争論 )
8月26日 読売新聞
12月22日 大阪朝日新聞ハリス氏関係
明治3年(1870)1月13日 横浜もしほ草
昭和39年(1964)文芸春秋新社 P223・P241
昭和56年(1981)中央公論美術出版 本阿弥行状記と光悦
国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコードB04012304900
大正10年(1921)
第1回
日華連合絵画展覧会
<於 青島・北京・天津>
◎国立公文書館アジア歴史資料センター
・レファレンスコード B05016015100
(日本側出品作品と中国側出品作品)
11月20日発行 美術之日本 P29
昭和14年(1939)発行 日本美術年鑑 106頁
(大正10年・第1回日華展について触れた記事)
7月 1日 東京朝日新聞
7月28日 東京朝日新聞
11月15日 読売新聞≪華盛頓(ワシントン)会議號≫
12月4日 大阪朝日新聞
12月24日 大阪毎日新聞
11月11日 東京朝日新聞
12月6日 大阪毎日新聞
12月6日 大阪朝日新聞
◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコード A10112954000
大正11年(1922)3月3日「China陸軍中将何恩溥外二名叙勲ノ件」
12月20日 大阪毎日新聞【China政変の一考察 興味を惹かぬ理由】
12月22日 大阪毎日新聞〖孫文氏の夫人 土匪に浚わる〗
12月30日 大阪毎日新聞
◎国立公文書館アジア歴史資料センタ
・レファレンスコード B05016015100
・杏芬女士 出品作品レファレンスコード B05016015100
・レファレンスコード A10112954000
大正11年(1922)
第2回
日華連合絵画展覧会
4月 25日 読売新聞
◎国立公文書館アジア歴史資料館 日華連合絵画展覧会報告
(レファレンスコード;B05016015100
5月 2日 大阪毎日新聞
5月20日発行 美術之日本 P12-14
(出品作品解説附き)
5月 31日 大阪毎日新聞
5月 2日 読売新聞
4月 27日 読売新聞
(参考)◎国立公文書館アジア歴史資料館 日華連合絵画展覧会報告
(レファレンスコード;B05016015000
(参考)大正12年8月17日 東京朝日新聞
5月 3日 読売新聞
5月 6日 東京朝日新聞
◎国立公文書館アジア歴史資料館 日華連合絵画展覧会報告
(レファレンスコード;B05016015300
2月16日 東京朝日新聞
5月 4日 東京朝日新聞
5月 4日 読売新聞
5月 14日 東京朝日新聞
5月 15日 東京朝日新聞
6月 9日 東京朝日新聞
6月 10日 東京朝日新聞
5月 20日 東京朝日新聞
5月 9日 読売新聞
5月 20日 東京朝日新聞
3月 美術之日本
12月 14日 東京朝日新聞
5月 6日 東京朝日新聞
4月 27日 読売新聞
4月 28日 読売新聞
大正12年(1923)
日華連合絵画展覧会
準備工作記事
<参考>
「日本画大成 大正篇(三」昭和8年(1933)4月14日発行/東方書院-
▲関東大震火災関係
「十三松堂日記」(東京美術学校校長正木直彦氏の日記
△大正12年(1923)9月1日 関東大震災
△大正12年(1923)9月27日 強震と荒木十畝の妻 鈴子(荒木寛畝の娘)の葬儀
△大正13年(1924)9月18日 荒木十畝の再婚と強震
△昭和7年7月9日「十三松堂日記」
◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコード
A03021470000・A08072014300とA08072018700
6月30日発行 美術之日本 P25-26 〖 命拾ひの写生旅行 池上 秀畝 〗
大正12年 8月 17日 東京朝日新聞 「中日美術倶楽部」
◎国立公文書館アジア歴史資料センター レファレンスコードB05016015000
「中日美術会館」建設を予定する上海 「中日美術協会」
◎国立公文書館 アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016015000
◎国立公文書館 アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016015100
「小村参事官の処遇」
◎国立公文書館 アジア歴史資料センターレファレンスコードB05016015300
(中日美術会館設計図)
◎国立公文書館歴史資料センターレファレンスコード;B05016015000
「中日美術協会の会則と沿革」
大正12年9月2日(十三松堂日記・石野哲弘氏の事)
≪ 日華連合絵画展覧会に登場する中国側要人 ≫
大正10年10月30日 東京朝日新聞 ・周自齊氏を訪ふ 一日横浜出発
大正11年12月 8日 東京朝日新聞 ・顔氏 China公使館内で展覧会を開く
大正11年12月25日 東京朝日新聞 ・顔氏の歓迎会
大正12年3月20日発行 美術之日本 ・China公使館に於ける古名書画展観追記
大正12年8月17日 東京朝日新聞 ・梅蘭芳丈
大正13年 5月 8日 東京朝日新聞 ・黎元洪氏帰国
大正13年(1924)
第3回
日華連合絵画展覧会
5月 6日 東京朝日新聞
5月18日 大阪毎日新聞
5月 8日 東京朝日新聞 「國恥記念日」
◎国立公文書館アジア歴史資料館 日華連合絵画展覧会報告
(レファレンスコード;B05016015000)
?月 ?日 日本美術年鑑
P160-161
6月26日~
12月10日 正木日記
大正15年(1926)
第4回
日華連合絵画展覧会
◆ 参考< 革新日本画会について >
10月 十畝画選
美術五十年史
大正13年2月6日 都新聞
6月20日 東京朝日新聞 革新展と日華連合会
昭和2年版 写真・日本美術年鑑
6月8日 東京朝日新聞
6月9日 東京朝日新聞
◎国立公文書館アジア歴史資料センターB05016016000 「最初は個人の企画に過ぎず」
◎国立公文書館アジア歴史資料センターB05016016000 「名士の余技」
◎国立公文書館アジア歴史資料センターB05016017100 「申請書」
◎国立公文書館アジア歴史資料センターB05016015900 「晨畝China視察」
◎国立公文書館アジア歴史資料センターB05016017200 「出品目録」
6月19日 読売新聞
6月19日 中外商業新報
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ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
金 紹城 氏 追悼関係
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
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◆大正15年(1926)9月11日付
◎国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードB05015959300 金紹城氏 追悼模様
◎国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードB05015959300 金氏 勲三等叙勲
◎国立公文書館アジア歴史資料センター・レファレンスコードB05016017100 中華美術家名簿
◆正木日記
9月27日付
10月8日付
10月15日付
10月17日付
◇昭和6年5月10日付 周湘雲氏“遭難について”
◆牧野伸顕日記
6月18日
8月号 中央美術
7月7日 大阪朝日新聞
7月7日 大阪毎日新聞(出品作品解説附き)
7月8日 大阪毎日新聞
7月8日 大阪朝日新聞
7月9日 大阪朝日新聞
◇昭和6年1月18日付<十三松堂日記>
7月12日 中外商業新聞
6月17日 中外商業新聞
昭和2年(1927)
日華連合絵画展覧会
計画報道
2月 23日 東京朝日新聞
昭和4年(1929)
第5回
日華連合絵画展覧会
▲中日現代絵画展覧会(標題 第五回日華連合展覧会 分割2)
国立公文書館アジア歴史資料センター
レファレンスコード;B05016017800
10月26日 読売新聞
10月21日 読売新聞
10月23日 大阪毎日新聞
10月26日 大阪朝日新聞
11月 2日 読売新聞
10月26日 東京朝日新聞
12月 3日 読売新聞
12月 4日 大阪朝日新聞
11月21日 読売新聞・日華展委員畫信
11月27日 〃
12月 3日 〃
9月 18日 東京朝日新聞
10月 20日 東京朝日新聞
11月 2日 東京朝日新聞
11月 2日 東京朝日新聞
昭和 6年(1931)
日華古今絵画展覧会(於 帝室博物館
と
日華連合絵画展覧会(於 東京府美術館)
5月17日 大阪朝日新聞
5月17日 東京朝日新聞
5月16日 牧野伸顕日記
昭和7年版 (前年の行事を纏めたもの)
P65-66 日本美術年鑑
昭和 9年(1934)
日華連合絵画展覧会(於 東京府美術館)
5月22日~
5月23日 正木日記
昭和14年(1939)
日華連合絵画展覧会 復活計画
4月23日 東京朝日新聞
昭和15年版 日本美術年鑑
昭和19年(1944)
日中両国の芸術復活を信じて
3月25日初版発行 <明治大正昭和 日本絵画史>
420頁~421頁
(著者 石川宰三郎・㈱大日本雄弁会講談社)
昭和23年(1948)
日華連合絵画展覧会 回想
6月10日 十畝先生 芸艸堂出版部
*******************
写真版
日華連合絵画展覧会
関係資料 < 暦年区分 >
*******************
”なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな ”
古今和歌集・仮名序 王仁博士
大正前期
日華連合絵画展覧会が開かれるまで
▲大正4年10月13日 東京朝日新聞
**
**
**
大正4年10月13日 東京朝日新聞
〖●China人の入選
▽在京の留学生 〗
【文展の日本画に入選せし二百余名の画家中
鮑小游の夾竹桃も其一なるが
同人は中華民国人にして明治24年4月に本国に生れ
後神戸に来り目下神戸中山手通四丁目十五番地に居住し
今より四年前京都美術工芸学校に入りて
竹内栖鳳 山本(元)春挙 菊池芳文 等の各画伯に就き
絵画を学び本年四月京都絵画専門学校に入り
目下同校一年生なるが
今回初めて文展に出品し入選の光栄を博したるなりと(京都電話)】
引用 鮑小游画伯 関連記事
▲大正10年12月4日 大阪朝日新聞**
▲大正10年12月24日 大阪毎日新聞**
**
【◇China画家
鮑小游 氏
の作品展覧会を見る。
作品は総て五十余點全体とし些か食い足りないが、
然し将来に嘱目する事にしよう。
日本で畫を学んだ人だけに、我々の注意を引く様な
異国的な情味にも乏しい。
それに氏は日本の画家達の悪い写実に毒せられて居はしないか。
とは云うものゝ、中には非常に感じの好い作品も無いではない。
例えば
「江南春」は柔い味があって、好きな人には好くだろうし、
「花港観魚」暫く見て居ると、好い味が出て来ると思う。
「湖山秋暁」も䔥條たる気分が出て居る。
「西湖雨後」には流石に日本には見られない筆致があり、
「寒林歸騎」は枯淡な所があって好い。
猶ほ同時に展観された刺繍作品には余り感心しなかった。
精緻であると云うに過ぎない。
これも悪写実に毒せられて居るからなのだが、
昔のChinaの装飾的な刺繍の方が、どれだけ芸術的だか解らないと思う。】
▲大正7年(1918)1月 15日発行 美術之日本
**
**「美術之日本」大正7年1月15日発行
<評論及研究>
〖北京「京師書画展覧会」に就て 稲葉岩吉〗
□ 展覧會開催の趣旨
【私共が旧臘Chinaを巡回する中に、
漢口から北京往きの汽船に便乗して
定州附近に至ってChinaの新聞紙を閲覧すると、
図らずも其の新聞の記事に依って、
北京に於て京師書画展覧会なるものが
開設せらるゝ事を承知した。
其の展覧会は十二月一日より開かれ、
我々が北京に着いたのは二日の夜であったので
第一日と第二日は見られなかったが、
其後はずっと見る事を得て大変に面白く感じた。
抑も此の展覧会は、過般Chinaに於て二つの厄難と謂はれて居る
其の一たる即ち洪水の為めに北京及び天津附近の
被害が非常に大きかった為めに
官民共同して現に其の前後策を講じつゝあって、
其の救済の為めに開かれたものである。
聞く所に依ると、此の水害は直隷省、山東省、河南省の
九十餘県にまたがって居るそうで、
其の被害の程度の甚だしかった事は想像に余りある。
我々は前に言った定州附近で水害の状態を瞥見したが、
其の悲惨な且つ劇烈なる事は筆紙に述べ盡し難い。
従って北京天津辺の官民は其の前後策に於て非常に努力して居る次第で、
其の為めに巨額の借款を起して現に経営に当って居る。
京師書画展覧会は
即ち其の経済に対して幾分の義捐をしたいと云うので
北京の有志者間に企てられたものである
即ち北京に於ける書画収蔵家が其の収蔵品を持出して
公衆に観覧せしめ、其の観覧券の売上より得た収入全部を
水災の救済に投ぜんとする義擧であった。
□ 書画展覧会の嚆矢
Chinaに於ては展覧會なるものは近時の流行物であるが、
併し其の展覧会は物産の博覧会に類似したもので、
書画の収蔵家殊に聞こえて居る収蔵家が、各々惜げもなく
少なくも一品以上を持出して其れを観覧せしめたと云う事は、
此の京師書画展覧会が初めである。
殊に場所が北京であるから、新聞紙に依って知った時に
既に多少の興味を起した。
そして北京に到着し正金銀行に立寄って小貫君が直ちに我々に示された
該展覧會の目録を見て其の内容の大体を知る事が出来た。
右の如く展覧會開催の動機は非常に道徳的の見地に在ったのだから、
之れに対する同情の、北京の識者間に翕然として起ったのは当然である。
会は十二月五日より七日迄開かれ、観覧券の代価は一日二元、
一週間を通じての場合は十二元と云う定めで
場所は中央公園に設けられた。
中央公園は北京の宮城の一部に清朝末期に新たに設けられた
午門の外辺であるので、場所としては最も適当な處である。
我々は第三日目より観察したが、何分にも多忙の身であり、
十分に観る事は出来なかった。
殊に北京は十二月になっては日脚が短く光線の関係もあって、
午前十一時頃から開催して午後四時近くに閉会したので、
恐らく一般の人も物足りない感じがしたろう。
□ 主催者と出品
此の會の主催者とも思はるゝ人を挙ぐれば、
景樸孫、寳瑞臣、顔延伯
の諸人であって、一人の出品数は少きも二三品、
多きは六七十点位も出品した人があって、
全体の品数は四五百点の多きに上った事と思う。
それを毎日取り代へ取り代へ見せるのであって、
先づ最初に全体の出品の予定目録を発行し、
開催当日は出品ビラを来会者に頒ち、
更に英文の総目録も作って外人観覧者の便を計るなど、
十分用意の行き届いた会であった。
我々は多忙の間を偸んで第三日より七日目迄観る事を得た
多くは御餐後に駆けつけたのであるが、
Chinaの言葉で言えば、所謂寳車香馬を以て中央公園の一角は埋められた
と言っても可い程の盛況であった。
其の観覧者中には政治家もあり、学者もあり、実業家等もあり、
殊に婦人の熱心なる観覧者を認めたのには我々も意外に感じた。
如何なるものが出品中の白眉であったかは
別にお話しする機会もあろうし、
又 内藤博士が親しく綿密に観察されたから
恐らく博士の手に依って発表されよう。
又其の全体の目録も持ち帰ったから他日発表の機会もあろうが、
兎も角も此の展覧会はChinaに於ては
空前の計画
であったと思われる。
又Chinaに於ての現存する逸品の大なるコルレクションであったと思われる。
殊に我々の意外に幸福と感じたことは、
革命の結果として、清朝の宮殿に深く秘せられてあった多数の逸品が、
此の会に展覧し得られた事であった。
即ち熱河の尊蔵として認めらるべきものが今は北京に現在して、
それが此の会に陳列されたものも少くなかったようである。
展覧會の成績は如何なる結果であったか、
爾後忽々北京を去ったから一寸想像し兼ねるが、当日の光景より推せば、
主催者の幾分の希望は充されしことゝ思う。
□ China国民性の一面
Chinaは今日我国の人々をして想像せしむれば、
国内に南北の争いあり、
日々干戈を取って戦いつゝあって、
頗る物騒のように思うか知れぬが、
それは一部の観測であって、
斯る平和の気分に満ちた会合も
北京に於て故障無く開催されるのである。
我々が図らずも此の展覧會に出会したのは非常に幸福であると思う。
China人の一面には断えず斯る気分が充満して居ると云う事を
我々は一面に於いて考慮しなければ、所謂China民性なるものを
了解することは出来ぬと思う。
在北京の日本人が斯る展覧会に接し乍ら
殆んど馬耳東風に看過して居たことは我々は不思議に思った位である。
外国人は実に熱心に見物に来て居たに拘らず、
北京に於ける千人乃至千五百人の日本人が之を観ないのは
我々の甚だ了解に苦しむ所であった。
(一月九日談話)
*転載完了
<御参考>
**
▲大正10年11月24日 東京朝日新聞
〖対支一家言 稲葉君山著(=稲葉岩吉)〗
【最近支那の諸問題に関する著者の論文集で
大部分は諸雑誌に一度発表せられたものであるが、
英米諸大家の意見や興味ある挿話を交えて
平易に記述した点に特色がある。
(金二円五十銭、本郷弓町日本評論社)】
大正8年(1919)
幻の第1回
日華連合絵画展覧会 計画報道<
▲大正8年(1919)8月26日(火曜日)
大阪朝日新聞
**
〖 日支合同絵画展覧会
北京宮城内に開催
十月一日から一箇月間
日本は荒木十畝氏等発起 〗
【 北京に於ける大官の間に
数次話題となり居たる
日支合同絵画展覧会
は協議愈熟し
China側は曩に
周自齊氏
を始め
外交顧問 顔世済、
前財政総長 王克敏、
国務院諮議 王任化氏
及China第一の南画家にて衆議院議員なる
金紹城氏
等五名発起人となり
又日本側にては
渡辺晨畝、
福井江亭、
荒木十畝
の三氏発起人となりて
今秋十月一日より一箇月間北京宮城内
傳心殿に第一回展覧会を開催するに決し
近々幹事は同地に向け出発の筈なり
(東京電話) 】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▲大正8年(1919)8月26日(火曜日)
東京朝日新聞
**
〖 日支合同の絵画展覧会
十月から北京宮城内に於て 〗
【 日支親善の為めにも効果あらんと
北京に在る日支名士間に豫ねて話題と
なり居たる日支合同絵画展覧会は
協議愈熟しChina側は
周自齊氏
を始め
外交顧問 顔世済、
前財政総長 王克敏、
国務院諮議 王任化氏
及China第一の南画家にて衆議院議員なる
金紹城氏
等五名発起人となり
又日本側にては
渡辺晨畝、
福井江亭、
荒木十畝
の三氏発起人にて
今秋十月一日より一箇月間北京宮城内
傳心殿にて第一回展覧会を開催する事
に決し日本側幹事は近日同地に赴く筈なり 】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▲大正8年(1919)9月6日
読売新聞
**
〖 今秋十月北京で開かるゝ日華絵画展覧会 〗
【 既報の日華連合絵画展覧会は
毎年一回東京並に北京に於いて開く事となり
第一回を今秋十月下旬より向ふ一ヵ月間
北京舊宮城内傳心殿で開催することに決した。
同会では昨日各方面へ展覧会規約を配布したが、
発起人は正木直彦、川合玉堂、小堀鞆音、
小室翠雲、荒木十畝の五氏、
幹事は十畝氏と渡辺晨畝の二氏、
庶務は山下喜三氏が之を担任する筈で
出品締切期限は十月十日迄、搬入先は
下谷谷中坂町日本畫會事務所内
同会假事務所(電話下谷四三四七)との事である 】
▲大正8年9月9日 東京朝日新聞


<本文>
【日華連合絵画展覧会視約 (規約?)
正木直彦 川合玉堂 小堀鞆音 小室翠雲 荒木十畝
諸●を発起人とする
日本連合絵画展覧会は愈々本年十月下旬より一箇月間北京舊城内得心殿にて
開催する事となりたるが
北京全部審査を行はず屏風其他の厖大なるものを除く由
出品締切は十月十日にて搬入先は下谷谷中阪町日本畫會事務所内なりと】
▲「美術之日本」大正8年10月25日発行

「美術之日本」大正8年10月25日発行
日華美術展覧会開催期
【豫て報道したる日華連合美術展覧会開催の議は、
其後徳川頼倫侯、山川健次郎男、森林太郎博士を初め、
諸名家三十余名の賛助後援に依りて頗る好都合に進捗し、
出品絵画も略〃揃ひたれば、
いよいよ本月下旬北京へ向って出発し、
開会するの運びとなりたりと云う。】
▲「美術之日本」大正8年11月20日発行

「美術之日本」大正8年11月20日発行
〖 日支展覧會延期 〗
【曩に日支交驩の意味に於て、両国芸術
の握手を企画し、正木直彦、小堀鞆音、
川合玉堂、小室翠雲、荒木十畝、渡辺晨畝
及び
周自齊、王克敏、顔世清、金紹城、王任化
の諸氏発起となり、日支朝野知名の士の賛助を得、
来る十一月北京に於て
日支連合絵画展覧会
開会の筈にて、既に本邦画家の出品は二百餘点に達したるも
China側出品の都合と排日風潮未だ鎮静に帰せざる為め、
China側発起人より来春に延期方申込来り、其結果明春三月の候に
延期する事に決定せり。】
〖 ちょっと寄り道〗
< 日華連合絵画展覧会のプロモーター 荒木十畝という男 >
▲「現代日本画大鑑」昭和11年 石井柏亭監修 昭森社
作家言(荒木十畝の信条)「画家は学者であり、理想家であり精神家である」
▲平成1年(1989)10月25日
里文出版「昭和画壇の巨匠たち」遠山孝著
△大礼服姿写真「荒木十畝とその一門・1989年」練馬区立美術館発行
**
** **
**
▲大正9年(1920)雑誌“美術之日本”
▲東京美術倶楽部入札記録**
▲「東介波瀾万丈」1991・4・8 銀座屋出版社発行
「東介波瀾万丈」の著者 木村東介氏は
「羽黒洞」というギャラリーのオーナーで、
ジョン・レノンさんとオノ・ヨーコさんが来店し
肉筆浮世絵などを求られたという
一寸世間様に(特に団塊の世代に)ご紹介したいエピソードではあります。**
**
「(岸田)劉生の値は浮世絵関係の店だけで、
一般の美術商では通用せず、
当時、最高は寺崎広業、荒木十畝、木村武山、横山大観、
池上秀畝、小室翠雲等で、
荒木十畝などは当時五万円で千葉の山サ醤油から
屏風一双を頼まれ、それをはねつけたという
画家の気概として一流新聞に一斉に報道されたほど豪勢だったが、
今は逆転して劉生の絵は最高価格であり、十畝や広業の値は消えた。」
▲大正8年(1919)美術之日本
△読画会の主宰者 荒木十畝は
民間画塾の「読画会」を私物化しないで、
自分の子孫には継承させないと宣言する。
▲位階勲等レースでは、ダントツのトップを走る十畝さんでした。
△大正8年(1919)9月9日 読売新聞
△大正6年(1917)美術之日本と 大正8年(1919)官報
△大正8年国立公文書館アジア歴史資料センター(レファレンスコードA11112710800)**
▲大正8年11月28日 大阪朝日新聞
**
〖 陸軍大学を卒業したChina武官 皆要路の人 〗
【 今回我が陸軍大学校卒業者の内 異彩を放てるは左記
覃中将 以下八氏のChina武官にして
同氏等は我が学生と何等異ることなく
満三カ年の間頗る熱心に勉学し正式の課程を修了し
其の成績頗る良好にして何れも陸軍大学卒業の徽章を付与せられたり
是外人中我が陸軍大学を卒業せし嚆矢にして
日支親善の為喜ぶべき現象と云うべし 】
大正9年(1920)
( 排日運動・日米戦争論 )
▲読売新聞 大正9年(1920)9月2日
〖 日米親善号 〗読売新聞 大正9年(1920)9月2日
**
〖 日米関係の追懐 男爵 渋沢栄一〗
【 ・・・前略・・・、
次に我国民の忘るべからざるは日米国交開始後最初の駐日公使たりし
タウンセンド・ハリス氏
の日米親善に盡せる功労也、
・・・中略・・・
米国公使ハリス氏のみは列国と我国との間に斡旋して
出来得る限り我国の不利益を少なからしむるに努力せしことは
当時の実情を知れる者の斉しく感謝せる所なり、
我国最初の関税取極めの如き極端なる不公平を避け得たるは
偏にハリス氏の力なりしを否む可らず
其他ハリス氏が我国に対し常に好意を寄せたりし実例としては
文久3年(1863)頃起こりたる蘭人ヒュースケル殺害事件を挙ぐるを得べし、
ヒュースケルは米公使館の通訳なりしが
某夜攘夷党壮士の為に芝赤羽橋付近に於て惨殺せられたり、
此事件は列国駐在使節の激高を買い
外交団と老中安藤対馬守との交渉なりしが
列国使臣は幕府の取締緩慢なるを攻撃して止まず、
遂に一同東京より横浜に引揚ぐるに至り、
国交上由由敷大事に至らんとせり、
此時ハリス氏は幕府と各国公使との間の居中調停に任じ
極力日本側を弁護し、各公使の東京引揚げを不可なりとし
唯一人依然として東京に踏留まりたることあり
当時未だ彼我の国情互に諒解せられざりし時代に於て、
此の如き同情を寄せたりしハリス氏に対しては
須らく我国民は永久に感謝し決して忘却すること莫るべき也、】
*

〖親善宣伝の必要〗
日本郵船会社長 近藤廉平
【・・・加州に出掛けた当初の日本移民の多数は永住する
気はなかったけれども現在同州における日本移民の多数は
永住者たらんとして盛に加州の開発を援けて居る
加州の排日宣伝
は日本人は人種習俗宗教を異にするが故に
自国の国籍に執着し帰化には不適当であると云っている
加州民が現在の敵対的態度を棄て日本人の同化を一層急速
ならしむる目的を以て彼等を援助し励ますならば問題は
甚だ容易となるのである
余自身としては日米両国民の関係を改善するためには微力
の限りを尽くさんとするものであり総べて誤解を一掃し
彼我の完全なる調和を此の目的の為に鋭意尽力しつゝある
人々と協調して努力せんとするものである 】
・日米協会会長 金子堅太郎
**
〖 日米親善の意義 子爵金子堅太郎 〗
日米の親善なるべきは殆ど云うを俟たない、
先づ第一に日米両国は地理的関係に於て親善であらねばならぬ、
念うに太平洋岸に国を樹てゝ居る国家で政体、法律、制度、軍事、経済等
凡ての点に於て完全なる組織を有するものは日米両国の外にない、
・・・・中略・・・・・
故に亜細亜の平和と発展の為めには日米の提携が是非必要である、
斯くして亜細亜の各国民は安心し、欧州諸国も亦安心するのである、
斯くの如く日米は絶対に親善ならざるべからざるに昨今頻りに
日米戦争論を唱道する者がある、
此の如きは世人の耳目を惹き又は親睦を聳たしむる為め一時の煽動である
と確信する、
仮に日米が開戦するとせよ、米国は布哇、比律賓を根拠として作戦するの外なからん、
・・・・中略・・・・・
米国が公平無私なるハリス公使をして
日本人を誘導教育したるは恰も慈父の如きものがあった
日本人の或者は公使館を焼き乱暴狼藉を敢てしたる事
今日の西伯利土民の如きものがあった
此の時にハリス公使は斯の如きは
未だ日本が文明の域に達せざる結果である、何等悪むべきでないと
日本を弁護する事至れり尽せりで他国の干渉を一切排して
日本の領土に他国の一兵卒も上陸させなかった、
米本国政府も亦日本に対して些の圧迫も脅迫も加えず
只管日本の自覚を促した、
近年米国で邦人の排斥事件が頻出しても、
日本人は昔時米国人が本邦人に対し勘忍したる厚意を忘れぬ為めに
何等米国を恨んでは居らぬ、
而巳ならず移民も紳士協約を締結して労働者の渡米さへ禁じて居る、
此の如く一切万事米人の感情を害せざるに努むる事
恰も六十七年前の借金を今日 米国に返還しつつあるのである
更に詳しく云えば米国は波理(ペリー提督)やタウンゼント、ハリス公使以来
日本に投じた無形の資本を現に返還されつつあるのだ、
歴史は此の如く日米の間は切っても切れぬ間柄である、
然るに今日 米国に此歴史を無視し日本人の心理状態を誤解し
自ら日米親善を破壊せんとするもののあるは甚だ惜しむべき所である、
併し乍らこれは米国の人種が四十年以前と異なるが為めである
四十年前の米国は四民平等なりとの国祖ワシントンの子孫であった
それが四十年前頃から欧州諸国の移民が滔々と流れ込んできた、
是等新移民の多くは選挙権を獲得した結果、
米国建設の歴史をも顧みず十三州建設当時の少数国民の子孫を圧倒するに至った、
此の新米国民の眼中には日米の歴史は無い
単に日本人の生活程度低く、勤勉にして且つ其の賃金は低く、
英語も亦十分に話得ざる点だけ見える、これが異分子として嫌われる所以である、
併し乍ら予は確信す米国人が少しく胸襟を開き
在米日本人に其の市民権を与えんか
必ずや日本に於て忠良なる国民たるが如く
米国に於ても亦忠実なる国民たるを疑わず、
一、二日本人の行為を見て直に全日本人の心理や行為を律せんとするは
米人の為めに取らざる所である、
故に米国民は先づ日本の歴史と日本人の性向とを
詳に研究するを要するのである、以下略 】
引用 〖タウンゼント・ハリス氏(Townsend Harris, 1804年10月3日 - 1878年2月25日/アメリカ国)について〗
ここに、明治三年(1870)一月十三日の
“横浜報知もしほ草(新聞集成明治編年史収載新聞目録参考)”の記事によると、
中国のアヘンによる窮状を記述したのち、
次のような件があります。
【○爰に日本国にとりて、
幸ひ中の幸ひなり。
十有余年前、我亜國初めて此地に渡来し、
それよりしてハルリス君の手にて、
双方の協議を盡し、条約最初に取結ばれたり。
かのハルリス君には、いとかしこくも
インデアのアヘンを此国に輸入することは
堅く断りたしと、外国人に布告せしかば、
今日迄此地にこの憂へなし。
若も他国人アメリカに先達而、
日本国と条約取締に相成しならば、
かれ等は此地に無用のアヘンを
十分に輸入するに至るべしと思われたり。】
ハルリス氏のお蔭でアヘン(阿片)から
救われた日本と云う事です。
ここに登場します
ハルリス(Townsend Harris)とは、
幕末期に来日したアメリカの外交官
ハリス領事の事のようです。
(*ペリー提督をぺルリ提督と呼ぶに同じ)
*『もしほ草』(正確には『横浜新報もしほ草』)は米国人ヴァン・リード(Eugene M. Van Reed)と日本人岸田吟香(ぎんこう)により慶応四年(1868年)四月十一日に横浜の外国人居留地で発行された新聞(インターネットの「KANAGAWA University Repository」を参考にしました。)
▲〖 炎は流れる (明治と昭和の谷間)〗 大宅壮一著
第2巻 P233 昭和39年(1964)文芸春秋新社
【タウンゼント・ハリスの伝記を読むと、
彼の祖母は、独立戦争時代のことを
話して聞かせたあとでは、きっと、
「真実を語れ、神を畏れよ、イギリスを憎め」
と教えたと出ている。
また、ハリスは少年時代に、
英国製のナイフを手にしなかったし、
英国製の布で作った衣服を
きることを好まなかったという。
(炎は流れる第二巻P233)】
▲炎は流れる 第2巻 P241
【 中国にアヘンをもちこんだイギリス人を憎み、
日本に中国の轍を踏ませたくないため、
「アヘン禁輸」を条約の一条項として明記するこ
とをすすめたのも、
日本への深い愛情、彼(ハリス氏)の心の底にひめられている強い理想主義
から出たものといえよう。】
〖本阿弥行状記と光悦 昭和56年(1981)中央公論美術出版 〗
**
【一三九 毎年来朝の阿蘭陀人甚だ天文に功者なるより、
何万里の瀾の上を来りて難船をせざるは、
天文に通ぜし故とぞ。
惜むらくは貪欲に走りて
一生を過す事蠻夷の風俗なるべし。
彼が持来る品稀なるもの多き中に、
阿芙蓉(一名 阿片)
此品甚だ高料の奇品にして、
閨房の楽にせんと(字しれず ひきのあぶら抔とやら)
用ふる薬なりと。
度重るときは病となる。
いらざる奇品なり。
阿芙蓉はけしの花の少しひらきかかりの花をむしり、
六七歩のけし坊をあつめて銀の器にしぼりこみ、
日に干し候物とぞ。
凡田三反計りのけしにて、漸く懸目三匁ばかり出来候とぞ
(本阿弥行状記P91~P92) 】
▲アメリカ国 タウンセンド・ハリス公使関係
国立公文書館アジア歴史資料センター(レファレンスコードB04012304900)
〖 件名標題(日本語) 各国展覧会関係雑件 第二巻 10.
「タウンセンド、ハリス」遺品展覧会
レファレンスコード B04012304900
資料作成年月日 昭和14年12月22日
組織歴/履歴 外務省
内容
昭和14 四五一五一 略 紐育 十二月二十二日後発 米
本省 二十三日前着 野村外務大臣 若杉総領事 第五一二号
貴電第二五三号ニ関シ
(「タウンセンド、ハリス」遺品展覧会ニ出品方応諾ノ件)
先方ハ大学ノ催ヲ助クル当方好意ヲ求メ来リ居ル次第ニテ
経費ハ我方負担シ遺ル外ナシ(了)
昭和15 一五八七 略 紐育 一月十九日後発 米
本省 二十日前着 有田外務大臣 若杉総領事 第三〇号
往電第五一二号ニ関シ
(「タウンセンド、ハリス」遺品展覧会ニ関スル件
経費本邦側負担ニテ貸与可能ナリヤ何レニセヨ御回示ヲ得タシ
昭和15 二五四〇 略 紐育 一月二十九日後発 米
本省 三十日前着 有田外務大臣 若杉総領事 第四七号 〗**
**
〖 Author;つくづく思います。理想に燃えた多くの外国の方々に
助けてもらいながら、今日の日本社会が在るのだと。 〗
▲大正9年(1920)12月22日 朝日新聞

〖 日米戦争の噂(伯林特電17日○)伯林にて持ち切り〗
【 独逸に於て日米戦争の噂の旺なるは何人も頷くところなるが近時日米関係緊張し来れるに當り独逸新聞は毎日の如く英米より来る日米問題に関する電報を掲載しつゝあるが
16日“カール・アンツアイゲルは伯林の一日本人を訪問し日米戦争に関し談話を掲載せり 該邦人は日米戦争は起り得ずと断言したるが此記事を“カール・アンツアイゲルは二段抜きにて大きく掲載し居れり
普通独逸人は世界に戦争起れば世界の情勢一転化して独逸も苦しき目下の状態より免るゝことを得んとて戦争あれかしと希望し居れるが
右党側及び経済家等は日米戦争は独逸に不利益なりと考え居れり
其理由は経済家は独逸復活の為の米国の援助は日米戦争により延期せられんと之を恐れ居れるを以てなり
又軍人側及び右党が日米戦争を恐るゝは強き日本の東洋にあるは露国及び英国の独逸圧迫を東洋に牽制する利益あるも日米戦争にて日本は敗北すべしと考へ居れるを以てなり 】
大正10年(1921>
第1回
日華連合絵画展覧会
<於 青島・北京・天津>
◎国立公文書館アジア歴史資料センター
・レファレンスコード B05016015100
▲日本側出品作品と中国側出品作品
**
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**
**
**
**▲美術雑誌〘 美術之日本 〙
大正10年11月20日発行

**
〖 △日支の美術展覧会 〗
【 荒木十畝 画伯
門下の高足
渡辺晨畝氏
は昨秋China大官及び画家諸氏の諒解
を得て北京に日支連合の絵画展覧会を
開く筈になっていたところ、
折から
排日問題
が勃興したので頓挫したが、
其後感情やうやく薄らぎ、
殊に今夏小室翠雲画伯がChinaを漫遊し
大官及び諸画伯連と交驩の効空しからず、
外交総長の顔氏
や
周日斎氏
よりも晨畝氏の許へ交渉して来たので、
同氏は我国第一流の名家の作品を携へ、
先月上旬彼地に渡航し、
先づ
青島官民の懇望に依り同地に
展覧会
を開いたところ非常の盛況を呈したので
更に北京に入り大官及び諸画家と
會商の結果
その斡旋で去る十五日から
北京城内舊王宮の一部に於て
日支連合絵画展覧会
を催すことゝなった
出品の日本画は総て百余点で南北宗畫は素より
日本独特の伝統を示すべき大和絵浮世絵など
現代作家の雄を集めたものだという。
又同地人士の一団は日本の絵画を見て
その風土を慕ひ三百人の会員を募りて
近く日本観光に来る由 】
◆大正10年 第1回日華連合絵画展覧会開催の関係記事です。
▲昭和 14年(1939)「日本美術年鑑」
美術研究所編 国書刊行会発行
【 渡邊晨畝画伯訃報記事 】
**
日本画家渡邊晨畝は二月十一日逝去した。享年七十二歳。
慶応三年十一月三日福島県安積郡多田野村に生る。
荒木寛畝の門に花鳥を学ぶ。
日本画会、日本美術協会々員となり、孔雀の絵を得意としていた。
大正七年(1918)Chinaに漫遊、北京に於て
日華連合絵画研究会を組織し、
同十年(1921)
及び
十三年(1924)に
日華連合展を開催、
又昭和九年には新京に日満連合展を開催した。
満州国皇帝の知遇を辱うし、日満支三国美術の交驩に貢献せる處大であった。
尚、東方絵画協会幹事の任にあった。
▲日本画大成 昭和篇・昭和8年東方書院発行
◇渡辺晨畝氏
【明治四年十一月生、三十二年
(荒木)寛畝門下と成る三十六年 第五師団偕行社貴賓室の装飾画を揮毫し、
三十八年中 羽衣図大本営御用品と成る、
幷に大本営食堂の装飾を揮毫し
自来一家を成して今日に至る。
「氏は日本Chinaの親善は、外交によるのみでは
効果がない、宜しく芸術を媒として相互の融和を
図るべきであると言ふ建前をもって、
China滞在中に自費をもってChinaの窮民、
貧児、病者を救った経験から、
大正八年日華連合展覧会を創設して、東西画壇の有力者は勿論、外務省の後援を得て、
日支芸術の紹介と共に、両国間の意思の融和に努力して、今日に及んでゐる。】
▲大正10年7月1日 東京朝日新聞


《奉天所見》満州旅行中の小室翠雲氏

▲大正10年7月28日 東京朝日新聞

**
大正10年(1921)7月28日
東京朝日新聞
〖学芸たより〗
【○小室翠雲氏の音信 足跡を印する處
歓迎盛にして政治側にては黎元洪、潘復、
周伯圍、学者側には●寶深、方若、荘●
寛、芸術家等七十名相会し中央公園来雨亭
にて歓迎書画会を“かれ”梅蘭芳は●
氏の宅●雅宴を り小生は日支の名士
の碁会など催し来りする者五十名許り
極盛会に御座候、是より山東省を経て
上海へ向ひ可申候(七月二十日北京にて)
~~~~+++++++++~~~~
〘御参考〙
2009・9.22 朝日新聞の記事に
G20 24日開幕
“世界不均衡 解消どこまで”
という見出しに目が止まりました。
“米国 縮小する消費 貯蓄率は上昇”
“中国 内需好調でも「代役」に限界”
とあり、
“中国の内需がどこまで米国の「代役」に
なれるのかは、定かでない。
中国のGDPは米国の3分の1以下にとどまる。
中略
「中国、インド、ブラジルはおそらく消費を
増やすだろう。しかし、米国の消費減少を
埋め合わせられるだろうか。
そこは不透明だ」”
とあります。
ここでちょっと御案内したい
次の記事が御座います。
**
大正10年(1921)11月15日付で
読売新聞が≪華盛頓(ワシントン)会議號≫と題して
“太平洋上に響く軍備制限の合奏
幕をあけた華盛頓会議の前途
之に対する内外諸名士の観測”
とあります。
その紙面の中で、犬養毅が、
“寧ろ日本に向かって世界を解放せよ
軍備縮小は日本の希望
問題は過剰人口の出口”
と要点をあげて、当時の国内問題を論じています。
注目すべき犬養の論点は、
【◇更に一歩を進めて軍費節減を目指す
◇海軍は薩摩閥、陸軍は長州軍閥の
占有して居った時代があって、
是等が勝手に時の内閣の主義政策を
左右した歴史はある。
軍閥によって動かされて居た時代が
過去にはあった、
今は軍閥の威力は全然地を払ったとも云へる。
◇日本の国内事情は、一小島国で、
耕作に適せぬ山嶽地の国のため
“到底現在の人口を維持して行ける丈の
食糧を得ることは出来ないのである、
のみならず年々人口は増加する許りで、
将来日本民族を如何にすべきかは
我々の最も重大な憂苦である。
国内に於いて現在以上の耕地を得ること
難く、如何に豊作の年でも国民を養う
だけの食糧がないとすれば自然の勢い
として外国に出て行くのは当然の経路である。”】
と当時の国内事情を解説しています。
“食糧問題”は、現在進行形で、
21世紀の今以って解決されていません。
続いて
フランク・シモンズと云う方が、
中心はChina問題
≪日本勝つか米国勝つか
失敗せば第二の巴里会議≫と題して

【 <経済的要素>
巴里会議は重要な事を閑却して居た。
それは経済的要素を認めなかった事である。
中略
巴里会議は多年他民族の苛政に呻吟して
居た多くの被征服民族を解放したが、
これがために中欧各国の経済的産業的
萎靡は毫も匡救されて居らない。
<華府会議の意義>
日本は往時の英独の如く産業上急速の
発展を遂げ今や有力なる輸出国となっているが、
米国の一州にも足らない小国であるから、
若し海外から十分な食糧の供給を受くるに
非ざれば、到底其の人口をいつまでも国内に
維持する事は出来ない。
中略
然るに日英米三国に取って極東特にChinaは、
此の上もなき商権の扶殖場である。
日本に取っては之を得ると否とは直に其の死活
に関する事であり、英国も亦其の欧州に失へる
市場を此処に補ふ必要があり、
米国にとっても亦其生産の好個の捌口である。
中略
実際、機会を均等ならしむる事は
即ち米国の優越を意味する
中略
米国上院議員ボラー氏は過般の大戦は
軍備の拡張と秘密外交に起因すると謂って居る。
そして此考へは米国の公人間に可成り多くの
信者を有って居るが、
併し吾人の見る所に拠れば、
大戦の原因はそんなものではない。
欧州大戦の眞因は近世独逸の勃興である。
彼は其の膨張欲を満たす為めに盛んに
他の勢力範囲を侵さんとした。
そこで各国は同盟を作り協商を結むで
之に対抗した。其の結果独逸は遂に
乾坤一擲の挙に出たのである。
それと同様に今日に於ても世界平和に対する
危険は過大なる軍備に非ずして、
各国共購買力の著しく減少した事である。
今日の状態を見るに世界の船腹は
多く空虚であり、世界の工場が産出する
多くの貨物は顧客なくして苦しむで居る。
そこで英国は多数の失業者を出し
日独もまた経済的不況のドン底に沈淪して居る。
そしてこの悲境を脱する唯一の途は
販路の拡張あるのみ
であり世界に於ける市場の中最も有望なのは
露国とChina
である。
然し露国は堅く鎖されて居るから各国にとって
唯一の市場はChinaであり、Chinaに於いて
市場を争ふ主なるものは日英米三国である。
機会だに均等ならしめむか、此の競争は
米国のものであるが、
若し米国にして優勝すれば、
数百万の日本人は飢ゑるか
海外に移住するかの外にはないのである。
然らば英国は何うかと云ふに、
若し米国の生産力が現状を維持して行けば、
彼は遠からず悲惨な境遇に陥るであらう。
軍備の縮小は結構である。
太平洋上に於ける各国の政策を協定する事も
素的な事である。
然し是等両者の背後には
飢餓の問題が横たはって居る
事を忘れてはならぬ。
此の飢餓の要素こそは
実に将来の戦争の禍根となるものである。
華盛頓会議は此の點に留意して
之が解決を計らねば、
其失敗は巴里会議の比ではないであらう。】
〘点線はAuthor付記〙
また、同じ読売新聞に

≪日本を救ふの道は近きに在り
汎日本主義より産業化へ≫
と題してシドニー・グリンビイという方が
論文を掲載されています。
【“太平洋の諸問題を解決せずして
眞の軍備縮小は行はれない。”
(という書き出しで始まります。
以後の文章は割愛して結論部分のみ記します)
“之を要するに、
日本は今や(大正10年・1921年時点)
非常に逼迫して居る。
内に過剰の人口あり、
外には移民問題の困難がある。
故に
日本が今日の窮境より脱する途は唯一つある。
それは日本の産業化である。
日本にして十分なる産業を発達せしめんか、
将来百年間は過剰人口の処分に
苦しまないであらう。】
とあります。
内需振興という鉄則を語っています。
~~~~+++++++++~~~~
≪ 中国画家の紹介記事 ≫
▲大正10年12月4日 大阪朝日新聞**
〖 鮑少游個人展覧会 〗
【 鮑少游氏が郷国江南地方の写生旅行から得た作品を三、四、五口神戸市明石町明海ビルヂングで展観す 】
▲大正10年12月24日 大阪毎日新聞**
**
【◇China画家
鮑小游 氏
の作品展覧会を見る。
作品は総て五十余點全体とし些か食い足りないが、
然し将来に嘱目する事にしよう。
日本で畫を学んだ人だけに、我々の注意を引く様な
異国的な情味にも乏しい。
それに氏は日本の画家達の悪い写実に毒せられて居はしないか。
とは云うものゝ、中には非常に感じの好い作品も無いではない。
例えば
「江南春」は柔い味があって、好きな人には好くだろうし、
「花港観魚」暫く見て居ると、好い味が出て来ると思う。
「湖山秋暁」も䔥條たる気分が出て居る。
「西湖雨後」には流石に日本には見られない筆致があり、
「寒林歸騎」は枯淡な所があって好い。
猶ほ同時に展観された刺繍作品には余り感心しなかった。
精緻であると云うに過ぎない。
これも悪写実に毒せられて居るからなのだが、
昔のChinaの装飾的な刺繍の方が、どれだけ芸術的だか解らないと思う。】
▲大正10年(1921)11月11日 東京朝日新聞
〖 学芸だより 〗**
【 ○ China呉杏芬女士画幅展覧会
報知新聞社主催で十二日より十四日迄上野公園日本美術協会にて 】≪ご参考≫
大正11年(1922) 日華連合絵画展覧会 杏芬女士 出品作品
◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコード B05016015100▲大正10年(1921)12月6日 大阪毎日新聞
〖 大演習参観の帰途 本社を視察したChina武官 〗
【 過般武相の地に行われた大演習参観のため来朝した
China武官何恩溥、張作相両中将以下・・・・ 】
▲大正10年(1921)12月6日 大阪朝日新聞
〖 大阪城見物のChina武官 〗
【 何恩溥、張作相両中将を始め・・・ 】
◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコード A10112954000
△大正11年(1922)3月3日
「China陸軍中将何恩溥外二名叙勲ノ件」**
**
**
**
**
▲大正10年12月22日 大阪毎日新聞**
**
大正10年12月22日 大阪毎日新聞
〖孫文氏の夫人土匪に浚わる
土匪から孫氏へ人質の代償五十万元を要求 〗
【悟州に在った孫文氏の夫人は夫の後を慕って
桂林に向かう途中廣西の土匪のために人質として捕らえられ
土匪は孫文氏に対して五十万元の代償金を要求したとの報が伝えられた、
上海の孫文氏留守宅にある夫人の妹は
「姉は道中一千五百の兵隊に護衛されて居るからそんな筈はないと思います」
と語っている
孫氏の秘書役も「そんな電報は来ない、反対派の宣伝だろう」と語った
因みに同夫人は米国育ちの美人で
今度北伐に際し赤十字隊長として戦陣に臨まんとするのであった
(上海特電廿一日発)】
▲大正10年12月30日 大阪毎日新聞**
大正10年12月30日 大阪毎日新聞
〖三十隻の護衛船奮戦
孫文夫人
を奪還す土匪軍を撃退して桂林に引揚ぐ
花で飾られた夫人の船〗
【廿八日上海孫文氏の留守宅に達した報道によれば
広西省で土匪の為に攫われた
孫文氏夫人
は護衛兵の奮戦により危難から救われ
無事桂林に到着した由、
遭難地点は梧州から二百八十支里上流
桂林から三百八十支里南方の昭平附近で
三十隻の民船に搭乗した護衛兵は孫文夫人を取返すべく
二時間に亘り土匪軍と交戦し遂に土匪軍を撃退した、
一行が桂林に到着した時は美わしく花を以て掩われた
孫文夫人の乗船を先頭に
三十隻の護衛船が意気揚々としてこれに続き
群衆の大歓迎を受けた(上海特電)】
▲大正10年(1921)12月20日 大阪毎日新聞
【China政変の一考察 興味を惹かぬ理由】
〖北京政界では内閣総辞職でごった返しをやっている。
新内閣と言えば一昨年十一月に成立して、Chinaにおいては珍しく長寿を保った内閣である。
単にそれだけの事実から考えても、又華盛頓会議が開かれている今日、
国際政局における最も注目すべき一国として、
極東政局の重要なる立役者の一つとしても、
その内閣の更迭は当然平日より以上に世界の注視を集めねばならぬ筈である。
併しながら、事実は全くこれと反対である。
Chinaに密接な関係を持つ各国がこの政変に冷淡なばかりでなく、
従来Chinaの政変を自国の政変であるかの如く騒いでいた日本も今度は一向騒がない。
甚だしきに至ってはChina国民自身が自国政府の動揺に向かって
全然風場牛の有様である。
近年北京政界に政乱相次ぎ、
Chinaの面上にいわゆる「紛乱國」たる烙印を捺されて以来、
世人のChinaの政変に対する冷淡は年を逐うて甚だしく、
今に至っては殆んど真面目に之を取扱う者なき状態である。
この傾向は果たしてChinaにとって等閑に附してよいものであろうか。
吾輩は次期内閣の如何よりも、むしろこの傾向とChinaの国運との関係について
ヨリ深甚なる興味をもって眺むるものである。
つづく〗
大正11年(1922)
第2回 日華連合絵画展覧会
< 於 東京 >
▲大正11年4月25日 読売新聞【 右から陳衡恪氏、金紹城氏、呉煕曾氏 】
**
**
▲大正11年12月 日華連合絵画展覧会図録
(国立公文書館アジア資料センター
レファレンスコード B05016015100)
**
**
**
▲中国側作品
①
***
**
「大正十一年四月 坂西利八郎謹識」◎徐世昌大総統のこの作品の賛は「坂西利八郎謹識」のように読めます。
もしそうならば、この方は、日本陸軍にあって中国通として有名でありました。陸軍中将迄進まれました。後、貴族院議員に勅選されています。この方の奥様の妹が横山大観夫人です。
大正15年10月号(中央美術)には
≪自叙伝(五)横山大観≫を連載しています。
“結婚”という見出しに続いて、本文には
【この当時日本美術院から受ける私共の月給は、いづれも二十五円であった。美術院で制作するすべての作品は、全部院で処分し院の維持費に充当するのであったから、私の生活費は俸給二十五円以外には一文の余裕もなかった。この頃は私は両親、妻子、兄弟、女中を加へて九人の家内を養はねばならなかった。二十五円の収入で、九人の生活を維持する事は随分辛い事であった。只私には前途に大きな希望があった、心の中には芸術に対する燃ゆる様な熱情があった。この二つのものゝ力に押されて、艱難と苦痛を堪え忍んだのである。只管に芸術の世界に精進する心情に依って極度の節約にも堪え、幾多の欲情をも制止することが出来た。事の序に私の家庭事情をも一通り叙べねばならないが、明治三十年、美術学校奉職後四カ月程経て、私は妻文子を迎へた。妻は信州上田の儒者で瀧澤と云ふ人の末子で、現在Chinaの軍事顧問をしてをる坂西(ばんざい)中将夫人の妹であった。】
*②
*③
*④
*⑤
*⑥
*⑦
*⑧
*⑨
*⑩
*⑪
*⑫
*⑬
*⑭
*⑮
*⑯

(①呉昌碩と大総統徐世昌(坂西利八郎 日本陸軍中将の賛か?) ②梅蘭芳と呂萬選青 ③湯滌と潘琅圃 ④陳年と陳衡恪 ⑤王一亭と凌文淵
⑥賀良撲と王雲夢白 ⑦顔世清と韓心壽 ⑧兪語霜と兪明 ⑨秦(泰)裕?と葉伯常
⑩黄俊と秦(泰)裕? ⑪呉仲熊と呉煕曾 ⑫齊璜白石と江采南蘋女士 ⑬金紹城と歸安兪原語霜
⑭杏芬女士と季上達 ⑮叔孺?と䔥○ ⑯趙森寶
▲中華民国側出品(北京の部)
(国立公文書館アジア資料センターレファレンスコード B05016015300)
*
*
*
*
*〖 ご参考 〗
**⑫
*「 江尻 三保遠望 」歌川 広重 と ⑫「 横江揚船 」齊璜白石
≪ 新趣味の著しいのが、
齋璜氏
の「横江揚船」であった。
萬帆去来の港の景色、シムボリックな
松林を前景とした調和が実に佳かった。
( 大正11年5月20日発行 “美術之日本”
最近の諸展覧会 一記者 日華聯合絵畫展覧會 より ≫
▲日本側作品(主として読画会々員出品作)
①
*②
*③
*④
*⑤
*⑥
*⑧
*⑨
*⑩
①磯田長秋・池上秀畝 ②新村友畝・堀田秀叢 ③川合玉堂・渡邊晨畝
④高瀬五畝・田口黄葵 ⑤中田紅畝・永田春水 ⑥小室翠雲・松久休光
⑦木村廣畝・荒木十畝 ⑧島田墨仙・宮田司山 ⑨森山香浦・廣瀬東畝
⑩森白畝(森白畝画伯は、荒木十畝主宰の読画会の会員で、
戦後 芸術院会員になられた森白甫画伯の父君です)・弓家恒畝
**
**
**
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**
**
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**
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**
****つづく
▲大正11年5月2日 大阪毎日新聞
**
大正11年5月2日
大阪毎日新聞
〖 日華聯合展覧會へ送った
大トランクが紛失した
名僧の墨蹟や参考品がChinaを
出たきり東京に着かぬ 〗
【 二日から東京府商工奨励館で開会さるゝ
日華連合展覧会に北京から東京駅止で
郵送した大トランクが一箇月餘りにもなるのに
一日夜になってもまだ届かない
該トランクには近代の名僧石涛、石渓
両僧の墨蹟を始め三十餘點(五六万圓だといふ)
の参考品が入っているので
当事者は心配しているが全く行方不明だ
展覧会事務所では今も東京駅へ談判に
行ったところですが判りません
大トランクと同時に上海から送った他の荷物は
四月廿四日に着いたのにモット貴重なトランクが
着かないので心配に堪へません
東京駅では木村助役の調べによると
下関に荷揚して京都迄は確実であったが
其後は全く判らんと云ふ返事で
此間の新聞に湘南の海に大トランクが
漂うてあったが或は?と問合せて見たが
間違って居りましたと語った(東京電話) 】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▲大正11年5月20日発行 “美術之日本”
**
**
▲大正11年5月20日発行
“美術之日本”
〖 最近の諸展覧会
一記者
日華聯合絵畫展覧會 〗
【 東京府庁内の商工奨励館にて
五月一日より十五日まで、
日華聯合絵畫展覧會
が開かれた。
此の展覧會については、
世間でも大ぶん期待していたやうであるし、
当事者は非常な意気込みで
奔走されたのであって、
日支親善といふ上から観ても
実に宜しきを得た催しであった。
事の始めは
渡辺晨畝君
が曩に渡支された折、彼の地で
中華日本聯合の芸術展覧会開催のことを、
彼の地で有名なる
金紹城
その他の画家と議って、
それが昨年十一月に、
北京及び天津で実現された結果、
日本でも開かうといふことになって、
春来それぞれに盡力中であって
去月中旬には前記
金紹城
外数名のChina画伯が来朝され、
いよいよ今度の開会を見るに到ったのである。
当事者も非常な抱負を有って居り、
実際、世の中に可なり大きい反響が
あらうと思ったのに、
案外、会場は淋しかった。
縦覧御随意といふのになかなか人が
集まらぬらしい。場所がちょっと
馴染まれないせいかも知れぬ。
一方、築地の商品陳列館での
佛国現代美術
は
ロダン
が呼びものになって
毎日混雑しているのと比べて、
今の思潮の何物かを語っている
のではあるまいか。

大阪毎日新聞 大正11年5月31日
〖 仏蘭西現代美術展覧会 〗
さて陳列品について見る。
専門の批評家などは、
現代のChina画の堕落を説いて、
頭からつまらぬものと定めているらしいが、
これはあまりに偏見過ぎる。
大きい景を割合に小さい画面に収めたものが多く、
空疎の感がなくていゝ。
次に見たまゝの感じを記さう。
但し、此の會の出品は、
売約になると直ぐはづしてしまふ。
そうしてそのあとへは又別の絵を、
China人自身が持出してズンズン掛けて置く、
と云った調子で、殆んど毎日一部分づゝの
陳列が変わって居る。
だから見ないものに面白いのもあらうが、
私は招待日と六日目とに見た處によって書くのである。
現代のChina画家の作品の方から
順に所感を記すと、
陳衝格氏
の「枯荷」は、細長い縦幅に墨を主とした
極めて淡彩で枯れ蓮を畫いたものだが、
これまで有り振れた日本流の枯荷とは
同じやうな図でありながら、
どこかに異った重みがあった。
この例は他にも少なくない。
金紹城氏
が樹石を描き、
愈明氏
が人物を配した「羅漢」、小品の濃彩、
色の浮きつかぬ処が佳い。
齋黄氏
(“黄”は王篇に黄が付いた文字。
“王黄” で一文字です ・齊白石画伯のことのようです)
の「桃花塢」、桃花咲き満ちた山村の景を
大まかな線と色とで写したもの。
傑出している。
管平氏
の「灸茶図」、
馬晋氏
の「春郊散牧」「柳蔭五馬」は、
西洋画の色調で、極めて細密な線で
写生的に描いたもの、一特色が目立った、
金紹城氏
は種々の傾向を有った人らしく、
これまで吾々の目馴れたChina山水畫風の
大幅で、「策蹇尋幽」などの力作もあり、
又、「荷亭消夏」とて、日本の畫家が
よく書くやうな軽い気持ちで配色の
淡い閑悠気分の作もあった。
「捕魚図」などは古い北宗派に見るやうな
筆つきであり、或は柔かい四条派のやうな
気分の春の山水があった。
陳年氏
の「黄巻青鐙」は巻帙と灯臺、
「茶熟菊開」は、花瓶に挿した黄菊と
提げ形の黒い急須、共に素撲簡単な線で
無雑作にかいた中に力のある気持ちのいゝ絵であった、
周肇祥氏
の「墨梅」は、淡墨の梅の枝より下に
丸い月を見せ、水に小石を配した構図が
ことにいゝ。もう一つ「關山古寺」は極めて
ザッとした線であるが、又細かい描写も加はり、
それがうまく調和して、山間の古寺気分を
ゆたかに見せていた。
此の古典的な感じとは全く異なった
新趣味の著しいのが、
齋黄氏
の「横江揚船」であった。
(齋黄の“黄”は、王篇に“黄”が付いた文字です。
“王黄”で一文字です)
萬帆去来の港の景色、シムボリックな
松林を前景とした調和が実に佳かった。
梅蘭芳氏
の仏像二図も素人めいた處に面白味があった。
徐総統
の小品墨畫山水や
顔世清氏
の「楼閣」などは、大官といふ名や
筆者の人格などから芸術の価値を割出さう
とする道徳カブレの賞鍳者には有がたく
思はれるだらうが、
たゞの絵として見てはあまり感心出来ぬものであった。
続いて日本画家の方に移ると、
これは亦甚しい空疎なものが多かった。
China畫とかうして並べて見て、
兎も角も見劣りせぬのは
小室翠雲君
の「白雲紅葉」と題する横ものゝ山景であった。
田口米舫君
の牡丹や
渡辺晨畝君
の「蹈流顧影」といふ孔雀に夾竹桃を配した
ものなど、桐當努力の作とは見えるが、
どうしても室内で作った絵で、
雄大の気が伴っていないから力に乏しい、
たゞの作り物に過ぎない。自然と無交渉である。
小堀鞆音君
の「阿倍仲麻呂」などは、切抜き人形を
並べた観があり、気の毒なやうだった。
前に何処かの展覧会で見たものや、
責めを塞ぐに止める 間に合はせ作をも
往々見受けられた。
どうも日本の側では幾分真摯を欠いてるやうで、
折角の発起人たちの熱心に背くの観があった。
古畫には大ぶん面白いものがあった。
明冀賢の山水畫冊、
呉小仙山水畫巻、
謝時臣の山水、
石涛和尚の双幅雲山
などは特に名品として見るべきもので
殊に
郎世寧の花鳥軸
は最も珍とすべきものであった。(完) 】
荒木十畝主宰の「読画会」が推進してきた
「日華連合絵画展覧会」
とは違う、
もう一つの流れがあったようです。
それと思われる団体の記事を掲載します。
▲大正11年5月2日 読売新聞**
**
〖 Chinaところどころ
上海 池田桃川
中日聯合美術展覧会 〗
【江南の柳の芽生えを見に来た
橋本関雪さんの批評に據ると、
日本からの出品は殆んど見るに足るものなく、
China人の油絵のうちに却ってよいのがある。
殊に上海美術学校々長 劉海粟君の作なんか
却々優れているそうである
ーそういう展覧会が、この四月一日から五日まで、
当地日本人倶楽部の二階応接間と、三階演芸場の全部とを借り切り、
三十仙(セント)の入場料を取って可なり大袈裟に開いた。
会の名は
中日聯合美術展覧会
と言うのであるが、同会場に並べてあるのは
油絵と日本絵とが大多数を占め、
それに少しの書がある許りで、
美術の全部を集めた訳ではない。
出品者は日支両国人数十名で、
China人の出品は油絵の方が多く、
且つ又それによいのがある。
関雪さんが賞めていた劉海粟君の油絵は
七八点の出品があったがその中で人
目を惹いていたのは、
「北京前門」と「将棋」 「W氏の庭」などであった。
この三点の中 前二点は十二号で売価は共に六百弗とある。
その外の出品者としては、
梁鼎銘、顧文梁、李超子、呉法鼎、張辰伯、
又 水彩として王亜塵、王済遠などあったが、
遺憾ながら優れたのはない。
又日本側からとして佐々李夫、大澤太郎
諸氏のも見えていたが、矢張り問題外との評判だ。
所謂見るに足らぬという日本画には、
小鹽美州の「暮色」(三百弗)小方華圃の
「花」(三百弗)、宅野田夫の「白楽天」
(五百弗)、竹村秋聲の「鶏頭花」(二百
弗)、大筆畫生の「山科」(二百五十弗)、
森村宜称の「西王母」(五百弗)、岡山聖虚の
「殉教者の春」(五百弗)、大矢春嶺の
「温泉場の春」(二百弗)、その他朝見香城、
山田春甫、堂本印象諸氏のがあり、
又China側からは例の呉昌碩を首め趙子雲、
王沖山、愈語霜、唐吉生などのが
並べてあったが、これ等も只遺憾乍らと
いう外はないやうだ。尤も日本で今大流行の
呉昌碩のが、ここでは只の二十弗という相場だから
これなんか日本へ輸入した方が、
商売としては得策であろう。
関雪さん曰く、
呉翁の絵は知れたもんだが、
詩はいゝ、どこがいゝって、
あの気骨稜々たる点がさ、
ぐにゃぐにゃしたChina現代の詩界に於て
あの骨のある所がいゝよ。
この展覧会の主催者は、
当地の一表具師
であって、その口実は日支両国人の美術
をお互いに紹介し、美術に由りて両国人
の親善―とか何とか大そう尤もらしい
事を言うているが、その実は商売である、
日本の或る骨董屋のするような絵の取引である、
売れたものから二割の口銭を取るという
可なりぼろい商売である。
他人の金儲けを吾々がいざこざいうにも
当らないが只一つ遺憾なのは、
中日聯合の徹底的内容を有せざることだ。
成程中日聯合には相違ないから、間違っては居らぬが、
誠につまらない。
無価値な中日聯合だ。
と言うのは、China側は兎も角として、
日本側からは誰一人代表作家の出品がないからである。
何も知らぬChina人や西洋人が来観して、
あれが日本からの出品かと驚くかも知れぬ。
それを日本の代表作品と見られるのは、
日本の画家に取り聊か苦痛であろうと思う。
何でもかでも構わない、日支人の絵を集めさえすりゃ、
それで中日聯合となる
と言って、こんな大ぴらな名をつけられるのは、
美術家諸君にとりては迷惑千万であろう。
Japan and China Conbined Art Exhibition
と言うポスターを見て
参観に来る西洋人の、参観後の感想談を聞きたいものだ。
日支美術家諸君の接近は、色々の意味に於いて結構であるが、
その方法を誤る時は、却って悪い結果を生ずる、
この展覧会も計画は面白いが、やり方に手落ちがある。
こんな事は商売人の手を経ず
両国の美術家の団体同志提携してやるか、或は
新聞社あたりで催して貰いたいものである。】
** ****
**
< 国立公文書館アジア歴史資料センター>レファレンスコード;B05016015000
▲中日美術協会会則 大正12年(1923)1月**
**△中日美術協会の沿革**
** 「中日美術協会(中日連合美術展覧会)」は、荒木十畝や渡邊晨畝らの読画会が中核となって推進している「日華連合絵画展覧会」とは違った団体のようです。
▲中日美術 中華民国13年(大正13年・1924)6月10発行
レファレンスコード;B05016015300**
**
**
▲大正12年8月17日 東京朝日新聞**
〖我国一流の美術家を網羅して
中日美術倶楽部
が愈本部建設に着手
昨夜築地上海亭に委員会〗
【大正9年4月
創立された
中日美術倶楽部
は今回その本部を建設する委員を挙ぐる迄に進捗し
同会主事石野哲弘氏は去る七日上京以来
八方奔走してその趣旨を各関係方面に諒●を求めた結果
昨十六日夜築地上海亭に其第一回建設委員会を催した
黒田清輝子、正木美術校長をはじめ小堀、岡田、朝倉、藤島、
佐藤、矢澤、田中、山内、増田の諸画伯出席種々協議の上
極力その実現を期す事とし、
日本側からは黒田清輝子を顧問に副会長正木氏、
特別会員として岡田、和田、川合、横山、高村、中村、松岡、藤島、
小堀、朝倉、下村、新海の我国一流の芸術家を網羅した
建設さるべき中日美術倶楽部は
澤田泰●氏の設計になり、
フランス近代式に東洋風を加味された極めて現代的様式で、
その内容 日支両国の新古美術品陳列場、展覧會及講演会場の外に
一の社交機関として談話娯楽室等も設け其他日支両国 関する
一般●資料等 蒐集して両国国民生活の諒解と且つ親善とを促すべく
期せ●れ 銀三十万元の予算の下に既に上海新公園裏にその敷地も選定されている
此の企画は一つの理想的対支文化運動として各方面から賛同せられ
小村欣一侯や 張駐日代理公使等も種々の便宜を計り
日華実業協会其の他諸団体も極力その達成に援助している】
◎ 「中日美術倶楽部」「中日美術協会(中日連合美術展覧会)」 は、
荒木十畝や渡邊晨畝らの読画会が中核となって推進している
「日華連合絵画展覧会」 とは違った団体のようです。
▲大正11年5月3日
読売新聞
〖日華連合展〗
呉昌碩氏の廿餘點並に参考画帖巻類が
まだ着しないので三百点近くのChina
画の半数程を見る◇湯滌氏はたゞ一点
あり陳衡格氏は『富貴神仙』『秋山』双
幅等花卉を描かせては昌碩に柔か味を
もたせたような作風である◇王夢白氏
の『枯荷』『鶉』等いい味のものが多く
白石山翁(*Author;齊白石画伯のことのようです)の印象的な諸作は新味も
あり気持がいい◇簫俊賢氏の『寒林図』
呉煕曾氏『山亭秋霽』は其代表的なもの
らしく馬晋氏の『柳蔭五馬』は矢張り新
傾向に属する◇金紹城氏の『空亭竹樹』
陶氏の作など賑かだがこれに引代へ
八十點の日本側の出品は振はない事夥
しい◇鞆音氏の『阿倍仲麻呂』
十畝氏の『春暖』頼璋氏の『吟行』等が見え玉堂、
翠雲、秀畝、九浦、龍岬氏等の出品があ
る筈だ◇こうした展覧会の性質上もっ
と広く精粋を一堂に集めて欲しかった
(十五日迄東京府商工奨励館)
<2010・8・5追加>
▲大正11年5月6日
東京朝日新聞
**【本文】
第一回 日華連合絵画展覧会
(大正10年に青島・北京で開催しました日華連合絵画展覧会を
「第1回」として起算しますので、
大正11年の日華連合絵画展覧会は「第2回」となる筈です、
此の記事は「第1回」としています。謎です。
China畫壇の現状は吾々一般には全く知れていないので
それがわかる丈でもこの展覧会は有難いと思って
大に期待して出懸けたが、
まだ上海の方のは荷が着いたばかりで整理中との事に、
北京の画家の作のみしか見られず
全部で四百十二点、中三百二点が北京の方の出品との事
だから大部分には違ひないが大抵小幅で、
力の籠った大作はなく、期待は全然裏切られた、
金紹城、陳衡恪、凌文淵諸大人の作は多く、
金氏などは一人で二十点も出しているけれども
余り感服できない。
陳氏の作では秋崖独嘯渓邊春事を佳とし、
陶鎔氏の三春図、三秋図、十分春色、繍毬桃花木蓮等
から推せば着彩に妙を得、
一流の密画花卉を以て鳴っていると思はれる。
穏健な風格をもっている秋湯滌も一方の大家
と聞いたけれども一点しか見ないので大きな事もいへぬ。
乍併、齋黄氏 (“黄”は王篇に黄が付いた文字・
齊白石画伯のこと)の「桃花塢」は気韻に富み色も面白く滲み込みに
何ともいへぬ味がある
何の恐れもなく場中での傑作の一と云ふ事が出来ると信ずる。
陳年氏の作は文人画風のもので何れも賞するに足る
就中「黄巻青鐙」「墨荷」「春林曲塢」「茶熟菊開」等の
韻致に至っては群を抜いている。
この画家の作は以前白木屋で見て其当時推奨した事があると覚えている。
花卉は一体に呉昌碩の影響を受け而も至らざる底のものである。
変ったのは馬晋の朗世寧張りの馬の図で、
これも彼に及ばざる事遠い。
梅蘭芳や徐大総統の小品はたゞ人によって興味を生ずるに過ぎぬ。
参考品に見るべきもの多少あり、
呉昌碩の作が二十点許出る筈であるから更に見直すかも知れぬが、
日本人の作に至っては言語道断、
よくこんなもので済まされたもの
と見る方が愧しくなる。
(十五日まで丸の内東京府商工奨励館)

▲大正11年(1922)国立公文書館アジア歴史資料館
大正十一年五月開催 日華連合絵画展覧会報告(外務省用紙)
レファレンスコード;B05016015300**
△大正11年(1922)5月開催 日華連合絵画展覧会報告
「日華連合絵画展覧会開催次第報告併に北京代表画家滞京日程」には
下記のような注目すべき空白の月日があります。
「我が大日本帝国と、一葦帯水の中華民国両国芸術が、
互に相提携して、東洋美術の振興を図り延いて
両国親善を弥が上にも深からしめん
との目的を以て生れたる、
日華連合絵画展覧会は、
豫期の如く大正11年5月2日より15日まで、
東京府庁内商工奨励館に於て開催、非常なる盛会裡に会を終り、
第2回としては先づ良好なる成績を収め得たり、以下其の経過大要を左に記述す。
昨年11月より12月に亘り、
予て主唱者の一人たる渡邊晨畝氏が、北京及び天津に於て、
我邦より携えたる東京画家数十氏の新作画を、
現代China画家との新作画と共に陳列して、
試験的に展覧会を開き、予想外の好評を博し、
之が為めChina側に於ても、愈々正式に
第1回日華連合絵画展覧会を開催するの意向を伝えたるより、
同氏は本年2月其の快報を齎して帰朝し、
之を発起人たる川合玉堂、小堀鞆音、小室翠雲、
荒木十畝の四氏に通し同時に展覧会開催と共に来朝すべき
China画家一行の歓迎方法其他に就いて協議する處ありたり。」
【此処に於て先づ当時の関係者に対し、Chinaに於ける成績を報告し
同時に渡邊氏が労を犒うべく 月 日
本郷三丁目燕楽軒
に於て渡邊晨畝氏歓迎慰労会を開きたり、・・・・・】
とあります。
私共が注目しましたのは「 月 日」が空白なのです。
この空白の「 月 日」は次の新聞記事で埋まるのではないでしょうか?
▲大正11年2月16日 東京朝日新聞
〖学芸たより〗**
【○渡邊晨畝氏 歓迎会が荒木十畝氏発起で十七日午後五時
本郷燕楽軒で催される】
上記新聞記事による「月日」が、外務省公文書の「空白の月日」を埋めるのであるならば、
もしそうならば私共は「空白の歴史」を文字通り埋めた事になるのでしょう。
≪ China女高師生 来日 ≫
▲大正11年5月4日 東京朝日新聞**
**
▲大正11年5月4日 読売新聞
▲大正11年5月14日 東京朝日新聞**
▲大正11年5月15日 東京朝日新聞**
▲大正11年6月9日 東京朝日新聞
**大正11年6月9日 東京朝日新聞
〖美術雑感 懶青楓〗
【
日本とChinaと合同社展覧会を見た。たいして面白いものはなかった、
然し日本の畫とChinaの畫とを一處に集めて
見ると頗る面白い、日本人の畫は塗った
ようだし、China人の畫は矢張筆で描い
ているようだ。China人の畫は随分型に
はまった伝統的なものだが描いている
ことは確なものだ、日本人の畫は型を脱
しようとして随分苦しんでいることは
見えるが決して描いていると云う気持
ちはしない、染物の更紗でも作るように
皆塗っているんだ。実につまらない。
ことに塗ったものを一度洗い落したようで
影が薄い。どちらも欠点だらけだが
China人の方がまだ見ていて気持ちがいゝ。
参考品の
龔半千の山水帖は面白かった、真贋は元より別として、真剣な態度で畫
を描いている。
朗世寧の畫は今の時代に見ると余り面白くない。洋画的写実の教練を経た、西洋人が
毛筆であんなこまかな写実畫を
描き出したと云うことは昔としては
驚異に値する仕業かもしれないが、それは
只珍らしかったと云う丈に止まって芸術品としては
渾然として完成の域に到達していない。
概念的芸術の反動として
起こった場合には貴重なものかも知れ
ないが今日のような、便利な時代東西の
芸術が自由に研究出来るような時代、
そして一班の思潮が総ての伝統を破壊し
てそこに何等か先人の未だ知らなかっ
たものを建設しようとしている時代に
とっては一向に面白くない。つまり低級
な洋画の写実をやったものが毛筆の手
法を覚えれば誰でも出来るからだ。
新作の方で呉昌碩の畫も無論あったが
それのお弟子の様なのも大分多かった、
自分は呉昌碩よりもお弟子の方を面白
く思った。呉昌碩の畫は少しうるおいが
足りないばさばさしている、そしてやり
なぐりが少し強ぎる。自分は呉昌碩より
も趙之謙の畫の方が好きだ、呉昌碩は決
していゝものではない。】
▲大正11年6月10日 東京朝日新聞
**
〖美術雑感 (下)懶青楓〗
【 日華連合展覧会の少し前に
両国美術倶楽部で
書道及畫道と云う雑誌社の主宰で
China古書画の展覧会と云うのがあった、
実に驚く程つまらなかった。ふれ出しが非常に大袈裟だったから
つい行って見たのだ。
上下一千年間の古書画を網羅し
その神品逸品は人をして驚嘆せしむると云うのだ、
実にふれ出しの大袈裟なのに反比例する程
くだらなかった、然し顔触れは何れも堂々たるものでいかにも神品逸品がありそうなのだ、
藍田叔とか張瑞●とか董其昌とか王石谷とか邸板橋とか
沈石田とか云う類の大家の名前丈を網羅している。
実に人を馬鹿にした展覧會だった。フランス現代の畫の展覧会を二三度農商務省に見に行った。
面白かったけれどちっともいゝものはない、
西洋人にはとてもかなわない、
まねが出来ないと思うようなものは一つもなかった、
まねをしてやって見ようと思えばどれだって出来そうなものばかりだ、
素人だましのようないやに低級なものはないが
吾々黒人が頭を下げるようなものはありやしない。
いつか我孫子の志賀直哉氏の宅で
宋時代の蓮に鷺の畫を見せて貰った、
その手法は銭舜挙か徐煕を思わせるようなものだった、
そして可成の大作だった。自分は非常にうれしかった、
どうよかったかをそれを見ない人に
言葉で自分は説明することを知らない
が兎に角結構なものだった、あゝ云う畫
をいゝ座敷において茶でも呑んで静か
な気持ちで一日ながめくらしたい。自分
はたった一點でいゝからあれ位の程度の畫を年に三度位見たい。
富田渓仙氏の個人展覧会を見た、可成骨
を折ったものがそろっていた。却々器用
な人だ。どれでも相当に面白かった、然
し欲を云うと品が少し足りない畫だ。
天人とか・・・明王とか云うものを材料
にした畫がだいぶあったがどうも滑稽
臭いのが欠点だ。(大正一一、六三、
晝寝から醒めてかく)】
▲大正11年5月20日 東京朝日新聞
**
▲大正11年5月9日 読売新聞

▲大正11年5月9日 読売新聞

▲大正11年5月20日 東京朝日新聞
〖美術界〗
【◇日華連合絵画展は十五日に終了
金 氏一行の為に二十日正午上野精養軒に送別宴が開かれる】
◇大正11年3月 美術之日本
**
大正11年3月 美術之日本
〖△日支聯合大展覧会〗
【
過般 北京及び天津に開かれた
日支聯合美術展覧会が非常な成功を見之が動機となって
今後China側から北京天津を初め南方の一流大家が打揃って
桜咲く日本に来り其の作品と古名画名幅を携え来り、
日本側からも川合玉堂、小堀鞆音、
荒木十畝、小室翠雲の諸大家に京都側竹内栖鳳、山元春挙の両巨頭加わり、
更に美術院の横山大観、下村観山の両氏も参加することなるべく、
右の諸氏を発起人とし東京画壇の中堅五十余名を評議員として
愈々四月中旬から日支連合の美術展覧会が開催される事となり、
目下会場の選定等に八方奔走中であるが、
来朝のChina画家は
金紹城、
王震、
湯滌其他十名位に達すべく、
一行は四月五日北京出発十二日神戸着の予定
尚上海の老大家
呉昌碩翁は今年七十九歳の老體のこでとあるから、或は作品のみで自ら来朝は出来ぬかも知れない。
以下略 】
▲大正11年(1922)12月14日 東京朝日新聞
回想の美術界(上)仲田勝之助
**
【 ・・・前略
五月、日仏交換展覧会のわが美術品が仏蘭西のサロンに陳列されて公開された頃、
恰度わが農商務省商品陳列館には仏蘭西のデルスニス氏の将来した
現代仏蘭西美術展覧会
が開催された。
全く、予期しなかった丈けそれ丈け大なるセンセーションを
わが美術界に興した。
それと時を同じうして
日華連合美術展覧会
が催されたが、これは又予期に反して振るわないものであった。・・・ 】
▲大正11年5月6日 東京朝日新聞
〖 平和化されたクルップ工場 伯林にて 関口 泰 〗
**
△大正11年5月6日 東京朝日新聞〖平和化されたクルップ工場 関口泰〗
【独逸国民は戦争で仏蘭西に負けたとは思ってい
ない。実際仏蘭西となら今でも戦って勝てると
いっている人もある。
英国が助けたからだ、米国が出て来たからだ。
仏蘭西だけと戦える機会を待っているのだ。
その機会は日米戦争だ。
米国が日本と戦う、
英国は仏蘭西を助ける事が出来ない。
それが此の夏時分の空気であったらしい。
本屋には『1925年仏蘭西の滅亡』だの
『避くべからざる日米戦争』だの
という本が目立つ様に店に列んでいた。
≪ *大正12年の関東大震火災の前年(大正11年)にも地震報道があります。 ≫
▲大正11年4月27日 読売新聞

▲大正11年4月27日 読売新聞

▲大正11年4月28日 読売新聞

大正12年(1923
日華連合絵画展覧会
準備工作記事と関東大震火災(9月1日)
▲<日本画大成 大正篇(三)>昭和 8年(1933)4月14日発行/東方書院
**
**
**
< 関東大震火災 >
“日本畫大成・大正篇(三)/昭和8年4月14日発行”
〖美術界に大きな動揺を与えたものは、
何と言っても此の関東大震火災である。
関東大震火災は、全国的なものではないが、
日本の中心である首都の崩壊であるから、
その影響は全国的であった。
この惨害は余りにも大きかった。
この余りにも大きかった惨害の原因は、
地震の国でありながら、地震を忘れていたことに、
最初の指を折らなければならない。
市河米庵の息萬庵は、
東京に自分の文字を残すことを嫌って、
その作品は多くは地方に保存される方針を取った。
これは東京は江戸以来、
地震と火事が名物であるから、
この名物を持った土地に作品を置くことは、
後世に伝わらない恨みがあるから、
東京に置くことを避けたのである。
遉がに萬庵は江戸時代からの
地震と火事に対する訓練を得ていた。
大正十二年度に於ける東京の作家に、
萬庵の警戒振りの十分の一でも
あったものがあらうか。
それは勿論無かった。
そして所謂る都落ちをした、
いの一番は藝妓と畫家であった。
敏捷な畫家は東京がまだ燃えているうちに、
地方へ行って仕舞ったものもあった。
震災直後に於いて、東京の畫家の数は
非常に減少した。これは無理のないことで、
灰の中に畫の必要はないからである。
東京は灰になって、畫の需要がなくなったから、
彼等は地方の需要に応ずるために、
いづれも地方に根拠を築いたもので、
言はゞ灰の中で生活のなし得られるもの
だけが残っていたのであった。
政府は、世界日本の顔にかけても、
復興に鋭意努力したが、
一度灰になった東京が、
容易には花やかな姿に立ち歸る
ものでないといふ作家らしい観察と、
東京は地震には不安の地区であるから
遷都すべきである
といふ遷都説などが、彼等を灰の東京に
留めなかった原因になったことも事実である。
震災直前は下谷区だけで一万乃至二万
の画家がいると概算されたものであるが、
震災直後は東京全部で下谷区の一万
乃至二万の画家であらうと概算された。
それ程に激減したのである。
画家が激減して、
何等の不自由を感じなかった
灰の東京は、
寧ろ本当の実生活に入った感があった。
必要なだけの生活で、事が足りていた。
絵画は決して物質的な実用生活に必要なものでない
ことは、灰の東京に於いて体験されたことである。
それは取りも直さず、絵画が物質的に必要なものでないことであって、
その必要は精神的に於いてゞあることである。
然るに近代の如く
物質的絵画のみの大量生産があって、
精神的絵画のこれに比較して
殆ど絶無と言ってよい状態は、どうであらうか。
物質的に不必要で、精神的に何等の効果のない絵画
を奨励すると言ふことは、日本の福利でないのである。
政府の奨励している絵画は、この不必要な物質的絵画である。
この物質的絵画は、絵具や絹地に費用を掛けて、
安価な技術を誇る絵画で、更に枠張り装飾や、
屏風といふ道具に費用を掛けて體面を飾っている絵画である。
材料と道具と技術によって、表面を飾る絵画の跋扈は、
それらに関係ある少数の人々は利益を得ても、
それらの人以外の世間は、何等の利益も与えられないのである。
即ちそれらの人以外の世間には不必要な代物であるのである。
新畫株券時代は、
大正九年四月からの
経済界大恐怖時代
に遭遇しても、
この不況は遠からず恢復するであらうことを期待して、
尚ほ一縷の希望を繋いでいたのであったが、
関東大震火災
によって、この夢は消えて仕舞った。
そして小品畫の流行が以前よりも盛んになった。
小品畫の流行は、不必要な物質的絵画を
極端に縮小したものであって、
経済的に多少の理解は得たものゝ、
精神的には猶ほ何等の覚醒も得なかったのであるが、
不必要な物質的絵画が面積を縮小したゞけでも、
それだけの意義はあるので、
新畫株券思想の消滅と共に
これは関東大震災の賜ものゝ一である。〗
以上、“日本畫大成・大正篇(三)/
昭和8年4月14日発行”の大正篇概説・飯塚米雨 著 /
P13~P14 を転載しました 2009・11・27
2011・3・28追記
「十三松堂日記」(東京美術学校校長正木直彦氏の日記)
△大正12年(1923)9月1日 関東大震災
△大正12年(1923)9月27日 強震と荒木十畝の妻 鈴子(荒木寛畝の娘)の葬儀
△大正13年(1924)9月18日 荒木十畝の再婚と強震**
**
2011・4・12追記
△昭和7年7月9日「十三松堂日記」
昭和7年7月9日
『朝 日本赤十字社副社長中川望氏来訪
国際連盟調査団の米国マッコイ将軍は
曾て比律賓総督たりし時
大正十二年の大震災に最先に比島より
救援艦隊を派し又東京横浜の惨況を見て
米国に打電して救援を為さしめ
特に多数の組立家屋衛生材料を寄贈したる
ことある親日の人なる故
今回日本赤十字社は閑院総裁宮
社長徳川大公爵 副社長徳川公爵
中川望より将軍を主賓として
閑院宮家にヂ子を催さるゝにより
席上畫を以て興を添へたし
其畫史の人撰をといふことなりしを以て
池上秀畝氏然るへし
といひ中川氏同道池上氏を訪ひて
此事を話し同氏の快諾を得たり』
とあります。
◎国立公文書館アジア歴史資料センター/
レファレンスコード A03021470000・A08072014300とA08072018700
**
**
**
**
▲大正12年6月30日発行
<美術之日本>
**
〖 命拾ひの写生旅行
池上 秀畝 〗【 予想していた以上に写生の獲物は沢山
でしたがその代りに もう すんでの ことに
人質に取られる處でした
あの臨城の土匪にですよ、人間の運命と
云ふものは何処で何うなるものかわかった
ものでないと云ふ事をつくづく感じさせられて仕舞ました。
上海から上ってChina南大陸の自然に親しみ
写生帖の数を好い加減ふやし、いざこれから
北京へ向かって北大陸の景象を彩り入れるべく
南京の川向の浦口から天津、北京へ通ずる
津浦鉄道に乗らうと、
之が出発時間を先月の五日の午後五時の急行
をあてゝいたのです、浦口から北への直通列車は
朝の九時半の普通列車とこの急行車の二つしかない、
とその朝です、北へ大跨を踏むのは
何だか気が進まない、それに途中一つ泰山の
高きに登ってChina人の言ひ草ではないが
四百餘州を小なりと見てやらうと斯う決めて、
夜の急行を朝の普通列車に振りかへた、
と戸外雨車軸を流さんばかりでいつかな
停車場へ體を運ぶにも運ばれないと云った調子、
やっとの事思ひ通りにその列車に投じたのです、
然しよく考へ合わせて見れば、
その列車に投ずるべく自分は目的以外の
何物かに唆られていたんです、
途中臨城のあたりを通ると窓外何となく
静まり返って妙に斯う「悲涼」とでも云った
やうな感じを犇々と受入れたんです、
まさか数時間の内にあの土匪の列車襲撃の
場面が描かれやうとは露知らないで
「臨城で外国旅行者の群が土匪に掠はれた」
とは北京へ這入ってから聞いたのでしたが、
その列車は私が最初の旅程に書入れた
あの急行車だったのです、
私の乗った普通車が臨城を通る時分には
もう後の急行車はずっと私の列車に近く
追ひ付いて来ていたのです、
此の二つに一つの列車にまつはる運命が
私が今日無事に東京へ帰らせて呉れている
とは全く人間意志以外のはからひであったとしか思へません。
臨城にたくまれた恐ろしい罠には
かゝらないですんだものゝ
それより前き西湖を写生しやうと杭州停車場に
降りた時です、
そこに饑えた猿の様な表情をした一団の
Chinaの若者がどっとばかりに降客を取り囲んで
何やら叫びざま、猿臂をのばしざま降客の
荷物を引ったくったり懐中を改めにかゝるのです、
おやおや大変な事になったものだと
思はず立ちすくみましたが
一つにらみを利かしてやれと
私は持ち合わせと云ってはおかしいが
腮髭をしごきつゝ眼をむいてじっと睨み付けました、
後から思へば芝居の舞台に役者になった様な
ものですが―、と私には一つも手出しをしません、
居合わせた他の日本人にもです、
ハテなと思って相もかわらず睨みを利かしていると
どうです、そこに降りたChina人の持参品の検討をして
日本製の物と見れば何一つ用捨せず
片っ端から引きさいたりむしったり、
又はマッチを點じて―それでもそのマッチは
日本製のでした様ですが―焼くのです、
で始めて之がやかましい
日貨排斥
だなとわかって私は思はずむっとすると同時に
China人は気の毒だ
との感じにはさまれて涙ぐんだのです。
北京へ入って五月七日、それが又例の
二十一カ条問題
からの
國恥記念日
とあって、市中を歩いて眼に入るものは
その「國恥記念日」のビラで、電信柱一つ
餘さずに貼られ
又そここゝで学生達が団をなして
日貨排斥の演説をするやら
China人の商店で日本品を商っている処へ
飛込んで有無を云はせずその品を掠め出したりなど、
もう全く日本人の眼には痛いことばかり、
実にまざまざしい日本商品の侮辱でした、
丁度此日、臨城の土匪事件があからさまに
騒ぎ出されたので、それとこれとが一緒になって
そゞろに暗澹たるものがありました、
聞いていたChinaと見たChinaとの相異、
恐らく物の相違として此の位甚だしいのは
ないと思ったのです、
そして深く日本人としての考へを考へさせられたのです、
帰りがけ、九州の別府で和田豊治さんの別荘に
泊っていられた
久邇父宮、
良子女王〖のちの香淳皇后〗
両殿下に写生帖を御覧に入れた際に、
私はその事をお耳にいれましたところ、
両殿下には深くうなづかせられました、
写生と命拾ひと、日貨排斥の目堵と
此の三つの土産は私には何れにして
何よりのものでした。(中央商業) 】
〖 命拾ひの写生旅行
池上 秀畝 〗転載終了▲大正12年8月17日 東京朝日新聞
**
〖我国一流の美術家を網羅して
中日美術倶楽部が愈本部建設に着手
昨夜築地上海亭に委員会〗
【
大正9年4月創立された
中日美術倶楽部は今回その本部を建設する委員を挙ぐる迄に進捗し
同会主事
石野哲弘氏は去る七日上京以来八方奔走してその趣旨を各関係方面に諒●を求めた結果
昨十六日夜築地上海亭に其
第一回建設委員会を催した 黒田清輝子、正木美術校長をはじめ小堀、岡田、朝倉、藤島、
佐藤、矢澤、田中、山内、増田の諸画伯出席種々協議の上
極力その実現を期す事とし、
日本側からは黒田清輝子を顧問に副会長正木氏、
特別会員として岡田、和田、川合、横山、高村、中村、松岡、藤島、
小堀、朝倉、下村、新海の我国一流の芸術家を網羅した
建設さるべき
中日美術倶楽部は
澤田泰●氏の設計になり、フランス近代式に東洋風を加味された極めて現代的様式で、
その内容 日支両国の新古美術品陳列場、展覧會及講演会場の外に
一の社交機関として談話娯楽室等も設け其他日支両国 関する
一般●資料等 蒐集して両国国民生活の諒解と且つ親善とを促すべく
期せ れ
銀三十万元の予算の下に既に上海新公園裏にその敷地も選定されている此の企画は一つの理想的対支文化運動として各方面から賛同せられ
小村欣一侯や 張駐日代理公使等も種々の便宜を計り
日華実業協会其の他諸団体も極力その達成に援助している】
◎国立公文書館アジア歴史資料センター レファレンスコードB05016015000
*「中日美術会館」建設を予定する上海 「中日美術協会」は、荒木十畝画伯主宰の「読画会」が中核となって推進する「日華連合絵画展覧会」とは違った団体です。(Author)

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▲ 国立公文書館 アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016015000
「外務省側よりも何分の援助を受けたき旨(関係者より)当省に願出これ有りに就き(元来?)本件事業の如きは其の性質上何等政治的色彩を帯びざるのみならず日支両国文化の接近了解を助長し自ら両国官民の親善提携に貢献する所・・・・」
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△小村参事官の処遇 国立公文書館 アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016015100
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▲(中日美術会館設計図)
◎国立公文書館 アジア歴史資料センター
レファレンスコードB05016015300

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B05016015000を御参照下さい
▲中日美術協会の会則と沿革
◎国立公文書館歴史資料センター
レファレンスコード;B05016015000
△中日美術協会会則 大正12年(1923)1月
**
△中日美術協会の沿革
**▲石野哲弘氏の事
大正12年9月2日(十三松堂日記・正木東京美術学校校長の日記)
「前略・・・・・避難者中に中日美術協会幹事石野哲弘あり 避難民を説得し自ら団長となり自衛団を作り強壮者夫々分担し夜警炊事救療等に従事し・・・・」
◎ 「中日美術倶楽部」「中日美術協会」「中日連合美術展覧会」「中日美術(雑誌)」「中日美術会館」 は、
荒木十畝や渡邊晨畝らの読画会が中核となって推進している
「日華連合絵画展覧会」 とは違った団体のようです。
【 日華(中日)連合絵画展覧会に登場する中国側要人 】
◇大正10年10月30日 東京朝日新聞
〖周自齊氏を訪ふ 一日横浜出発〗
【二十八日神戸上陸の太平洋会議に列する
China最高顧問前財政総長周自齊氏は
廿九日より國府津より自動車で箱根環翠楼に至り
秘書李氏と昼餐を共にし再び自動車で強羅に赴き
秋色を探り午後八時来訪の
胡 駐日公使
と長時間に亘り何事かを密談し居し為李秘書が代って語る 】
◇大正11年(1922)12月8日 東京朝日新聞**
▲大正11年(1922)12月8日 東京朝日新聞
*〖 珍品を携へて 遊びに来た馴染の顔氏=China公使館内で展覧会を開く
◇出来るだけ大勢に見せたいと 〗
Chinaの国学者で画家でまた蔵書画家たる
広東連平の
顔世清氏(がんせいせい)は
先頃の
日華連合絵画展覧会
に自作二点を出品した人である、
氏は今度◇突然日本旅行を思い立ち其序に
自ら営む蔵庫『寒木堂』から古名書画百三十点を持ち来り
目下China公使館に滞在中であるが
茲一週間ばかりのうちに同公使館内で二回に分けて
持参書画の陳列会を催し諸名士、専門家を招待して
展覧に供すという
目録によれば全くの名品揃いで
唐顔眞卿眞書竹山堂連句冊、五代董源設色渓山図巻、
宋巨然設色江山秋●図巻、宋燕文貴賎設色山水巻、
宋釈法能白描水陸●図巻 其他 金、元、明、清各朝に亘る
名家の名作、顔氏が天下の逸品として伝えるものばかりである
▲大正11年(1922)12月25日 東京朝日新聞
〖顔氏の歓迎会〗
【滞京中の顔世清氏の為に犬養毅、小室翠雲、佐藤安之助
其他知友の諸氏等は二十四日夜築地精養軒に歓迎会を催したが
日支の名士書画愛好家美術家数十氏集まり
日支の文化的親善を欣び合い八時過ぎ会を閉じた】
◇大正12年3月20日発行 美術之日本**
China公使館に於ける古名書画展観追記
渡辺晨畝
□
【 旧冬十一月の末、北京顔世清氏
より一封の書留郵便が到着した。其の文面には『昨年春の日華連合展覧会
に渡東する考であったが、時恰かも奉直の戦雲急なるの場合に遭遇し、
遺憾乍ら東京に参って諸公に拝顔するの栄を得なかったのが残念であった。
此度少しく暇が出来たので約一ヶ月の滞在の見込みを以て
観光旁々東京に参り、前年より約束を致して置きたる
自分の所蔵の古名書画百三十点を携へ行き東京に於て
展覧会を開き、日本博雅の君子の清鍳に供したいと思ふから、
其の準備旁々盡力して呉れ』と云ふ意味を記してあった。
其の国宝とも謂ふべき名画を多数携へ来ると聞いて、
所謂大陸人物の態度が見えて先づなつかしく思ふた。
其時自分は少しく不快で休すんで居ったけれども、
氏は前年より親密なる交際を続け、且つ日華連合展覧会
の為めには非常の努力をして呉れたる
発起人
のことなれば、之れは責任を以て盡力しなければならぬと決心し、
はね起きて外務省に行って顔氏の知人を訪問し、
何か同氏より通信あらざるかと聞きたるに、
何もなしと云ふことであった。
其他実業家方面にも顔氏の知人があるので問ひ合はして見たが、
此処にも通信がなかった。
そんな訳で有力なる相談相手も得られず非常に心配して、
展覧会を開く会場ぐらいは準備をして置かなければ
顔 氏
に対して徳義も責任もないことゝならうと思ひ、それより河合、荒木(十畝)、
小室、小堀氏等に相談して日本美術協会の会場でも
借りて置く方が宜しからんと相談して
顔氏の来るを待つて居たところ、
十二月五日頃顔氏はChina公館に到着し、
速達郵便を以て自分に着京を知らせたから、
忽惶として公使館に到り、久し振りにて
北京の親友と握手をした時、北京にての想出多く、感慨無量であった。
□
そこで展覧会を開くにはChinaの国宝とも云ふべき
名品のみなれば展覧会場、及び取締り保管等に大責任あり、
甚だ心配の旨を申述べたところ、
China公使 廖 氏
は之れに同情して寧ろChina公使館に於て展観し
日本の公衆の鑑賞を乞ふ方が宜しからうとの申出によりて
相談纏まり、
十二月十七日より二十三日迄China公使館内に陳列して
諸公の清鍳を仰いだのである。
其の展観品は唐宋元明清迄の名品揃ひなれば、
観覧せられし名士君子も非常に満足せられ、
画伯諸氏の参考となったことも少なくなかったであらうし、
又日支国交上にも大に好影響を与へ、又此の挙を御聞き遊ばされて
久邇宮殿下
も台臨を賜はり、御賞鍳の後
顔世清氏に
『邦彦王』
と御真筆を賜はり、
顔氏は感泣して自筆の書と畫とを献納したところ、
久邇宮殿下
より特別の思召を以て銀盃を下賜せられた。
顔は光栄に浴して感喜したるのみならず、
日本の宮殿下の御高志のほどは
China国民に大に喜ばしい感情を懐かしめることゝ思ふ。
次で顔氏が自分の寶物を自費を以て日本に携帯し、
自費を以て日本公衆の展観に供したるの挙は
東洋美術研究の上に於て貢献する所少なからざるべし
との趣旨を以て外務大臣、渋沢子爵、岩崎男、後藤市長の
招待あり又朝野名士の連合歓迎会あり、
大観、観山、玉堂、鞆音、十畝、翠雲氏等
発起の画伯団の盛んなる歓迎会もあり、
顔氏の厚意に報ふるに至れり盡せりと謂ふべく、
同氏も非常に喜び、大に満足して一月十六日帰国の途に着かれた。
又此の展覧会中
廖公使は日本の画伯玉堂、大観、観山、鞆音、霊華、映丘、十畝、
翠雲及び自分をChina公使館に招待して公使が國より
伴ひ来れる料理人に自慢のChina料理を作らせ
乾隆時代の器に盛り、叮重なる酒肴を備へて
長夜の宴を張られ、快談夜を更かし、其の酒宴中、
公使は美術は国境がない、
日本の芸術家とChinaの芸術家と提携して
年々研究会を東京、北京に開会して
東洋美術の声価を世界に発表する
と云ふ計画は非常に東洋美術の為め、
両国交誼の為め衷心より賛成する所である』
と挨拶あった。
美術が斯の如くして国民と国民との親密なる交際を
結ぶやうになった事は
同種同文の同胞の将来の為め大に慶賀すべきことゝ信ずる。*本論は〈 補完資料集 〉に全文掲載しています。
▲大正12年(1923)8月17日 東京朝日新聞
△ 梅蘭芳 丈
〖 大倉男の賀筵に遥々来る梅蘭芳 引退の噂をよそにいま箱根の別荘に悠々と 〗
****
**大正11年(1922)第二回 日華連合絵画展覧会 中国側作品
仏像 梅蘭芳筆 ◎国立公文書館アジア歴史資料センター・レファレンスコードB05016015100
**
▲大正13年(1924)5月8日 東京朝日新聞
〖黎元洪氏帰国〗**
大正13年5月8日 東京朝日新聞
〖黎元洪氏帰国〗
〖〚門司特電〛約半歳に亘り我が国に来遊中であった
前中華民国大総統黎元洪氏夫妻一行は
九州一周の遊覧旅行を最後として
七日門司出帆淡路丸で天津に向かって帰国した〗
大正13年(1924)
第3回 日華連合絵画展覧会
< 於 北京 >
▲大正13年5月6日 東京朝日新聞
**
大正13年5月6日 東京朝日新聞
〖学芸だより〗
【◇渡辺晨畝氏 日華連合展覧会の用務を帯びて
目下北京東城扶桑館に滞在、
近信に
「日華連合展覧会四月廿四日より
北京中央公園にて開催候處大盛会観覧者織るが如く
又売約済●多数有之て
毎日総理始め各名士の招宴引続き居候
必ず成功を奏して帰朝可致候 】
(*渡辺晨畝画伯は荒木十畝が主宰する“読画会”の会員です)
▲大正13年(1924)5月18日 大阪毎日新聞
**
**
大正13年(1924)5月18日 大阪毎日新聞
〖一萬巻のChina古書を土産に
小室画伯帰る「日支の親善は芸術から」と〗
【 北京で
日華展覧会を開いて十六日夜帰朝した
小室翠雲画伯
は更に藤島武二氏等と共に
廿日頃満鮮旅行の途に上る筈であるが
今回は一萬巻に餘るChina古文書を購入して
帰った画伯は語る
日支間の外交が兎角円満を欠く今日では
芸術に依ってその親善の一歩を進めること
が極めて効果のあることだと思ふ
日華展 は宣統帝
の居られた社稷殿で開いたのだが
大総統曾錕氏
を初め
顧維鈞、
張國●、
顔恵慶氏
等の顕官が進んで私達のために
宴席を設け全く胸襟を披いて歓談した
日支親善は奈良朝以来文学と美術とを以て
繋いできたものである以上 両国は先づ
この関係の深い芸術方面から進まなければ
ならないことが盛んに話題に上った
芸術に国境なしの言葉が沁々
感ぜられる 日本から持って往った作品も
一万圓以上Chinaの高官連が好意を以て買ってくれた
又美術学校を経営して居る
陵文淵 氏
は私達を八達嶺に案内してくれ
又例の
梅蘭芳
等も一夕会合した
芸術の理解に依って日支人の理解を計る
ことが最も有意義であり最も効果あること
であるまいか (東京電話)】
▲大正13年5月8日 東京朝日新聞
**〖國恥記念日 在京China学生主催で〗
【在京China学生等は七日例の
國恥記念日とあって小石川区富阪町聖公会館に大会を催したが
定刻一時迄に集まったものは五十人餘
正面に廿一箇条文を掲げ自由演説や決議に気焔を挙げた】
▲国立公文書館アジア歴史資料館レファレンスコード;B05016015000
中日絵画第三届連合展覧会出品目録(第3回 日華連合絵画展覧会)
**
△大正十三年(1924)春季開催 北京上海日華連合絵画展覧会報告書
**①
**②
**③
**④
**⑤
**⑥
**⑦
**⑧
**⑨
**⑩
**⑪
**⑫
<マーカーはAuthorが塗りました。>
▲国立公文書館アジア歴史資料館レファレンスコード;B05016015300
「閑話休題」
**
【 日支美術の交驩展覧会が三次の回を重ねて芸術上の日支親善は愈濃密を加えて行くらしく今年北京で開会した同会を機として渡支した十数名の日本画家が大持てであった、其の為め歓迎争いまで起こった。目下北京には、中国画学研究会と北京画界同志会の二大別があって、官学派と民間派と対抗して居る現勢である為に、日支展の最初からの尽力者たる金紹城氏が周肇、顔世清氏等と共に権力と金力とを以て歓待するに対し、同志会の同人等は黙って居ず、明の十三陵から八達嶺観風と三日掛りの驩〇を続けた。・・・・・ 】
▲国立公文書館アジア歴史資料館レファレンスコード;B05016015200
△金紹城・陶・周肇祥・䔥〇(孫+心という合成文字)の四氏より捧呈の献上画
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▲国立公文書館アジア歴史資料館レファレンスコード;B05016015200
△大正13年(1924)4月27日発行 発行所 北京 極東新信社
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▲美術年鑑 二松堂発行 大正14年版(1925)(大正13年の美術界の出来事)P160-161

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〖 ▼ 日支画家の親和 〗
【
荒木十畝氏以下渡支画家団の一行は既報の通り六月廿五日午後零時三十分
東京駅着で帰朝した。
駅には各方面の出迎ひで非常な盛況を極めた。
一行は何れも元気旺盛で
「北京に着いたのは先月の二十二日
直ぐに中央公園で展覧会を開いたが
China側では
金紹城 氏一行総出で、然も多数北京の芸術家を
糾合して歓迎した、
十八日北京滞在中に歓迎会ばかり
三十回近くもあった。
十畝 翠雲 両氏
は更に名優
梅芳蘭(梅蘭芳?)氏
に招待され一日清談に送ったり、
曹大総統
が特に盛大な歓迎会を開かれたと思うと、
宣統皇帝
は一行中の代表者を経て御料理を
下賜せられる等非常な歓待であった、
一般の人々も親しく日本の美術を見、
美術家に接することを心から打解け、
毎日非常に愉快に暮し芸術界だけには
排日など煙にしたくもなかった、
上海に於ても同様の大歓迎を受けたのは
一行の感謝する処である、
来年は日本に於て
第四回
の連合展覧会を開く筈である」と語った。 】
**
**
**
〖 私共の拙論を読まれるご苦労を思いまして、これからも緊張感を以て登載したいと存じます。〗
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▲美術年鑑 二松堂発行 大正14年版(1925)(大正13年の美術界の出来事) P160-161
**
〖 ▼ 孫松畫伯来朝 〗
【 芸術上の日支親善が近年頻りに高唱されて
中日美術協会の設立やら
日華展の開催やらで彼我美術家の来往も
繁くなって来た、
China畫壇の白眉呉昌碩翁の高弟
孫松 画伯
が今秋の帝展研究と日本畫壇への
交りを結ぶ為に来朝したので
美術界の代表者は勿論外交、実業方面の
諸名士も加はってその歓迎会を
七月十六日午後六時上野の精養軒で催ふした、
出席者は約五名、
外務省情報部の松岡新一郎氏が起って
孫松氏
の為に列席者一同が後援して
不日同氏の作品発表畫会を華々しく
開催したいと提議して満場之れに賛し
宴果てゝからは別席に於て
荒木十畝氏等出席の我が畫人と一緒に
健毫を揮ひ和気藹々裡に夜を過した。】
◇東京美術学校校長正木直彦氏日記(十三松堂日記)
*7月27日 日曜日
【 早朝石野哲弘来訪
中日美術協会の事に付き報告の為也 】*8月8日
【 前文略 今日は終日在家 中日美術の為に黒田子爵を悼む文一篇を艸せり 】
*8月14日
【 石野哲弘来訪 華客孫友三来朝に付
文人の歓迎会を催すに付き発起人となれと申来る 】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▲美術年鑑 二松堂発行 大正14年版(1925)(大正13年の美術界の出来事) P161

〖▼抹茶の興〗
【 目下来朝中の
上海画家 孫松氏
は池の端の假寓で盛んに丹青の筆を揮ひ、
傍ら日本の風物を研究して居るが
廿八日は午後二時から三井の由井彦太郎氏
が大塚の自宅に招待して、風雅な
茶莚を開き、純日本式の饗宴を催した、
席主は由井氏自身
客は 孫松氏 を正客とし、
正木美術学校長、今泉雄作、白石村次、田辺孝次の四氏である、
寄附には王庭筌の竹の幅をかけ、
数寄屋には探幽の「四睡」の図をかけ、
古信楽の花瓶に木槿を挿した、
茶椀菓子器は日本の古名器を撰び
会席の道具一切は乾隆康熈の珍しいもの
ばかりを揃へた、
日本でかうした饗応を受けるのは始めての
孫 君
大喜びである、
爐に松風の音の床しく、一わたり済んで
待合へ引取ると、
孫松氏
大喜び けふは純日本式の饗宴に預かり
禅味といふやうな気持が席の式にも
気分にも溢れて居るのを非常に
愉快に思ひました。
何といふ芸術的なものでせうと語った。】
◇東京美術学校校長正木直彦氏日記(十三松堂日記)
*8月28日付
【午後より由井氏宅にてChina 孫友三氏揮毫をなすと聞き往訪
来会者は今泉雄作 白石中軒 田辺孝次 石野哲弘也 孫氏 竹胡蘆枇杷を繪き題賛をなす
書画共に揮灑電光石火の如し 粗なれとも生気の溌剌たるもの也 晩に
茶事あり 会記別に在 】ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

▲正木日記≪大正13年≫
*6月26日付
【 China安徽省桐城の人画家
方洛字子易 氏
来訪
趙之謙
呉昌碩
一流の畫を作す人也 枯莖腊梅一軸を携贈る 】
*7月13日付
【 夜帝国ホテルにChina安徽桐城人
方洛子易
の招宴に赴く
方氏は 方望渓 の裔孫なり
といふ Chinaの畫家なり】
*8月14日付
【石野哲弘来訪
華客 孫友三
来朝に付文人の歓迎会を催すに付き
発起人となれと申来る】
*8月16日付
【午後六時より上野精養軒にて
華客 孫松友三 畫氏
の歓迎会あり 文部次官 外務省官吏
民国代理公使 帝国美術院会員なと多数来会せり】
*8月17日付
【午後六時上野精養軒にて
華客 孫松友三 氏
の歓迎をなす
孫氏は 呉昌碩 の高弟なり
松浦文部次官
張代理公使
荒木十畝
朝倉文夫その他美術家新聞記者等三十人計なり】
*8月28日付
【午後より由井氏宅にてChina
孫友三氏
揮毫をなすと聞き往訪 来会者は今泉雄作
白石中軒 田辺孝次 石野哲弘也
孫氏 竹胡蘆枇杷を繪き題賛をなす
書画共に揮毫電光石火の如し 粗なれとも生気の溌剌たるもの也
晩に茶事あり 会記別に在 】
*大正13年12月10日付
【由井彦太郎 近藤宅治氏来校
華客孫松氏
の為に畫會を催すことを謀り
賛助員として署名することを乞へり】
大正15年(1926)
第4回 日華連合絵画展覧会
< 於 東京・大阪 >
◇大正15年(1926)に発行された
《十畝畫選》という荒木十畝画伯の作品集が御座います。**
**
**
**
その中で荒木十畝の畫業を語る文章が載っています。
“日華連合絵畫展覧会”
の事情が窺えるのでご紹介させて頂きます。
【若し夫れ
日華美術展覧会
の開設に関しても亦先生の力多きに居る。
同門の渡辺晨畝氏偶ま燕京に遊び、
文人墨客と交はり、美術を以て日華親善を
謀るの捷径たるのみならず、
東洋美術発展の為め急務なるを説き、
同地有力者又其の意あり、
帰来之れを先生に謀る。
先生大に之れを賛し、
当時特に長岡外史氏の賛助を得て
奔走周旋頗る努め、
漸く用意成るに際し
突如China内乱勃発の為めに
之れを中止す。後両三年、
内乱尚ほ終熄を告げず、徒らに和平を待ちて
遂に其機なからんを思ひ、断然実行に決し、
先づ日本の作品百餘點を集め、
之れを携へて渡辺晨畝氏を北京に派し、
試みに展覧会を開かしめ大に好績を得たり。
於是て會を組織し両国交互に展覧会を開くことゝし、翌年(注記Author:大正11年・1922)其の第二回展覧会を東京に開き、
北京の大家
金紹城氏
外数氏来朝し、第一回に劣らざるの成績を挙げたり。
其の後第三回を北京に開き、
先生外数氏之れに赴く。
大正十五年六月其第四回を東京に開き、
外務省對支文化事業局の援助の下に、
同會を延長して新に
東方絵画協會
を組織するに至れるは最近の事実なり。】
~~~~+++++++~~~~~~~~~~
① 荒木十畝 画伯がリーダーであった
”*革新日本畫會”についての記事
〖明治30年(1897)12月創立され、
日本美術協会と共に守旧派として
新派に対抗してきた日本畫會も、
時勢にかんがみ、
大正12年春、荒木十畝 の盡力で
更生し、中橋徳五郎を会頭、
南弘を副会頭に戴き、
同年三月改造日本畫會の発会式を挙げた。
幹事には磯田長秋、伊藤響浦(玉堂・多門門)
今中素友(玉堂門)川崎小虎、佐藤華岳、
田村彩天(廣業門)、畑仙齢(百年門)、
西沢笛畝、廣瀬東畝、水上泰生の
十人がが挙げられた。(美術五十年史参考)〗
~~~~++++~~~~~~~~
② 荒木十畝画伯がリーダーであった
”*革新日本畫會”についての記事
▲大正13年・2月6日 都新聞
〖気焔をあげた 日本畫會 の総会
昨日上野の精養軒で〗
【東京の日本畫界を横断し百五十余名を
網羅した 日本畫會 の第二回総会が
五日午後三時から上野精養軒で開かれた。
政界の風雲を他所にして、
中橋会頭、南副会頭も出席。
十畝、翠雲、桂月、秀畝、周山、
墨仙氏等畫界の元老を始め、
来会者五十余名に上り新春以来
初めての大会となった。
先づ甫喜山主事の報告あって
今回の展覧会審査委員を
池上秀畝、石井林響、蔦谷龍岬、野田九浦、
吉川霊華、山内多門、小室翠雲、松林桂月、
荒木十畝、矢澤弦月、島田墨仙、飛田周山、
平福百穂、畑仙齢、水上泰生の十五氏に依嘱し、
三月十日より上野の美術協会で
革新第二回展覧会
を開催することを決定し更に展覧会委員、
会場委員を選定し満場一致可決するや
中橋会頭より一場の挨拶あり
総会を閉ぢ懇親会に移った。
デザートコースに入るや中橋会頭は再び起って
美術界の為め激励する。
幹事を代表して水上泰生氏や太田天洋氏、
矢澤弦月氏が起って現代美術界の為め
万丈の気焔をあげ、一同乾杯して
會の為めに万歳を祝したが、
美術家の会合としては近来稀に見る
活気を呈し九時散会した。】
▲大正15年(1926)6月20日 東京朝日新聞/日本美術年鑑 昭和2年版
〖 両展覧会 今日から 革新展と日華聯合會 〗
【 *日本画会革新第四回展覧会
と
日華連合展覧会
とが 同時に 十九日から
上野の東京府美術館に開かれた
日華展の方は
日本側は大小作家の出品九十点であるに対し
China側ははじめての宣伝的意味もあり
大馬力で三百七十六点の多数におよんでいる
畫には
前大総統 徐世昌
(昭和2年版 日本美術年鑑)
を始めChina一流の大家
呉昌碩、
金紹城、
呉仲熊、
王傳
等また
梅蘭芳、
緑牡丹
等の變った顔振れもある会期は三十日まで 】
▲大正15年6月8日 東京朝日新聞

**
〖China画家続続来朝 日支連合展〗
【日支聯合展覧会は外務省あっせん
の下にいよいよ来る十八日より三十日まで
上野東京府美術館において開会のことゝなったが
China側の出品は書画合せて五百余点におよび
これがため関係China画伯の来朝を見ることになり
八日午後零時十五分東京駅着で
左の諸氏が入京するはずである
金紹城
恵拓湖
李五湖
王小山
呉仲熊
王季眉
徐懋齋
右の外十日午前九時東京駅着で
周肇祥、
金開藩(金紹城氏の嗣子)
の二氏も入京する由 】
(金紹城氏の嗣子)はAuthor付記
ーーーーーーーーーーーーーーーー
▲大正15年6月9日 東京朝日新聞
**〖 [日本美術展のChina画家来る]〗
【十八日から開かれる日支展の
China側委員の画家達は
本日午後零時十五分東京駅に到着した
[写真中央が団長 金紹城氏]】
◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016016000
△大正15年(1926)5月29日
「 右展覧会は最初は個人の企画に過ぎず候えども第三回には多少当省より補助を与え以上の如き成績を収めたるに付本年は本邦に於て開催の順と相成り居り候間当省よりは更に補助其他充分援助を与え以て前回以上の成果を得せしめたき意向にこれあり・・・・・ 」
**
◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016016000
△大正15年(1926)5月27日
〖 日華連合絵画展覧会関係者に対し簡易通関方依頼の件 〗
【 ・・・・前略 Chinaに於いては御承知の通り専門の画家はこれ無く今回出品も前記徐世昌、金、周両氏の作品は勿論其他何れも名士の余技的のものにして自然標準とすべき市価もこれ無く今回の展覧会は全然営利の目的を有せず入場料も徴せざる予定・・・・・・ 】

◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016017100
△大正15年(1926)6月16日 「 申請書 」
**
◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016015900
△大正15年(1926)3月1日「渡辺晨畝氏にChina美術界の現状視察方委嘱に関する高裁案」
**
◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016017200
▲日華絵画連合展覧会出品目録
大正15年(1926)6月18日至30日 於東京府美術館
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▲大正15年(1926)6月19日 読売新聞
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大正15年6月19日 読売新聞
〖日華展蓋開く 六十餘點の売約〗
【東洋美術の発展と日支両国間の親善を企てる目的で開かれた
日華絵画展覧会の第一日は招待日として十八日蓋を明けた
午前八時早くも中橋徳五郎氏 牧野内大臣等多数愛好者の参観あり
午後は若槻首相初め外務文部両大臣China公使等
実業家としての援助者三井、渋沢、岩崎、大倉、
犬養の諸氏五百有余名の観覧者ありて賑かだった
当日の売約は西原龜三氏の吾仲態氏作「披裘釣客」をいの一番に
牧野中橋岩崎三井の諸氏六十餘點に達せられ
尚十九日からは入場無料で一般公開】
▲大正15年6月19日 中外商業新報
〖きょう招待日の日支美術展(中央は中橋徳五郎氏)〗
**
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金 紹城 氏 追悼関係 
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日華連合絵画展覧会
実現の功労者であり、中心人物であったのが、
金 紹城 氏
であることが、はっきりと判る記録があります。
それは、皮肉にも
金 紹城氏
が、お亡くなりになられた様子を書き記す、
東京美術学校校長正木直彦氏の
“十三松堂日記”にありました。

◆大正15年(1926)9月11日付
【 外務省岡部文化事業部長より来信あり
金紹城氏
帰燕の途次上海にて病に罹り
遂に客死したるよし
総領事より通信ありたりとて報知せらる
日華美術聯合の中心人物なりしを惜むへき事なり 】
日本側の認識としては、
日華展の中心人物が
金 紹城氏
であったことが分かります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーー◎国立公文書館 アジア歴史資料センター
レファレンスコード B05015959300
▲金紹城氏 追悼模様**
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◎国立公文書館アジア歴史資料センター・レファレンスコードB05015959300
▲金紹城氏の勲三等叙勲の公文書**
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◎国立公文書館アジア歴史資料センター・レファレンスコードB05016017100
▲今回来朝せる中華美術家名簿幷略歴(大正15年6月)**
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**
◆大正15年9月27日付


【 日華連合展覧会々長の事を
内府(牧野伸顕伯爵)に願ひ置き
たるにより其経過成績を報告したり
尚 金紹城
逝去に付き追悼会を挙行することを協議せり
中略
御所を辞して外務省に岡部子爵を訪ひ
金拱北(金紹城氏のこと)
追悼会の事を打ち合す 】
ーーーーーーーーーーーーーーーーー

◆大正15年10月8日付
【 午前中増上寺を訪ひ来十七日の
金紹城
の追悼会の導師を道重信教師に
依頼せんとてなり
然るに同師は昨朝出立
満州に巡錫に出懸けられたり
と聞きて空しく引返す 】
ーーーーーーーーーーーーーーー
◆大正15年十月十五日付

【 夜 築地田中家にて
對支文化事業部長岡部長景氏の
招待あり東方絵画展協会員の中川合 小室
荒木(十畝)
結城諸氏及 余出席
金紹城氏
歿後の中國の代表者銓衡の事に就き協議す 】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◆大正15年十月十七日付
【 今日は午後より
金鞏伯(紹城)
の追悼会を開くなれば昨夜草したる追悼文を書く
十一時に学校に行 会の準備をなす
午後二時より法要を始む
導師は鎌倉建長寺管長菅原時保禅師也
一偈の後 内田伯(伯爵)外務大臣
汪公使
張公節
及 余の追悼文の朗読あり
読経中に焼香をなす
渋沢子爵 岡部子爵
其他朝野の人士百に上れり
廣堂には
金先生(金紹城氏のこと)
の遺墨を陳列せり 】
これで、金氏を悼む集まりは終わって居ません。昭和期に入っても、次のように記されています。

◆昭和6年5月10日付
【 午後五時より星ヶ岡茶寮(北大路魯山人経営)にて
岡部子爵主催にて
金紹城
追悼会あり
金の嗣子開藩
来朝中の華客皆来る 】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◎ 牧野伸顕日記
▲大正15年(1926)6月18日付
(牧野は此の時、内大臣)
【 日華展覧会
に付東京府美術館に臨場。
China代表
金、
周
両氏に面会。
共に相当の人物なるが如し。
China側の作品は自から特色あるも
概して大作と云ふべきものなく、
矢張り前記
金、
周
両氏は技量に於ても勝れたるやに見受けたり。
China美術今日の程度は
我国明治の初期に比すべきものならん。】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

▲大正15年8月号
中央美術
〖 日華連合展覧会 〗
【 日華連合展は、聲は大きかったが、
其実績は些して云ふ程のものではなかった。
China側の出品も、数許りは徒らに多くても、
芸術的価値を認め得るものは至って少なかった。
日本側の出品に至っては御座なりの甚しきもので、
聊か閉口せざるを得なかったものが多い。
呉昌碩の出品は、別に新しい工夫になったものではない、
従来屢々接した、畫境であるが、其筆墨は格に入っている。
前大総統徐世昌の出品は一寸珍しい、品のいゝものである。
「秋巒」の一幅は自然味の豊かなものである。

〈 中央美術 〉大正15年(1926)・8月号
趙士鴻は呉昌碩の伝承に過ぎないが、技巧は相当の域に到っている。
馬晋は郎世寧風の畫風を持っていて、馬を描いたものは相当見られた。

〈 中央美術 〉大正15年(1926)・8月号
銭の「人物」もよいが、
陳年の「桂華月季」も一種の風格がある。
〈 中央美術 〉大正15年(1926)・8月号
其他 金城の「松陰待月」、
呉微の「迂翁詩意」、等が
稍々興味を惹いたものである。(黄生) 】


ーーーーーーーーーーーーーーーー
**
▲大正15(1926)年7月7日
大阪朝日新聞
〖けふから開く
日華絵画聯合展
大阪では初めて〗
【外務省の肝入りで日支親善のために催された
日華絵画聯合展覧會
は七日(招待日)から十一日まで
中之島中央公会堂で開くことになった、
この展覧会は今度が
四回目であるけれども大阪としては最初で、
出品三百八十餘點の多数に及び、
中華民国現代大家を網羅している、
外に
黎元洪、
徐世昌 両氏や
名優梅蘭芳氏の畫
宣統廃帝の書
もある、
日本側からは
横山大観、竹内栖鳳、小室翠雲、矢野竹橋、
榊原紫峰氏等の作約九十點を出品し
頗る壮観である(観覧随意)】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▲大正15年7月7日
大阪毎日新聞


〖気韻高いChinaの絵
けふから公会堂で日華絵画展〗
【◇‥‥日華絵画連合展覧会は
大阪府、市、大朝、本社等の後援で
中之島公会堂に開かれるので内見をした、
三階一杯に陳列されて賑やかではある
◇‥‥
金紹城氏
の作はさすがに光っている。
穏健な筆致のうちにやゝ新しみをもち
才覚的なところがある
「清湘漁夫」の力作は
気韻高く
「鶏雛」
の雛は色と筆でしゃれている。

(昭和2年版 日本美術年鑑)
周肇祥氏
の北苑の遺風をおびた
「竹林高瀑」「岩栖谷飲」や「墨梅」は
筆に品位を見せ、
蒙泉の遺風をおびた
呉仲熊氏
は「秋關八景」「霊山図」等に
しっとりした気分を味はせて
自然の描眞を捉へている
◇‥‥
李上達氏
の絵は私のすきなものであった。
「幼々鹿鳴」「秋林逸關」等
平民的の気持ちで飾りなく
絵をかくところに質雅な味を
見せている。
汪大變氏
の「寒林夕照」
張崇氏
の「春江風雨」「潮山初夏」
も質雅な點に似かよっているが
地味がともなふと共にそれがまた
色彩的の調和に気分をあらはしている。
王衡樹氏
「寒林読書」
恵均氏
の小品「半嶺晴雨」等
優れたものとしてまた親しみをもった。
李極九氏
の「雪景」はうまい。
その他
李樹智氏
の「平陵散牧」
王一亭氏
等見るべきものがある】
ーーーーーーーーーーーーーーーー
▲大正15年7月8日
大阪毎日新聞
**
〖日華絵画展 中央公会堂で
十二日迄公開〗
【大阪における
第四回 日華絵画連合展覧会は大阪府、市、商業会議所及び
大朝、大毎両社後援で
七日午前九時から
大阪中之島中央公会堂で開かれ、
同日は招待日とし開会とゝもに中川府知事夫妻、
前市長池上四郎氏夫妻をはじめ、
正木東京美術学校長、画家土田麦僊氏
その他在阪画家、文人、実業家など
多数の参観者があった、
会は十二日まで毎日午前九時から
午後五時まで公開される。
なほChina側出品者代表画家
金紹城氏
一行の歓迎会は七日午後六時から
大阪市内本町大阪実業会館で開かれ、
来会者八十余名に上り盛会であった
(写真は展覧会場)】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▲大正15年7月8日

大阪朝日新聞
〖 China畫家の楽焼 聯合歓迎会で〗
【七日から中央公会堂に開催された
日華畫展のChina畫家
金紹城、
周肇祥 氏等
十余名のために大阪府、市商業会議所
連合主催の歓迎会が
七日午後三時から実業会館で開かれた、
余興としてお手のものゝ楽焼があり、
夕刻から晩餐会に移り
その昔Chinaから渡来した明清樂を
平井連山社の手で月宮殿、長生殿など
古雅な奏楽があり頗る盛会であった】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▲大正15年7月9日 大阪朝日新聞

〖村山社長邸へ 招待されたChina画家一行〗
【目下大阪中之島中央公会堂で開会中の
日華絵画聯合展覧会
を機会として、日本側の招待に応じて
来朝中のChina画家一行は八日阿部房次郎氏
及び野村徳七氏の邸で饗応をうけた後、
御影なる本社長村山邸で午後のお茶によばれることゝなり
午後三時半同邸をおとづれた、直に社長
及び村山取締役に迎へられて別館に陳列
してある日本古名画を鑑賞した後
応接間で茶菓の饗応をうけ、
歓談を交はし午後五時同邸を辞した、
この日の賓客は
周肇成氏
を中心とし
呉仲熊、
王小山、
*周湘雲氏
ら列席したほかに正木美術学校長、
岡部對支文化事務課長、清水副領事、
速水一孔氏等同伴し中川大阪府知事も
顔を見せた
なほ一行は当夜清交社楼上の
大阪在住画家の招宴に臨んだ】
△東京美術学校長 正木直彦氏の日記<十三松堂日記>には、
<大正15年7月9日 大阪朝日新聞>に登場した日華連合絵画展覧会の重要な後援者である
*周湘雲氏
の“遭難”を記した件が記録されています。
▲<十三松堂日記>昭和6年1月18日付
【 午前十時
*周湘雲氏
を訪ふ 上海に於ける豪紳なり
近時其一人息子を土匪に𢭐はれ
百五十万元を以て購ひ歸さんとの談あり
遂に二十万元の現金を以て之を購ふことを約し
期日を定め或日の未明に之を積載して送り届けんとしたるに
警察官の誰何を受け遂に警察に
引付けられて期を失したるに
其朝 周公子は脱し歸らんとしたるを
銃を以て追跡せられ一丸肩に中りたる際
一輌の汽車偶々来りたるに救を求めたるに
英人某之を救ひて直に英国赤十字病院に入れて
治療を加へたりしに稍治癒に向ひたりといふ
周氏は常に土匪にねらはるゝを恐れて
久しく一歩も戸外に出てさる為に
足疾を患ひ引籠中なりしも
余の訪問を喜ひて書斎に請して歓待したり
所蔵の書画を出し示さる
孰れも精品ならさるはなし 】
とあります。
▲大正15年7月12日 中外商業新報
**
大正15年7月12日 中外商業新報
〖Chinaは興る
真剣なる国民の態度 河瀬蘇北〗【Chinaを観察するには実際にChinaの地を踏んでみなくてはならぬ
ーまことに妥当の見解である、
少し旧稿ではあるがこゝに掲げるゆゑんである
◇私は昨年の十月の中旬から十一月の下旬まで、北Chinaを旅行した、
約一カ月余の旅行を以てして急にChina通振る譯でもないが、
私にとりてはこの一ヶ月のChina視察が日本に居て、
しかも京都に引っ込んで居て、書斎よりChinaをながめた
この数年間よりも余程の知識と、観察を与えて呉れた事を
感謝せずには居られぬ
われわれ書斎に居て、Chinaを見て居るものゝ目には、
実際のChinaはうつらぬー否、新聞や雑誌によって、
時々刻々にChinaの動きChinaの出来事は伝えられはするが、
然しそれは要するに皮相であり表面的であり、
本当のChinaの正体に触るる事は出来ぬ、
故を以て、われわれの仲間には、特に極端に、
Chinaの過去の歴史のみを本位にして、
現在のChinaを論ずるものがあり、
またはChinaの過去の文化のみを中心にして
Chinaを判断するものが生じ、
往々に重大なる誤りに陥っておるものが少からぬ
◇
私は右のChina行きにおいては実際のChinaと触れる事をのみ専念した、
従って北京なり奉天なり天津なりで会った人にしても、
段祺瑞氏とか張作霖氏とか、李景林氏とか慿玉祥氏とかいう様な、
既に
過去の人には既に誰にも知られたる人々でなく、
実際に動いて居る人―
名はなくとも、事実動いて居る人という事を主にした、
例えば
学生連合会の新しき人々の如き、
あるいはまた
反帝国主義連盟の若き人々の如き、
北京大学民國大学の教授や学生連労働団体の人々の如き、
更にとび放れては
道教の本山や道院の本部にその主人を訪うたが如き、
実際Chinaの民衆と共に動きそれと接触の度の多い人々と出来得る限り接触したのであった
かくして私の得た結果は、驚くべきChina民衆の覚醒ということであった、
われわれは今日まで、Chinaの青年運動や学生運動に対して、
例によっての不統一な、一時的な燥狂的なものであろうとのみ想像していたのであったが、
私は彼等に親しく会い、彼等の運動の実際を見るに及んで、
それが決して、しかく簡単で、単純なものでなく、
一種の革命的気魄のみちみちて居るのに驚かされたのである
◇
私は、我日本の青年や学生の近来における不真面目、
不謹慎にして柔弱、徒に形式的、虚栄的にのみ走れるを
常に憤慨して居る一人であるが、
Chinaにおける青年学生の、その真剣なる態度を見て
興らんとするものと、守らんとするものとの思念の相異の如何に著しきかを、はじめて知った。
Chinaは正に興らんとしつゝある それは恰も我
明治維新の如くまたは
トルコの革命の如く、彼等はその古き衣をぬぎ捨てて、新しき装いをこらして、
世界に出でんとしつつあるのであるー
この事は私は書斎からこれを想見して
昨年来我国民に訴えつゝあった處であるが
今は北Chinaを見舞うた事によって更に力強くこれを感ずる
◇
日本とChinaとの問題は、幾度も説いたが如くに、
今日第一次的である許りでなく、
将来においては更に絶対的でなくてはならぬ、
日本はChinaとの関係を円滑にするかせぬかによって、
その運命は定まるというも敢て過言ではない
その事を知らずして、徒らに形式的の日本本位論を唱えて、
世界の動きを見ず、しかしてChinaの興りつゝある事を知らず、
ChinaおよびChina人を依然として馬鹿にするが如きことあらんか、
悔を千載にのこす事となろう】
≪ おまけ ≫
▲大正15年6月17日 中外商業新聞
〖伝書鳩〗
**【長者番付までは行かんでも何百万という物持で、
その方では憲政会中一二を争うといわれる片岡商相、
力量手腕程に評判の良くないのも根が
シマリ屋だといわれるがその商相の家庭経済自慢話というのが一寸面白い
▲曰く「僕の家では嬶(かかあ)が市場へ買物に行くんだが、
附近の奴等は「大臣とあろうものがケチ臭い」といいよる、
しかし僕が嬶(かかあ)を買物に出すのは
国家経済の立場でどこの細君もそうしたらば
国家は配達賃を非常に儲かるという理屈になるからだ
▲‥‥いつかも僕が、三越へ買物に行ったところ、
店員が「お金はあとで、お買物はお届けいたします」というから
余計なことだが重役に「それでは運び賃と集金代が殖える訳じゃないか」
といった
すると重役の曰くに「こうせなければお客は来ませんので」と言いよる、
何も日本人の国家経済を知らんには困ったもんだ」とのゴ嘆息
(私見)
〚21世紀の日本は、公的債務膨張・経済危機だが、
よく言われるように、
創造性の危機ではない。
日本の芸術家の皆様 がんばれ!
昭和2年(1927)
日華連合絵画展覧会関係
≪ 東方絵画協会について ≫
**
▲昭和2年2月23日 東京朝日新聞
〖日支美術展打合せ 今年は北京で
我国からも画伯派遣〗
【昨年日本で開かれた
日支連合絵画展覧会
は一年隔きに日本とChinaとに開催
されるので 明年は北京の展覧会で
日本の諸画伯の絵が広く紹介される事
になるわけであるが
この展覧会を機縁として新に
東方絵画協会
が設立され、会員には日支両国の画伯が
網羅されるはずで
既にChina側では会長に徐世昌、副会長に汪大燮、
熊希齢 幹事には周肇祥、顔世清、陳漢第、江庸、陳年、凌文淵
の諸名士が挙げられ会員も百余名も集まり
本部は北京宣武門内温家街一号に置かれた旨の報告があったので、
日本側では二十二日夜華族会館に岡部文化事業部長
木村アジヤ局長や発起人正木美術学校長、川合玉堂、
荒木十畝、
結城素明、
渡辺晨畝
諸画伯等が集って第一回の打合せ会を開き
東京及び京都より画伯二三名を派遣する事、
その他を決定した 】
▲国立公文書館アジア歴史資料センター
レファレンスコード B09041711700
**
**
①
**②
< 地熱発電 東京電燈㈱研究所 >
①【・・・水力電気の勃興に伴い電動力は今や全盛なりと雖も
今後数十年間にして燃料窮乏し
水力亦其経済的地点を開発し盡すの時代到達するときは
動力の資源としては地熱利用の外あるべからず。・・・】
②【・・・将来の動力界に於ける唯一の活路として頼むに足るものは
地熱の利用より他に在るべからず。・・・】
▲昭和2年(1927)2月2日 大阪朝日新聞

〖 パリのオペラ座で花々しい柔道試合 今夜、六千の大観衆の前で藤田画伯と石黒五段が 〗
【 フランス国立劇場の筆頭でまたヨーロッパ文化の華たるパリのオペラ座大舞台で一日夜我が柔道が六千余名の社交界の人々に紹介されることになった、しかも紹介者は柔道五段の石黒敬七氏とパリ画界の人気者 藤田嗣治氏なので人気を呼んでいる、日本人がオペラ座の舞台に立つことはこれが始めてである・・・・ 】
昭和3年(1928)
日華連合絵画展覧会関係
≪ 唐宋元明名画展覧会について ≫
▲昭和3年(1928)4月3日 東京朝日新聞
〖 日支古名画展覧会 〗
**
〖 日支古名画展覧会 〗
【 東方文化事業部では今秋の御大典記念のため日支古名画展覧会を開くこととなった、開期は帝展閉会直後同所において開くはずで既に竹内栖鳳、横山大観、小室翠雲、下村観山の四氏を委員に挙げ出品名画の選択に當ることゝなり博物館、宮内省その他皇室御秘蔵の名画も出品されるはず尚China側と打合せのため五月中旬渡辺晨畝、阪西利八郎の両氏が渡支すると 】
◎国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードB05016016700
▲左 昭和3年(1928)10月25日 美術日報 ▲右 昭和3年(1928)10月30日 国民新聞
**
▲左 昭和3年(1928)11月15日

〖 唐宋元明時代の古名画展覧会 いよいよ開催 〗
【 別報の通り本月廿四日から上野美術館で開催される唐宋元明の古名画については一時北京の古物委員会で故障を申立てたが南京政府の蒋介石、王正廷両氏が賛助となって居るので事務は進捗し北京から145点、上海98点、天津76点、大連20余点が出品される事となり14日北京、天津からの作品が神戸に着くので北浦大介氏が受取る手筈になって居る、・・・・・・ 】
▲左 昭和3年(1928)12月1日 国民新聞
**
昭和4年(1929)
第5回 日華連合絵画展覧会
( 於 上海・大連・奉天 )
▲中日現代絵画展覧会(標題 第五回日華連合展覧会 分割2)昭和4年(1929)
レファレンスコード;B05016017800
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▲ 昭和4年10月21日
読売新聞
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〖帝展の中堅が上海で日本画展
国民政府に招かれて
荒木画伯
等の代表が渡支〗
【 China国民政府では豫て我が外務省
を通じ『帝展』を招待していたが
愈よ準備が整ったので来る廿五日
荒木十畝 画伯
を始め飛田周山、勝田蕉琴、西沢笛畝(以上東京)
山内信一、登内微笑、大村廣陽、松本一洋、
川北霞峰、阿部春峰、八田高容(以上京都)等
の代表委員が渡支することになった、
同展のChina側委員は
王正廷、
王一亭 氏
等多数の大掛りで出品は帝展を中心に
推薦作家以上と特選級から選定して
東京で九十点、京都で八十六点計百七十六点
の日本画を携へ
十一月一日より十五日間上海で開催し
帰途大連で十日間を開く予定である
其会名は
日華連合絵画展覧会
といふのだが実は日本画室を作って
邦画の粋を見せるので
帝展の上海出張
とも云ふべき最初の大展覧会である】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▲昭和4年10月26日

読売新聞
〖日支展の畫家 今夜Chinaへ出発
東京側は十畝画伯等五名
来月から上海に開催〗
【日支両国の有力なる美術家の結合により
日支連合絵画展覧会
は来る十一月一日より二週間上海徐園に開会する
日本側からは
荒木十畝、
結城素明、松岡映丘、松林桂月、
池上秀畝、
鏑木清方、橋本関雪、池田桂仙、河村曼舟、
川北霞峰、竹内栖鳳、都路華香その他
東西両京の大家百余名が二百数十点を出品し
東京美術学校文庫主任北浦大介氏は
既に是を携帯して上海に出発、
従来日支美術家の連絡に盡力しつつある
渡辺晨畝画伯
も既に上海に到着して準備中である。
又China側では上海が
葉恭綽、
王一亭、
狄楚青 氏
等幹部となり奔走中で既に五六百点の
出品を蒐集し北方北平天津方面で
前大総統 徐世昌 氏
を始め約二百点を出品上海に送った由であるが
東西両京の画伯連は一両日中に
上海に向ふ事となり
東京側は廿六日午後八時廿五分東京駅発列車
にて陸路長崎に向ひ
廿八日長崎出帆の連絡船長崎丸で渡支する
予定である
尚ほ今回 杭州の国立芸術院 に招聘された
齋藤佳三氏も右一行と同行する筈で、
一行氏名は左の如し
〖東京側〗荒木十畝、飛田周山、
勝田蕉琴、西沢笛畝、松本姿水
〖京都側〗川北霞峰、阿部春峰、
八田高容、登田微笑、松本一洋、大村廣陽、
山ノ内信一、田端秋涛 】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この出発する昭和4年10月26日より
前の同月24日の
東京美術学校校長正木直彦の日記
*昭和四年十月二十四日付

【午後六時東京会館に
対支文化事業部長の招宴あり
China来朝の
王済遠
潘女史
金女史
張爰氏
と今度
日支連合絵画展覧会
を上海に開催するに付き渡航する
荒木十畝
飛田周山 勝田蕉琴 松本一洋
又杭州国立芸術院教授として赴任する
齋藤佳三氏
今春渡支したる
小杉未醒 梅原龍三郎
なと来会 一夜の交歓をなしたり】
▲昭和4年10月26日
大阪朝日新聞

〖上海で空前の日支絵画展
両国の大家を網羅し
来月一日から二週間〗
【日支両国の美術関係者が連合で大規模の
日支連合絵画展覧会
を計画し、東京美術学校文庫主任
北浦大介氏が渡支準備中であったが、
いよいよ来る十一月一日から二週間
上海で開催されることになったので、
日本側の畫家
荒木十畝、
飛田周山、勝田蕉琴、西沢笛畝(以上東京側)
山内信一、川北霞峰、阿部春峰ほか
五画伯(以上京都)らが上海へ向け
二十六日午後八時二十五分の東京駅発で
出発することになった、
今回の日本側の出品は東西日本畫壇の
大家連を網羅し代表的作品二百数十点を揃へ
China側では
前大総統徐世昌氏
を始め上海画壇の雄
王一亭、
葉恭綽、
秋楚青
画伯の奔走で約七百点に上り
空前の
日支絵画大展覧会
となるので、各方面から非常な期待を
もつて待たれている、
なほ今回
杭州の国立芸術院
に招聘された齋藤佳三氏も一行と同じ船で渡支するはず
なほ上海の会期がをはれば
大連でも一週間開催することになっている 】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▲昭和4年10月26日
東京朝日新聞


〖日支連合で空前の大絵画会
来十一月一日から二週間
上海に開催と決定〗
【日支両国の美術関係者が大規模の
日支連合絵画展覧会
を計画し東京美術学校文庫主任
北浦大介氏が渡支準備中であったが、
いよいよ来る十一月一日から二週間
上海で開催されることになり
日本側の畫家
荒木十畝、
飛田周山、勝田蕉琴、西沢笛畝(以上東京側)
山内信一、川北霞峰、阿部春峰外五画伯
(以上京都側)
が上海へ向け二十六日午後八時二十五分の
東京駅発で出発することになった、
今回の日本側の出品は東西日本畫壇の
大家連を網羅し代表的作品二百数十点をそろへ
China側では
前大総統 徐世昌氏
を始め上海画壇の雄
王一亭、
葉恭綽、
秋楚青
画伯の奔走で約七百点にのぼり
空前の日支絵画大展覧会となるので
各方面から非常な期待をもって待たれている、
尚今回杭州の国立芸術院に招聘された
齋藤佳三氏
も一行と同じ便船で渡支するはずである、
右につき
荒木画伯
は旅装を整へながら語る
『日支連合●展は今回位大規模に
行ふのは始めてです、
私は二回目の渡支で知合ひもありますから
何かと便宜があると思ひます
連合展の趣旨は日支●●民の親善を
意味すると共に芸術上両者に益するところ
あること多大であると信じます、
上海の●期が終れば
大連で一週間開催することになっています』 】
(●は文字不明)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▲昭和4年11月2日

読売新聞
〖日支絵画展開く〗
【 (上海一日発聯合)
中日絵画展覧会は
本日午前十一時からコンノ―ト路の除園で
花々しく開会式を挙げた、
参列者は日本側からは重光総領事、
荒木十畝氏、
China側からは
張群市長
王一亭氏
等を初めとし日支両国の畫家
其他百五十名の多数に上り、
先づ
孫 文 氏
の写真に礼拝して後
張市長
の開会の辞があり
次いで重光総領事の祝辞、
両国名士数名の祝辞朗読があって
午後零時半式を閉じた、
出品数は日支各二百点、何れも傑作のみで
人気を集めて居る、会期は二週間の予定である 】
▲昭和4年9月18日 東京朝日新聞

昭和4年9月18日 東京朝日新聞
〖上海で日支絵画展〗
〚大連特派員十七日〛
【日支両国画家の大家等が提携組織せ
る日華連合絵画展覧会は東方文化の発
揚と両民族親善に資するため外務省文
化事業部助成の下に十一月一日より向
う二週間上海において
第五回展覧会を開催することとなったが上海における
会期終了後は満鐡の後援の下に十一月
下旬から十日間大連で展覧会開催に決
定した】
▲昭和4年10月20日 東京朝日新聞
**
昭和4年10月20日 東京朝日新聞
〖日華美術展の出品画〗
【来る11月1日より上海と大連とで
日華連合美術展覧会
が開かれるが
日本側よりは帝展系日本画作家の作品百数十点を
出品することになり目下それぞれ準備中であるが
日本側代表者として
荒木十畝氏は来る26日門司発香取丸で上海にわたることとなった】
▲昭和4年11月2日 東京朝日新聞
**
昭和4年11月2日 東京朝日新聞・夕刊
〖日支現代絵画展・上海特派員一日発〗
【一日午前十時半会場たるコンノ―ト路
徐園に開会式挙行、出品日本側一流二百点余
China側四百点余、
荒木十畝氏は「海外で日本画をこんなに多く展観し
たのは空前でChina画界に大なる刺激
を与えるであろう」と語った】
▲昭和4年11月2日 東京朝日新聞・朝刊
**
昭和4年11月2日 東京朝日新聞・朝刊
〖中日絵画展 昨日開会式〗
〚上海聯合一日発〛
【中日絵画展覧会は一日午前十一時から
コンノ―ト路の徐園で華々しく開会式を挙げ、
参列者は日本側からは重光総領事、
荒木十畝氏、
China側からは
張群市長
王一亭氏
等を始めとし日支両国の画家
その他百五十名の多数に上った、
出品数は日支各二百点、いづれも傑作のみで
会期は二週間の予定である】
池上秀畝画伯の
日華(日中)連合絵画展覧会
実現のための準備活動模様
▲東京美術学校校長正木直彦日記
昭和4年**
*昭和4年7月31日付、同日記
【 朝池上秀畝氏来訪
近日Chinaより帰朝
王一亭
狄平子
の手紙を言つかりしよしにて
伝達伝言せらる
今年の秋は是非来航すへきよし
を懇々と申来る】
*昭和4年8月9日付、同日記
【池上秀畝氏来りてChina上海土屋氏より来信ありて秋の
日華展覧会
に付China側の準備の決定したる事項を
報告し来れる書状を交付せられたり】
◎国立公文書館アジア歴史資料センター
レファレンスコードB05016017700
▲「 前略・・・・ 昨十九日 土屋三井銀行支店長の
小官への内話に依れば
客月中旬 池上秀畝画伯江南地方遊歴の砌
当地に於て王一亭 及 狄楚青氏等と展覧会開催に関し
数次会合せられ両氏より在本邦関係者への伝言方依頼したる云々」
1929年(昭和4年)
日華連合絵画展覧会
奉天 展覧会
◆奉天展覧会 開催の前年(1928年/昭和3年)6月、
張学良将軍の父君
張作霖大元帥が日本軍の一部によって爆殺される
”満州某重大事件”である
▲昭和4年10月23日 大阪毎日新聞
人見絹江さんと張学良将軍が握手を
している3段抜きの写真が
大阪毎日新聞(昭和4年10月23日)
に掲載されています。

人見さんは、第9回オリンピック・アムステルダム大会
・800メートル第2位の銀メダリストです。
*その新聞の見出しには、
【“張学良氏と人見嬢の握手”⋄⋄本社人見絹江嬢は既報の如く
十月十八日奉天北陵の別荘で
張学良 氏
と会見した、写真は同別荘庭前における握手】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▲昭和4年(1929)12月3日
読売新聞

〖張将軍の所望で 奉天でも日華展
由緒の離宮を会場に開放〗
【 既報日華連合展覧会は
去る一日上海を振出しに同廿九日大連閉会
を以て打切ったところ
奉天の
張学良将軍
から奉天開催の申込みがあったので‥‥
俄かに 帰国を見合せ
今三日より五日迄展観することになった
委員一行中からは
飛田周山、
八田高容 両氏
が居残り事務方面は
渡辺晨畝、
北浦大輔 両氏
が斡旋するため同地に赴いたが
戦禍の奉展に美術展の催しは
恐らく之が最初のことで
張将軍
も非常な乗り気で其会場も奉天城内の
清朝の有名な遺物で現在博物館になっている
愛親覚羅帝の舊離宮を開放することになった
右につき一日帰京した
同展委員 西沢笛畝画伯は語る
『今回の出品は日本側二百点、
China側三百点で上海の二週間、
大連の一週間の‥‥
入場者は今迄にない記録で毎日千人以上で
之は東京の展覧会でも帝展、院展其他一二を
除いてはない程の好成績だった、
奉天の開催は一寸意外だったが
戦乱中にかうした催しの出来るところは矢張り
Chinaらしい 満鉄其の他の厚意により
張将軍
の希望を容れることになった』と 】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▲昭和4年12月4日
大阪朝日新聞

〖中日美術展 奉天で開会〗
【<奉天特電三日発>
奉天満鉄公所主催の
中日現代美術展覧会
は三日午後二時奉天城内宮殿で開会式を挙行、
名誉会長 張学良 氏
以下日支名士多数出席して盛会だった
同会出品点数は日本側二百十二点、
China側三百三十九点でその他●●として
China側名士所蔵の珍品百七十一点
が出品されている 会期は三日間である 】
~~~~++++~~~~~~~~~~
*軍服姿の張学良氏・昭和4年(1929)12月4日 大阪朝日新聞
**
**
S4・12/3の読売新聞は「張将軍の所望で奉天でも日華展」
と見出しがあります。
S4・12/4の大阪朝日新聞は「張学良氏は目下張作相氏らと
これら善後処置に悩みぬいているが事態如何によっては
奉天、南京の関係が一時危殆に瀕するかも知れぬ、
しかし奉天派は上下こぞって日本に援助を求めようとする意図は毛頭ない、
それは日本の利権要求を恐れるからである、
彼らはロシアが強圧を加えているのは日本の尻押しによるものなり
と解釈し内部における
排日気勢
は以前にまして深刻である、」とあります。
12・3は日華親善のための「日華展 奉天で開催」、
12・4は「排日気勢は以前にまして深刻である」
どう考えればいいのか、難しい報道の資料です
~~~~++++~~~~~~~~~~
*明治40年(1907)8月14日発表の正派同志會宣言書の正派同志会幹事長は荒木十畝です。
荒木十畝は、日華連合絵画展覧会の当初からの発起人であり日華展の中核的存在でもありました。そんな荒木十畝ですが、
明治40年文部省美術展覧会開設時には文部省に反対して「正派同志會宣言書」を提出しています。日本文化を尊重する気持ちの表れです。
御同様と申しては失礼かもしれませんが、
昭和4年(1929)の中日現代絵画展覧会に反対する立場の中国側の反対者がありました。
21世紀の私共は、20世紀当時の環境にあって愛国的心情から発せられた反対行動だと思います。
日華展の中核的存在の荒木十畝画伯が明治40年には文部省に楯つく行動をしたのです。
中国側の愛国的反発を十分理解できる素地がある事を我国の日本畫壇変遷史が教えてくれます。
①
**②
**③
① 昭和4年(1929)10月4日「中日現代絵画展覧会に対する反対運動に関する件」
②と③明治40年(1907)8月14日発表の正派同志會宣言書
〖 昭和4年(1929)10月4日
「中日現代絵画展覧会に対する反対運動に関する件」・国立公文書館アジア歴史資料センター・レファレンスコードB05016017800 〗
【(要訳)
*「前略・・・・
抑日本画家の団体は我国の夫れと異なり頗る組織的にして政府を背景とし一切の対外関係は悉く政府の指示に従い周到なる用意を以て遂に中国に代わりてChina文化の主人公たらんとし居れり而して北方人士が中日絵画連合展覧を弁理せるは我国政府の援助なき為不得已に出でたるものにて而も民国十五年締結の東方絵画協会簡章は特に慎重を期し全国画家の統一進歩竝対外的発展を企画せり是れ同会の名称を中日絵画協会とせず東方となしたる所以なり文化上国家に一定の方針なく且我国画界の現状に日本と接衝するも良好の結果を得られざるは明らかにして展覧会の如き徒に日本画作の宣伝となるのみにして中国画は将に日本化を受け其の画学危殆に陥ることとなるべし云々・・・・】」
*日展史 1文展編 1・日展史編纂委員会‖企画・編集
*明治40年(1907)8月14日発表の正派同志會宣言書;
「〖 正派同志會宣言書 左の如く8月14日発表したり 〗
【 正派同志會宣言書
来る十月文部省管理の下に開設せられんとする美術展覧会は、
・・・・中略・・・・・
一部の評家動もすれば正派の作を以て常に倣古陳腐些の新意なしと貶し去るもの、果たして是れ眼識ある人の言と申さるべき哉。外国人の面相は見慣れざる眼には萬人一様の如く見受けられ候が常かとも存候。
我等正派の主張にして既に文部省美術審査委員会の所見と相容れざる限りは、我等折角丹青の作品を同会に提出して其審査を受けんことは断然避くべき事と存候、何となれば非なる標準を以て作品の優劣を律せられんことは何人も屑とせざる所、徒に正派の声価を失墜するに帰すべきは火を睹(み)るよりも明らかに有之候。假令い我等は知遇を千載の後に期し忍んで一時の汚辱を甘受するとせんも、一旦我等の作品を以て非なる標準の犠牲に供せんか、其結果や真に恐る可し。定見なき一般の観衆は不当の賞選に過大の信頼を置きて、世の趣味好尚漸く邪路に迷い、純正日本画の運命は終に永く衰頽に帰すべし。是れ豈に由々しき大事に候はずや。・・・・・】 」
~~~~++++~~~~~~~~~~
各委員畫家のスケッチや近況報告文
が掲載されています、それを御紹介致します。
▲昭和4年11月21日付
読売新聞

*<日華展委員畫信(1)>
【南支より
霊厳山眺望 荒木十畝作
西施が琴を弾じた琴臺のあとに登ると
太湖が一目に見える。
はてしもなく山から水、水から山へと
次々に重なってさすがは大国だなと
思はせるのである。(西沢笛畝記)】
▲同紙、同年11月27日付

<日華展委員畫信(4)>
【西湖新月 飛田周山作
渡支以来一同無事、日々見物やら宴会やら忙殺、
皆々閉口の模様に御座候、
十二日は杭州西湖付近の見物、
その前日湖辺最高の南高峰に登り
西湖一看候に銭塘江を臨み壮観天下第一
と称せんか、一同快哉、
夕刻下山、船を浮べ月を浴して帰る、
China文人墨客の昔を偲ばれ候
(荒木十畝氏郵信)】
▲同紙、同年12月3日付
<日華展委員畫信(完)>

【 蘇州産土人形 西沢笛畝作
Chinaの玩具は今二ッの道をあるいている、
遠い昔を其儘に―。素朴な味のある者と、
ぐっと近代式な輸入品とに判然と区別が出来る。
China独特の味をもった新しい玩具は
これから産れることであらう。】
昭和5年(1930)
日中芸術家交流模様
◇杭州国立芸術院 ( 昭和4年10月26日 読売新聞 参照 ) について関係記事を転載します。
〖 東京美術学校校長正木直彦日記(十三松堂日記) 〗
▲昭和5年(1930)7月11日付
【午後四時より精養軒に於て余の名を
以て美術家外交家等百五十人を茶会に
招待し今来朝中の杭州芸術専門学校長
林風眠氏
以下教授八人を紹介するの会を開く
来会者百人
汪公使
岡部式部次長 横山大観など来れり】
▲昭和5年(1930)7月12日付
【 正午郊外淀橋なる齋藤佳三氏の招宴に赴く
林風眠
外杭州芸術専門学校教授達を招かれしなり 】
〇 林風眠氏を中国旅行中の東京美術学校校長正木直彦が訪問する日記
▲昭和6年1月19日付
【午後二時に杭州に着 直に西湖飯店
に落着 略 夫より孤山に国立芸術専科学校長
林風眠
を訪ふ 不在なり】
▲ 昭和6年4月29日 大阪毎日新聞昭和6年(1931)
日華古今絵画展覧会(於 帝室博物館 )
と
日華連合絵画展覧会(於 東京府美術館)
**
〖 名品を揃へて 日華古今絵画展けふ、東京で開く 〗
【 日華古今絵画展は廿八日午前十時から
東京上野府美術館で開会式を挙げた 会長清浦伯の式辞に次で
汪栄寶公使は名誉会長として日華の美術による親善を説いて大気焔を挙げ、
次で一木宮相、幣原外相、田中文相の祝辞を関谷、永井、中川各次官が代読、
上海代表の王一亭氏、
来賓代表の梁鴻志氏
も祝辞を述べた
出品総点数六百点、前年の唐宋元明展をしのぎ名品揃ひで
現代画百七十余點の展観も大正十五年以来のものである、
出品の中には
前清内府(宣統皇帝)所蔵の趙大年筆「湖荘清夏図巻」
張学良氏蔵の汪承襦筆「百耆図巻」などがあるが
この百耆図巻と対立する汪承襦筆「写生手巻」二巻は
往年 張学良氏から秩父宮家に献上したが
今回宮家から御貸下げで計らずも並んで陳列され興味を呼んだ(東京発)】
▲昭和6年5月17日
大阪朝日新聞
〖皇太后陛下 行啓 両展覧会へ 〗
【皇太后陛下には帝室博物館の国宝展覧会
並に 日華古今絵画展覧会へ行啓のため
十六日午前九時四十分自動車にて
大宮御所御出門、
同十時五分博物館御着、展覧会場に臨御、
京都清涼寺所蔵の宋時代の作十六羅漢図四幅
をはじめ二十八點の国宝絵画につき大島博物館
総長並に溝口課長の御説明を聴し召されたが、
右羅漢図の表装はかって九条公爵家で寄進した
由緒あるものであることに御興いと深く拝せられた、
御晝餐後午後零時半同所御出門、
続いて東京府美術館内の
日華展覧会
に成らせられて名誉会長
汪China公使、
幣原外相、清浦会長、岡部副会長、
正木美術学校長各委員の奉迎を
受けさせられ岡部子の御案内、
汪公使、
幣原外相などの御説明で
宋、元、明、清各時代の名作、
同地並に我が国美術品の代表作を
詳細に御鑑賞あそばされ
同三時四十分御機嫌麗しく還啓あらせられた
(東京電話)】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▲昭和6年5月17日
東京朝日新聞
〖[ けふ國寶展へ皇太后陛下行啓
日華絵画展へも ]〗
【 皇太后陛下には上野公園内の国宝展覧会並に
日華古今絵画展覧会
へ行啓のため竹屋典侍御陪乗、入江大夫、
西邑事務官、高松権掌侍、西権命●供奉、
十六日午前九時四十分自動車にて大宮御所御出門、
十時五分博物館御着
各高等官、同待遇の奉迎裏に表慶館で御少憩、
同館勅任待遇以上に拝謁仰付けられ、
大島博物館総長より陳列品目録並に絵葉書を奉呈、
総長の御案内で展覧会場に臨御、京都清涼寺所蔵
の宋時代の作十六羅漢図四幅を始め二十八點の
国宝絵画につき総長並に溝口課長の説明を聴し召され
御晝餐後、右羅漢図の表装は曾て九条公爵家で
寄進した由緒あるものである事を聞し召され御興
いと深く拝された、
かくて午後零時半同所御出門、続いて
東京府美術館内の
日華展覧会
に向はせられ
名誉会長 汪China公使、
幣原外相、清浦会長、岡部副会長、
正木美術学校長各委員の奉迎を受けさせられて
岡部子の御案内、
汪公使、
幣原外相等の御説明で宋、元、明、清各時代の
名作同地並にわが国美術品の代表作を詳細に
御鑑賞遊ばされ同三時四十分御機嫌麗しく還啓
あらせらる 】
▲昭和6年 日華古今絵画展覧会
国立公文書館 アジア歴史資料センター
レファレンスコードB05016019200

**
**
▲昭和7年版(1932)
「日本美術年鑑」

古美術古美術界概観
【 今年での出来事として特筆さるべきは
三月に開かれた朝鮮名画展、
四五月の交 催された
日華古今絵画展
であった。
朝鮮名画展は高勾麗、高麗の壁画の模写から、
高麗佛畫、恭愍王筆と伝えられる断片、
姜希顔、李上佐、安堅等の北派系統、
魚夢龍の梅、李霆の竹、および全明國の作
を経て、玄齋、謙齋以降の南画、壇園、園の
風俗画、更に朝鮮独特の肖像画までが系統的に
示されたことは日本内地は勿論朝鮮でもまづなく、
それは朝鮮総督府の後援、関野博士等の盡力
によることであった。
日華古今絵画展
は現代画家の作も多く見られたが
古畫に比しては殆ど云ふに足るものなく、
古畫は前年の唐宋元明の展覧会に較べると、
これは元明清三朝の名画を主とし、
参考として宋の畫をも出したもので、
Chinaから将来したものゝ外、我国に来ているもの
をも多く合せ陳べたので近来まれに見る大展觀であった。
又三月に催されたChina工芸展も、
研究に資すべき多くの出陳あり、
幾多の鑑賞家愛好者をよろこばせた。云々 】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▲昭和7年版(1932・昭和6年の行事が記録されている)

「日本美術年鑑」
〖 日華連合古今絵画展
(四・二八―五・二〇)〗
【 昨年の唐元明に引き続き元明清の古名画
三百餘點を府美術館に展観。
尚古名画と共に中日現代画会主催の
日華現代画展
も同時公開された。】
ーーーーーーーーーーーーーー
▲昭和7年版(1932)
「日本美術年鑑」
〖博物館のChina畫展観
(四・二八ー五・一七)〗
【 日華古今展と同時に帝室博物館主催で、
国宝のみのChina畫竝に同系の日本畫
三十点の特別陳列があった。
牧渓筆京都大徳寺蔵の「揚柳観音図」「竜虎図」、
京都知音院出品「牡丹図」京都清涼寺出品
「十六羅漢図」を始め、川崎男蔵の銭舜挙筆
「桓野王図」島津公蔵の呂紀筆「四季花鳥図」
等個人所蔵の国宝も併せ展観された。】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▲牧野伸顕日記
[メモ]
【 昭和6年5月16日付
博物館。
日 華。
大宮様口供。 幣原男へ、副島の件。】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▲正木東京美術学校長日記
昭和6年五月十六日付
【 雨後晴 夜来大雨早起尚止まず
午前九時ころに至りて已む
今日は午前九時四十分御発駕
皇太后陛下
先つ 帝室博物館に行啓
国宝絵画御覧 御中食後
零時半 展覧会に行啓ありて
直に賜謁 零時五十分より古畫を
古き部分より御覧 直彦御説明を奉仕す
午後三時半迄御覧あり
三時四十分還御あり
副会長子爵岡部長景氏と余とは
大宮御所澄宮御殿に参候
叡覧台覧の御礼を言上す 】
昭和9年(1934)
日華連合絵画展覧会
< 於 東京・名古屋 >
▲正木東京美術学校長日記(十三松堂日記)/ 昭和9年(1934)
*五月二十二日付
【 午後二時東京府美術館に準備中の
日華連合絵画展覧会
を見る
金 開藩
携帯の古畫の中には珍しきものあり
丁觀鵬等五人合作の慶豊図巻
蔡嘉の花草畫冊十二開
文徴明 文嘉 謝時臣 仇英 銭穀
等の合作畫冊
王元美 の跋あるもの等見るへし 】
*五月二十三日付

【 午前中
日華連合展覧会場
に行く
岡部子爵 外務省官吏 徳富蘇峰翁なと来観す】
引用
▲国立公文書館 アジア歴史資料センター *レファレンスコード B05015760600**
件名標題(日本語)
2 天津市政府秘書許以栗 昭和九年六月二日
階層 外務省外交史料館>外務省記録>
満支人本邦視察旅行関係雑件/補助実施関係
第十五巻
「 九、六、六 2 天津市政府秘書許以栗 昭和九年六月二日起案 昭和九年六月六日決裁 文化事業部長上 第一課長 第二課長 天津市政府秘書許以栗ニ対シ本邦視察 手当補給ニ関スル高裁案 中華民国天津市政府秘書許以栗ハ五月二十三日ヨリ六月三日迄東京 上野公園ニ開催セラレタル日華連合絵画展覧会ノ為右代表者金開 藩氏ト共ニ来朝セル処今回許以栗ハ此ノ機会ニ本邦美術考古ニ関スル諸般ノ施設ヲ視察致シ度希望ヲ有シ居ルモ来訪以来滞在費用相嵩ミ旅行継続困難ナルニ付右ニ要スル視察費トシテ相当額補給セラレ度旨日華連合絵画展覧会副会長正木直彦氏ヨリ当方ニ申出アリタリ 右ハ対支文化事業トシテ有意義ナル計画ト認メラルルニ付昭和九年度対支文化事業特別会計事業費の項講演及視察費ノ○ヨリ右許以栗ニ対シ視察手当トシテ金三百円也ノ○ヲ支出スルコトト致度右仰高裁 」**
**
▲『レファレンスコード;B05016021300
東方文化協会 日支連合絵画展覧会開催に関する件 昭和九年二月』
外務省文部省後援東方文化協会主催
日華連合絵画展覧会規定
第一 本会は日華連合絵画展覧会と称す
第二 本会は日華両国画家の新作絵画を陳列す尚参考としてChina古画を陳列することあるべし
第三 本会は昭和9年5月21日より6月1日に至る12日間東京府美術館に於て開会す
附記
東京閉会後名古屋に於て数日間開会の予定に付其場合には継続出品方を更めて依頼すべし
(Author;
上記の外務省関連の公文書は
「 第 6 回 日華連合絵画展覧会 」
と推定しうる根拠となる資料ではなかろうか )
▲中外商業新報 昭和9年5月26日

昭和 10年(1935)
日中芸術家交流模様

▲「塔影」昭和10年8月10日発行
〖中華民国美術学究徒の来朝〗
【 日華親善の波に乗って、最近China学徒連が著しく来朝する中に、
蘇州美術学校教授 胡粹中氏
が門弟三名を同伴
七月十七日朝神戸港入港のエムブレス・オブ・ジャパン號で来朝した。
氏は作品五十枚を携えて来て居り
東京中華会館で画展を開催する筈である。】































昭和 12年(1937)
**********************
〖 回顧七十年 〗正木直彦著 学校美術協会刊 昭和 12年(1937)
**
**
**
【さて、私がChinaへ行ったのは、前述べた大正十三年末のと、
昭和三年及び六年の三回であって、
対支文化事業としての用務を帯びての事だった。
その中、昭和になってからのは、
荒木寛畝(荒木十畝の父)の弟子に渡邊晨畝という花鳥画をよくする画家があり、
此の人が屢々Chinaに行ってChina人と交際する中、
Chinaに日本現代の美術を取揃へて見せて欲しい、
又、日本へChinaの絵も紹介して貰いたい、
-というような希望を述べられたので、
戻って外務省の対支文化事業部長の岡部長景子爵や私に相談をした。
これに対し、私は大賛成であったし、
政府としても一つ遣って見たらよかろう、と云う事であった。】
と東京美術学校校長正木直彦氏は、
「日華(中日)連合絵画展覧会」の開催模様を語っています。



































≪
昭和14年(1939) ≫
日華連合絵画展覧会 復活計画 ▲昭和14年4月23日
**
**
**東京朝日新聞
〖 新Chinaの文化再建に 差伸べる
“温い手” 畫壇と仏教界から親善の使節 〗
【 新生China目指して我国の畫壇と
仏教界から同時に二つの美しい
親善の手が差のべられる、
戦火の中に自然消滅となった
「中日絵画連合展」
を復活さすべく畫壇から六十八歳の
荒木十畝 画伯
が乗込み
「日華仏教研究會」の復活を期して
仏教界から七十二歳の京都百万遍
前法主林彦明大僧正が出発、
共に新Chinaの文化再建設に老躯を
提げて進むことになったのだ 〗
【 「中日絵画連合展」
が提唱されたのは大死(正)七年の頃、
主唱者は
荒木十畝、
該 晨畝 両画伯
らで折柄の排日の気運の中で種々な障害
を受けつゝも
十一年に呱々の聲をあげ日本畫壇の大家とChina一流の画人とが
共に東洋美術を研鑽し
日本側からも竹内栖鳳、横山大観、
川合玉堂、山元春挙、小室翠雲画伯らが
参加し絵筆を親善の楔として苦難の中にも
堅実な発展を遂げ
一時は両国の四百余點に及ぶ作品が
出陳される等親睦の美果をあげて来たものだが
事変前の国際関係の悪化で會は自然消滅
となり戦火の中に流離して
China畫人達の消息も今は全く絶えているのだ
ところが興亜建設の春に
”何とかして復活させたい“といふ聲が
最近我畫壇に強く起り
荒木画伯
が愈二十七日東京を出発することになったのだ、
二十二日、豊島区長崎南町の自邸で語る
あの頃を思い出すと懐しい、
政界で鳴らした
曾錕、
徐世昌 氏
等も自分の畫を出品したり
會の世話をしたり
呉佩孚、
王克敏 氏
らもこの會に入っていました、
日本側では吉沢公使、坂西中将、
長岡外史将軍の骨折もあって
天津北京ではいつも大入の展覧会だったのです、
思い出す畫人達は
呉俊郷、
◆◆士、
汪大◆‥‥
何とかしてその人々を探し出して
あの會をもう一度前以上のものに
してゆきたいのです】
(当時の寄せ書に見入る荒木画伯・写真二段抜き)
▲ 日本美術年鑑 昭和15年版(1940)
〖 荒木十畝渡支 〗
【 荒木十畝は皇軍慰問と美術による
日満支提携に貢献せんとして、
四月二十九日門司発渡支した。
先年日支両国間に展覧会を開いた
東方絵画協会の事業を再開する希望である。】



































昭和17年(1942)==『日華文化の交流と読畫會』==
永田春水
=================
荒木十畝画伯門下の永田春水画伯が、
昭和17年(1942)6月5日発行の
『読畫堂塾』という本の中で
「日華文化の交流と読畫會」と題して、
“日華連合絵画展覧会”
のことについて執筆されています。
△
『日華文化の交流と読畫會』
永田春水
読畫會が日本画の海外進出に貢献し
たことは斯界周知の事であるが、
日華聯合展覧會 や
シャム(タイ)首都開催展
の如きは、特筆すべきことであらう。
私は、第一回日華聯合展覧會が、北京
に於て開催された時に、荒木十畝先生に
随行したので、その関係から日華展に就
いて記したいと思ふ。
関東大震災前から 渡邊晨畝氏 が
屢々渡支して、当時の関東軍司令長官坂
西中将の世話で繪を描いていたが、
渡邊氏は、自分だけがChinaで繪を描い
ているといふ小さな事でなく、
日支両国の芸術交流といふ国際的にま
で進展させたいと念願して、
自分が 読畫會々員 であることから、
荒木十畝先生に相談した。

十畝先生は、日頃から日本画の海外進出
といふことを考慮してゐられたので、
渡邊氏の提案を攻究の後、協議一決して、
読畫會がその中心
となり、芸術を通じて、日支の握手をし
ようといふ事となった。
長岡外史中将の斡旋で外務省も積極的
に後援する事となり、
又China側では北京の
金紹城氏
と
渡邊氏
との交誼が厚かった関係上、双方の交渉
は滞りなく進んだ。
金紹城氏
は北京の富豪であり、有識者としての人
望も厚く、又絵画にも堪能な名士であっ
たので、China側の万事は
金紹城氏
が斡旋する事になった。
当時のChinaの大統領は曹錕氏であ
ったが、日華芸術展の計企を聞いて、双
手をあげて賛成し、種々なる便宜を計っ
てくれたので、プランは着々と進行して
行った。
大正十三年三月、日華連合展開催は、具
体化し渡邊氏の東導で我々は渡支する
ことになった。
十畝先生は、Chinaに見せるには、南画
も必要であるとし、
親友小室翠雲先生
にも協力を乞ふこととなり、翠雲先生も
一行に加はられることになった。
一行は両先生の外に、東導役の*渡辺晨畝、
*広瀬東畝、*太田秋民、*宮田司山、*森山香浦、それに私が加はり、
南画系から福田浩湖、佐藤華岳、久保田
翠岳を交へ、又荻生天泉君も之に加はり、
現地に於て在支中の西郷松玉女史が参
加して十三名であった。
日華連合芸術展は北京の中央公園に於
て二十日の会期をもって開催された。
日本側の作品とChina側の作品とが處
狭きまでに陳列されて、日華人の観覧者
が踵を接して集まり
Chinaに於ては有史以来の盛大なる合同
展というので、十五日間の会期が二十日
間と延期されたのであった。
China側では、我々一行を
国賓待遇
をもって歓待してくれた。

大統領の招宴は北京の宮城内で催され
た。曾錕大統領を首め各大臣が列席して、
日華聯合展が、両国の芸術交流の上ばか
りでなく、両国の親善に大きな効果を及
ぼすものであるといふやうなテーブル
スピーチが、各識者の唇から送り出て、
大なる面目を施したのであった。
(*大統領という呼称について )国立公文書館アジア歴史資料館 (レファレンスコード;B03050646100)
【 孫大統領の対外宣言書送付之件 】
我々一行は北京滞在中、北京を中心に観
光するの機会をもった。文化殿、武英殿
等に於けるChinaの芸術を鑑賞したり、
萬壽山に西太后の豪華な生活を偲んだ
り、又China大官の案内で、明の十三陵
を訪れ、途中、八達嶺の万里の長城を心
ゆくまで眺めて、興亡の歴史を回顧し、
或は北京郊外の古墳を訪ねたりして、
北京滞在二十日間Chinaの風物に親し
むことが出来た。
又展覧会出品の買約も多く、
私が出品した「小春」と題する作品は、
大統領御買上げの一つに加はったが、
日本畫をChinaの貴顕や各方面に残す
ことの出来たことも亦大成功の一つで
あった。
日華連合美術展はこの第一回展開催
を期として、今後は隔年毎に日支両国で
開催することになり、日本で開催すると、
次回はChinaで開催するといふ計画に
なったが、十畝先生の意見として、日支
美術交流といふ大きな国際的事業は、
私塾 読画会 が中心
となるべきでなく、日支全美術の交流で
なければならぬといふ事から拡張して
「東方美術協会」
と改組して、会長に故正木直彦先生が就
任して、大々的に本格的に日支芸術の交
流の気運を高めることになった。
十畝先生は第二回開催の時にも渡支せ
られて、日華美術交流と国交親善のため
に盡力せられた。
北京に於ける第一回展が終わってか
ら、私達一行は、南支方面へ旅行した。
初めは大同へ行く予定であったのだが、
その豫定を変更して南支行となったの
である。
上海から蘇州杭州の風物の探勝に四
五日を費したり、西湖では、近郊の豪華
な庭園を見に行った。花鳥画の点景とし
てよく描かれる太湖石の面白さに打た
れたり、風雅な建築物に興じたりして畫
嚢を肥し、一ヶ月餘の時日を費して帰朝
した。

その後、日支の美術交流は順調に進展
して行き、Chinaの古名画展を東京府美術館で開催した時の如きは、
Chinaの名画を殆んど網羅するの偉観を
呈し、各方面の絶賛を博した。
あれ位、Chinaの名画を一堂に蒐めたことは、嘗ってない事であった。
而も、唐、宋、元、明の代表的な作品ば
かりで、Chinaの名画が、現在、日本国
に於て珍蔵せられ、完全に擁護されてい
るといふ事実を、Chinaに示すことが出
来て、当時のChina人達は驚嘆したもの
だった。
その後、
金紹城氏が逝去し、
息 金開藩氏
が先考の衣鉢を継いで、この事業に尽力
していたが、
満州事変
が勃発して、日華連合美術展も開催され
ることなく、今日に至っているが、
日華連合美術展が、両国の親善といふ国
際的に貢献すること絶大なるものがあ
ったことは、
十畝先生
及
故渡辺晨畝氏
の功績といふべきであらう。
話が前に戻るが、
日華連合美術展第一回開催後、上海で更
に上海の名士として名高い
王一亭氏
を中心とした南方画家との提携を企図
して一週間合同展を開催し北京開催展
にも劣らぬ成功を収めた。
王一亭氏
は、当時Chinaに於ける第一流の美術家
で、仏門に帰依し、China人の渇仰の主
となって、権門を誇る存在であった。
北に 金紹城、
南に 王一亭
と、互ひに権門を競うていたのだが、
我々は王一亭氏に北京に於ける展覧会
の状況を報知し、南北合一を実現し、
全支美術家の提携をお互に心から祝した。
王一亭氏
は非常に喜んで一行を、上海郊外の切徳林寺に案内し、
有名な蔬菜料理を饗応して歓待至らざるなきほどであった。
ここまで
「日華文化の交流と読画会」の転載を終わります。
*印は読畫會会員




































昭和19年(1944) ▲昭和19年(1944)3月25日初版発行


≪ 明治大正昭和 日本絵画史 ≫420頁~421頁
(著者石川宰三郎・㈱大日本雄弁会講談社)
【――国際的美術進出、中華、伊太利、
独逸、泰國―― 日本の美術が、
国際的に海外へ進出した事実は
随所に説いたが、
大正期から昭和にかけて
荒木十畝、
渡辺晨畝
等の努力によって
数次 「日華美術展」
の開催されたのなどその著しきもの。
大挙美術家が渡支した事もあり、
相当の効果を挙げたものである。】



































昭和23年(1948)6月10日出版
**
**
昭和23年(1948)6月10日出版== 「十畝先生」 ==
【 十畝先生 】 金井紫雲著
その中から”美術使節“を転載します。
内容は、
日華連合絵画展覧会 と
暹羅(タイ)バンコックにおける
暹羅日本美術展覧会
について書かれています。
―――――――――――――――――
<美 術 使 節>
先生が七十余年の芸術的生涯の中には、
伝うべき事蹟も多々あるが、
その中の一として特筆すべきは
国際的の芸術運動であった、
即ち一は
日華連合絵画展覧会
であり、
一は
暹羅(タイ)国バンコック府
に開催された
日本美術展覧会
であり、先生はともに美術使節として
これに赴き多大の成功を収めたのである。
日華連合絵画展覧会は、大正七年の頃
読畫會員渡辺晨畝氏が永きChina旅行
から帰朝し、同文同種の日華両国は親善
以て東洋恒久の平和と文化の進展を図
るべき責務があり此の際先づ両国の芸
術家が提携してこれに当たるべきを力
説し中国に於てもこれを希望して居る
旨を十畝先生に語ったので、先生も同感
で直ちにその運動を起こすべく計画し、
晨畝氏は日ならずして渡支して彼地の
芸術家を歴訪打診して促進に努め、
先生は内地にあって百方奔走してその計画
を進めた、これは唯に芸術上の交歓のみ
でなく延いては当時悪化の一途を辿っ
て居た両国の国際関係を此の芸術の握
手によって好転せしむべき希望を繋ぎ
得たからである。
同十年晨畝氏は再び帰朝し先生と熟議を重ね、
先生は自ら東西の芸術家を歴訪し、
翌十一年三月一日、
日本中国聯合繪畫展覧会
を天下に発表した、
即ち発起人としては
小堀鞆音、川合玉堂、竹内栖鳳、山元春挙、
小室翠雲の諸氏外先生とし、賛助員としては徳
川頼倫、渋沢栄一、犬養毅、山川健次郎
氏其他廿七人である。この運動は忽ち四
方に反響があり、中国に於ても非常な好
感と期待を以て迎へられ、
其年五月、中国美術界を代表して
金紹城、
陳師曾、
呉
煕曾
の三氏中国南北作家の出品約三百点を
携へ来り、丸の内東京府庁内商工奨励館
に於て
第一回の聯合展覧会
を開き、空前の盛況を呈し、
翌年は北京に於て開催
渡辺晨畝氏これか代表として渡支し、
また東京に劣らぬ盛況を呈した、
先生この時の出品は「春暖」である。
第二回は翌々十二年四月である、
此の時は先生自ら使節として、
西沢笛畝、飛田周山、
永田春水、松本姿水 等十一名を帯同し
て中国に赴き、
金紹城、
王一亭、
呉昌碩 氏等
と会見展覧会は北京及び上海に開催し
て効果を挙げ、先生は各地の歓迎会や
公私の会合に臨んで火の如き熱弁を揮ひ
両国文化的提携を力説した。
聯合展覧会は、更に日本に於ても上野
の府立美術館に開催され、これまた非常
な盛況を呈し両国々交上に多大の寄与
をなしたのである、
この時の先生の作品は
「雨中牡丹」
であったが、これは北京の
金紹城氏
の襲蔵するところとなった。
先生が活動の中心となって多大の
成功を見た
日華聯合絵画展覧会
は、到る處に大なる反響を見た、
外務省に於ても従来の両国関係が面白
くなかった処から、此の好転を図るべく
日華連合絵画展覧会
の発起人を中心として、東西の芸術家に
呼びかけ、此の運動の拡大を図るべく慫慂し、
昭和元年を以て外務省後援の名のもとに
東方絵画協会
が生まれ、先生をはじめ東西画壇の巨匠
は悉く参加し、こゝに名実ともに芸術上
の挙国一致的一団体は出現し、その主催
のもとに中国から各時代を通じての名画を集め、
日本に存する名画をも加へて、
唐宋元明名画展
が、華々しく上野に開催された。
この催しは古代の名画の展覧会であるが、
現代の絵画交換展を復活するも
将に此の好機を逸すべからずとなし、
先生は昭和四年、再び同志とゝもに中国
に赴き、彼地の有力者を歴訪して、
その年十二月に帰朝した。
然しこの時は、内外の情勢険悪にして、
日華展
の再開を許さなかった、
然し先生の初一念は飽くまでその目的
を貫徹すべく、
第三次の中国行を決行した、
▲昭和 14年4月23日 東京朝日新聞
**
▲ 日本美術年鑑 昭和15年版(1940)**
〖 荒木十畝渡支 〗
【 荒木十畝は皇軍慰問と美術による
日満支提携に貢献せんとして、
四月二十九日門司発渡支した。
先年日支両国間に展覧会を開いた
東方絵画協会
の事業を再開する希望である。】
即ち昭和十四年四月出発して先づ北京
に到り、更に上海に赴き、各方面の有力
家を歴訪して六月帰朝し、大なる効果を
挙げようとしたのであるが、折悪しく
China事変勃発して戦乱の巷となり、
遂に今日まで再現の機会に恵まれずに了った、
然し此の行、先生の芸術上に得る處極めて多く、
作品の上には一層幽玄な趣きを加えた。
ここまでで、この本の“日華連合絵画展覧会”の記述は終わります。
================
*****************
****
補完資料集
**********************
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≪大正8年(1919)≫
4月15日発行
≪ 美術之日本 ≫ P13~19
〖 美術の宝庫China 〗
== 附日支連合美術展覧会の事 ==
**
**
**
**
**
<日華連合絵画展覧会実現経緯>

≪大正8年(1919)≫
4月15日発行
≪ 美術之日本 ≫ P13~19
〖 美術の宝庫China 〗
== 附日支連合美術展覧会の事 ==
渡辺晨畝
□
昨年七月青島に上陸し、先づ甞つて堀内中将
から聞いて居った嶗山に登った。
この山は秦の始皇帝が登って東海の蓬莱島を望み、
不老不死の霊薬を求めんが為めに、
徐福をして其処から童童男女数十名を率いて、
出発せしめたと云ふ、
古跡のある處で、風景の絶佳なる事は、
日本の妙義山よりも、もっと変化ある
非常に大規模のものである。
そして雲烟漂渺の間に、島が見えたり、
海が見えたりして実に奇観である。
日本の絵に描かれた
蓬莱山は、この景を採ったものだと云ふ。
次に伯夷叔齊が薇を採ったと云ふ、
首陽山へ登って見た。元は深林であった
さうだが、今は一樹も無い。
山は高くはないが景色は却々に佳い。
それより博山へ行った。
此処は孔子が齊の国王と魯の国王とを
峡谷に於て会見せしめて、其処で孔子が
齊王を叱って、其の威厳に●れしめて、
魯の占領せし土地を返さしめたと云ふ處で、
今は陶器の名所である。
それから濟南に出て大明湖へ行った。
其処では畫舫と云うふ船に乗って見巡はった、
此処には星やその他いろいろのものを祭った
祠があって處々島になって見える。
そして湖水には蓮の花や蒲や種々の水草が
沢山あって、風景実に明媚である、
濟南の城内には太公望が釣をした古跡がある。
此処は水がグングン湧出して居って、
その釣を垂れた處には堂が建って居る。
又Chinaの書物に『舜は歴山の麓に耕す』
といふことを書いてあるが、その山は濟南の
南方に聳えて居って其の麓に右の古跡がある。
其処は千佛山と云って、自然の山の巌石に
無数の彫刻があって却々立派である。
□
濟南から南京へ行く鉄道で泰山へ行った。
そこは古へからChina五大名山の一に
数へられて居って、
Chinaの歴代の天皇が位を継ぐと、
必ず此山に登って善政を布かんが為めに
座禅をして行をしたと云ふ事である。
故に山上には天皇や学者の石碑が沢山
建てられてある。又其のうちに始皇帝の
『無字碑』なるものがある。それは始皇帝はあゝ云ふ風に、
学者を坑中に埋め天下の書籍を焼き盡した
程の人物だから、自分は学問を無視する
と云って、泰山に登り之を建てたものである。
この山の神様は碧霞元宮と云ふ女神で、
祈願をすれば何事でも御利益があると云ふ。
その神像を拝したが実に立派で、
観音の如き気高い女神である。
この宮は二千年前の建築に係り、
瓦は緑青色とあって、壁は朱土、
緑青、群青などある。その彫刻建築共に
譬へやうのない立派な技術である。
泰山の頂上を日観峯と云ふ。
其処で太陽の登るを拝めば幸福がある
と言ひ伝へられてある。尚ほそこでは
東海を見ることが出来ると云ふ。
その日の登る方向は丁度我が日本に当って居る。
私はその山の頂上に殆んど野宿同様にして泊り、
そして野のシラシラ白んだ頃にその峯に登って行った。
夏であったけれども、海抜何千尺の高處であるから、
夜が明けない内は慄とする程寒さが酷どかった。
そこに乾隆帝の建てた碑があったが、
その碑の蔭に風を避け乍ら、日の登るを待った。
すると空がだんだん紅くなり、得も云はれぬ
壮観で太陽が登ったので、実に日出を絵に描くには、
斯る色斯る景色を描いたら非常に立派であらうと感じた。
釈尊が菩提樹下に苦行して居って、十二月八日に明けの明星が東天に燦として
閃いた時に忽然として宇宙の真理を悟り
『一切衆生は皆な
我が子なり』と言って、一切衆生を救はんが為めに、
茲で非常な決心を起されたと云ふ事であるが、
私などは凡夫の悲しさにChina第一の名山
日観峯の頂上に旭日昇天を拝しても
大理想を起こすことも出来なかった。
尚ほ孔子が弟子の顔子を連れて泰山に登り
東海を望んで『天下は小也』と云った処に
『孔子天下小所』と云うふ石碑が建って居る。
そこは日観峯の後方に当る頂上である。
尚ほその一番上の方に玉皇頂と云って、
其処に宮があって中に天柱石と称する、
地球の中心であると云はれている石が
頭を出して居る。
□
それから段々山を下りると、
始皇帝が雨に遭ふて避けたと云ふ松の木がある。
その松の木に五太夫の位を授けて、
五太夫の松と称せられ、
それを額に書いて石門に掛けてある。
そこに立って眺めると前に対松山
といふ山があり、南方に徂徠山と
云ふ美しい山があって、泰山では
此の辺の景色が最も佳い。
それから下りると、等母宮といふ尼寺があって、
建築は却々美麗である。その裏に滝があって
其処に自然の巌石に金剛経を彫っている。
その大きさは一尺四方余りあって、
王義之の書いたものだと云ふ。
見ると六朝時代のものに相違ない。
その辺りも景色が佳く、実に泰山は
到処景色の宜しい山で、一歩々々画題に適して居る。
□
それから孔子の生まれた魯の曲阜へ行って、
墓所の聖林を拝見したが、その規模の
大い事は驚くべき程で、
六十万坪以上の面積を有し、
周囲に城壁を廻らして居る。
其処に千八百年前の建築等があり、
其他歴代の皇帝が修理した丹碧の
実に壮嚴なる建物が沢山ある。
其処に孔子の墓が土饅頭に大く出来て居って、
大理石の大きな碑があり、其の上に雲龍を
彫刻し、其の下に『大聖至聖文宣王』と記してある。
その前に始皇が六年間、墓前に喪服していた
と云ふ処に始皇の碑が大理石で建てられてある。
それから孔子の子白魚の墓もある。
尚ほ孔子の子孫の歴代の墳墓がその裏手にある。
又孔子の生れた古跡に建って居る大成殿へも
参観した。実に立派なもので、壮嚴とか雄大とか
云ふ言葉は斯う云ふ処から現はれたものであらう
と云ふ感が起った。
その境内の広い事、城壁の壮嚴なる事、
殿の大建築なる事、大美術なる事は驚くべきで、
前面の柱は二抱え半もある蝋石で、
高さ数丈継目も疵もないのが十本あり、
何れも雲龍の浮彫としてある。
その御殿の高さは七八丈あって、
天皇の登る階段は大理石の一丈幅で長さ三丈位あり、
それが矢張り雲龍の彫刻をしてある。
その他杏檀といふ建築があって、
此処が孔子が門人を集めた処であると言はれて居る。
又詩禮堂、孔子の使った井戸、古宅の跡、
其他建築物が沢山あって、何れも精巧壮嚴の美術である。
其他Chinaの天子が天下を取る毎に、
仁政を布かんが為めに必ず孔子の廟に参拝して
修繕をし建築を献納したもので、
各天皇、学者の献納した建築や碑が無数にある。
その碑には皆な碑亭と云ふのが附いて居って
実に壮嚴な畫題に適した建築である。
□
孔子はあれ程の大聖人であったが、
一生は甚だ不遇であって、餓死せんとした
こともあり、実に気の毒な生涯であったけれども、
その説いた真理は国を治め身を修める真理
の教えであったから、二千五百年の今日に
至っても其の子孫は連綿として続き、
その人望は皇室よりも高く、巨万の富を積み、
非常に名望がある。
孔子の墓には毒草を生ぜず鳥も巣を送らず
と言うふて居るが全く孔子の尊像の前に
参拝した時には聖賢の徳が身に迫って
何となく敬慶の念が起こって心は清々した。
最近革命の時にChinaには天皇がなければ、
国が治らないと云って、天皇になるやうな
人格者を求めたが見当たらず、
孔子の子孫の衍聖公ならば、名望家だから
この人より外ないと云ふので革命の名士が
訪問して天皇たらん事を強いて願ったが
それは飛んでもない事だ。どうか許して呉れと
辞退して、それからは人にあまり遇うはれないと云ふ。
私も何か記念に子孫に書いて貰ひたいと思って、
紹介を得て訪ねて行ったが、會はれなかった。
その原因は右述べた皇帝辞退の事からであると云ふ。
それより二三丁離れた処に弟子の顔子の廟がある。
それも非常に立派なもので、堂々たる建築である。
其処に顔子の古宅の井戸などもあって、
其の側に松の木の非常に面白いのがある。
即ち井戸の東に当って虎皮松と云ふ
普通の松の如くして鱗なく、白い皮の斑紋に
似て光沢あって、松脂の匂がして四人で抱える程の
大木で、周時代のものであると云ふ。
之を繪にしたならば余程面白いものが出来るだらうと思ふ。
引用 《Author》
名作“ローマ帝国衰亡史”の著者、
エドワード・ギボンの『ギボン自伝・ちくま学芸文庫』には
<我々は名誉の評価に際しては、
財産の贈物よりも造化の神の贈物たる
天分を一層重視し、
我々の先祖の中での社会公共の
利益を最も増進する性質を評価して、
その著作が最も遥かな後代にまで
教化と愉楽を伝えるであろう人間の
子孫の方が、国王の後裔よりも一段と
高貴であると判定するように心懸ける
べきであろう。
私の考えでは孔子の家系は世界で最も
輝かしいものである。
我々ヨーロッパの大名や王侯が、八百年
もしくは一千年の懸命な遡及の果てに
すべて中世の闇の中に埋没するに反して、
孔子の子孫は中華帝国の広大な
平等性の中で二千二百年以上にわたって
平和な名誉と恒久的継承を維持していて、
現に今日でもこの家族の首長は君主及び
民衆からこの人類で最も賢明な人物の
生きた似姿として崇められている。
中略
私自身はと言えば、私がもしも自分の
先祖に将軍や政治家あるいは高名な
著作家を持っていたならば、さぞや子
としての愛から彼らの生涯や著述を
勤勉に研究するであろうし、
この偶発的な関係からある種の喜びの
感情、敢えて言えば虚栄心が自分の胸に
萌すかもしれない。
だが私個人は、彼らの称号や財産の
思い出よりも彼らの個人的功績にこそ
一層多くの喜びを見出すものであり、
それ故に私は軍人の名声よりも
文人の名声に一層深く感動し、
マリウスよりもキケロから、
そして第一級のガータ勲爵士よりも
チョーサー(14世紀の英国詩人)から
自分が出ていると聞くことを格段に喜ぶだろう、
と敢えて一言したい。
孔子の家系は私見によれば
地上で最も高貴である。
この哲学者から現在の彼の子孫の家長まで
七十代の権威ある世代がすでに経過し、
現在の家長は、Chinaでこれまでに
四千四百二十五年間栄えてきた
輝かしい家系の始祖と信ぜられる
黄帝から数えれば百三十五代と数えられている。
私は何の躊躇も留保もなく私の個人的な
感情を述べてきたし、今後もそのように
心懸けるであろう。
それ故に読者諸賢も尊卑の別なく
この主題に関しては、自分自身の
内心の声に傾聴するように
私は奨めたい。
この種の感慨が正当、少なくとも自然で
ある事実を、私自身は自分の祖先から
何一つ栄光や汚辱を引出せぬ故に
この主張に何らの利害を有しない人間として、
一層深く確信するものである。>
『ギボン自伝・ちくま学芸文庫』より▲大正8年(1919)8月6日・大阪毎日新聞
【巴里で山東問題宣伝中の
孔子様の末孫 第七十五代の後裔と自称する
孔柯】
**
□
其処から有名な朱水へ舟で渡り、更に済南に戻って来た。
此時済南では山東省一の蔵幅家、
王鴻陸
と云う人に招待されてその蔵品を見せて貰ったが、
唐時代の名品殆んど百点程あった。
その時私はChinaの名画には驚くべき技量の
ある事を認めて、それよりしてChinaの古畫を
見なければ東洋美術の真髄は得られぬと考へた。
故に其後はChinaの名望家、蔵幅家を訪問して、
成るべく多くの古畫を見る事を力めた。
又此地では陸軍中将の
馬良
其他の人々の繪の依頼があったので、
暫く滞在して之を描いた。
それから北京の方へ参り、
第一に八達遠嶺の万里長城、弾琴峡及び居庸関等へ
行って、見物したり写生したりしたが、
山の趣は日本の山とは違ひ、皆な南画に
あるやうな山である。殊に居庸關の辺りは
尤も風景に富み、山水画家は垂涎去る
能はざる名所である。
それより田中博士、萩野博士、和田学士、
西田大尉、それに私と五人その途中にある
第一の鳥居は大理石で、
高さ七丈五尺、広さ三十間の建築で、
雲龍、狂獅子などを彫へてあるが、
明の初めの彫刻だから、殊に獅子杯に
至っては、一見飛躍するやうな勢のある
成功の作である。
そして文皇帝の御陵に至る途の両側に
石造の駱駝や馬や人などの種々の彫刻や
大理石の像があって、皆壮大大目を驚かす
に足るものである。
その辺りより遥かに北方を望めば、
天壽山の黄瓦は色鮮かに輝いて居る。
それは明の成祖の御陵である。
又谷を隔てゝ十三陵が、一眸の中に集まり
點々として見える。
それから門衛を呼んで門を開かしめて
廓内へ入ると、杉や柏の樹木が鬱蒼として
繁茂して居る。これより稜恩門を過ぎて
稜恩殿を拝観した。これは東西三十間、
南北十五間餘の建築であって、
御殿中の柱が三十二本、その高さ五丈餘、
皆楠の円柱である。その天井は百種の龍の極彩色で、
その前方には百花の極彩色を施してある。
又周囲の欄干は皆大理石の彫刻である。
この絢爛の有様を見ると、明の成祖の威厳は
成程斯う云ふものであったかとつくづく感ずる。
この御殿の後方に文皇帝の御陵が、
非常に大きな土饅頭を為して、山かと
見間違ふやうに見える。其処に成祖の碑が建てられ、
碑亭があって実に堂々たるものである。
その規模は日光の如くにして、もっと大い建築で、
非常に壮大である。
その他の各陵も殆んど同じいものだが、
併し代が末になる程、規模が幾分づゝ劣って来て、
十三代目の崇烈帝(これは縊死した天皇)
の陵の如きは、ホンの申訳のやうなものが
建って居つて、甚だ淋しく、明の末路が偲ばれた。
此の崇烈帝の陵の前に殉死した坊さんの碑がある。
忠と云ふ事はChinaでも尊んで立派な碑を建てゝある。
□
それから北京へ戻って、先づ宮中の武英殿を拝観した。
此処には宗代頃からの皇室に伝はって居る
Chinaの国宝、その他康熈、乾隆の幼帝が
富と権威とを以て蒐集し、又宮中に於て
造らせた美術品が沢山あって、実に非常なものである。
純金の寶物としては、人の大さよりも
大なる仏像、楼閣の如きもの、凡て佛の
装飾となるもの、
その他の美術品が皆悉く純金の製作である。
それから玉の寶物の部へ行くと、玉ばかりの
種々の彫刻があり、
又宝石の部へ行くと、凡ての物が寶石ばかりである。
又古銅器になると、隋の時代から周代或は
宋代頃の銅器が無数にある。
それから青磁陶器の部へ行くと、矢張り陶器類ばかりで、
その他蒔絵、硯、墨、絵具に至る迄、
結構と云はうか、珍品と云はうか、
寶の山に入ると云ふは実に此事だらう
と云ふ感が起った。
尚ほこの美術品を売払ったならば
世界の戦争が出来る程の莫大の価値が
あると云はれている。
次に文華殿を拝観した。
其処には書と畫と丈が陳列してあって、
康熈、乾隆の幼帝が富と権威とを以て、
集めた物の外皇室が画家を奨励して描せた
美術品もあり、学者を奨励して胎したものもあり、
実に名品許りである。
東京から態々此処迄見に行っても宜いもので、
東洋美術の研究としては、之れ以上の有益な
ものは無からうと思ふ。
是等は宣和、御府、明の文淵閣を経て、
乾隆帝の石渠秘笈に収めた国宝であって、
若し一朝北京が敵に包囲せられた時は、
熱河の離宮に蒙塵して再挙を図る為めに、
此の武英殿と文華殿とに、その軍用品の用意として、
斯くも多くの美術品を蒐めて居ったもの
とも云はれて居る。それは実に唐、宗、元、明迄
の名家の書画を網羅し盡してあるから、
之を見た時には、繪に酔ふと云ふ事はあゝ云ふ事かと、
心恍惚としてその室を去られないやうな心持になった。
私はChinaの名画、美術品は
東洋美術を通り越して、世界の美術たるを疑はぬ。
そしてChinaの名画に至っては
、一木一草一点と雖ども苟くもせず、
決して軽率な筆は使って居らぬ。
東洋美術を研究するには、どうしても
此の文華殿を拝観することは、
畫家に取って尤も必要な事と思ふ。
□
尚ほ文華殿と武英殿の間に太和殿がある。
其処には皇帝の玉座がある。
皇帝の椅子のあるその周囲の柱は
二丈周りもある、金色にして
雲龍の彫刻をしてある。
その四本の柱の上が日本で云へば日光にある
天蓋のやうなものが天井になって、
その中が純金の渦巻いた龍である。
その龍の口から鎖が下って、
白金の直径三尺位の玉と、尚ほ周囲に
同じ白金の六個の小玉とが附いている。
之れは明の永楽年間の建築当時から
今に錆びないから、プラチナに相違ない。
その玉の下が天皇の椅子である。
その椅子の左右の肘掛は唐獅子の彫刻で、
それは生けるが如き名作である。
その後方に寄りかゝる所に雲龍の彫刻があって、
その後方が丁度日本の屏風のやうな形をした
唐木の彫刻である。そして四本の柱の周囲の
柱は朱塗りの一丈周り位のものが数十本ある。
その天井は百種の龍の極彩色である。
御殿の周囲の建築は日光を見るやうな
もっと大規模の極彩色で、桝形を為して居る、
その周囲の欄干は三段になって、大理石の
彫刻である。御殿に登る階段は三つあって
中央は皇帝、両側は臣下の昇降することに
なって居る。実に堂々たるもので日本から
行って見ると、雄大荘厳に全く驚かざるを得ない。
その裏の中和殿が皇后の玉座で、
規模は稍々小さいけれども、
皇帝のものと殆ど大差が無い。
□
それから元宮中の御庭になって居たのが、
今は公開されて中央公園と言はれて居る。
其処に社稜壇と云ふ古い建物がある。
此処で今年私共は展覧会を開かうと思ふて居る。
それから萬壽山は実に立派なものである。
もと此処に明の離宮があって、
それを延命閣と云ったが、
英仏軍が北京占領の時分に焼いて了った。
今は焼趾が残って居る。
此時分捕った翡翠が、今日英国の博物館
に収められてあって、
それが世界第一の翡翠で非常な珍品であると云ふ。
その少し西に当って現在の離宮がある。
それは実に立派な大建築で、昆明湖
と云ふ湖があり、一方は山になっていて、
楼閣廻廊があり、高い処に仏閣があり、
それから大理石で造った舟の彫刻、
中島に渡る大理石の橋などあって、
其の欄干のぎぼしの上に獅子が彫ってあって、
一々形の変わったものである。
そして宮殿の黄瓦、丹碧の文彩燦として
今の碧湖の水と相映照し、遥かに龍王廟
の楼閣、玉帯の長橋、湖心に浮びて輪奐
の美を極め、話に聞いている秦の始皇の
阿呆宮といふものは、之れの少し大規模の
ものだらうと云ふやうな感が起こった。
建築、彫刻、風景、何れも畫題に上すべき
結構優美なものである。
そこから遠くを眺めると北京宮城内の景山、
北海等が一望のうちにあり、その北海には
島があり、橋があり、廻廊がありて、
中に楼閣があり、処々に伽藍があり、
其の伽藍は丁度仇英の繪に見るやうな大建築で、
五個の亭がある。
仇英が美人が蓮池に舟遊びなどして居るのを
描いたのは、此処が多く畫題になったものであらう。
景山は萬壽山の丁度東に当って居る。
その地は元が初めて都を北京に置いた時、
若し北京が敵の包囲を受けた時には、
燃料に差閊へるやうな事があってはならぬ
と云ふので、石炭を積んで山となし、
其処に木を植えて、五個の阿屋を建てた
其処を北海の上から見るのは、実に善い畫題である。
明の末路を考へると、明の十三代の
崇烈帝が敵将の李自成に攻立てられ、
今や内城も危く見えたので、
百官を召したが皆駭いて応ずるものは無かった。
そこで策の施すべからざるを悟って、
皇太子を遁れしめ、皇妃を自殺せしめ、
宮姫数名を切って、最後に帝は景山へ登って
此の形成を見、最早や是れ迄なりと覚悟を定めて
遺勅を認め、景山の亭に於て縊死を遂げた
のであるので、私は北海を望み見た時、
徐ろに明の末路を思ふて、感慨無量であった。
尚ほ此処にある天壇と云ふのは、
天皇が民の疾苦を救ひ、五穀豊穣の
祈りをした処である。又雍和宮と云ふのは、
元と蒙古及び西蔵の僧侶の為めに、
離宮として提供した処である
何れも建築は立派なもので、
一として畫題にならぬものはない。
併しその幾部分は、壁落ち雨漏り、
殆んど荒廃に帰しているのは、
美術の為め誠に惜むべきである、
□
それから孔子の廟へ参拝した。
其処に石皷と云ふものがある、
それは隋の時代のもので、
三千年前の文字
が三百字許り残って居る。
威厳のある実に立派な文字で、
China文字の歴史的珍品と云はれて居る。
その他皷樓、白雲観、玉泉山、西山、
碧雲寺等も見るべきものである。
その碧雲寺にある佛像は明の初代頃の名作
と云はれ、実に生けるが如き威厳を具へて居る。
文殊、普賢の像の如きは、其技神に入り、
餘りに物凄い感じがして、到底一人で
寺内に入って行っては、長く見るに
忍びざる程の名彫刻である。
その外、畫佛寺へも詣でた。
尚ほ北京滞在中には、
北京第一の蔵幅家である、
顔世清氏
を訪問して、非常な名画を拝見した。
その時氏は一度には見せ切れぬから、
一週間に一度づゝ見に来て呉れ
と云はれた程で、その豊富な蔵品には、
驚かざるを得なかった。
それから今のChinaの畫家には、
北京其他に技量の優れた畫家が澤山あるから、
私共は今秋を期し、
Chinaの畫家と日本の畫家との
聯合の展覧会を、
北京の中央公園に於て開会したいと思って居る。
それは相互の研究ともなり東洋美術の為め
実に有益な催しであらうと思ふ。
先づ第一回は他から助力を借りることも、
一寸困難かも知れないから、
殆んど自費を以て畫家に出品を願って
第一回を開会し、
それより年に一度宛是非続けたい考である。
第一回が好結果を奏すれば、
Chinaの有力家及び日本側の有力家よりも
援助を受ける事は容易くなるから
次回からは安々と補助金を仰いで、
開催される事になるであらう。
その為め今秋七八月の交には、
夫等の準備旁々、再び北京に向かって
出立する積りである。(談)
〖美術の寶庫China
==附日支聯合美術展覧会の事==
渡辺晨畝〗
転載完了
==============================
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大正8年(1919)5月発行
雑誌“美術之日本”**
**
『美術上日支連合の気運』
渡辺晨畝
△
【前回に少しく述べた通り、
今秋の九月十月の交を卜し、
北京に於て開かんとする
日支連合美術展覧会
は、東洋画の真髄研究の為めに、
日支畫家が協同して
第一回の展覧会
を開かうとするのである。
それに出品するChinaの畫家は、
同国衆議院議員にして現在China南画の
大家たる金紹城氏、
女子師範学校教授包公超氏、
清朝の宮中に居った姜氏
を初めとして、外幾多の名家がある。
そしてChina側の顧問としては、
前大臣周自斎氏、
外交部顧問顔世清氏、
前大臣王古敏氏、
China銀行総裁陳漢第氏、
陸軍中将曲同豊氏、
同 馬良氏
その他の名士であって盡力する。
又日本の画家で既に賛成して出品する
人々は山田敬中、
読画(会)荒木十畝、池上秀畝、広瀬東畝、倉石松圃(畝)、
荒井寛方、川(河)合英忠、勝田蕉琴、野田九浦、
町田曲江、荻生天泉、鳥谷幡山の諸氏、
それに私などで、
尚ほ鳥谷氏と私とが幹事として
外知名の畫家数十名専ら経営の任に当たって居る。
△
それから前回の補遺として尚ほ少しく
China美術のこと述べて見んに、
東洋画の一番盛んなのは、Chinaでも
矢張り佛教傳来以後のことで、
唐宗(宋)の時代就中宗の時代を以て、
最も進歩発達し而かも異彩を放った時代
と云ふべきであるが、
その以後に至っては、明時代にあれ程に
奨励保護したけれども、迚も宗代には
遥かに及ばぬものがあった。
実に東洋画の本統の真髄を現はしたものは、
宗の時代であると謂へる。
それから元の成吉汗が西洋を征伏した時に、
遉にあれ丈の大英雄であったから、
見識もあったと見えて、
西洋の文学美術は亡さなかった。
却って北京城に西洋の学者、大美術家を
多く連れて来て、研究させたやうな有様であって、
当時西洋画と東洋画と技倆を比較して見て、
西洋画家が東洋畫家に敬服して、
却って東洋画を研究して帰った人も多くあった。
尚ほ元の時代に於て丁度今日の日本の
印衆象の研究して居るやうな誠(試?)みを
Chinaでもやったことがあった。
△
尚は清朝に至って、乾隆帝の時に
イタリ―の西洋画の名人が、
北京の宮中に於て優遇せられて、
油絵を描いて使はれて居たが、
Chinaの名画を見て居るうちに、
自然とその畫に驚くべき技量の
あることを感得して、
油絵を擲って東洋画を研究し、
尚ほ畫名を郎世寧とChina風に
名前を附けて、
遂に東洋畫の専門家となり、
却々の名人となった。
其人の描いた繪を文華殿でも見た。
尚ほ彼方で名士を訪問した時には
それを見たが実に立派な東洋畫であった。
その画家の描いた絵は日本の京都の
博物館にも保存されてあると云うことである。
西洋画の大家と雖とも、東洋画の意味深き
趣味に敬服して、それを研究したと云ふことは、
東洋画の全く世界の美術と云ふことを
認められることは明である。
△
文華殿で宗時代の●聖子の鐘馗と
鬼との絵巻物や
顔世清 氏
の邸で同人筆蛮王拝佛の
畫巻を観たが、その文華殿のものは
極彩色の密画であって、蛮王拝佛の方は
墨絵でこれはChinaにも殆んど稀な寶物だ
さうであるが、
その鐘馗と鬼との畫巻の鐘馗が馬に乗り、
その後を美人が車に乗って居てその鬼が
その車に綱を附けて引張る處の姿勢や、
後押する姿又車の下より車を押す態度、
又その鬼が数十も描かれてあって、
その変態或は働き具合、綱を引くのに
力が入り過ぎてトンボ返りをした様子から、
その身体の働き方が実に言葉にも盡せない程の
名画であった。
それから又蛮王拝佛の図は
釈迦に浪と岡があって、浪の上に雲が現はれて、
その雲の上に蓮華座があってその上に
釈迦が泰然と座禅をして居り、それを蛮王即ち
希臘、西蔵、蒙古、印度、China、韃靼、土耳古邊の
王が拝して居るのである。その面貌、骨格、
服装等実に細密の墨絵であって、
一々各国の人種、表情、人物の変態等実に
驚くべき技量で、神品と云ふものは斯る名画の
ことを云ふのであらうと思った
『●は“龍”と云う字の下に“共”が付いた一文字』
△
尚ほ前回述べることを洩らしたが、
労山と青島の間に浮山と云ふ山がある。
これは堀内将軍が青島を陥れるのに、
此の山に敵が砲台を築いて居って、
殊に北方の軍隊は馬を連れて居ったので、
青島へはどうしても進めない。
そこで決死隊を編成して、
佐藤少佐以下がこの山で
名誉の戦死を遂けたのであるが、
今私は一人でこの山に登って、
その戦跡を吊ひ、我が同胞の戦死した場所を
見た時には、日本の忠勇なる軍人が
此処で斃れたかと思ふて、無量の態慨に堪へず、
野菊の花を手向けて聊かその霊を慰めた。
この山は東方に海を眺め却々景色の佳い山である。
青島の砲台も元はエルチス、ビスマークら
云ふのであって日本で占領してからは、
朝日砲台、その他の名称に変わって居るが、
それを見た時に、独逸で経営した規模の
完全なことは砲台の山の中は皆地下室があって、
その地下室から又他の砲台に通ずる「トンネル」が
出来て居って、
又大砲のある処へは地下室を大砲の砲庫から、
電気のエレベータで、砲弾がグングン揚がる
ことになって、それを直ぐ大砲に詰めて
打つことになって居る。
二十三珊砲からその他の砲が
沢山据え付けられてあったのを見ると、
実に独逸が軍事に於いては世界中で
最も長じて居ることを感じた。
又独逸が東洋に根拠を設けて世界を征伏
せんとする野心のあったことも考へ得られた。
併しそれに恐れて居たが、八達嶺の
万里長城に行った時に秦の始皇の築いた
ものだと云ふことだが、実に蜿蜒として
山から山に続き、
蒙古との堺に築いた処の長城は練瓦と石とで
造られ実に大規模のものである。
独逸の砲台に恐れて居たが独逸に設けて
あったやうな中から、上に登る階段が造られ、
要所要所の櫓には烽火を揚げて敵の来襲を
知らしたのである
その信号に依って居庸館へ直ぐ通ずる
ことになって、それから南口で又烽火で
知らせることゝして、その信号を知ると
直ぐ北京城にその信号が届いて、
防備の手配をすることになっている。
軍備の跡のことを見ると二千年前の品が、
今の独逸の砲台にやって居るやうなことは、
頂上に施してある。
それから元が造った北京城は厚さ六丈五尺、
高さ五丈五尺 元の堅固不抜のChina文明は、
世界文明の魁をなしたと云ふことが歴然として居る。
美術に於てもその通りで、世界の美術であって、
東洋畫と云ふよりも寧ろ世界の美術である。
それが今日では少し以前の趣が衰へて
居るのは、実に歎ずべきことである。
それに就いても日本とChinaとが聯合して、
東洋畫宗時代のやうな名画の現はれんことを、
希望して止まない次第である。
斯くして雙方で研究して行けば
東洋画の真髄は此所であると云ふ
帰着点を歴然と感得せられるであらうと信ずる。
△
大湖石と云ふのは能く畫題に描く
最も貴い石であるが、之れはChinaでも
餘程貴いと見えて、
孔子の詩禮堂の前に一個、
それから顔子の廟の前に一個、
それから済南で鎮守府の指令官の官邸
(明時代の建築)に於て一個を見た。
それから北京の宮城内に七八個もあり、
萬壽山では五六個を見たが、
却々形の変化があって、何となく品位の
あるやうな美しい石であった。
Chinaの紳士の応接室には、
玉とか、青磁とか、堆朱とか、印材とか、
彫刻物とかの非常に立派なものを
机の上に飾って居って、何萬と云ふものが
並べられてある。
それがズット偉い人になると、
応接室を五ツも六ツも通されるが、
一々そう云ふ飾り付があって実に
驚くべきものである。
そう云ふ美術品がなければ、
紳士として貴ばれないと云ふ
古代からの風がある。
それ位に美術品を貴ぶから、
名ある美術品は容易なことでは
手離さない風習である。
△
それからChinaの芝居、男優も女優も見たが、
多くは水滸伝とか三国史とか云ふような
戦争ものを演じて、
日本のやうな悲劇と云ふものがない。
その衣装は実に金、銀、寶玉目を驚かす程の
燦爛たる立派なものである。
その芝居には歌を多く入れてあって、
その声が瑯々として実に美しい声で、
大変快感を与へるけれども、
残念乍らChina語が分からぬから、
聞き分けることが出来なかった。
併し美術としては立派な価格があるものと思った。
そして日本のやうな幕間と云ふやうな
切り々がなく、引込んでは出で、
引込んでは出でして繰返して居る。
それを四時頃から夜十時頃迄見て居ても
退屈することがないが、只胡弓や蛇皮線
或は木を叩くものや、さう云ふやうな囃しが
引きも切らず囃し立てるので、
日本のやうな悠長なる芝居を見て居た頭では、
一寸騒々しく感じた。(談)
これにて渡辺晨畝画伯の
”美術上日支聯合の気運”と題する
文章の転載完了
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▲大正8年(1919)6月15日
美術雑誌“美術之日本”
〖日支連合絵画展覧会 渡辺晨畝〗
【在北京三菱支店長秋山禧氏、
坂西陸軍少将閣下、岡村副官、
其他の名士の高配に依り、
China大官
顔世清、
周自齊、
金紹城、
其他の諸氏に協議をして呉れられた結果、
日支連合絵画展覧会
を北京の中央公園又は官中の傳心殿に於いて
今秋十月一日より開会することに決定した。
China畫家も既に出品の用意に取りかゝられた筈である。
日本画家にては
読画会
の社中
荒木十畝、
池上秀畝、
広瀬東畝、
倉石松畝、
其他の諸氏、それから荒井寛方、河合英忠、
野田九甫、勝田焦琴、飛田周山、町田曲江、
田中頼章、山内多門、荻生天泉、鳥谷幡山、
其他の諸氏、それに私なぞが出品することに決定した。
之れは東洋美術の真髄を研究するには
実に有益なる展覧会であらうと思ふ。
東洋画の本家、数千年来研究を続け
世界に語るべき名画を現して来た所の
China の畫と、其の風を学んだ所の日本畫、
又千年来の研究に依り日本独特の妙技が
現はれて今日では又世界に認めらるゝ所の
日本畫とを、四百餘州の首都北京に於て
一堂に並べ、展覧会を開くと云ふことは、
歴史あって以来無いことで、
実に名誉なる展覧会であることを喜ぶ。
斯くして日支連合して年々研究を続け、
之を又日本の上野公園に於ても開くこと
にしたいと思ふ。
殊に今回の北京の展覧会が好果を奏すれば、
China及び日本の政府からも相当の保護を
与えられるものと信ずるから、
日本の諸画伯は此の際奮って各畫を
出品せられんことを切に希望する。
□
尚ほ此の展覧会には参考品として
Chinaの唐代頃からの名画を出品して
貰って拝見もし、又此の展覧会を
日本に於て開くときにも矢張り
China の國寶とも云ふべき名画を
出品して貰って陳列する積りである。
既に昨年北京第一の蔵幅家
顔世清、
金紹城、
王克敏
の諸氏が目下美術思想の盛なる
日本にChinaの古畫の展覧会を開いて
日本の人々に見せたいと言って居られた
こともある程だから、
日本で展覧会を開く場合には
是非Chinaの名画を日本へ運んで出品して貰って、
我々畫家の参考に供したい精神である。
右の如く日支連合の絵画展覧会を
開くやうな気運に向ったのは、
美術上にてChinaの諸名家画家と交際を為し、
打ち解けて快談したり、
又名画を拝見する度に其妙技に敬服したから
日本の画家とChinaの畫家連合して
研究をしようと云ふ、
美術に貢献の精神に固るのだけれども、
之れに就ては特に私のChina遊歴に就て
非常の恩顧を蒙りたる
陸軍中将長岡閣下、同堀内閣下、同森川閣下、
山口子爵、原口博士、藤崎保線課長、陸軍大将本郷閣下、
同少将森岡閣下、鈴木大佐、高田大佐、
山東鉄道課長中村氏、同保線所長市江●氏、
陸軍少将坂西閣下、三菱支店長秋山氏、三井の大村氏、
吉富氏、華勝公司の白井忠三氏、林氏、
其他の人々の御配慮の賜と感謝せざるを得ない
故に此の展覧会を永遠に続けて
東洋美術の妙技を極め、
宋時代の如き名画神品を世界に輝かし、
以て幾分にても右の御恩に報じたいと思ふ。(談)】
“日支聯合繪畫展覧會”転載 了
〖御参考〗
▲昭和6年(1931)4月18日 読売新聞
陸軍少将坂西氏の記事
==============================
==============================大正12年3月20日発行 美術之日本
**
**
大正12年3月20日発行 美術之日本
China公使館に於ける古名書画展観追記
渡辺晨畝
□
旧冬十一月の末、北京
顔世清氏
より一封の書留郵便が到着した。其の文面には『昨年春の
日華連合展覧会
に渡東する考であったが、時恰かも奉直の戦雲急なるの場合に遭遇し、
遺憾乍ら東京に参って諸公に拝顔するの栄を得なかったのが残念であった。
此度少しく暇が出来たので約一ヶ月の滞在の見込みを以て
観光旁々東京に参り、前年より約束を致して置きたる
自分の所蔵の古名書画百三十点を携へ行き東京に於て
展覧会を開き、日本博雅の君子の清鍳に供したいと思ふから、
其の準備旁々盡力して呉れ』と云ふ意味を記してあった。
其の国宝とも謂ふべき名画を多数携へ来ると聞いて、
所謂大陸人物の態度が見えて先づなつかしく思ふた。
其時自分は少しく不快で休すんで居ったけれども、
氏は前年より親密なる交際を続け、且つ
日華連合展覧会
の為めには非常の努力をして呉れたる
発起人
のことなれば、之れは責任を以て盡力しなければならぬと決心し、
はね起きて外務省に行って顔氏の知人を訪問し、
何か同氏より通信あらざるかと聞きたるに、
何もなしと云ふことであった。
其他実業家方面にも顔氏の知人があるので問ひ合はして見たが、
此処にも通信がなかった。
そんな訳で有力なる相談相手も得られず非常に心配して、
展覧会を開く会場ぐらいは準備をして置かなければ
顔 氏
に対して徳義も責任もないことゝならうと思ひ、それより河合、
荒木(十畝)、
小室、小堀氏等に相談して日本美術協会の会場でも
借りて置く方が宜しからんと相談して
顔氏の来るを待つて居たところ、
十二月五日頃顔氏はChina公館に到着し、
速達郵便を以て自分に着京を知らせたから、
忽惶として公使館に到り、久し振りにて
北京の親友と握手をした時、北京にての想出多く、感慨無量であった。
□
そこで展覧会を開くにはChinaの国宝とも云ふべき
名品のみなれば展覧会場、及び取締り保管等に大責任あり、
甚だ心配の旨を申述べたところ、
China公使 廖 氏
は之れに同情して寧ろChina公使館に於て展観し
日本の公衆の鑑賞を乞ふ方が宜しからうとの申出によりて
相談纏まり、
十二月十七日より二十三日迄China公使館内に陳列して
諸公の清鍳を仰いだのである。
其の展観品は唐宋元明清迄の名品揃ひなれば、
観覧せられし名士君子も非常に満足せられ、
画伯諸氏の参考となったことも少なくなかったであらうし、
又日支国交上にも大に好影響を与へ、又此の挙を御聞き遊ばされて
久邇宮殿下
も台臨を賜はり、御賞鍳の後
顔世清氏に
『邦彦王』
と御真筆を賜はり、
顔氏は感泣して自筆の書と畫とを献納したところ、
久邇宮殿下
より特別の思召を以て銀盃を下賜せられた。
顔は光栄に浴して感喜したるのみならず、
日本の宮殿下の御高志のほどは
China国民に大に喜ばしい感情を懐かしめることゝ思ふ。
次で顔氏が自分の寶物を自費を以て日本に携帯し、
自費を以て日本公衆の展観に供したるの挙は
東洋美術研究の上に於て貢献する所少なからざるべし
との趣旨を以て外務大臣、渋沢子爵、岩崎男、後藤市長の
招待あり又朝野名士の連合歓迎会あり、
大観、観山、玉堂、鞆音、十畝、翠雲氏等
発起の画伯団の盛んなる歓迎会もあり、
顔氏の厚意に報ふるに至れり盡せりと謂ふべく、
同氏も非常に喜び、大に満足して一月十六日帰国の途に着かれた。
又此の展覧会中
廖公使は日本の画伯玉堂、大観、観山、鞆音、霊華、映丘、十畝、
翠雲及び自分をChina公使館に招待して公使が國より
伴ひ来れる料理人に自慢のChina料理を作らせ
乾隆時代の器に盛り、叮重なる酒肴を備へて
長夜の宴を張られ、快談夜を更かし、其の酒宴中、公使は美術は国境がない、
日本の芸術家とChinaの芸術家と提携して
年々研究会を東京、北京に開会して
東洋美術の声価を世界に発表する
と云ふ計画は非常に東洋美術の為め、
両国交誼の為め衷心より賛成する所である』
と挨拶あった。
美術が斯の如くして国民と国民との親密なる交際を
結ぶやうになった事は
同種同文の同胞の将来の為め大に慶賀すべきことゝ信ずる。
□
此の携帯せられたる多数名画の幾部分を写真に撮って
日本に残し度とは鑑賞家及び画伯等の頻りに
希望する所であって自分も之を実行したいと思ひ
盡力して居るうちに二三の方面から撮影を申込んだ
人々もあったけれども悉く之を拒絶し、
前に審美書院と黙契せし所あった為め、
義理を重んじ独り審美書院に於てのみ
唐宋元明名品七巻だけを実物大に撮影したれば
早晩審美書院の手に依りて、此の名画の複本を
頒たるゝことゝ思ふ。
之れは美術界の参考資料として実に有力なるもの
と信ずる、
之れに就て審美書院の窪田主幹が非常に熱心に盡力せられ、
犠牲を払うて之を撮影せられたことは、
美術界の為めに大に感謝すべきと共に又
審美書院の権威であり名誉であると云っても宜しからうと思ふ。
其の畫巻は左の七種である。
一、 五代董源設色渓山図巻
之れは元の柯敬仲、明の董玄宰、清の端陶齋の収蔵の
経歴ある名品であって、高雅重厚の筆致を以て幽澗、
屈曲、景山の景趣変化に富み、江山奇峭無盡惓むことを知らず、
我国にて未だ甞って見ざる所の神品である。
二、 宋李龍眠蕃王禮佛図巻
其の経歴は宋の宣和書譜、紹興内府の収録、
元、明、清の石渠寳笈に入りたるものである。
海波渦巻く處に一朶の白雲現出し、光明を放つ佛端然として
蓮座に在り、丘陵に各国の蕃王あり、跪座して手を合はす者あり、
後方十数人の異種国王佛を拝する図であって、
崇厳なる白描の細筆を以てしたる仏陀の大慈悲心の尊容実に気高く、
各国異人種の相貌の変化、心理の表情、服装、模様の相異、
渦巻く海波の変現等実に神品と云ふべく、精妙と云ふ外ない。
墨絵白描にして此の神妙の風情を現示するは実に敬服の至りで、
幾多の絵具顔料を用いるも到底斯の如く精巧なることを得まいと思はれる。
東洋畫の真髄は実に茲に在りと謂はざるを得ない名品である。
三、宋女冠素然水墨明妃出塞図巻
之れは世界一品の孤本で、二品なき珍品である。
其の経歴は曾て梁の蕉林景剣泉の収蔵にかゝり、
元人陸勉強天錫の題詩がある。
之れは四百餘州は愚か全世界に此の一品より外遺品なし
と云ふ珍品であって、
王紹君が蒙古外夷に漢の安全を祈るが為めの
結婚政略の犠牲となりて夷國に騎行するの光景を
水墨白描を以て描いたもので、
護衛の騎兵等に擁護せられ、朔風雪を吹き、
寒気玉肌をとほすの有様、其の心中の感慨に
堪えざるの表情、侍女の琵琶を抱いて従ふの有様、
護衛兵の面貌肢體の変化、馬のあしがき等悉く変化活動し、
小馬と犬を配置したるの働らき、補景に片隈を以て雪景を
現はしたる如き、繊維、精巧、絶妙と言はうか、精妙と言はうか。
而かも一點の色を用いず墨のみを以て此の表情の気分、
其の活動の状態を現はしたるは敬服の外なく、
東洋画の真理は墨と筆に在りと賞賛するも過言でないと信ずる。
婦人にして此の神品を描くは尋常の者ではなからう、
何物にか徹底したる信仰ありしものならんと察したるに、
果たせるかな後世を棄てて尼となりし人であったと云ふ。
四、元王蒙設色秋林書屋図巻叔明至精作
王摩詰董源を歸宗として一家を成す
此の秋林書屋は独特の皺法宕縦にして秀潤、峰巒、江邊、紆余曲折、
天真古淡、実に神品である。黄鶴山樵の名を聞けども、
斯の如き名品に接したる我等は幸福と謂はねばならぬ。
五、元銭選(舜挙)設色秋華図巻
明宣徳鍳賞各璽あり
草花数種と蝶と蜻蛉とを畫きたる繊巧精妙の写生画にして、
蝶と蜻蛉との羽の繊維、色彩等実物と毫も異るなく、
其の着色の繊麗、筆致の妙、日本では未だ見ざりし名画である。
応挙が非常に発奮し、絶倫の精力を以て写生に盡し、
遂に一派を成して日本の応挙と謂はるゝの栄誉を
世界に輝やかしたるは、此の銭選に私淑したからである。
六、明文徴明寒原宿莽図巻
至精品
古木寒林の描写、筆致縦横、風趣淡然、実に逸品である。
七、明董其昌設色仿黄公望山水巻
第一出色の作
之れは皺法、樹法の変化、風趣高尚、淡彩秀麗、亦妙品と謂ふべき珍中の珍品である。
此等の古名品を審美書院より出版することになったことは、鍳賞家、
芸術家の参考資料として貢献する所少なからざるものと信ずる。】
つづく
〖 最新記事 〗2011・11・1~
<参考文献>
◎国立公文書館 アジア歴史資料センター
◎各新聞記事
(黄色のマーカーはAuthorが塗りました。)
【 校勘作業 】
≪ 矛盾 ; ① と ② ≫
① 大正11年(1922)国立公文書館アジア歴史資料館
大正十一年五月開催 日華連合絵画展覧会報告(外務省用紙)
レファレンスコード;B05016015300**
**
【 4月25日、金紹城、陳衡恪、呉煕曾三氏は午前中、旅館に於て休養、午後は小室翠雲氏の案内にて中六番町の私邸に招し、小室翠雲氏所蔵の古書画を観覧に供す、北京発の荷物一個未着、渡邊氏より鉄道院に照会す。】
【 4月29日、此日豫て捜索中なりし金氏一行の荷物東京駅より発見され、上海側の出品も外務省より、渡邊氏方に送付されたれは直ちに会場内にて整理し、日本側出品も整理に着手す】
② 大正11年(1922) 5月2日 大阪毎日新聞**
大正11年5月2日
大阪毎日新聞
日華聯合展覧會へ送った
大トランクが紛失した
名僧の墨蹟や参考品がChinaを
出たきり東京に着かぬ 〗
【 二日から東京府商工奨励館で開会さるゝ
日華連合展覧会に北京から東京駅止で
郵送した大トランクが一箇月餘りにもなるのに
一日夜になってもまだ届かない
該トランクには近代の名僧石涛、石渓
両僧の墨蹟を始め三十餘點(五六万圓だといふ)
の参考品が入っているので
当事者は心配しているが全く行方不明だ
展覧会事務所では今も東京駅へ談判に
行ったところですが判りません
大トランクと同時に上海から送った他の荷物は
【 四月廿四日(四月二十四日) 】に着いたのにモット貴重なトランクが
着かないので心配に堪へません
東京駅では木村助役の調べによると
下関に荷揚して京都迄は確実であったが
其後は全く判らんと云ふ返事で
此間の新聞に湘南の海に大トランクが
漂うてあったが或は?と問合せて見たが
間違って居りましたと語った(東京電話) 】
< 第3の資料 >
▲大正11年5月20日発行 “美術之日本”
**
**
▲大正11年5月20日発行“美術之日本”
〖 最近の諸展覧会 一記者 日華聯合絵畫展覧會 〗
【 東京府庁内の商工奨励館にて五月一日より十五日まで、
日華聯合絵畫展覧會が開かれた。
此の展覧會については、世間でも大ぶん期待していたやうであるし、
当事者は非常な意気込みで奔走されたのであって、
日支親善といふ上から観ても実に宜しきを得た催しであった。
事の始めは
渡辺晨畝君
が曩に渡支された折、彼の地で中華日本聯合の芸術展覧会開催のことを、
彼の地で有名なる
金紹城
その他の画家と議って、
それが昨年十一月に、
北京及び天津で実現された結果、
日本でも開かうといふことになって、春来それぞれに盡力中であって
去月中旬には前記
金紹城
外数名のChina画伯が来朝され、いよいよ今度の開会を見るに到ったのである。
当事者も非常な抱負を有って居り、実際、世の中に可なり大きい反響が
あらうと思ったのに、案外、会場は淋しかった。
縦覧御随意といふのになかなか人が集まらぬらしい。
場所がちょっと馴染まれないせいかも知れぬ。
一方、築地の商品陳列館での佛国現代美術は
ロダン
が呼びものになって毎日混雑しているのと比べて、
今の思潮の何物かを語っているのではあるまいか。
さて陳列品について見る。
専門の批評家などは、現代のChina画の堕落を説いて、
頭からつまらぬものと定めているらしいが、これはあまりに偏見過ぎる。
大きい景を割合に小さい画面に収めたものが多く、空疎の感がなくていゝ。
次に見たまゝの感じを記さう。
但し、此の會の出品は、売約になると直ぐはづしてしまふ。
そうしてそのあとへは又別の絵を、China人自身が持出してズンズン掛けて置く、
と云った調子で、殆んど毎日一部分づゝの陳列が変わって居る。
だから見ないものに面白いのもあらうが、
私は招待日と六日目とに見た處によって書くのである。
現代のChina画家の作品の方から順に所感を記すと、
中略
どうも日本の側では幾分真摯を欠いてるやうで、
折角の発起人たちの熱心に背くの観があった。
古畫には大ぶん面白いものがあった。
明冀賢の山水畫冊、
呉小仙山水畫巻、
謝時臣の山水、
石涛和尚の双幅雲山
などは特に名品として見るべきもので殊に郎世寧の花鳥軸は
最も珍とすべきものであった。(完) 】
◆「 四月廿四日(二十四日) 」
[一行北京出発の報来るや、本会よりは渡辺晨畝氏代表として下の関に出迎え、途中大阪に立ち寄り、・・・・三画家(金紹城、陳衡恪、呉熈曾)を招待し歓迎会を開き、翌日休養し市内見物、夫れより直ちに東上、二十四日午前八時二十分東京駅に無事到着したり。]**
**
**
◇「 二十五日 」
【 四月二十五日、金紹城、陳衡恪、呉煕曾三氏は午前中、旅館に於て休養、午後は小室翠雲氏の案内にて中六番町の私邸に招し、小室翠雲氏所蔵の古書画を観覧に供す、北京発の荷物一個未着、渡邊氏より鉄道院に照会す。】
◇「 二十六日から二十九日まで 」
【 四月二十九日、此日豫て捜索中なりし金氏一行の荷物東京駅より発見され、・・・】**
◆ 「 明 石涛和尚 山水小軸 」
「 5月2日,展覧会第一日、招待日として・・・」**
◆[ 5月3日、展覧会公開第1日、・・・・」
「 5月4日、金氏一行午前は上海側の出品整理を為し、参考古画の陳列を了す 」
************************************************
◆大正十一年五月開催
〖 日華連合絵画展覧会報告 〗**
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つづく仮に”日華連合絵画展覧会由来書グループ”と題させていただきました。
< 論点 >
日華連合絵画展覧会の第1回展は、大正何年なのか?
【日華連合絵画展覧会由来書 グループⅠ】
▲大正10年10月1日
国立公文書館アジア歴史資料センター(レファレンスコードB05016015100)**
**
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▲大正15年5月13日 大阪毎日新聞
国立公文書館アジア歴史資料センター(レファレンスコードB05016016000)
▲大正15年5月29日
国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードB05016016000
「右展覧会は最初は個人の企画に過ぎず候得共第三回には多少当省より補助を与え以上の如き成績を収めたるに付本年は本邦に於て開催の順と相成居候間当省よりは更に補助其他充分援助を以て前回以上の成果を得せしめたき意向に之有 云云」**
*
【日華連合絵画展覧会由来書 グループⅡ】
◎国立公文書館アジア歴史資料センター
(A資料)*
(B資料)
(C資料)◎大正11年5月6日 東京朝日新聞**
(A資料)は「日支両国画家有志の発起にて曩に大正十年北京に於て第一回日華連合絵画展覧会を開催し・・・・・」とあります。ただ第一回と書かれた部分に訂正した線が引かれています。
(B資料)は「日支両国民親善の目的を以て大正十年以来毎年(但昨年は震災の為め中止)China又は本邦に於て日華連合絵画展覧会を開催し・・・・」とあります。「大正十年」を展覧会開催起算年として「 第 1 回 」と確定しても宜しいのでしょうか?
(C資料)
▲大正11年5月6日 東京朝日新聞
【本文】
【 第一回 日華連合絵画展覧会
China畫壇の現状は吾々一般には全く知れていないので
それがわかる丈でもこの展覧会は有難いと思って
大に期待して出懸けたが、云々 】
此の新聞記事によると「 第一回 日華連合絵画展覧会 」を開催した年は大正11年(1922)としています。
大正10年(1921)ではありません。
第一回 日華連合絵画展覧会を開催した年月日はいつなのか?
決定的な第3の資料が発見されればよいのですが。
◎国立公文書館アジア歴史資料センターの(A資料)レファレンスコード B05016088600 ・(B資料)レファレンスコード B05016015900
・C資料 大正11年5月6日 東京朝日新聞
【日華連合絵画展覧会由来書 グループⅢ】
▲大正15(1926)年7月7日 大阪朝日新聞
**
大正15(1926)年7月7日 大阪朝日新聞
〖けふから開く
日華絵画聯合展
大阪では初めて〗
【外務省の肝入りで日支親善のために催された
日華絵画聯合展覧會
は七日(招待日)から十一日まで
中之島中央公会堂で開くことになった、
この展覧会は今度が
四回目
であるけれども
大阪としては最初で、
出品三百八十餘點の多数に及び、
中華民国現代大家を網羅している、
外に
黎元洪、
徐世昌 両氏や
名優梅蘭芳氏の畫
宣統廃帝の書
もある、
日本側からは
横山大観、竹内栖鳳、小室翠雲、矢野竹橋、
榊原紫峰氏等の作約九十點を出品し
頗る壮観である(観覧随意)】
▲昭和4年9月18日 東京朝日新聞
昭和4年9月18日 東京朝日新聞
〖上海で日支絵画展〗
〚大連特派員十七日〛
【日支両国画家の大家等が提携組織せる
日華連合絵画展覧会
は東方文化の発揚と両民族親善に資するため
外務省文化事業部助成の下に十一月一日より向う二週間上海において
第五回
展覧会を開催することとなったが上海における会期終了後は
満鐡の後援の下に十一月下旬から十日間大連で展覧会開催に決定した】
「おわり」に際して
前掲、大正12年3月20日発行の“美術之日本”に
“China公使館に於ける
古名書画展観追記“
と題して読画会会員渡辺晨畝画伯が
日中美術交流の模様を書いておられます。
【 又此の展覧会中 廖公使は日本の画伯玉堂、
大観、観山、鞆音、霊華、映丘、
十畝、翠雲及び自分を
China公使館に招待して
公使が國より伴ひ来れる料理人に
自慢のChina料理を作らせ乾隆時代の器に盛り、
叮重なる酒肴を備へて長夜の宴を張られ、
快談夜を更かし、其の酒宴中、
公使( 廖公使 )は「 美術は国境がない、
日本の芸術家とChinaの芸術家と提携して
年々研究会を東京、北京に開会して東洋美術の声価を
世界に発表すると云ふ計画は非常に東洋美術の為め、
両国交誼の為め衷心より賛成する所である 」と挨拶あった。】
とあります。
また、
十畝さん経営の“読画会”の古参の会員である
渡辺晨畝画伯に付いて美術全集・日本画大成
昭和篇(昭和8年東方書院発行)には
【 渡辺晨畝氏は、日本Chinaの親善は、
外交によるのみでは効果がない、
宜しく芸術を媒として相互の融和を図るべきである
と言ふ建前をもって、
China滞在中に自費をもって
Chinaの窮民、貧児、病者を救った経験から、
大正八年(1919) 日華連合展覧会を創設して、
東西画壇の有力者は勿論、外務省の後援を得て、
日支芸術の紹介と共に、両国間の意思の融和に努力して、
今日に及んでゐる。】と紹介しています。
China公使 廖氏と渡辺晨畝画伯のお二人の心遣いは、
共に“東洋”と“親善”にあります。
此の着眼点を歴史的遺産として、
後世は大切に守らなければならないと思います。
1921年(大正10)から1929年(昭和4)の間に5回、
日中連合の展覧会が開催されて居ました。
北京で開催された第1回展の次は東京で
“日華(中日)連合絵画展覧会展”を開く
と云う具合に交互に日本と中国の都市で開催されました。
この開催期間中には、概略ですが次のような大きな動きがありました。
国内では
1921・原敬首相が暗殺され
国外では
/ドイツではナチス党が結成されてます。
以後
(西暦年)
22・シベリア撤兵終わる/イタリア國ではムッソリーニ首相となる、
23・関東大震災/中国孫文、北伐を決定、
24・アメリカ國排日移民法成立/中国国民党全国大会(第一次国共合作)
25・治安維持法公布/中国5・30事件(排日運動)、
26・大正帝崩御/中国蒋介石北伐開始、
27・金融恐慌/中国蒋介石クーデター南京に国民政府成立、
28・張作霖大元帥爆殺/パリで15カ国の不戦条約、
29・世界恐慌の影響により糸価暴落/ニューヨーク株式大暴落し世界経済恐慌おこる。
政治的、軍事的、経済的大動乱期にあって、
日中の芸術愛好家たちは、もろもろの難局にありながらも、
純粋な創造行為である日華(中日)連合絵画展覧会
の交流を日中間で実現していたのです。
私共は、このような人間性に溢れた
日中交流史のあった事を発信したいと思ったのです。
私共は、新しいミューズである
“純粋な人間性”に奉仕する尊さを、
日華(中日)連合絵画展覧会史の
データベースを作りながら感じるのです。
純粋な人間性に奉仕する心が、
余りに一途な為に、
他者からはバランスを欠いた様に見えて、
誤解される一面もあります。
しかし、荒木十畝率いる読画会の皆さまは、
芸術を愛する人間性に信頼していました。
そして国際美術交流の“前衛”として
日華(中日)連合絵画展覧会に奉仕するのです。
戦局にある当時でした、
人間性の尊さの根拠の一つに絵筆の力がある事を
日華(中日)連合絵画展覧会が証明しています。
私共は、ここに後世のためのメッセージを読み取りたいのです。
弱肉強食の野獣性が横行する当時でした。
しかし、
荒木十畝画伯率いる読画会の皆さまは、
学問・芸術に奉仕する人間性の証として
“日華(中日)連合絵画展覧会”を実現されました。
読画会会員と中国側の芸術家の皆さまは、
“日華(中日)連合絵画展覧会”
の理念である”日中親善”という、
純粋な人間性に奉仕する心を歴史に刻印したのだと思います。
*Japanese Art Exhibition At Siam タイ(暹羅)日本美術展覧会 集成・日本画
タイ(暹羅)日本美術展覧会 集成>
断固抗議します!
私共のサイト上の写真をクリックすると、赤地の画面に次のような悪意のある文章が大文字で写し出されました。
【 これは報告されている安全でないWebサイトです
Blog―imgs―26,fc2,com
このページを閲覧しないことを推奨します
代わりにホームページに移動します
このWebサイトは個人情報や金融情報を盗み取る可能性のあるお使いのコンピューターへの脅威を含むWebサイトであると報告されました
▼詳細情報 】
以上
< 1月24日午前1時30分ごろ悪意ある文章の画面を発見しました。私共が公開しておりますカテゴリにある他の名前も確認しました。同様の悪現象が起こりました。
私共は退職後も社会参画したいと云う思いで
“日華連合絵画展覧会・暹羅日本美術展覧会、読画会”外のデータベース作りに邁進しています。
先考文献・研究の有無を調べ、ユニークでオリジナリティーのある作品を目指そうと今日までやってきました。
私共の企画段階で確認した事は、動乱の時代に戦争をしながらも、
同時に平和親善を理念に両国連合展覧会を開催したという事実。 人間は信じる事が出来るんだ!”
この事実を伝えたいという思いでスタートした企画です。
21世紀は平和に投資する時代です、21世紀は融和の歴史を求めています、
日中親善・日タイ国親善を理念にした絵画展覧会を実現した読画会に焦点を当ててきたのです。
そして売名行為や営業とは無関係の方針で進んでまいりました。
私共の願いはこれ等のテーマで資料集の追加・充実を次の世代に引き継いでいけたらと思っております。
今回の悪意ある文章の介入によって驚かれました皆様に対しまして、私共としまして誠に不本意な悪結果をもたらしたと、くやまれてなりません。
残念無念でなりません。
旧来通りの安定した情報公開の環境が戻るように願うばかりです。
どうか侵入しないでください。
お願いします。
ここに此の度の経緯を説明いたしました。
2012.1.24 3;26am シルバーネイル
<最新記事>2011・11・1~
◎国立公文書館アジア歴史資料センター
レファレンスコード B04012276100
◎国立公文書館アジア歴史資料センター
レファレンスコード B04012276200
<展示作品価格一覧(税関申告価格?)>**
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*図版目次
◎国立公文書館アジア歴史資料センター
レファレンスコード A10112716600
▲法学博士政尾藤吉叙勲の件 明治44年(1911)6月27日**
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▲国立公文書館アジア歴史資料センター レファレンスコードB04012276200
△日日新聞・昭和6年(1931)8月25日 シャム行美術展
〖 シャム行美術展 〗
【 既報 今年12月1日からシャムのバンコックに開催の
シャム日本美術展出○品画は荒木十畝画伯の主唱で
画各方面からの出品総数350点に達し
近く積出すこととなったので、
関係各方面に展観するため25日から29日まで
府美術館で公開する、
因みにバンコックの会場はサランロムヤ宮殿が充てられることに決定 】
▲国立公文書館アジア歴史資料センター レファレンスコードB04012276200
△時事新聞・昭和6年(1931)8月26日 シャム出品の美術展
〖 シャム出品の美術展 〗
【 今年の12月からシャムのバンコックに開催される
日本美術展に出品する総数350点を近く積出すことゝなり
25日から府美術館に於て公開した
<写真は見物のシャム公使と夫人、令嬢及び荒木十畝氏(和服の人)> 】
◆暹羅(タイ)日本美術展覧会

【 序
暹羅と我国との親交が慶長の昔山田長政や、
邦国交易の人に依て夙に疾く結ばれたる事は
歴史的に有名である。
同じ東洋人種としての親近は勿論、
自分としては曾て十有余年前、
暹羅國派遣の女子留学生四人を
数年親しく教育せし事、
又は同国へ吾が教育せし、教師の招聘せられし事等、
更に一層の親しみと懐しみを覚える。

< 御参考 >
昭和11年(1936)12月19日 東京朝日新聞
ラヤ夫人からの手紙
現にバンコック大学総長夫人カチャラ・バラタ・ラヤ女史(日本留学当時の名はジョン)
然るに近年絵画の世界的に交換せらるる機運昴まり我日本画も欧米諸国に
熾に歓迎せられ進出するに至ったが、
反って東洋に疎きは窃かに私の遺憾とする所であった。
この時親愛の情切なる暹羅国に於て
日本画展開催の歓びを得た事は
洵に盡きせぬ因縁と云はなければならぬ。
仰も我国の美術的回顧を辿る時
恰も暹羅國隣接の印度、波斯(ハシ・現在のイラン国)
等よりChinaを経て渡来した仏教美術は
我国美術の根本源流を基礎つけたのであった。
爾来我国民本来の面目特色を発現し
更に欧風の芸術を摂取消化して
終に現日本画を完成するに至った。
今や我国歴史を通じて美術の最盛時である。
今日欧米諸国が競て日本画を招かんとする事は
世界総合と同時に国民的独創の精神主義芸術を
歓迎するが為に外ならない。
本展は我二十世紀の絵画、各派作家を
網羅して洩す所なく我国にても甞て見がたき
綜合展であり、是を暹羅國に開催するは
各種の點より意義深甚である。
況や遠く一千年の昔、我美術の祖先故郷とも謂ふべき
印度の近隣暹羅国に於いてする事は
迎えられる者迎える者、
父子兄弟相擁するの感に満つるであらふ。
掲ぐる所の出品絵画は各流、各派執れも
東洋芸術の伝統及び国民個性に據る
現代的新意のものであって
我現代畫壇の鳥瞰的縮図であると共に
我美術満開の全景図である。
文字に據らず、言語に據らず
相互の理解と親愛とを直截に実現する絵画は
日暹展に於いて両国親善の扉を爽かに開け放ち
国交の魁となって役立ってくれるであらふ。
斯く私は衷心から期待し
且つ希望する者である。
昭和六年辛未年九月
暹羅日本美術展代表
荒木 十畝 】


<暹羅日本美術展覧会図録 / 芸艸堂出版部 / 昭和6年>
< 御参考 >
◇日タイ修好通商の勅令 明治21年1月28日(1888)官報
(新聞集成 明治編年史)
◇ 日タイ展模様**
****
昭和17年(1942)〖 読画堂塾 〗国民美術研究所発行
1989年「荒木十畝とその一門」展図録 (練馬区立美術館)掲載写真
〖 本歌取り 〗
**
**
**
荒木十畝「軍鶏図」
昭和5年(1930)第11回帝国美術院展覧会出品作品と解説(日展史)
<軍鶏(シャモ)は闘鶏用の鶏として、
江戸の初めにシャム国(今のタイ国)から輸入されまして、
シャムの名をとってシャモと命名されたそうです>
▲ 昭和6年(1931)4月8日大阪朝日新聞

昭和6年(1931)4月8日大阪朝日新聞
〖シャムで日本畫展
同國皇族を総裁に推戴
今冬・荒木画伯もシャムへ〗
【 昨年末シャム國皇兄殿下御来朝の際
シャムで日本画展覧会を開き
芸術による両国親善をはからう
といふ企てが
荒木十畝畫伯
などによって発起され交渉中であったが
最近シャム国皇兄殿下より御承諾の旨
外務省を通じ正式に御回答があった、
荒木画伯
は直に諸般の準備にとりかかったが
同会に出品するのは川合玉堂、結城素明、
松岡映丘、小室翠雲画伯など
帝展の大家約百名で総数約二百点の予定、
会期は今冬十二月一日から約一ヶ月、
会場はバンコック市の古い宮殿の一部を
御貸下げになり
シャム国皇族殿下
を総裁に推戴することになっている。
東京の美術愛好家井上博元氏が事務長として
シャムに赴き準備のはずで
荒木画伯
も発起者代表として今秋帝展審査終了後
同国に赴くはずである。(東京電話)】
▲ 昭和6年(1931)7月14日 東京朝日新聞


昭和6年(1931)7月14日 東京朝日新聞
〖シャムに開く日本美術展 今月中に出品収集〗
荒木十畝氏が中心となり外務省の援助を受けて、
豫てから準備中のシャムの日本美術展覧会は、
いよいよ十二月一日バンコック市で開かれることになった
同展に出品すべき作品は荒木十畝氏が奔走した結果、
今月下旬までには百五十點乃至二百点が集まる模様で、
荒木氏は十月下旬乃至十一月上旬には東京を出発、
同国に赴く事に決したが、
更にシャム皇室に大家の作品数点を奉呈すべく、
二、三作家に依頼すると共に同氏も制作に精進する事になった、
なおシャム國における会期は約一ヶ月であるが、
経費の都合がつけば
インドでも最初の日本美術展を開く事になる模様である】
===================
◇〖東京美術学校々長正木直彦氏の日記〗
1931年(昭和6年)10月26日付
【午後六時 精養軒に催されたる
荒木十畝 氏
西沢笛畝 氏
暹羅行送別会に出席す】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◇“明治・大正・昭和日本絵画史 422頁
(大日本雄弁会講談社刊
・昭和19年3月初版発行)”


【もう一つ、
荒木十畝
が主となり
昭和六年十一月暹羅國(今のタイ)バンコックで
「暹羅日本美術展覧会」
の開催されたのを特記したい。
これは実に
十畝が独力私財を投じて開催せるもの、
外務省も起って応援し、
西沢笛畝、
湯原柳畝
が十畝に随行
同国バンコックに盛大な展観をした。
全くの国際的美擧なので、
玉堂、素明、桂月その他
東西美術家も進んで出品、
バンコック市では
シャム国王 御親ら総裁となられ、
王宮の一部を会場に充てられる
盛觀であったと云ふ。
前二者(大観画伯の“イタリー日本美術展”
と“独逸ベルリン日本美術展”)の
枢軸協力と相俟ち、
タイ国が国際連盟脱退以来の
わが日本への率先親和ぶり、
まことにこの美術展この方とも云ふべく、
意義深い。】
=================
▲昭和5年(1930)10月14日 東京朝日新聞
昭和5年10月14日・ 東京朝日新聞
〖 秩父宮両殿下シャム展お成り 〗
【シャム展会の総裁であらせられる秩父宮殿下には
十三日午後三時五十分上野松坂屋に開催中の
シャム國古美術工芸品展覧會に
妃殿下御同伴にて台臨、大倉喜七郎男、正木美術学校長
三木栄氏
等の御案内にて同展覧會を約一時間にわたり御巡覧、
四階貴賓室にて御少憩の後午後五時お還り遊ばされた】
◇東京美術学校校長正木直彦氏の日記
昭和5年(1930)10月13日

【午後二時 松坂屋より電話あり
開会中の暹羅展覧会に
秩父宮両殿下
御成の御沙汰参りたるにより
御接待説明の為に来店乞ふと申来る
早速出懸けたるに大倉男爵も来会
秩父宮
は暹羅協会の総裁に被為入に付
御覧の思召ありたるものと恐察する
やかて御来着 隈なく御覧
三木 栄
より委敷御説明を奉仕す】
====================
この昭和5年の秩父宮の説明を受け持たれた
三木 栄 氏
について、正木日記には、
◇大正13年(1924)1月28日
【午後精養軒に大村西崖氏と晩餐を取り
暹羅國滞在の
三木 栄
此たひ暹羅帝室より勲五等に叙せられたる
旨の手紙を披露せらる】
◇大正13年2月12日 同日記
【加藤直載氏来訪
在暹 三木 栄
より漆工科技術奨励の為に奨学資金として
壹千圓を寄付せんことを申出
三木は在暹已に十三年此度暹羅国皇帝より
勲五等を授与せられたりといふ】
◇大正13年2月22日 同日記
【 在暹羅
三木 栄
より手紙着
本年初在暹十三年になりて
勲五等王冠章を贈られたる
ことを報告し来れり
尚学校に壹千圓の奨学資金を寄付する旨を申来れり】
◆タイ国に3年間教員として勤務された安井哲子女史をご紹介します。
▲大正6年(1917)10月28日 読売新聞/新聞集成 大正篇

△大正13年5月18日 読売新聞・安井哲子女史(知人総代として)

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題名 十畝先生
昭和23年(1948)6月10日出版
出版社 芸艸堂出版部
著者 金井紫雲
「 十畝先生 」
序
恩師十畝先生長逝せられて早くも
五カ年の星霜を閲しました、
その崇高な人格と、偉大な芸術とは、
日を経るに従って益々追慕の情を深からしめ、
憧憬の感を深う致します。
我等読画会同人、こゝに追遠の念を
新にするため、先生多年の畫業の中から
代表的作品数十を撰び大方の賛助支援のもとに
遺作展覧会を開催する運びとなりました。
先生の優れた作品が我が日本の
文化的甦生にあたって、多くの感銘と
刺激を與へ芸術向上の資となるを得ば
在天の靈また冥せらるゝことゝ信じます。
なほ此の小傳は先生と最も昵懇の間柄で
あった金井紫雲氏の執筆を煩はし、
題簽は令嗣光太郎氏に揮毫を乞ひ、
表紙は先生の寫生帖から撰出し、
また特に出版に際しては芸艸堂出版部
本田壽次郎氏の盡力に依るところ少からず、
茲に深厚なる謝意を表します。
昭和二十三年六月
読 畫 會
<目 次>
・先生の人と芸術
・青年時代
・荒木家に入る
・活躍第一歩
・絵画教育に盡瘁
・読畫會の創立
・文展時代の先生
・帝国美術院と先生
・帝展改組当時の先生
・美術使節
・先生の画論
・十畝先生作品年表
以上の項目中 美術使節(P23~24)を転載。
◇美術使節
【先生の国際的美術運動の第二は、
昭和六年から七年に亘り、
多大の成功を収めた
暹羅バンコックに於ける
日本美術展覧会の開催であった。
此の運動を計画された動機はかなり古く、
明治三十六年頃(1903)、暹羅から多数の留学生が来朝し
各部面に分れて就学したのであるが、
当時先生は女子高師の教職にあったので、
その中ジョン、ピット、ヌアン、リーの
四女学生に日本画を教えることになった、
居ること四年、皆それぞれに絵が描ける
ようになり日本に対する非常に深い理解も
あったので、何時かは自身暹羅へ赴き、
親しく日本画の精神を宣伝したい
と考へて居たのが遂に
昭和六年に至って実現したわけで、

<御参考>
▲昭和11年12月19日 東京朝日新聞**
**〖バンコック大学総長夫人カチャラ・バラタ・ラヤ女史
(日本留学当時の名はジョン)〗**
**
**
◇◇
◇荒木十畝画伯
▲昭和11年12月19日 東京朝日新聞
〖“いが栗娘だった” 懐しむ日本の旧友達〗
【友邦シャム國にあって日本の思い出にひたっている
カチャラ・バラタ・ラヤさん(日本留学当時の名はジョン)は、
現にバンコック大学総長の夫人で、
日暹協会理事として両国親善に尽瘁している人
――遠く明治三十五年、日暹親善の声漸く盛んであった頃、
選ばれて日本へ来た数十名の男女学生に交って
ジョンさんは御茶ノ水女子高等師範へ入学した、
時の高峰校長の計らいから附属幼稚園の先生だった
雨森釧子さんが面倒を見ていた、
ジョンさんが「慈母のような優しさで」世話してくれたと
感激しているのは即ちこの雨森先生の事で、
独り身の雨森先生は文字通り実の子同様
何くれと涙ぐましい世話をしてくれたものらしい、
この雨森先生はジョンさん達の知らぬ間に
「一度逢いたい」と口ぐせにいいながら
既に一昨年世を去っている、
「荒木先生」とあるのは当時女高師の絵の先生だった
荒木十畝画伯のことで
「鹿村静子夫人」というのは現富士紡績専務鹿村美久氏夫人静恵さんのこと――
<荒木画伯は長崎東町の自邸で語る>
当時の事は私にしてもなつかしい思い出です、
もう子供達も四五人あるそうです、
留学当時は例のシャム式のイガ栗頭で
一寸男女の見分けもつかぬような風態で
その上四人共日本語は全然駄目と来ているので苦労しました、
それでも四年間の間にすっかり日本語も上達して帰国しました
雨森さんとは全く親子のような生活をしていただけに
思い出が深い事でしょう、
外国との親善は全く胸襟を開いて交際してやることだ
という事がこれで証明されますね
<鹿村静恵さんの話>
ずいぶん仲良く遊んだものです
鎌倉の海で一夏泳ぎ廻った事があります、
ジョンさんはとてももぐるのがお上手で、
水から顔を出すとあの変な恰好の髪が顔に垂れ下って、
とても面白い顔になるのが未だに忘れられません】
<御参考>
▲東京朝日新聞 昭和12年8月15日
<御参考>
大正元年11月13日 東京朝日新聞
〖●政尾博士と暹國 暹羅國准皇族となれる法学博士 政尾藤吉氏〗
**
【別面の如く今回特旨を以て
暹羅國皇族勲章二等に叙せられたる
法学博士政尾藤吉氏は
往年米国に留学しミシガン大学を卒業し
帰朝後論文を提出して法学博士を授けられ
明治三十年暹羅國法律顧問として招聘され
爾来十余年其職にあり
故稲垣公使と共に同国帝室は勿論外交界に盡す所少なからず
殊に同国が曩年英国及び佛国と締結せる新条約の結果
夫れぞれ同国に於ける治外法権を撤回し
而して其の裁判管轄は同国が刑法民法商法
刑事訴訟法裁判所構成法の完成迄暫く
国際裁判所の制に據れるを約せることゝて
政府は一日も早く前記諸法典の編纂実施をなし
以て裁判権の独力を期するに當り
博士が法典編纂委員として勲功偉大なるものあり
為めに今回の陞爵叙勲の御沙汰ありたるなるべしと云う】
<御参考>
▲大正2年9月15日 東京朝日新聞**
大正2年9月15日 東京朝日新聞
〖●政尾博士帰朝〗
【暹羅國法律顧問として
十六年間専ら同国法典の編纂に従事し
民、刑、商法、刑事訴訟法幷に裁判所構成法の完成を告ぐる
と共に退身して婦人家族を携へ郵船丹後丸に便乗
帰朝の途にある法学博士政尾藤吉氏は
明十六日神戸に着港すべし】
◎国立公文書館アジア歴史資料センター
レファレンスコード A10112716600
▲法学博士政尾藤吉叙勲の件 明治44年(1911)6月27日**
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幸にして此の計画は外務省の後援もあり
東西画家の力作も少なからず集ったので、
着々として準備を進め湯原柳畝氏
先づ作品を携へて先発し、
先生は糸子夫人と共に西沢笛畝氏を滞同し
十日横浜を出帆、十一月廿日バンコックに
到着して、展覧会には矢田部公使が奔走し、
展覧会場には特に宮城所属のサランロミヤ御苑
の建物二棟を充てられ
十一月三十日の開会式には
皇帝皇后
をはじめ
各皇族同妃、
各省の顕官外交團主要在留内外人二百余名が参列、
翌十二月一日から一般に公開したが、
毎日観覧人数千名に達し、開期中
皇帝皇后
には特に先生夫妻に謁を賜ひ、鄭重な賜餐もあり、
非常な盛況裡に十五日に亘る会期を終へたが、
先生はその携へて往った
「五位鷺」
を皇室に献上、出品の「芍薬」は御買上の光栄に浴した、
左(暹羅展出品作)と右(昭和6年帝展出品作“五位鷺図”)
**
**
****
昭和17年(1942)〖 読画堂塾 〗国民美術研究所発行
1989年「荒木十畝とその一門」展図録 (練馬区立美術館)掲載写真
此の展覧会は実に日本美術史上空前のことであり、
これが美術外交上如何に絶大な貢献をなしたかは、
日に日に険悪を加へて行った当時の世界情勢の中に、
暹羅国
が終始変らぬ友情を見せたことに依っても
その一班が覗はれるのである。
暹羅に於ける日本美術展覧会はかくて
非常なる成功を見たので、
翌昭和七年夫妻は同国を辞して
先づ印度観光の途に上り各種の佛蹟など
訪ねた上、飛行機によって南洋各地を歴訪し、
熱国の自然をほしいまゝに畫嚢に満たせ、
三月九日帰朝し神戸に着いた、
東京及京都の画家はそれぞれに盛大な
帰朝歓迎の宴を設けて先生長途の労を稿った。
この行の土産として製作出品されたのが
同年五月の読画会展覧会に陳列された
「南洋の月」「熱国双絶」
の二点であった。】
〖 美術使節(P23~24)〗転載了
=================
▲昭和6年(1931)9月号
美術雑誌<美之國>

〖秋に魁けし小帝展の盛況
―シャム展の假陳列がそれ―〗
【 * 荒木十畝 氏
が幾多の犠牲を払って主唱した
暹羅国開催日本美術展
の出品は八月中旬に締切って、
二十五日から五日間上野の美術館に
假陳列として公開されたが、
作品の形は小さいが、
東西の主なる作家殆んど全部挙って
出品しこの種の国際展としても稀有であり、
恰も秋の展覧会の魁けをなし、
形式的にも小帝展の趣きさながらだ。
殊に、帝国美術院の会員中 本稿執筆までに、
二三未着の人もあったが、
他は小堀鞆音、小室翠雲、鏑木清方、
*荒木十畝、山元春挙、菊池契月、西山翠嶂氏等
全部出品、審査員級は更に●出の觀があった。
個々の出品に就いて見るも、形こそ小なれど
それぞれ自家の特色を発揮したもののみと云へよう。
而かも餘り固くならないで各々好むところに
就いたといふ制作の趣きがいかにも自然に肯かれた。
たとへば ― 目録順に挙げて行くとして、
吉田秋光氏の「虞美人草」はふっくりとなごやかさを帯び、
佐々木林風氏の「松島」は、いかにも手に入った写実、
シャム公使も特に誉めて行ったさうだ。
*五島耕畝氏の「睡蓮」は、水草の感じを巧みに現はし、
島田墨仙氏の「鷹」は老練な花鳥図。
*竹原潮風氏の「懐?」はよくその生き物の急所を捉へ、
大河内夜江氏の「碧流」は勁健な筆致である。
*池上秀畝氏には、
「枇杷」と「不忍之池」の二点あり、
前者が陳列された。
山田敬中氏の「夏の湖畔」と共に練れた筆。
飛田周山氏の「琵琶行図」は力作だ。
高木保之助氏の「花げし」高雅、
磯田長秋氏の「厳島詣で」は流麗目も彩なもの。
吉田登毅氏「七面鳥」
*高瀬五畝氏「薔薇」
共に力め、
*朝井観波氏「蟲のゆくゑ」
は可憐の中に新味があった。
村島酋一氏の「軍鶏」力強い行き方、
田中咄哉氏の「潺渓」新南画として代表的、
伊東紅●氏「埋火」に精彩あれば、
森井茂枝女史の「御人形」に微笑ましき味ひあり、

*西沢笛畝氏の「南洋人形図」
は既にシャム地方のロオカル趣味を現したもの。
児玉希望氏の「夏山」は、自然描写のエッセンスを掴み、
磯部草丘、藤井霞郷、島春潮、田中針水、
田崎芙山、鈴木有哉、永野陽水
と下萌會の新人轡を並べた形、
*山川秀峰氏の「雛妓」
には洗練された美人畫の趣き溢れ、
常岡文龜氏の「朝顔」はよくその生彩を写し、
吉村忠夫氏の「銀扇」は雄逸な人物画、
鴨下晁湖氏の「おどり」も手に入った。
外海煙●氏の「池畔雨余?」や、
平野竹逸、佐藤華岳氏等は桂月門下の南画の錚々、
川崎小虎氏は「舟遊び」「蟲とり」に
いよいよ優婉の筆致、
野田九浦氏は「童形文殊」●蘊蓄を見せ、
小川榮●氏「裾野の狩」巧者なものだ。
伊東深水氏の「吹雪」は、冬の美人画を描いた
特に念入りのもの、
序でに小品ながら
鏑木清方氏の「唇を描く」の清楚なのとよき対比である。
なほこの外、大家連には

シャム展出品作品)・日本美術年鑑 昭和7年・1932
小堀鞆音氏の「山田長政」の力作始め、

小室翠雲筆の「爽秋」シャム展出品作品)
・日本美術年鑑 昭和7年・1932
小室翠雲氏の「爽秋」にざくろの佳作あり、

十畝筆の「五位鷺」シャム展出品作品)
・日本美術年鑑 昭和7年・1932
*十畝氏の「五位鷺」は近来稀れに見る逸品だ。
一つ一つに細評して行くと切りがないから、
以下主なるものの名題だけを挙げても、
*森白甫氏の「錦魚」、小泉勝爾氏の「魚」、
増田正宗氏の「瀞峡」、川船水棹氏の「高原の春」、
臼井剛夫氏の「秋の春日山」、池上原心氏 及
伊藤すず子女史の「少女」、横尾翠田氏の「野蔬」、
北村明道氏の「泉」、*堀田秀叢氏の「木槿の花」、
村岡●東氏の「般若寶織」、
織田観潮氏の「白椿」(特によき出来)、
金子米軒氏の「沼津千本濱」、古屋正壽氏の「雪天」、
鈴木朱雀氏の「母子の繪」、高田美一氏の「沼の朝」、
戸室臨泉氏の「湖畔の春」、伊藤龍涯氏の「夏の霊山」、
岡部光邦氏の「雪景金閣寺」、
小島一谿氏の「嵐峡の雨」(これもシャム公使お気に入りのよし)
三輪敏夫氏の「釣堀り」、安田半圃氏の「山村秋暮」、
今中素友氏の「寒梅」、佐竹永陵氏の「寒月幽梅花」、
森村稲門氏の「庭」、荻生天泉氏の「朝の宮島」、
岸浪静山氏の「街道」、松本姿水氏の「夕月」、
望月春江氏の「春光」、畠山錦成氏の「カメレオン」、
三橋武顕氏の「富士山」、大木豊平氏の「花庭」、
勝田蕉琴氏の「縞りす」、
*細合秀穀氏の「ホウテイセウとデイグ」、
木島柳鷗氏の「櫻」、町田曲江氏の「尾長」、
*荒木月畝女史の「石楠花」、
高須芝山氏の「水墨山水」、山口蓬春氏の「八仙花」、
*宮田司山氏の「浅間の春」、
菊池華秋氏の「紅梅鴛鴦」、角田盤谷氏の「若き百舌鳥」、
野口●次郎氏の「十和田の夏」、福田浩湖氏の「日光華厳」、
*太田秋民氏の「魚」、
横尾芳月氏の「蛍」、坂内青嵐氏の「富士」、
菊澤武江氏の「鶏の雛」、尾竹竹波氏の「雛」
等々枚挙に遑あらず、
蓬春、姿水、錦成氏
等の作は特に感慨が深い
以上は東京側、転じて京都の出品を見る
これもまた大家名匠の作品よくぞ揃った。
中に一際目立ったのは、

菊池契月筆の「調馬図」シャム展出品作品)
・日本美術年鑑 昭和7年・1932
菊池契月氏の「調馬図」で、真に優雅整正、
雅致深く、緊建せるものだ。

山元春挙筆「雪渓遊鹿」図(シャム展出品作品)
・日本美術年鑑 昭和7年・1932
山元春挙氏の「雪渓遊鹿」は、堅実な中に細緻さを示した、
西山翠嶂氏の「晩涼」は清洒な境地優なるもの、
富田渓仙氏の「明石の浦」も雄勢にして生動し、
堂本印象氏の「綾浪」は、自由に清新な境地を開き
上村松園女史の「虹を見る」はくつとりとした佳品、
土田麦僊氏の「春晝」は小品ながら頭の下がるもの、
福田平八郎氏が「躑躅」に淡々盡きざる詩味もよい。
宇田萩邨氏の「薊」のすがすがしさ、
金島桂華氏の「寒汀」のしっかり●た味ひ、
また川村曼舟氏の「峻嶺●霧」の堂々たる風景描写、
石崎光瑤氏の「鐡線花」の自然に食ひ込んだ力、
登内微笑氏の「秋の宵」の雄品、
松本一洋氏の「源氏物語」の色の調子の冴え、
勝田哲氏の「秋思」のしっとりした香気、
水田竹圃氏の「雨収渓漲」の洗練さなどと
数へ上げるとこれまた限りがない。
主要な作品のみ列挙すれば、福田惠一氏の「上」、
小早川秋聲氏の「獣」、矢野橋村氏の「歸農」、
木村丈夫氏の「青鳩」、幸松春浦氏の「桃」、
福田翠光氏の「白鷺図」、川北霞峰氏の「金閣寺積雪」、
三木翠山氏の「月見る女」、森守明氏の「春寒」、
玉舎春輝氏の「蠶と繭」、不動立山氏の「浦の観音堂」、
森戸國次氏の「金魚」、三谷十糸子女史の「鏡」、
白倉二峰氏の「墨梅」、平井楳仙氏の「水郷の朝」、
石川英鳳氏の「飛鴨」、寺島三郎氏の「煙雨」、
辻宇佐雄氏の「●粟図」、庄田鶴友氏の「秋」、
山元春汀氏の「秋の富士山」、中村春揚氏の「嵐峡」、
古谷一晁氏の「夏の渓谷」、三宅凰白氏の「娘道成寺」、
山本傳三郎氏の「千鳥」、廣田萬豊氏の「猫」、
水田硯山氏の「姑蘇城外」、板倉星光氏の「花火線香」、
上村松篁氏の「China會魚之図」、合せて等々実に三百五十餘点、
堂々たる哉シャム展 】
{ *印は荒木十畝画伯主宰の読画会会員を示す。
●は文字不明
〖 秋に魁けし小帝展の盛況
―シャム展の假陳列がそれ―〗の転載完了
=================
▲報知新聞 昭和6年(1931)6月10日
**
(国立公文書館アジア歴史資料館 レファレンスコードB05016021700)
▲雑誌〘美之國〙・昭和6年(1931)9月号 P2~3
〖時事寸言/国際展の盛觀〗
【 今年度に於ける国際展の代表的企画トレド―の米国展と、
バンコックのシャム展
との出品は八月中何れも〆切り、美術館で陳列会を
行った上近く海外に輸送されんとしている。
共にわが芸術を外人に迄知悉せしめんとする
精神的努力の結晶で、その結果良かれかしと
祈らるゝは自然の情である。
殊に、
暹羅展
は空前にして恐らく当分繰り返し得ざるべく、
之に対し東京側の諸作家は勿論、
京都方面の大家新進迄挙つて力作を寄せたるは、
聖代の榮光茲に遍き感がある。
地下の山田長政も、之を以て昭和の平和使節到来と
莞爾たるべく想像される。】
========================
▲雑誌〘美之國〙・昭和6年(1931)9月号 P74

〖美術界ニュース〗
【 シャム出品日本画展
シャム国「バンコック」市
に於て開催の日本画展は、愈々近日同国に向け
発送さるるに就て假陳列を美術館にて行ふことゝなった。
同展代表 荒木十畝氏
を始め各作家の熱心な力が予定以上に多数力作を完成
茲に発表の運びとなった事は慶賀に堪へない。
因に同假陳列展覧会は二十五日より二十九日まで
毎日午前八時より午後四時迄催される。】
=================
▲美術雑誌〘 美之國 〙・
昭和6年(1931)9月号


〖夜開く展覧會 シャム展愈々假陳列発表〗
【 シャム展は再三既報の如く上野美術館で
出品を受付けたが出品総数約三百点で
それぞれ一流作家の努力作だ。
シャム展での会場はバンコックのサラン・ロムヤガーデン
であるが、シャムは四月から九月までが雨期、
十月から翌年三月までが乾燥期で所謂常夏國である。
人々は日中外へ出ると暑気に当って病を起すので
昼間休養して、夕方から深更へかけて活動する。
又昼夜温度の変化が頗る著しく、灼熱焼くが如き
陽が西に沈むと、夕暮の風が次第に涼を加へて
華氏六十度位となる、恰度我国の秋の気温だ。
それでこの展覧会は珍しくも夜開かれる。
絵の装飾も普通のやり方では縮んで切れる
怖れがあるので、全部別拵への表装をして
持ってゆくのだそうだ。
代表者 荒木十畝 氏は
十二月上旬出発される筈だが、
氏の努力の結晶とも云ふべきこの行を盛大に
完了させ度いものである。】
=============================
▲大阪朝日新聞 昭和6年(1931)4月1日

〖シャム両陛下愈よ七日御入京
聖上陛下に御対面
次で花祭りに臨御
御歓迎準備全く成る〗
【 御来訪の途にある
シャム国皇帝プラヂャディポク陛下
並びに
皇后陛下
御一行の御召艦エムブレス・オブ・ジャパン號は
上海経由で四月六日午前神戸入港、
七日午後横浜着の御予定で、
両陛下には直に御入京遊ばされる御次第であるが
一国の元首の御来訪をお迎へすることは
空前の盛事である 】=============================
▲大阪朝日新聞 昭和6年(1931)4月5日

〖 シャム國両陛下
上海を御発航 一路日本に向はせらる
ジャパン號にて四日 渡邊特派員発〗
【 四日午前九時
シャム國両陛下
の御乗船エムブレス・オブ・ジャパン號は
前部マストに行先を示す日章旗、
後部マストには陛下の御乗船たることを示す
シャム国旗を掲げ二隻のタグ・ボートに
曳かれて岸壁を離れた、
その瞬間岸壁に並ぶ警備司令部の儀仗兵は
一せいに喇叭の吹奏とゝもに「捧げ銃」の禮を行った、
船からは●喨たるシャム国歌の吹奏起り、
やがて山のやうな巨船は黄浦江に大きなうねりを
起こしながら一路日本をさして動き出した】
=============================
▲大阪朝日新聞 昭和6年(1931) 4月8日

〖 シャム國両陛下 晴れやかに御入京
霞ヶ関離宮に入らせらる
あす宮城を御訪問 〗
【 春陽麗らかに櫻花今を咲き誇る時、
南アジアの友邦
シャム國皇帝プラジャディ・ポク陛下
並に
皇后陛下
には御船路つゝがなく
七日正午エムブレス・オブ・ジャパン號にて
横浜御入港、午後三時御機嫌うるはしく
御上陸遊ばされ御同行あらせられた
皇后陛下の御両親
スパスティ親王、
同妃両殿下
とゝもに晴れやかに御入京遊ばされた、
両陛下には我が皇室の御賓客として
霞ヶ関離宮に御滞泊、
八日には宮城を御訪問あらせられ
聖上、皇后両陛下と御対面遊ばされる 】
=============================
▲昭和6年4月8日 東京朝日新聞


=============================
◇ 中外商業新報 昭和7年(1932)3月11日

【 荒木十畝氏夫妻歸へる 】
〖 荒木十畝画伯夫妻は
シャム国に日本画展開催のため
同地に赴いていたが
十日夜九時廿分東京駅着で帰京した
(写真は東京駅で 〗
―――――――――――――――――
◇ 読売新聞 昭和7年(1932)3月11日

〖 荒木画伯帰朝 佛蹟も巡って 〗
【 昨秋十一月出発シャムに渡った帝展審査委員
荒木十畝画伯
は五カ月振りで昨夜九時二十分東京駅着帰朝した、
氏はシャムに於ては国王にも謁を給ひ
美術使節としても大いなる効果を挙げたが
十二月シャムを出で印度の各地から南洋諸島に渡り
佛蹟を十分に調べたが中でも熱帯植物のほとんど
全部を網羅するボイテンソルグの植物園や、
印度孔雀や猿が無数に居て動物と人間が
如何にも親しみあると云ふジャイプールや
釈迦の修業したブタガヤや初めて説教した
ベナレス等諸々の佛蹟行脚をなし、
帰途上海の戦をみて帰朝した、
駅頭には美術関係者二百数十氏が出迎へた
〚 写真は荒木画伯ゆうべ東京駅にて 〛】
―――――――――――――――――
▼ 昭和7年(1932)3月14日
〖東京美術学校校長正木直彦氏の日記〗
【 午後六時より日比谷三信ビル八階東洋軒にて
荒木十畝
*西沢笛畝
の印度より暹羅よりの帰朝歓迎会に出席す 】
*引 用*昭和9年(1934)5月25日 大阪朝日新聞
〖マダム『アル・ピー』〗*テニスプレーヤーとして
見事なお腕前のシャムの王妃****
つづく
=====
=====
=====
=====
< あとがき >こんなアジアの交流があったんだ 感動しました
1997年、私共の刊行した「資料集」に
『日華(中日)連合絵画展覧会』の資料を掲載し、
国立国会図書館に納本しました。
私共アマチュア研究家は、支配被支配の対立の構図で語られる
「アジアの中の日本」は、もう まっぴら御免です。
21世紀は、融和の歴史を求めている。
もし平和に投資する時代が21世紀なら、
図書館や美術館のソフトパワーを活用して、
もっともっと融和の歴史を探し出そうと思いました。
その結実が、此の度の「暹羅日本美術展覧会集成」です。
今後も新資料が見つかり次第
インターネットに追加資料として発信します。
現在、昭和6年(1931)にタイ国バンコック市で開催された
「暹羅日本美術展覧会」のデータベースを作成中です。
此の展覧会も〖日華(中日)連合絵画展覧会〗と同様に
読画会が中心となり開催しています。
アジアの中で融和の種を蒔き育てた、
当事者双方の歴史が、まだまだある筈です。
これからも融和の歴史を探し出し、資料集に製本し、
またインターネットにも発信したい と思っております。
* 日本画と浮世絵
断固抗議します!
私共のサイト上の写真をクリックすると、赤地の画面に次のような悪意のある文章が大文字で写し出されました。
【 これは報告されている安全でないWebサイトです
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このページを閲覧しないことを推奨します
代わりにホームページに移動します
このWebサイトは個人情報や金融情報を盗み取る可能性のあるお使いのコンピューターへの脅威を含むWebサイトであると報告されました
▼詳細情報 】
以上
< 1月24日午前1時30分ごろ悪意ある文章の画面を発見しました。私共が公開しておりますカテゴリにある他の名前も確認しました。同様の悪現象が起こりました。
私共は退職後も社会参画したいと云う思いで
“日華連合絵画展覧会・暹羅日本美術展覧会、読画会”外のデータベース作りに邁進しています。
先考文献・研究の有無を調べ、ユニークでオリジナリティーのある作品を目指そうと今日までやってきました。
私共の企画段階で確認した事は、動乱の時代に戦争をしながらも、
同時に平和親善を理念に両国連合展覧会を開催したという事実。 人間は信じる事が出来るんだ!”
この事実を伝えたいという思いでスタートした企画です。
21世紀は平和に投資する時代です、21世紀は融和の歴史を求めています、
日中親善・日タイ国親善を理念にした絵画展覧会を実現した読画会に焦点を当ててきたのです。
そして売名行為や営業とは無関係の方針で進んでまいりました。
私共の願いはこれ等のテーマで資料集の追加・充実を次の世代に引き継いでいけたらと思っております。
今回の悪意ある文章の介入によって驚かれました皆様に対しまして、私共としまして誠に不本意な悪結果をもたらしたと、くやまれてなりません。
残念無念でなりません。
旧来通りの安定した情報公開の環境が戻るように願うばかりです。
どうか侵入しないでください。
お願いします。
ここに此の度の経緯を説明いたしました。
2012.1.24 3;26am シルバーネイル
〖 最新情報 〗
▲〖 美術真説 〗明治15年(1882)フェノロサ氏演説
○なぜか美術真説には「西洋画」と「洋画」という言葉は出てこない
○欧州ノ画術 と 日本ノ画術
○東洋一般ノ画 と 西洋ノ油絵
○日本画 と 油絵
○東洋ノ画 と 欧州ノ画
△「畫師(327頁 中段23行目)」という言葉と「(日本)画家(331頁上段7行目)」という言葉
「則チ角觝家ハ最好ノ畫師タルヲ得へシ」と「若シ宮闕殿閣ヲ経営スルコトアラハ日本畫家ヲシテ」
△西人と外人
「西人或ハ日本画ヲ視テ(327頁上段1行目)」と「西人或ハ日本画ヲ以テ(328頁上段12行目)」
「外人嘖々トシテ北斎ヲ賞スレトモ余ハ独リ之ヲ謗レリ(327頁下段20行目」**
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▲合理的疑問
日本画に対応する英語は、いったい幾つあるのでしょう?
◎朝日新聞 1995(平成7年)9月1日(Japanese Pictures)**
◎“<日本美術>誕生”(Japanese paintingとJapanese picture)
(1996年12月10日第一刷発行 発行所㈱講談社)
「日本画 ・ Japanese painting 」という言葉の誕生について
≪ Author:
ここで〖美術真説〗に関係した資料を提示します。
その目的は、明治15年、フェノロサの〖美術真説〗が講演された
当時の 空気感を想像していただきたいのです。
皆、命がけで、ひたむきでした、
勇気を失うことが、すべてを失うとされた時代でした。
貧しさが所有できる唯一のものは、心映えでした。
接頭辞の「日本」を多用する、当時のムンムンした爆発力を
体感していただきたいのです。
読む労を強いて申し訳ありません。 ≫
【 日本画という言葉について 】
目 次
・日本〇〇
・序文
・私共の意見
・なぜか「美術真説」には「西洋画」と「洋画」という言葉は出てこない!
・「美術真説」の謎、翻訳者は複数人 居た?
・時代背景
・世界観の転換
・見落としたもの
・フェノロサ氏原因説(明治15年説)
・合理的疑問
・「日本画」という言葉の生まれたわけ
・空気感(大局観)
・「日本画」という言葉は、突然生まれたわけではありません
・日本画と日本語(標準語)
・
・
◆日本画という言葉について
慶応3年から明治 16年まで(新聞集成 明治編年史参考)
≪ 日本〇〇で溢れた明治期 ≫
日本語・日本料理・日本製のビール・日本人民・日本文・
日本学生/日本国人/日本大使・日本政府/日本様・
日本風・日本石炭・日本金貨/日本全国・日本政府
・日本律・日本座敷
・日本国・日本洋学・日本古画/日本人・日本国民 etc
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≪ 序 文 ≫
「日本画」という言葉の初出例は、どのような文献に載っているのでしょう?
現状では
「フェノロサ氏が『美術真説』というテーマを英語で講演をされました。
その講演の中で使った
Japanese painting
という英語を日本の大森惟中氏が翻訳して
「日本画」
という言葉になりました。
これが「日本画」という言葉の初出とされています。
明治15年(1882)の事でした。
つまり「日本画」と云う言葉は「訳語」だったのです。
これが、日本画という言葉の初出例であるということです。
**
<美術真説の抜粋>フェノロサ氏が1882年(明治15年)に龍池会で行った講演
『美術真説』で使った Japanese painting の翻訳が
「日本画」という言葉の初出であるという、
(この通説を今仮に明治15年説といたします。)
アメリカ人のフェノロサ氏が「美術真説」という講演の中で
「Japanese painting」という英語を使ったのを
日本人の大森惟中氏が「日本画」と邦訳したのだそうです。
以下は「日本画」という言葉についての専門家たちの御意見です。
*「日本画」は、フェノロサの言葉からはじまり、
明治国家の政策とも結びつき、天心らによって新日本画の成立へと至った。
*「日本画」は、自然と生じたのでもなく、
日本人が危機意識から生み出したのでもなく、
まずフェノロサという西洋人の眼によって打ち立てられたのである。
英語で行われたであろうフェノロサの講演のなかの一語が
「日本画」と翻訳されたと考えられている。
*フェノロサが1882年に龍池会で行った講演『美術真説』で使った
Japanese painting の翻訳が「日本画」という言葉の初出である
*「日本画」「という言葉が初めて公に使われたのは、
明治15年にフェノロサが行った講演『美術真説』とされています
*「日本画」という言葉が使われる契機となったのは、
明治15年(1882年)に「龍池会」でフェノロサが行った《美術真説》という講演である。
この講演でフェノロサは、「油絵」と「日本画」を明確に対比させ、
「油絵」よりも「日本画」の方が優れていることを説いた。
西洋文化偏重の中で、伝統画の価値が他ならぬ外国人によって称揚されたのである。
この言葉が一般に使用され始めるのは明治20年代末からであり、
その後定着していく。
以上が私共が拾えた専門家の「日本画の初出」についてのサンプルです。
はたしてそうか?
<御参考>
【 日本画・西洋画・洋画 】について
▲明治8年10月8日 東京日々新聞 新聞集成明治編**
【 一昨六日に竹川町十二番地の国澤某の稽古場にて、
洋画会ありしに、
西洋人の画きたるは何れも皆名筆にて、
日本人の写す所も、多くは西洋人の画を模したる者多かりし中に、
有名なる高橋由一の画きたる乾魚の図は、尤も妙なりとの評判あり。
近ごろ呉服町の玄々堂にても、油絵の稽古を開きしに、
横山、亀井諸子の画く所は、既に洋人に譲らずと云へり。 】
▲明治18年1月25日 東京横浜毎日新聞
明治18年1月25日 東京横浜毎日新聞
【米人フェノロサ氏は、
本日午後二時より神田神保園に於て、
日本画の将来と云へる題にて講義するよし。】
▲明治18年4月24日(1885)今日新聞
日本画 日本絵**
明治18年4月24日 今日新聞
〖 壁張に日本画 西洋で大流行 〗
【 近頃外国人がしきりに壁張の日本画を好みて、
ぞくぞく註文を申込む由、
又其の大きさは八尺位より一丈二三尺に止まり、
画柄は山水花鳥の類をよしとし、
彼の国にては之を壁に張り、一二ヶ月にて張かえを為すという、
故に紐育などの料理屋にては、壁張の日本絵なきを耻とする程に流行し、
又府下にて専ら此画の揮毫を引うけ居らるるは大澤南渓ほか二三氏なりと聞きぬ。 】
▲明治22年2月9日 大阪毎日新聞
〖 久保田米僊洋行す 〗
・日本画・西洋画と併記!!!!
〖 御参考 〗
・東京美術学校~明治22年(1889)2月 開校。日本画(文人画を除く)・木彫・彫金の3科を設置
・東京美術学校~明治29年(1896)西洋画科・図案科が新設された。
**
**
明治22年(1889)2月9日 大阪毎日新聞
〖 久保田米僊洋行す 〗
【 京都の画家 久保田米僊氏は、
本年四月仏国巴里に於て開ける万国大博覧会に臨場のため、
来る十五日京都を出発東京に赴き、同地にて一週間許り滞在、
夫れより横浜に出で、仏国郵船に搭じて渡航する都合なるが、
氏は暫時佛国に滞在し、日本画の拡張を謀り、
併せて同国西洋画の状況をも実視し、
帰朝の上は日本画の改良を謀らるるの目的なりといえり。 】
≪私共の意見≫
私共は、「日本画」という言葉の始まりは
「日本書紀・天武天皇六年(678)の条にあります、
倭画師 音樫(やまとのえし おとかし)に由来すると考えています。
そして、土佐派系の大和絵が続き、江戸期元禄享保の町人文化華やかなりし頃に
自然発生した庶民派大和絵の「浮世絵」は,
「日本画」あるいは「日本画師」
と署名する流行が大きな波となって興ります。
(時代背景は後述します。)
すなわち、
・日本画 奥村政信
・日本画師 菱川師宣 たちです。
そして、明治期に「日本画」という言葉の一般化に、
決定的な大きい寄与をした出来事があります、
明治天皇が、明治8年に菊池容斎に
「日本画士」号
を贈られるのです(国史大辞典)。
此の「日本書紀」から続く
「倭画師 音樫」「大和絵」「日本画師 菱川師宣」「日本画 奥村政信」等の
日本文化の連続性という大きな流れと、
明治さまの「日本画士」号の賜与は、
「日本画」という言葉の一般化に寄与し、
当時の空気感を醸成するのに大きな役割を果たしたと思います。
私共の調査では「日本画」と署名した初出例に、
奥村政信(貞享3年(1686年) - 宝暦14年(1764年))の作品
「中村座内外図屏風」
があります。
◆ 日本画 奥村政信(日本画大成)
**
**
**
六曲屏風一隻。款に『日本画、奥村政信図』とある。
従来の日本絵又は大和絵を、茲では日本画と書いている(日本画大成)
また、現在も「日本画家」と職種として使われていますように、
「日本画師」と署名した画家に菱川師宣や奥村政信があり、
「日本画士」と署名した画家に菊池容斎があります。
(Author;資料は、美術書籍・雑誌から転載しました。
作品の実物は実見していません。)
◇倭画師 音樫/日本書紀・天武天皇六年(678)
◇日本画 奥村政信 ”中村座内外図屏風”昭和8年/日本画大成・肉筆浮世絵
◇日本画師 菱河吉兵衛師宣・貞享初年(1684)/芸術新潮、1988/3
◇日本画師 奥村政信 ”太夫禿図” 延享ころ(1744 ~48年頃)
◇日本画士 菊池容斎/天明8年(1788年) - 明治11年(1878年)
・昭和7年・日本画大成・明治編1

**
**
**
≪ 時代背景 ≫
▲平成14年3月27日 朝日新聞

〖 雪舟へはなむけの詩 〗
【 日本僧揚雪舟者天性善畫・・・ 】
拙宗等揚【せっそう-とうよう】と雪舟等楊(せっしゅうとうよう)は同一人物か?
「揚」と「楊」の違い。この書面には「揚」とある。
▲大日本国 陶者 雍州 乾山・尾形乾山作・寛文3年(1663)~寛保3年(1743)銹絵観鷗図角皿裏
(ブック・オブ・ブックス 日本の美術「陶芸」小学館刊 昭和46年)
**
▲彫金画 <大日本彫一宮長常(1721-1787)>
**
**≪歴史読本/昭和48年6月増刊号≫

≪世界観の転換≫
< 脱亜入欧と和魂洋才 >
▲明治5年11月ー新聞雑誌六九 (新聞集成 明治編年史)
**
〖 断乎太陰暦を廃して陽暦採用 改暦の詔書下る
明治5年12月3日を以てー明治6年 1月 1日と定めらる 〗
【 改暦詔書
朕惟うに、我国通行の暦たる、太陰の朔望を以て月を立て、
太陽の躔度に合す、
故に二三年間必ず閏月を置かざるを得ず、
置閏の前後時に季候の早晩あり、終に進捗の差を生ずるに至る、
殊に中下段に掲る所の如きは率ね妄誕無稽に属し、
人知の開達を妨げるもの少なしとせず、
蓋し太陽暦は太陽の躔度に従て月を立て、
日子多少の異ありと雖も、季候早晩の変なく、
四歳毎に一日の閏を置き、七千年の後僅に一日の差を生ずるに過ぎず、
之を太陰暦に比すれば、最も精密にして其便不便も固より論を俟たざるなり、
依て自今舊歴を廃し、太陽暦を用い天下永世之を遵行せしめん、
百官有司それ斯旨を体せよ。・・・・ 】
≪見落としたもの≫ 明治15年/1882 にフェノロサ氏、龍池会で『美術真説』を講演
◆内的素因~日本画史の大きな流れ
日本書紀( 倭画師 音樫/天武天皇六年・678 )→
土佐派系大和絵→
日本画 奥村政信 ”中村座内外図屏風”昭和8年/日本画大成・肉筆浮世絵 →
日本画師 菱河吉兵衛師宣・貞享初年(1684)/芸術新潮、1988/3・
日本画師 奥村政信 ”太夫禿図” 延享ころ(1744 ~48年頃)→
日本画士 菊池容斎/天明8年/1788~ 明治11年/1878・昭和7年・日本画大成・明治編1
また、保守派の牙城「日本美術協会」の巨頭 従一位 大勲位 金子堅太郎伯爵が、
アメリカ人のフェノロサ氏とハーバード大学の同窓であるという
旧知の間柄であり、
日米協会会長の金子が、
アメリカ人のフェノロサ氏を”日本美術の恩人”として紹介した。
此の事は、国士としての金子の立場に配慮して、
フェノロサ氏一人に注意が向く方向性を与えたかもしれません。
金子の純粋なフェノロサへの高評価が、
金子にとって意図せざるフェノロサ偏重を招いたのではないか?
他の外国人の方々(ドイツ人ワグネル氏、イタリア人キヨソネ氏、
アメリカ人ビゲロー氏)の影が薄くなった一つの原因かと思われます。
・日本美術年鑑 明治44年度 日本美術協会役員審査員一覧
(副会頭 金子堅太郎/委員副長 荒木寛畝(荒木十畝の父)
・審美書院創立15周年記念祝賀晩餐会に於ける金子子爵 大正10年4月 美術之日本
・日米協会会長 金子堅太郎 読売新聞 大正9年(1920)9月2日
**
**読売新聞 大正9年(1920)9月2日
〖 日米親善の意義 子爵金子堅太郎 〗
【 日米の親善なるべきは殆ど云うを俟たない、
先づ第一に日米両国は地理的関係に於て親善であらねばならぬ、
念うに太平洋岸に国を樹てゝ居る国家で政体、法律、制度、軍事、経済等
凡ての点に於て完全なる組織を有するものは日米両国の外にない、
・・・・中略・・・・・
米国が公平無私なるハリス公使をして
日本人を誘導教育したるは恰も慈父の如きものがあった
日本人の或者は公使館を焼き乱暴狼藉を敢てしたる事
今日の西伯利土民の如きものがあった
此の時にハリス公使は斯の如きは
未だ日本が文明の域に達せざる結果である、何等悪むべきでないと
日本を弁護する事至れり尽せりで他国の干渉を一切排して
日本の領土に他国の一兵卒も上陸させなかった、
米本国政府も亦日本に対して些の圧迫も脅迫も加えず
只管日本の自覚を促した、
近年米国で邦人の排斥事件が頻出しても、
日本人は昔時米国人が本邦人に対し勘忍したる厚意を忘れぬ為めに
何等米国を恨んでは居らぬ、
而巳ならず移民も紳士協約を締結して労働者の渡米さへ禁じて居る、
此の如く一切万事米人の感情を害せざるに努むる事
恰も六十七年前の借金を今日 米国に返還しつつあるのである
更に詳しく云えば米国は波理(ペリー提督)やタウンゼント、ハリス公使以来
日本に投じた無形の資本を現に返還されつつあるのだ、
歴史は此の如く日米の間は切っても切れぬ間柄である、
然るに今日 米国に此歴史を無視し日本人の心理状態を誤解し
自ら日米親善を破壊せんとするもののあるは甚だ惜しむべき所である、
併し乍らこれは米国の人種が四十年以前と異なるが為めである
四十年前の米国は四民平等なりとの国祖ワシントンの子孫であった
それが四十年前頃から欧州諸国の移民が滔々と流れ込んできた、
是等新移民の多くは選挙権を獲得した結果、
米国建設の歴史をも顧みず十三州建設当時の少数国民の子孫を圧倒するに至った、
此の新米国民の眼中には日米の歴史は無い
単に日本人の生活程度低く、勤勉にして且つ其の賃金は低く、
英語も亦十分に話得ざる点だけ見える、これが異分子として嫌われる所以である、
併し乍ら予は確信す米国人が少しく胸襟を開き
在米日本人に其の市民権を与えんか
必ずや日本に於て忠良なる国民たるが如く
米国に於ても亦忠実なる国民たるを疑わず、
一、二日本人の行為を見て直に全日本人の心理や行為を律せんとするは
米人の為めに取らざる所である、
故に米国民は先づ日本の歴史と日本人の性向とを
詳に研究するを要するのである、以下略 】
引用
ここに、明治三年(1870)一月十三日の
“横浜報知もしほ草(新聞)”の記事によると、
中国のアヘンによる窮状を記述したのち、
次のような件があります。
【○爰に日本国にとりて、
幸ひ中の幸ひなり。
十有余年前、我亜國初めて此地に渡来し、
それよりしてハルリス君の手にて、
双方の協議を盡し、条約最初に取結ばれたり。
かのハルリス君には、いとかしこくも
インデアのアヘンを此国に輸入することは
堅く断りたしと、外国人に布告せしかば、
今日迄此地にこの憂へなし。
若も他国人アメリカに先達而、
日本国と条約取締に相成しならば、
かれ等は此地に無用のアヘンを
十分に輸入するに至るべしと思われたり。】
ハルリス氏のお蔭でアヘン(阿片)から
救われた日本と云う事です。
ここに登場します
ハルリス(Townsend Harris)とは、
幕末期に来日したアメリカの外交官
ハリス領事の事のようです。
(*ペリー提督をぺルリ提督と呼ぶに同じ)
▲〖 炎は流れる (明治と昭和の谷間)〗 大宅壮一著
第2巻 P233 昭和39年(1964)文芸春秋新社
【タウンゼント・ハリスの伝記を読むと、
彼の祖母は、独立戦争時代のことを
話して聞かせたあとでは、きっと、
「真実を語れ、神を畏れよ、イギリスを憎め」
と教えたと出ている。
また、ハリスは少年時代に、
英国製のナイフを手にしなかったし、
英国製の布で作った衣服を
きることを好まなかったという。
(炎は流れる第二巻P233)】
▲炎は流れる 第2巻 P241
【 中国にアヘンをもちこんだイギリス人を憎み、
日本に中国の轍を踏ませたくないため、
「アヘン禁輸」を条約の一条項として明記するこ
とをすすめたのも、
日本への深い愛情、彼(ハリス氏)の心の底にひめられている強い理想主義
から出たものといえよう。】
〖本阿弥行状記(中央公論美術出版)〗
**
【一三九 毎年来朝の阿蘭陀人甚だ天文に功者なるより、
何万里の瀾の上を来りて難船をせざるは、
天文に通ぜし故とぞ。
惜むらくは貪欲に走りて
一生を過す事蠻夷の風俗なるべし。
彼が持来る品稀なるもの多き中に、
阿芙蓉(一名 阿片)
此品甚だ高料の奇品にして、
閨房の楽にせんと(字しれず ひきのあぶら抔とやら)
用ふる薬なりと。
度重るときは病となる。
いらざる奇品なり。
阿芙蓉はけしの花の少しひらきかかりの花をむしり、
六七歩のけし坊をあつめて銀の器にしぼりこみ、
日に干し候物とぞ。
凡田三反計りのけしにて、漸く懸目三匁ばかり出来候とぞ
(本阿弥行状記P91~P92) 】
何故、清国にあれほどアヘンが蔓延したのか?
アヘン戦争という世界史的大事件がありました。
此の歴史的事実は、解明されるべき
人類にとっての大きなテーマです。
▲近代日本建設のために、ハリス氏やフェノロサ氏はじめ、
どの位多くの外国の皆様方に応援していただいたのか、
もっと外国の功労者を紹介したいと思います。
小笠原島の世界遺産登録決定をお祝いいたします。
ここに、小笠原島の開拓の恩人を紹介致します。
▲明治16年(1883)2月24日 朝野新聞
〖 プロスパレスワ―氏に青綬褒章 〗**
▲明治4年(1871)8月2日 太政官日誌
〖 北海道開拓の最高顧問として
米国農学者等三人を招聘 〗
・美術雑誌 美術之日本 大正7年(1918)・同 大正9 年(1920)・同 大正10年(1921)
**
**
**・近代日本絵画の旅/河北倫明著/1971刊

・美術之日本
**
・日本美術院百年史
**
◆外的素因~フェノロサ氏はじめ、ドイツ人ワグネル氏、イタリア人キヨソネ氏、アメリカ人ビゲロー氏
等の方々による好意的日本美術の称揚
・戦後生まれの私共は、
「日本画」という言葉のゴッドファーザーのような
フェノロサ氏に焦点を当てて見て来ましたが、
昭和19年3月発行の
「明治 大正 昭和日本絵画史(?大日本雄弁会講談社刊)」の37頁には、
当時の空気感を伝える重要な指摘があります。
日本固有の美術・工芸の尊重すべき事を力説された外国の人々に、
ドイツ人ワグネル氏、イタリア人キヨソネ氏、アメリカ人ビゲロー氏
の皆様を紹介して居ます。
【 そうして、フェノロサ始め、
開成所の教師独逸人(ドイツ)ワグネル、
印刷局勤務の伊太利人(イタリア)キヨソネ、
またフェノロサに親しき米人(アメリカ)富豪のビゲロ―
などいう人々が、
次ぎ次ぎに日本固有の美術、工芸の尊重すべき事を力説するに至ったのは、
当時の官民に多大の感動を与えたと言わねばならない。
何分、崇外思想の充ち満ちていた時代丈けに、
彼等の言動の影響は特に大きかった。 】
▲昭和19年3月発行「明治 大正 昭和日本絵画史 ?大日本雄弁会講談社刊」
**
**
***
つづく*********************************************************************************
「引用」 2011・3・11 ~ 追記
**
『「美術真説」は英語で行った講演。
草稿は見つかっていないが、
前年の同内容の講演草稿は、
米国のハーバード大学に残っており、』
とあります。
その”前年の同内容の講演草稿”について触れた記事は、
下記の記事でしょうか?
明治14年10月24日(1881)東京日日新聞追記2011・3・28
KURENAI : Kyoto University Research Information Repositoryを参考にします。
◆『美術真説』とフェノロサ遺稿・英文学評論 (1983) 村形明子氏
「明治10年第一回内国勧業博覧会の際牙角彫刻家金田兼次郎,石川光明,旭玉山ら
20数名が相互の知識交換,作品批評による実技向上を目ざして
月例研究会を組織した。
毎月20日金田宅へ集まっていたが,会員増加のため
翌年会場を不忍池弁財天境内長舵亭へ移し,
12年規約を制定して勧工会と称した。
14年竜池会幹部塩田真,岸光景等の賛同を得,
彫刻競技会と改称,河瀬秀治を会頭に推して
学識家,実験家,考案家(デザイナーか)等の講話,
フェノロサの講演
を催した(内藤政宗編『東京彫工全史』[昭和2年1,1-2頁)。
この会は画家よりも彫刻・工芸家の集まりであるが,
「『東京日日新聞』(明治14年10月24日)の
昨23日柳橋の萬八楼にて大学理学部教師米国人
フェネローサ氏
画学の演説あり云々」
という記事は彫刻競技会月例会の報告であろうか。引用
『東京日日新聞』(明治14年10月24日)
「昨23日柳橋の萬八楼にて大学理学部教師米国人
フェネローサ氏画学の演説あり云々」
の続きの記事は下記の記事だと思われます。(Author)
明治14年10月24日(1881)東京日日新聞
また,この年4月10日に始まる「講演I・Ⅱ」および「講演(Ⅲ)」,「講演Ⅳ」
が画家を対象としていることは明らかであるが,
これらの連続講演と彫刻競技会月例会演説,
10月23日の画学演説とは無関係なのだろうか。
こうした疑問に答えることが
「講演I・Ⅱ・(Ⅲ)・Ⅳ」の正しい位置づけ,
そしてそれらの
『美術真説』
との係わりを理解する手がかりを提供するものと思われる。
ここで,上の論考において殆ど触れなかった新出草稿の後半24頁
「美術に関する連続講演総括-十格の詳説を終えた直後,下条の反論に答えて-」
に注目しよう。
フェノロサに反駁した下条[正雄]は
桂谷と号する北宗画家,
海軍省主計官で竜池全幹部,
明治17年第二回内国絵画共進会等の審査官をつとめた。
ここでフェノロサは自らの見解が西洋の観点のみに基づくのではなく,
東洋の画論をも深く研究した上の所産であること,東西絵画の根本的相違は
それぞれの起源-書と彫刻-に由来することを確認した上で,
彼の「十格」を中国の謝赫『古画品録』の
いわゆる「六法」と同一視する見方に対し反批判を加えている。
フェノロサが冒頭で名指している下条と「前回私の次に登場」,
「私の立場に疑問を提起」した「学識ある講師」が同一人物なのかどうかは
今一つはっきりしないが,彼の連続講演が必ずしもその独壇場ではなかったこと
を示唆して興味深い。
<下条は後に鑑画会におけるフェノロサの指導についても反論を加えるが,
下条氏談として紹介されている次のようなエピソードは
批判者の側から見た真相の一端を伝えている,と考えてよいだろう。
「曽て築地の本願寺で竜池会のあった時分のことである。
フェノロサは演説して
日本画に船を上景に描いて,
地平線を下景に描いたものが多いが,
此等は自然の道理に違背した非科学的のものだと言った。
**
**
**
**
左から䔥亭春重(江漢)「美人納涼図」・歌川豊広「桟橋の二美人図」・鳥居清長「美南見十二候 四月汐干」・葛飾北斎「汐干狩図」≪以上 「日本の美術」・至文堂発行≫
◎クロード・モネの「サンタドレスのテラス」と
葛飾北斎の冨嶽三十六景「五百らかん寺さざゐどう」**
*葛飾北斎の冨嶽三十六景「五百らかん寺さざゐどう」に影響を受けたといわれるクロード・モネの「サンタドレスのテラス」。北斎の構図は、彼方にある地平線を意図的に高く設定し富士の存在感を強調した。モネの作品と北斎の作品の構図が同じである。モネは、ルネサンス以来の遠近法によらなくても自然で独創的な空間を構築できる事を北斎から学ぶ。(参考・NHK”知られざる在外秘宝”より)
其折下条氏は白く,
日本画で船を上景に描くは,
懸物が竪幅である制約上当然であるが,
また遠景の船などは上部に位して見える者だと反駁した。
フェノロサは頑として聞かなかったので,燭台を海岸に出し,
品川の台場を望み,実験上遠景の船が高位に見えるので,
流石の科学先生も下条氏の意見に敬服した
ことかあったそうな。
(梅沢精一『芳崖と雅邦』【純正美術杜,大正9年】151頁)】」
このエピソードが「以前の講演で,新しい美術がその純粋性を失わずに外国
美術から借りることのできる幾つかの要素,特に風景画における折々の陰影,
科学的邪魔物ではなく本能としての透視画法について話しました」というフェ
ノロサの言とどういう関係にあるかは別として,それが竜池会の出来事として
語られていることに注意しよう。竜池会にフェノロサと画家下条が上のような
議論をする場があったとすれば,それはフェノロサ連続講演の舞台として彫刻
競技会より適当であることは確かだろう。それとも明治14年竜池会有力幹部の
賛同を得,河瀬秀治(竜池会創設時の副会頭,明治18年鑑画会会長)を会頭に
迎えた彫刻競技会は,フェノロサにとって画家中心の鑑画会の前身,竜池会か
ら鑑画会への過渡期の橋わたし的存在でもあったのだろうか。
いずれにせよ,フェノロサは「講演(Ⅲ)」において
「真実で論証可能な中国の六法のすべてを包含」し,
「この六法を理性の眼で敷桁,解釈すれば,すべてと言わずとも殆どを含ませ得る」
ものとして,彼の絵画批評の規準である十格を説いたのである。
「宋の郭若虚はそのすぐれた画論[『図画見聞誌』]に
おいてまさに私の立場,即ち気韻という特質は文字通り精神の優秀性,
私のいわゆる観念性であること,これは表現のあらゆる筆法や技法が気韻から生じ,
その必要に応じて相互に関連従属し合う時はじめて絵画の中に達成し得る,
ということを慎重に論述しようと努めています」。
またフェノロサの主張は「ヨーロッパの言葉で書かれた本」の中に見つかる
べくもなかった。ヨーロッパの見方だけでは東洋の見方だけに劣らず不完全で
ある。彼の目的は「哲学的研究」によって東西双方における「本質的なもの」
を見出し,それを証明することであった。「私の意見中どの論点も立証に依存
しており全体が合理的に証明されていますので,臆測の余地は皆無です。
‥・・数学が万人にとって同じものであるように,
私の美術に関する連続講演も理性の権威に基づいているのです」
従って反論は,彼の「論理の基盤を直接危うくする限りにおいてのみ」
意味を持つ筈であった。
東西の過去の画論を総合し,時代の最先端を行く理論としてこれほど熱意と
確信をもって提出されたフェノロサの「絶対的美術哲学」は,
日本人識者の間にそれなりの反撥を招いたとしても,
合理的近代批評精神確立の上で十分啓発の役割を果たした,
と言えるのではないだろうか。
最後に,『美術真説』中の訳語で善美,簾集,妙想等ルビのある言葉は
極めて限られている。
次に掲げるフェノロサ遺稿のtranscriptとの照合により,
明治翻訳語の研究にも役立てることができれば幸いである。
拙著『ハーヴァード大学ホートン・ライブラリー蔵
フェノロサ資料?・美術に関する講演・鑑画会関係資料』
には前・後半を併せた全訳を収録するが,ここに紹介する
transcriptは『美術真説』と密接な係わりを持つ
前半の「講演」のみにとどめる。
なお「東京の美術家達を前にした美術に関する講演1.1881年4月10日」,
「講演?」も鑑画会等の美術講演とともに全訳を第二巻に収録する予定である。
1日本フェノロサ学会『会報』6(1983年8月),1頁参照。
2事実,フェノロサ自身後の鑑画会講演で次のように述べている。
「私は既に何回か,日本の色々な会を前に
この点[完全な絵画の必要条件としての諸特質=十格]に関して
講靖を行ったことがあり,
その大意については二年前竜池会が発行した
私の講演の翻訳[『美術真説』]があげられます」
(「日本絵画の将来(1)」一明治17年5月11日-)。*Author; 以上 村形明子氏の1983年発表の論文をインターネット上で見つけ,参考にさせて頂きました。【御参考】
(「日本絵画の将来(1)」一明治17年5月11日-)。 の記事ではありませんが、
次のような記事があります。
▲明治18年1月25日 東京横浜毎日新聞
〖 日本画の将来 〗
明治18年1月25日 東京横浜毎日新聞
【米人フェノロサ氏は、
本日午後二時より神田神保園に於て、
日本画の将来と云へる題にて講義するよし。】
私共も1997年からLife-size出版を通じて「日本画」の言葉の由来を研究しています。
インターネットも2009年5月から始めました。引用
△日本美術協会役員審査員一覧(委員長 下条正雄/委員副長 荒木寛畝)
△国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードA10110089300
△下条正雄(桂谷)氏訃報(大阪朝日新聞/大正9年12月2日)**
**
「日本絵画三代志・石井柏亭著/昭和58年刊・ぺりかん社」**
**
△日本画大成 大正篇・下条桂谷筆/昭和8年(1933)刊**
**
**
**
▲大正8年9月8日 都新聞 (帝国美術院会員選出時に於ける下条の動向)
〖Author;村形明子氏の1983年発表の論文をインターネット上で見つけました。
”10月23日の画学演説”の記事を載せました。御参考にしてください。
その後、新しい資料の発見でもあったのでしょうか?
私共は”日本画”という言葉の誕生について研究しています。〗〖御参考〗
▲明治16年3月2日 東京日日新聞(新聞集成 明治編年史)
≪東西絵画の優劣比較,油絵と文人画の糾弾等かの竜池会講演の核心≫
とされる事に関する記事**
【 西京建仁寺の天章和尚居常に
人に挙示して曰く 腐儒と文人画は国の蠧賊なり、
腐儒は人の心を惑わし 文人画は絵の真を紊る、
故に予之を悪むこと蠅の如く蛆の如しと、
当時聞く者皆其事の滅法界なるに駭きしが、
今にして思えば果たして然り、
腐儒の迂なる者は化して国会嫌いの頑論者となり、
其黠なる者は変じて急激の偽民権家となる、
扨又た文人画も一時は後素社会に跋扈して
幾ど我邦絵画の美を損じ盡せしが、
幸いに去年の共進会ありて世人も稍目を醒し、
蕷薯の山何首烏の石の厭うべきを知り
此を美術中より駆逐さんとの念を生ぜり、
されば彼の頑迷急激の二者も、廿三年国会開設の期に至らば
果して社会を蠧毒するの最大害物たるを知り、
三千五百万の兄弟らが杖を執り棒を提げて
此を其の中間より逐い払わんとするや疑いなし。
我々は早く此の政論家共進会開設の日に遇いて、
彼らが西の海に追儺はるヽの態を見んことを切望すとの投書あり、
世の此書を見るもの又滅法界の言なりとして驚くや、将た微笑首頷するや。 】
≪当時聞く者皆其事の滅法界なるに駭きしが、
今にして思えば果たして然り、・・・・≫
とありますが、
もし勤王僧の天章慈英(てんしょうじえい・1815-1871)和尚のことを
懐旧しているのならば、
1882年の「美術真説」フェノロサ氏に先立つこと10年以前に
”腐儒と文人画”を指摘していたのです。
~~~~++++++++~~~~
Author 2011・3・11 ~ 追記
≪ 合理的疑問 ≫
7月1日(2009年7月1日時点)に近所の図書館から
“<日本美術>誕生”
(1996年12月10日第一刷発行
著者 佐藤道信 発行所㈱講談社)
を借りてきました。
気にかかる個所は
『日本画と洋画が相対概念として
現われはじめるのは、
明治10年代後半である。
「日本画」の語がはじめて現われるのも、
明治一五年フェノロサが龍池会で行った講演
「美術真説」(小冊子として刊行)で使われた、
Japanese painting(picture)の翻訳語
としてだった。
伝統絵画を示す「日本画」じたいが、
西洋からのイメージ(英語)の反転(翻訳)
として成立したのである。』
一読後の感想は、
Japanese painting(picture)と書いてある不思議さ。
この本の出版は、
1996年12月10日第一刷発行とあります。
この本の出版1年前の
1995年9月1日の朝日新聞夕刊には、
“日本美術誕生”の著者(佐藤道信氏)も
写真入りで紹介されています。**
その朝日新聞夕刊(1995・9/1)の
“学問を歩く/揺らぐ
《日本的な美術》上”
という記事の中で、
『「美術真説」は英語で行った講演。
草稿は見つかっていないが、
前年の同内容の講演草稿は、
米国のハーバード大学に残っており、
<日本画>に対応するのは
「Japanese Pictures」
だという。
<日本画>の流行は、英語の翻訳語が
もとだったと類推される。』
とあります。
朝日新聞夕刊には
<日本画>に対応するのは
「Japanese Pictures」だという
と明確に複数形で書いてあります。
それなのに、一年を経過すると
何故、 <日本美術誕生>という御本では、
“<日本画>の語がはじめて現われるのも、
明治一五年フェノロサが龍池会で行った講演
「美術真説」で使われた、
Japanese painting(picture)
の翻訳語としてだった。”
と載せるのでしょうか?
なぜ、2種類の言葉を併記するのでしょうか?
Japanese painting と
Japanese picture では
各々意味が違います。
直訳すると、
“日本絵”、“日本の絵”と
“日本絵画”、“日本の絵画”です。
“日本画”と云う言葉ではありません。
不思議でならないのです。
出所は同じ”美術真説”なのに、
専門家らが指摘する
<日本画>に対応する英語が
○Japanese painting
○Japanese picture
○Japanese Pictures
という具合に、3種をあげておられるのです。
この状況を例えてみると
あるペットショップでの出来事です。
チワワとブルドッグと複数のシェパードたち、
これら3種の犬たちが店頭に並んでいます。
客 「この小さな犬の犬種は何ですか?」
店主「柴犬です」
客 「この中位の犬種は何ですか?」
店主「柴犬です」
客 「この大きな複数の犬たちの犬種は何ですか?」
店主「柴犬です」
客 「では、柴犬の特長は何ですか?」
ざっとまあ、こんな具合の状況と思います。
“あいまいだ”
という言葉はこういう状況下で
使われるものではないでしょうか?
さて、
美術真説は、上記3種の英語の内、
本当は、
どの英語が<日本画>と対応しているのか?
ここに、合理的疑問の発生する余地があるのです。
本当に、ハーバード大学に残されているという
“美術真説”の講演草稿を実見されたのか?
それを関係者に問いたいのです。
<日本画>と云う言葉の誕生に、
翻訳という作業が、どうかかわったのか?
≪ 空気感 ≫
*倭画師音樫→大和絵→日本画師 菱川師宣→日本画 奥村政信 図→日本画士 菊池容斎→近代の日本画 という歴史的流れ
*西洋画(西洋画談)→西洋画士 司馬江漢→洋画会(明治8年10月の記事)→西洋画(明治22年/久保田米僊の記事)という歴史的流れ
【 資料1 】
〖 美術真説 〗明治15年(1882)フェノロサ氏演説**
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〖 畫(画)・日本畫(画)〗と〖 繪(絵)・油繪(絵)〗の使い分け
*西洋画と日本画は二つで一セットの対概念として成立したのか?
<東洋一般の画>と<西洋の油絵>P327下段
<東西両洋(日本及び欧州)の画風> P328中段
<欧州画家 P328中段>と<日本画家> P331上段
▲郵便報知 明治6(1891)年2月
*西人、西畫(画) と 美術真説327頁 上段 1行目に”西人”とある
◆「西洋画」「洋画」という言葉の初出文献は何なのでしょうか?
・寛政6年(1794)<新井成美(白石の子孫)「西洋紀聞」を幕府に献ず>
・寛政11年(1799)<司馬江漢こと=浮世絵師 鈴木春重「西洋画談」を著す>
その文面
【 世の人西洋画を惟浮画と覚えたる輩多し 棒復にたえざる事と云うべし。 】
京都大学付属図書館「西洋画談」という名前でインターネットに公開されています。
6/11頁の画面を参考にしました。
・高橋由一(文政11年1828~明治27年1894)「洋画局的言(洋画+局+的言)」を著す
・高橋由一の油絵< 洋画会 > 明治8年10月8日 東京日々新聞 新聞集成明治編
【御参考】
・寛政8年(1796)相州鎌倉七里浜図
<西洋画士(西洋画+士)司馬江漢作品>
(日本の美術210号 昭和58年 至文堂発行
▲明治8年10月8日 東京日々新聞 新聞集成明治編**
【 一昨六日に竹川町十二番地の国澤某の稽古場にて、
洋画会ありしに、
西洋人の画きたるは何れも皆名筆にて、
日本人の写す所も、多くは西洋人の画を模したる者多かりし中に、
有名なる高橋由一の画きたる乾魚の図は、尤も妙なりとの評判あり。
近ごろ呉服町の玄々堂にても、油絵の稽古を開きしに、
横山、亀井諸子の画く所は、既に洋人に譲らずと云へり。 】
▲明治16年(1883)11月4日9日 東京絵入新聞
〖 西洋蝋三千丁の光力ある電気燈 電信局製機係で製造 〗
▲明治22年(1889)2月9日 大阪毎日新聞
〖 久保田米僊洋行す 〗日本画・西洋画
≪東京美術学校~明治22年(1889)2月 開校日本画(文人画を除く)・木彫・彫金の3科を設置≫**
**
明治22年(1889)2月9日 大阪毎日新聞
〖 久保田米僊洋行す 〗
【 京都の画家 久保田米僊氏は、
本年四月仏国巴里に於て開ける万国大博覧会に臨場のため、
来る十五日京都を出発東京に赴き、同地にて一週間許り滞在、
夫れより横浜に出で、仏国郵船に搭じて渡航する都合なるが、
氏は暫時佛国に滞在し、日本画の拡張を謀り、
併せて同国西洋画の状況をも実視し、
帰朝の上は日本画の改良を謀らるるの目的なりといえり。 】
・貞享初年(1684)<日本画師(日本画+師)・ 菱河吉兵衛師宣(浮世絵の始祖)>
(芸術新潮、1988/3)
◆洋剣(サーベル)と日本刀は
二つで一セットの対概念として成立したのか?
<例として>
・1060年ごろ唐宋八大家の欧陽修が
日本刀歌
という漢詩を作っています。
洋剣(サーベル)という言葉が生まれて、日本刀という言葉が誕生したのでしょうか?
▲明治5年11月(1872)新聞雑誌七○ 日本刀
▲明治10年10月6日・浪速新聞 〈桐野利秋の洋剣(サーベルとルビ)〉
***
◆西洋画と日本画は
二つで一セットの対概念として成立したのか?
<例として>
倭画師 音樫/日本書紀・天武天皇六年(678)
日本画師 菱河吉兵衛師宣・貞享初年(1684)/芸術新潮、1988/3
日本画士 菊池容斎
【 菊池容斎/天明8年(1788年) - 明治11年(1878年) 】
・昭和7年・日本画大成・明治編1*
**
*
*
◆ 「洋画」「西洋画」という言葉の初出文献は何なのでしょうか?
◆「天明年間の油絵1781-1789」明治12年9月5日 有喜世新聞
・新聞集成 明治編年史**
【 日本画 】という言葉を記した初出画?
◆ 日本画 奥村政信 (日本画大成)**
**
**
〖 六曲屏風一隻。款に『日本画、奥村政信 図』とある。
従来の日本絵又は大和絵を、茲では日本画と書いている。〗 (日本画大成)
◆ 日本畫師(日本画師)
・日本画師 菱河吉兵衛師宣 貞享初年(1684)
(芸術新潮、1988/3)
・日本画師 奥村政信 ”太夫禿図” 延享ころ(1744 ~48年頃)**
◆【 日本繪(絵)】 (日本画大成)
< 日本繪(絵) 宮川長春 >**
**
〖 款に『 日本繪(絵)宮川長春図 』とあって、
この款識は全く菱川師宣に倣ったもので、
ヤマトエを日本繪とさえ書いている。 〗
◆『 日本繪菱川師宣 』<日本画大成>
<日本画大成の内容>昭和8年刊 発行所 東方書院立姿美人図**
**
〖 款に『 日本繪菱川師宣書畫 』とあり、
賛に『 恋せずば、人は心のなからまし、
ものヽあはれも、これよりぞしる(藤原俊成) 』
の和歌を記している。
款に特に日本繪(絵)とあるのは、
師宣から初めて菱川の流れを汲むものヽ好んで書いたものである。
その特に日本繪と強調したところに見識があるので、
唐絵(又は漢画と言うも同じ)でない、
日本の純粋画であるということを表明しているのである。
言い換えれば当時全盛の狩野派の畫(画)に対峙して、
よく大和絵の存在を明示したもので、
大和絵の行く道を、特に美人風俗画(謂ゆる浮世絵)に発見した
師宣の精透な観察には、歎賞に余りあるものである。 〗
◆日本独特の様式美を絵画化した大和絵(浮世絵)**
**
*懐月堂安度
【 ここで注意すべきは、鳥居清信、懐月堂度繁、の作品にみるように、
絵師自身は、”大和絵師”“日本戯画”などを署名に冠して用いて、
けっして自分から浮世絵師何某ということはなかったことである。
この“浮世絵”あるいは”浮世絵師“という文字は当時の人々が、
浮世傘、浮世ござなどと同じ軽い気持ちからつけたものが、
現在では一つの固有名詞となったのであろう。
今日では浮世絵とは、庶民的大和絵であるという解釈が一般定説となっている。
(*カラーブックス99頁 昭和38年 保育社発行 ”浮世絵” 菊池貞夫氏著) 】
◆大和絵・大和画**
大和絵古山師重図<日本画大成>**
![]()
大和画師 奥村利信「風流うかれ馬かた」(ビクトリア・アルバート博物館蔵)
◆明治35年(1902)1月18日
日本新聞〈新聞集成 明治編年史〉
<美術真説>の出版人 龍池会員 松尾儀助氏の記事**
【 日本繪(絵)】という署名
?菱川師宣筆 立姿美人図と観花図 ?男女図 師宣筆 ?美人若衆図 師宣筆 ?美人図 師宣 ?見立源氏若紫図?柄えらみ図 ?放下師図 ?風俗屏風 ?美人読書図 菱川師房筆 ?風俗屏風 菱川師房筆 ?鏡台美人図 菱川師秀筆 ?婦女図 宮川長春筆 ?柳下美人図 宮川長春筆 ?汐くみ図 宮川長春筆 ?乗鶴美人図 宮川長春筆 ?遊女聞香図 宮川長春筆 ?雪中三美人図 宮川長春筆 ?官女図 宮川長春筆 ?伊勢図 宮川長春筆 ?若衆図 宮川長春筆 (21)紫式部図 宮川長春筆 (22)舟あそび図 宮川長春筆(23)婦女図 宮川長春筆 (24)婦女図 宮川長春筆
?**
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【 大和繪(絵)】という署名
?古山師重筆 美人図 ?菱川師政筆 風俗絵巻 ?
?**?
【 大和畫(画)】という署名
?菱川和翁筆 演戯図
?
【 大和繪(絵)師 】という署名
?古山師政筆 楠公決別図
?
【 大和画師 】という署名
?奥村利信「風流うかれ馬かた」(ビクトリア・アルバート博物館蔵)
?〖 フェノロサ氏の記事 〗
▲明治17年(1884)4月1日 東京日日新聞 フェノロサ氏の雅号 新聞集成 明治編年史
▲明治18年(1885)9月30日 東京日日新聞 フェノロサ仏門に入る 新聞集成 明治編年史
▲明治42年(1909)8月30日 東京朝日新聞 フェノロサ氏の亡骸 新聞集成 明治編年史
▲大正9年(1920)フェノロサ氏の回忌 美術之日本 美術之日本
▲大正9年(1920)9月 フェノロサ博士記念祭と未亡人 美術之日本
▲大正9年(1920)11月 日本美術の恩人フェノロサ 美術之日本
▲大正10年(1921)2月 日本美術の恩人「日本美術協会報告」 日本美術院百年史所載**
**
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〖 ドイツ人ワグネル氏、イタリア人キヨソネ氏、アメリカ人ビゲロー氏 〗
戦後生まれの私共は、
「日本画」という言葉のゴッドファーザーのような
フェノロサ氏に焦点を当てて見て来ましたが、
昭和19年3月発行の
「明治 大正 昭和日本絵画史(?大日本雄弁会講談社刊)」の37頁には、
当時の空気感を伝える重要な指摘があります。
日本固有の美術・工芸の尊重すべき事を力説された外国の人々に、
ドイツ人ワグネル氏、イタリア人キヨソネ氏、アメリカ人ビゲロー氏
の皆様を紹介して居ます。
【 そうして、フェノロサ始め、
開成所の教師独逸人(ドイツ)ワグネル、
印刷局勤務の伊太利人(イタリア)キヨソネ、
またフェノロサに親しき米人(アメリカ)富豪のビゲロ―
などいう人々が、
次ぎ次ぎに日本固有の美術、工芸の尊重すべき事を力説するに至ったのは、
当時の官民に多大の感動を与えたと言わねばならない。
何分、崇外思想の充ち満ちていた時代丈けに、
彼等の言動の影響は特に大きかった。 】
▲昭和19年3月発行「明治 大正 昭和日本絵画史 ?大日本雄弁会講談社刊」**
**
【 資料2 】≪新聞集成 明治編年史≫
▲元冶元年(1864)四国連合艦隊、下関を砲撃**「炎は流れる」第4巻 昭和39年・文芸春秋新社刊
【 歴史の古さと一王朝の連続性を尊ぶ 日本という国柄の説明者 高杉晋作 】
△「本阿弥行状記と光悦」69頁/中央公論美術出版/昭和56年(1981)発行
"日本国中は神の御末にてみなみな禁裏様の物也”
▲慶応4年正月十日(1868)
〈 日本国天皇 〉
<昭和20年のGHQ占領迄、長い文化的連続性の象徴である天皇>
▲慶応4年四月十日(1868)中外新聞
〈我日本は永久独立国たるべし・日本國中(このフレーズは明治期の時代精神です)〉
【 神田孝平(かんだたかひら)幕末・明治の洋学者。男爵。岐阜県の人。
蘭学を納め、開成所教授。後、兵庫県令・元老院議官・文部少輔。
また、明六社に参加、欧米文化の紹介に尽力。1830~1898 広辞苑 】◆日本畫士( 日本画 + 士 )・菊池容斎
と
油絵師( 油絵 + 師 )・高橋由一
▲明治2年(1869)6月5日 中外新聞
▲1937年初版 日本人名大事典(新撰大人名辞典)平凡社
日本畫士( 日本画 + 士 )・菊池容斎**
▲明治9年(1876)8月22日 郵便報知 ・ 新聞集成 明治編年史
▲明治12年(1879)6月17日 朝野新聞 ・ 新聞集成 明治編年史
油絵師( 油絵 + 師 )・高橋由一**
参考・日本画師 菱河吉兵衛師宣/芸術新潮、1988/3
倭画師 音樫/日本書紀・天武天皇六年(678)
賜 日本画士の印影(菊池容斎1788-1878・賀の祝図)
日本画家(日本画+家) 荒木十畝*
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容斎の「日本画士」号の由来
昭和7年・日本画大成・明治編1
◇〈 日本語と国語 〉 〈 日本画と国画 〉 〈 日本史と国史 〉〈 National LanguageとEnglish 〉
▲慶応3年6月中旬 萬国新聞紙 〈 日本語と国語 〉
▲明治4年8月(1871)新聞雑誌二 〈 日本画と国画 〉
【 明治4年(1871)8月新聞雑誌二
東京本所緑町五丁目角薬種店伊勢喜別宅ニ於テ,
8月15日ヨリ日数15日ノ間、
土石、草木、蟲、魚介、禽獣、奇物写真、国画等ノ展覧会アリ、・・・ 】
【 資料3 】≪新聞集成 明治編年史≫
▲明治14年10月24日(1881)東京日日新聞
〈畫学〉〈日本古畫〉 〈油繪〉
▲明治17年 1月28日(1884)東京日日新聞
日本の繪畫(絵画)
▲明治18年4月24日(1885)今日新聞
日本画 日本絵**
**
**
〖 畫(画)〗と〖 繪(絵)〗の使い分け
Drawing(線画)とPainting(色絵)の使い分け
◇(翻訳工程)
〈翻訳のための参考語を捜す:日本古畫 等〉→日本(古)畫→(古)を抜いて<日本畫>誕生
≪ 日本画という言葉の生まれたわけ ≫
< 国内事情(日本史ほか)を国際舞台で主張する>
▲1990・10/3 朝日新聞
井上は、古事記や日本書紀を例に引き、
明治憲法はヨーロッパの模倣ではなく
「遠つ御祖の不文憲法の今日に発達したるものなり」と
日本の独自性を強調している。>とありますが、
非力の日本丸を欧米に向けて漕ぎだした
新政府幹部の一人、井上の心細い思いが言わせた言葉かもしれません。
いじらしいではありませんか。
これに対し、西園寺(公望)は
「妄誕(もうたん)ノ史(=架空の神話)ヲ
重スルガ如キハ大二国二損アリ」
「学問ナキヲ自白セリ、
梧陰遂二一種ノ偽君子タルヲ免カレズ」と非難。
井上を「村夫子」と、いなか者呼ばわりする記述もあった。
西園寺は、井上の非科学的態度を批判しているそうですが、
どのようにして明日を迎えるかという井上の戦略観と、
明日が抜けた明後日ばかりを夢想する西園寺のアマチュアリズム
との相違でしょうか。
政治はアマチュアが関わるものではありません。
プロがするものです。
一方で次のような見方も紹介させてください。
▲1996・12/5 朝日新聞
日本書紀に「違う伝承がある場合、
『一書に曰く』
として併記している。
こうした民主主義的な記載方法は
世界の古典の中でも極めて珍しいのではないか」
とロシアの研究者は話されています。
「違う伝承がある場合、『一書に曰く』として併記している。
こうした民主主義的な記載方法は
世界の古典の中でも極めて珍しいのではないか」
よく、ロシアの研究者たちは気づかれました。
ここに、「正直で、つつしみ深く、おごらぬ様」があるのです。
日本人の特性です。【意識】
▲「本阿弥行状記と光悦」69頁/中央公論美術出版/昭和56年(1981)発行
"日本国中は神の御末にてみなみな禁裏様の物也”
▲明治2年7月8日 明治新聞・
ローカル色(日本の活花)を強調することで、創造性に寄与する
〖 英皇子来朝の準備 狩野法眼御浜御殿に描く 〗
【英国の王子アルフルト、西洋の8月8日我国の7月朔日着船の日積りなり、
依之御浜御殿御座敷惣金張り付の画を、狩野勝川法眼に被仰付たり、
此入費1万2千両という、
且王子着後天子御浜御殿へ行幸有之はづ、
供奉する諸藩の供まちは、仙台、脇坂、奥平の三屋敷へ被命候由、
王子の饗応に活花を命ぜらる、
寳松庵一玉此命を承たまわると。
外国人は花を愛する事甚しといへども、
日本人の愛するとは異なるなり、
種々の花ぶさを取りて大なる盆杯に盛りて、楽しむ故、
活花はかへって賞翫うすかるべしという、
然れども大花瓶に沢山活たるは又更に珍しかるべしとぞ。 】
【認識】
▲中外新聞 慶応4年 閏四、三(1868・4・3)
【タイムスと名くる新聞の譯
〇日本に於て御門と云う称号は
偏に人の畏服するものと見えたり。
且国人の信仰するや恰も神仏の如くなり。
現在幼年の君を擁してさえ天下に命令を下すの勢い有り。云々】
◆独立を全うすることを目標に、国際的危機感が
「日本画」という言葉をクローズアップさせた。
▲貞観8年7月(866年/この年 応天門の変あり・貞観11年/869年 貞観地震)**
【 この大村直は、蓋し肥前大村家より大典に補せられしにて、・・・・中略
貞観8年(866)7月、
肥前藤津郡大領葛津貞津、高来郡擬大領大刀圭、彼杵郡人永岡藤津、等が、
新羅と通じて兵を挙げんとせし事あり。
幸いに陰謀早く漏れ、事なきを得、
而して是等叛人の私領地は没収され、
其の地は当時太宰帥にて御座せし光孝天皇の御為に
建立せし仁和寺の所領となれり。
これ仁和寺藤津御領にして、大村氏は実に其の庄官たりしなり。
(姓氏家系大辞典/昭和38年・角川書店)】
▲元冶元年(1864)四国連合艦隊、下関を砲撃**「炎は流れる」第4巻 昭和39年・文芸春秋新社刊
【 歴史の古さと一つの王朝の連続性を尊ぶ
日本という国柄の説明者 高杉晋作 】
▲慶応3年(1868)2月中旬・万国新聞紙
〖 米大統領リンコルン暗殺の犯人就縛 〗
≪万延 1年(1860)桜田門外の変、井伊大老暗殺/
文久2年(1862)坂下門外の変、安藤老中負傷
慶応3年(1867)11月15日 坂本竜馬(33)・中岡愼太郎(30)、
アカデミー教育と無縁の才能が暗殺されました。
ここから学歴偏重の日本社会の始まり(Author)
明治1年(1868)英公使パークス、刺客に襲わる
明治2年(1869)新政府 参与 横井小楠、暗殺
明治2年(1869)兵部大輔 大村益次郎 襲撃さる、後 薬効なく没。
明治4年(1871)新政府 参議 広沢真臣、暗殺
明治11年(1878)内務卿 大久保利通、暗殺≫
▲慶応3年(1868)6月中旬・万国新聞紙
〖 米国が日本全土を買収 驚くべきアメリカ人の虚喝 〗
▲慶応4年正月十日(1868)
〈 日本国天皇 〉
▲慶応4年四月十日(1868)中外新聞
〈我日本は永久独立国たるべし・日本國中(このフレーズは明治期の時代精神そのものです)〉
▲慶応4年五月二日(1868)もしお草 新聞集成 明治編年史**
〖 日本は世界で七大国の一 仏国博覧会に於る名誉 〗
【 】
▲慶応4年五月十六日(1868)曽よ吹風 新聞集成 明治編年史
〈然るに日本人何れの諸侯も
朝(朝廷)とさへ唱ゆれば是に従い、主家に向い
敵対し名義を失い不義を行う、是則大弱国の証しなり。
今只日本国において強国と称すべきは独会津のみにて、
名義を確固と建る者は此藩なり、外にあることなし。
此他の諸侯は建れぬもの也。
若吾日本を取らんには多くの兵を用るに足らず、
只千人あらば足るべしと云々〉
▲慶応4年八月二五日(1868)もしお草 新聞集成 明治編年史
〖 何事ぞ!奥羽越の列藩 外国の力を借らんとす 〗
≪河井継之助秋義 ≫の記事**
【 慶応4年8月25日 もしほ草(新聞)
奥羽越列藩より外国諸ミニストルえ文通之写。
(横浜タイムス新聞より抄訳す。
但し原文は漢文にてしたためたるよしなり)】
▲明治3年3月13日 もしほ草 新聞集成 明治編年史
【 日本の高貴のかたがた、
学問修業のためアメリカに行かれたり。
且又日本人の諸学研究の為海外諸国え船出せり。
故に世界の諸事日本に集まることにいたるべし。
〇当時日本人アメリカに旅行することは、
先年中京都え行くより至てすみやかなるべし。
大形の蒸気船は、日本よりアメリカにゆく事、
凡そ15日にして相達すべし。
しかして上等の賄にて250ドルの価なり。
且つ右船運用の代料50ドルなり。
〇故に日本爹々、おのれの子供を外国の学校に送りしならば、
そのもの帰国に及びて、政府の利益たる勤めを取るべく、
立派なる人物になるべし。 】
▲明治7年9月15日 東京日日新聞 新聞集成 明治編年史
【 シンガポールより香港上海等に置く所の英国の精兵20万あり、
若し一旦東方に事あれば調遣甚だ速かなり。 】
▲明治8年3月31日 東京日日新聞 新聞集成 明治編年史
【 日本は一たび西洋諸国と開渉して、
遂にまた止む可からず其利を得て自ら益し、
西洋開花の風を変通して、自国に取り行う。
其進歩の速なることは実に人をして不思議の思いを為さしむ。 】
▲明治16年 1月7日 絵入自由新聞 新聞集成 明治編年史
明治16年1月7日 絵入自由新聞
〖 日本外史をChinaが翻刻して逆輸入 〗
【 頼山陽の日本外史は、
数年前よりChinaに購求するものあれば追々輸出したりしが
此頃彼の国にて学士が評論序跋を加えて翻刻したり。
我邦人の著書を彼国にて翻刻したるはこれが嚆矢にして、
既に去月初旬に輸入したりと云う。
去れど我国の版権ある書の
彼国にて翻刻せしを輸入するは
我国の禁ずる所なれば、輸入せしとの説は如何にや。】
▲明治22年1月10日 東京日日新聞 新聞集成 明治編年史**
〖 二千五百の外人 三千七百万の日本人を支配す
サラケ出された日本の無力さ (一)「ヘンリー・ノルマンの政論」 〗
【 嚮に倫敦べルメル・ガゼット其他ニ三新聞の特別通信員となりて渡来せしヘンリー・ノルマン氏は、暫く我邦に在留して朝野の事情を探索し、一々右の諸新聞に報道したりしが、同氏が条約改正事件に係る報道は善く其情を詳らかにして参考とす可き廉無きに非れば、茲に其全文を訳出して読者の参考に供せん 】
◇治外法権の撤廃、関税自主権の回復を目標
▲明治27年(1894)7月
日英通商航海条約が調印される
明治27年(1894)7月16日、
ロンドンで駐英公使青木周蔵とイギリス外相キンバレーとの間で
日英通商航海条約が調印されました。
同条約は、8月24日批准、同27日公布の上、
明治32年(1899)7月17日から施行されました。
この条約により、領事裁判権(治外法権の一つ)が撤廃されたほか、
関税自主権を部分的に回復し、
「安政の不平等条約」の改正の第一歩がしるされました。
(国立公文書館・日本の歩み より)
▲明治44年(1911)2月
日米通商航海条約が調印され、関税自主権を完全に回復する
明治44年(1911)2月21日、日米通商航海条約が調印され、
4月4日に発効しました。
これにより関税自主権が完全に回復しました。
また、明治27年(1894)に結ばれた旧通商航海条約では、
アメリカは日本移民の入国・旅行・居住について
差別的な法律を制定することができることが規定されていましたが、
これも改正条約で撤廃されました。
ただし、改正条約の調印と同時に、
日本側は日本人労働者のアメリカ移住について
過去3年間実施してきた自主的制限を今後も継続することを宣言しました。
(国立公文書館・日本の歩み より)
▲大正8年(1919)4月15日 東京朝日新聞 新聞集成大正篇**
〖 人種案否決か 日本は飽まで主張 〗
【其筋に対しては過般人種平等案が絶望に陥りしより
帝国委員は平等の二字を削り「正当なる待遇」と修正し】
当時は黄色人種の日本人という限定的見方だったようです。
「人種的差別撤廃提案」を提案しても、とり上げられなかった。
五大強国の一つの”日本”の現状でした。
石の上にも三年したら、また次の石。
中々に欧米との対等という環境整備は至難でした。
◆【 欧米の機械文明に対する危機感と、もうひとつの危機感があったのではないか?
それは、中華文化圏周辺の日本文化という誤解を恐れたのではないか? 】
▲慶応4年(1868)8月25日 もしほ草 新聞集成 明治編年史
【 China政府にて世界一統の附合をなし、後レをとらざるべしと心掛ケ、 】
・「炎は流れる」第2巻 220頁 文芸春秋社刊 昭和39年4月25日
・小泉信三全集 21 「福沢諭吉」26頁 昭和43年5月 文芸春秋社刊
・小泉信三全集 12 「師、友、書籍」52頁 昭和42年8月 文芸春秋社刊**
〖追記 2011・3・11 ~ 〗
つづく
* 荒木十畝(あらき じっぽ)
断固抗議します!
私共のサイト上の写真をクリックすると、赤地の画面に次のような悪意のある文章が大文字で写し出されました。
【 これは報告されている安全でないWebサイトです
Blog―imgs―26,fc2,com
このページを閲覧しないことを推奨します
代わりにホームページに移動します
このWebサイトは個人情報や金融情報を盗み取る可能性のあるお使いのコンピューターへの脅威を含むWebサイトであると報告されました
▼詳細情報 】
以上
< 1月24日午前1時30分ごろ悪意ある文章の画面を発見しました。私共が公開しておりますカテゴリにある他の名前も確認しました。同様の悪現象が起こりました。
私共は退職後も社会参画したいと云う思いで
“日華連合絵画展覧会・暹羅日本美術展覧会、読画会”外のデータベース作りに邁進しています。
先考文献・研究の有無を調べ、ユニークでオリジナリティーのある作品を目指そうと今日までやってきました。
私共の企画段階で確認した事は、動乱の時代に戦争をしながらも、
同時に平和親善を理念に両国連合展覧会を開催したという事実。
人間は信じる事が出来るんだ!”
この事実を伝えたいという思いでスタートした企画です。
21世紀は平和に投資する時代です、21世紀は融和の歴史を求めています、
日中親善・日タイ国親善を理念にした絵画展覧会を実現した読画会に焦点を当ててきたのです。
そして売名行為や営業とは無関係の方針で進んでまいりました。
私共の願いはこれ等のテーマで資料集の追加・充実を次の世代に引き継いでいけたらと思っております。
今回の悪意ある文章の介入によって驚かれました皆様に対しまして、私共としまして誠に不本意な悪結果をもたらしたと、くやまれてなりません。
残念無念でなりません。
旧来通りの安定した情報公開の環境が戻るように願うばかりです。
どうか侵入しないでください。
お願いします。
ここに此の度の経緯を説明いたしました。
2012.1.24 3;26am シルバーネイル
『荒木 十畝(あらきじっぽ) ARAKI JIPPO 』
〖 最新記事 2011・11・8~〗
「東介波瀾万丈」1991・4・8 銀座屋出版社発行**
**
「(岸田)劉生の値は浮世絵関係の店だけで、
一般の美術商では通用せず、
当時、最高は寺崎広業、荒木十畝、木村武山、横山大観、
池上秀畝、小室翠雲等で、
荒木十畝などは当時五万円で千葉の山サ醤油から
屏風一双を頼まれ、それをはねつけたという
画家の気概として一流新聞に一斉に報道されたほど豪勢だったが、
今は逆転して劉生の絵は最高価格であり、十畝や広業の値は消えた。」
◆ はじまり
<▲1991年(平成 3年)6月27日 朝日新聞 朝刊
*1931年(昭和6年)にドイツ・ベルリンで開催された
日本画展の出品作品が60年ぶりに見つけられた。
其のベルリン展の出品作品群から
荒木十畝作品「池畔」図も発見される。
▲1991年(平成 3年)6月27日 朝日新聞
**
**
**
**
**
**
【池畔図】**
**
**
**
**以上 〖秘蔵日本美術大鑑 七 ベルリン東洋美術館〗
1992・2・26発行 発行所 ㈱講談社
*(*Authorは、私費でこの"秘蔵日本美術大鑑 七" を購入しました。)
『NHK特集番組・絢爛!ベルリン・日本の名画』

(上の写真は、NHK放映のフリップです)
この画面には荒木十畝作「池畔」と作家名の並んだフリップが映っています。
このフリップには、新聞報道にある見つかった巨匠10名のほかに、
もう一人小室翆雲画伯の御名前が載っています。
小室翆雲画伯と廣島晃甫画伯の二名が代表使節となり渡独されました。
そのNHK放映のフリップには残念ながら
「小室翆雲」ではなくて「水室翆雲」と書かれているのです。

(上の写真は、NHK放映のフリップです)
また、番組では、荒木十畝以外の9作品は解説・紹介されましたが、
十畝さんの作品(池畔)は紹介されませんでした。
*ベルリン東洋美術館名品展のカタログ(於 京都展 1992/6,30~8,2 )
**
京都であった「ベルリン日本画展」に行きましたが、
十畝さんの作品以外、他の9名の巨匠の作品は展覧してありましたが、
なぜか、荒木十畝の作品展示はなかったのです。
戦前の日本画壇に貢献された”日本南画”の大家である小室翆雲画伯も、
十畝さん同様に戦後になると忘れ去られた存在なのでしょう。
残念無念でなりませんでした。
(上記の模様はDVDやVHSに、この番組を通しで記録してあります)
**** **** **** **** ****
▲平成1年(1989)10月25日
里文出版「昭和画壇の巨匠たち」遠山孝著
▲大礼服姿写真「荒木十畝とその一門・1989年」練馬区立美術館発行
**
** **
<本文>日本美術のよさは、あくまでも日本というか、
東洋的民族基盤の上に立ったものでなければ、優れたものは生まれない。
古くから日本が生んだ花鳥の名画、ことに鳥については、
外国人には真似のできない技法を日本人は受け継いでいる。
古画はさておき、
明治以降でも鳥を題材にした名品は数多い。
生きている鳥、飛んでいる鳥を描きだすことは至難のわざであるが、
栖鳳のスズメ、土牛の鴨、古径の七面鳥などは記憶に残る名品だ。
そのなかでも、荒木十畝くらい鳥を愛し、鳥を描き続けた人はなかった。
東京の長崎あたりの十畝邸を訪れると、だれしも驚く。
広い庭には孔雀をはじめ、ツル、ワシ、キジ、キンケイ、ギンケイ、
そして鴨を中心とする多くの水鳥などが飼われ、
あたかも鳥の動物園のようであった。
十畝は、よく私にいった。
「世界中で鳥が一番美しいといわれるタイやインドにも旅行したが、
色はあざやかであっても、日本の鳥ほど、典雅で品の良い鳥はいなかった。
日本の気候が鳥を住みやすくしているからだと思う」
そして鳥の夫婦愛とか親子愛、友情について話してくれた。
また、それぞれ違った個性を持ち、四季によって羽毛の変化があり、
外面だけでなく、なんともいえぬ内面の美しさがあることを教えてくれた。
私もウグイスを飼っていたが、まもなく死なせてしまい、
飼鳥のむずかしさを知った。
それぞれ個性の違う鳥を飼い、その習性を知るには、
一年や二年くらいでは到底できない。
まして、それを絵にし、鳥を通じて、
芸術家としての生命感を描きだすことは、生涯の仕事であろう。
若い天分ある作家ならば、これに生涯をかけるくらいの人が出てもいいのではないか。
ただ剥製などを見て描いたり、
動物園で写生したものに終ったりしたのではロクなものは出来ない。
幸い古画をはじめ、近代にも立派な名品が残されている。
それを十分に研究し、大自然に生きる鳥を観察し、
現代的感覚をもって描いたならば、必ず現代に通ずる名品が生まれると思う。
十畝は、荒木寛畝の後嗣として、文展開設以来、
池上秀畝、松林桂林らとともに,いわば伝統派に属した。
その後、読画会をつくり、日本畫壇に重きをなしていた。
一方の論客として、私は訪ねるたびに、その画論を聞いたものである。
花鳥を得意とはしていたが、旅行好きで、タイやインドのほか、
世界各国を回った。日本を訪れる外国作家たちも、よく彼を訪れ、
日本画の特長を聞き、教えを受けていた。
十畝は大自然から受ける情感を作品にしたが、
外人画家が自然を見て、その形態的美観をとらえるのとは違い、
日本人は内包的な追及を捨ててはいけないといっていた。
「日本人が大自然に接し、花や鳥の生活に対して持つ感情や、
静と動との調和から生まれる内包的な美を忘れてはならない」
というのは口ぐせであった。
*御参考
「昭和画壇の巨匠たち」の著者 遠山孝氏は、その著書の中で「邸宅は鳥の動物園」と十畝さんのお宅を紹介しています。
また、情報局編集 内閣印刷局発行 昭和16年1月15日発行“写真週報”(国立公文書館レファレンスコードA06031074600)には
「こゝ東京市椎名町、荒木十畝画伯のお宅では日独伊三国のお嬢さんをお客様に楽しいお正月が迎えられました
中略
花鳥画の大御所と云はれる画伯は同時に枢軸画伯とも云うべきでサロンにはムッソリーニ自署の画伯に贈られた写真が飾られてありました」とデリケートなコメントがあります。
十畝さんのお宅の模様が窺える写真を掲載します。
「東介波瀾万丈」1991・4・8 銀座屋出版社発行
**
**
「(岸田)劉生の値は浮世絵関係の店だけで、
一般の美術商では通用せず、
当時、最高は寺崎広業、荒木十畝、木村武山、横山大観、
池上秀畝、小室翠雲等で、
荒木十畝などは当時五万円で千葉の山サ醤油から
屏風一双を頼まれ、それをはねつけたという
画家の気概として一流新聞に一斉に報道されたほど豪勢だったが、
今は逆転して劉生の絵は最高価格であり、十畝や広業の値は消えた。」
**** **** **** **** ****
十畝観の対比
▲ 昭和61年(1986)11月「近代京都美術の創造者たち」橋本喜三著・京都書院
と対比して 
▲大正13年(1924)12月14日 東京朝日新聞
▲大正13年(1924)12月14日 東京朝日新聞
≪婦人参政の叫び 熱烈な期成同盟會発會・・・・・
ガンドレット恒子夫人司会の下に茶話会に移り熱弁を揮い合ったが
(注:ガンドレット恒子夫人は、
婦人の社会的地位向上に尽くされた先駆者の一人です。)
参會者は百五十名、大阪や群馬からも代表が来り
堺真柄、
荒木月畝、・・・・≫*堺真柄女史は、社会主義者、婦人運動家。父は高名な堺利彦。
*荒木月畝女史は、荒木十畝経営の読画会の古参会員です。
【月畝女史は初め古川竹雲に学び、
後ち荒木寛畝に、ついで十畝に師事し、
大正十一年一月から白光堂塾研究会を開き、
同年十一月
白光會と改め、以後展覧會を催して、女流作家のために気を吐き、
月耀會(同じく女流団体)と対峙して、
荒木一門の芸術を宣揚している。】
( 日本画大成・昭和篇 二/昭和8年東方書院刊 )
*当サイトの「読画会の女流画家たち」を御参照ください。
荒木月畝女史が社会主義者の堺真柄女史と同列に新聞に載ることは、
大正期という時代背景を考慮しますと勇気ある行動と思われます。大正12年には(甘粕事件/1923年/大正12年9,16に社会運動家等を不穏分子として
憲兵隊や警察が行き過ぎた取締りに及びアナキストを殺害した事件)や
(虎の門事件/1923・12.27に摂政宮狙撃事件)などが起こる。
大正12年の関東大震災は、昭和20・8.15の廃墟を予言していたかのようです。
その時の気分や、好き嫌いで物事を感情的に判断する十畝さんではないようです。
月畝女史は、十畝さん経営の読画会に「楯つく」会員ではなかったのです。
**** **** **** **** ****
▲昭和53年(1978)4月「河北倫明美術論集」第5巻・講談社
【 保守派の巨頭だった荒木十畝が九浦に向い
「野田君、君のところには日本画を冒瀆する怪しからん奴がおる・・・・」 】
と対比して
▲「小熊秀雄全集・第五巻・創樹社/1978・7月 刊」
「私の楽器の調子は」など名作のある
プロレタリア詩人小熊秀雄氏ですが、彼の美術評論に「堅山南風論」があります。
その中に
《ある美術通が、日本画壇の好人物三点を述べて、
堅山南風氏は、三本の指に折られるうちの一人だと言っていた。
一に荒木十畝氏、
この人はヒネクレ屋ではない、
しかし相手の出方次第で、どのようにでも曲がってでる、
しかし根が実に人柄が良い人である、
次には池上秀畝氏
少し軽忽なところがあるが人が良い、
それから堅山南風氏で、堅山氏は純粋に人が良いとだ
とその人は言っていた》と紹介されています。
高名な左翼詩人が間接的ながら保守派の巨頭十畝さんを好人物として
紹介している所に風趣があります。
▲朝日新聞 2006・5・10 「小熊秀雄賞」公募終了記事
![]()
**** **** **** **** ****
▲ 昭和43年(1968)6月 「京都画壇」橋本喜三著・三彩社
<十畝は京都画壇蔑視論者>VS<栖鳳先生の作品に敬服する>
と対比して 
▲「日本画の新らしい描き方」西沢笛畝著 崇文堂/昭和6年(1931)
*西沢笛畝は、荒木十畝が経営する画塾「読画会」所属の花形画家の一人です。
帝展では審査員として活躍し、
伝統的花鳥画団体「読画会」のリーダー的存在でした。書誌情報 和図書(1/1件目)
他のデータベースへ
請求記号 606-187
タイトル 日本画の新らしい描き方
責任表示 西沢笛畝著
出版地 東京
出版者 崇文堂出版部∥スウブンドウ シュッパンブ
出版年 昭和6
形態 171p 図版10枚 ; 18cm
全国書誌番号 47014282
個人著者標目 西沢, 笛畝 (1889-1965)∥ニシザワ,テキホ
NDC(6) 724
本文の言語コード jpn: 日本語
(読む労を強いて恐縮です)
呈示しました上記数例から十畝さんは頑迷固陋な保守主義者の印象よりも、
弟子たちに理解のある師匠の顔が見えてきます。
その例が、
読画会女流古参会員の荒木月畝が、社会主義者と同列に新聞に載ったり、
読画会のリーダー格の西沢笛畝が、
京都画壇の総帥・竹内栖鳳の作品に敬服する文章を発表する。
これらの様子からは、
十畝さんが経営する「読画会」という花鳥画塾には、
弟子たちに伸び伸びと言動させる、大らかさがあったように見えます。
戦後の十畝さん像は、保守というよりは、保身に力点を置いた
既得権益者グループのボスのようなイメージで語られているのではなかろうか、
何か,作為を感じるのです。
本質的な十畝像には程遠い、負の一面を強調した、
偏向した「荒木十畝像」ではなかろうか?
引用 (大正期の一つの時代背景)
美術之日本,大正5年**羽黒洞,木村東介**美術之日本,大正5年1月**日本画壇争闘史,大正13年**
**
**
![]()
〖 そらおそろしい 〗ということ。
「炎は流れる」大宅壮一著 P175/昭和39年2月;文芸春秋社刊
*(大石内蔵助の印象が
「見たところ小作りで、痩せ型で、梅干みたいな親父」と
江戸後期の『半日閑居』にも出ているが)
わたくし自身も、なん十年にもわたって人物をあげつらってきたが、
こういうのを見ると、そらおそろしくなってくる。
人間のほんとうの能力というものは、なにかのチャンスにぶつかって、
どういう形で出てくるかわからないのだから、
軽々しく断定はくだせないということが、
いまさらのごとく痛感される。
【 人物は来たりて見よ】ということでしょうか。
*** *** *** ***
▲ 昭和38年(1963)「十畝画選」・出版者 荒木いと
**
**
*尾崎士郎氏は「人生劇場」の著者
*「日華連合展」は当サイト「日華(中日)連合絵画展覧会」御参照
*「シャム展」は当サイト「タイ(暹羅)日本美術展覧会」御参照
*** *** *** *** ***
▲昭和23年(1948)6月10日出版/
「十畝先生」金井紫雲著・
発行者 読畫會 代表 西沢笛畝
出版 芸艸堂出版部
昭和23年(1948)6月10日出版
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**
== 「十畝先生」 ==
【 十畝先生 】 金井紫雲著
その中から”美術使節“を転載します。
内容は、
日華連合絵画展覧会 と
暹羅(タイ)バンコックにおける
暹羅日本美術展覧会
について書かれています。
―――――――――――――――――
<美 術 使 節>20P~23P
先生が七十余年の芸術的生涯の中には、
伝うべき事蹟も多々あるが、
その中の一として特筆すべきは
国際的の芸術運動であった、
即ち一は
日華連合絵画展覧会
であり、
一は
暹羅(タイ)国バンコック府
に開催された
日本美術展覧会
であり、先生はともに美術使節として
これに赴き多大の成功を収めたのである。
日華連合絵画展覧会は、大正七年の頃
読畫會員渡辺晨畝氏が永きChina旅行
から帰朝し、同文同種の日華両国は親善
以て東洋恒久の平和と文化の進展を図
るべき責務があり此の際先づ両国の芸
術家が提携してこれに当たるべきを力
説し中国に於てもこれを希望して居る
旨を十畝先生に語ったので、先生も同感
で直ちにその運動を起こすべく計画し、
晨畝氏は日ならずして渡支して彼地の
芸術家を歴訪打診して促進に努め、
先生は内地にあって百方奔走してその計画
を進めた、これは唯に芸術上の交歓のみ
でなく延いては当時悪化の一途を辿っ
て居た両国の国際関係を此の芸術の握
手によって好転せしむべき希望を繋ぎ
得たからである。
同十年晨畝氏は再び帰朝し先生と熟議を重ね、
先生は自ら東西の芸術家を歴訪し、
翌十一年三月一日、
日本中国聯合繪畫展覧会
を天下に発表した、
引用 第1回から第5回までの”日華(中日)連合絵画展覧会(日華展) ”の記事
▲幻の第1回日華展 大正8年(1919)8月26日大阪朝日新聞
▲第1回 日華展 美術雑誌〘 美術之日本 〙
大正10年11月20日発行**
▲大正11年5月6日 東京朝日新聞 第2回 日華展(記事には第1回とある)
▲大正11年5月20日発行 “美術之日本”
〖 最近の諸展覧会 一記者 日華聯合絵畫展覧會 〗**
**
**
▲第3回 日華展 大正13年(1924)5月18日 大阪毎日新聞**
▲第4回 日華展 大正15(1926)年7月7日 大阪朝日新聞**
▲第5回 日華展 昭和4年10月21日読売新聞**
**
*Author「日華展」の詳細は当サイトの「日華(中日)連合絵画展覧会」をご参照ください
即ち発起人としては
小堀鞆音、川合玉堂、竹内栖鳳、山元春挙、
小室翠雲の諸氏外先生とし、賛助員としては徳
川頼倫、渋沢栄一、犬養毅、山川健次郎
氏其他廿七人である。この運動は忽ち四
方に反響があり、中国に於ても非常な好
感と期待を以て迎へられ、
其年五月、中国美術界を代表して
金紹城、
陳師曾、
呉
煕曾
の三氏中国南北作家の出品約三百点を
携へ来り、丸の内東京府庁内商工奨励館
に於て
第一回の聯合展覧会
を開き、空前の盛況を呈し、
翌年は北京に於て開催
渡辺晨畝氏これか代表として渡支し、
また東京に劣らぬ盛況を呈した、
先生この時の出品は「春暖」である。
第二回は翌々十二年四月である、
此の時は先生自ら使節として、
西沢笛畝、飛田周山、
永田春水、松本姿水 等十一名を帯同し
て中国に赴き、
金紹城、
王一亭、
呉昌碩 氏等
と会見展覧会は北京及び上海に開催し
て効果を挙げ、先生は各地の歓迎会や
公私の会合に臨んで火の如き熱弁を揮ひ
両国文化的提携を力説した。
聯合展覧会は、更に日本に於ても上野
の府立美術館に開催され、これまた非常
な盛況を呈し両国々交上に多大の寄与
をなしたのである、
この時の先生の作品は
「雨中牡丹」
であったが、これは北京の
金紹城氏
の襲蔵するところとなった。
先生が活動の中心となって多大の
成功を見た
日華聯合絵画展覧会
は、到る處に大なる反響を見た、
外務省に於ても従来の両国関係が面白
くなかった処から、此の好転を図るべく
日華連合絵画展覧会
の発起人を中心として、東西の芸術家に
呼びかけ、此の運動の拡大を図るべく慫慂し、
昭和元年を以て外務省後援の名のもとに
東方絵画協会
が生まれ、先生をはじめ東西画壇の巨匠
は悉く参加し、こゝに名実ともに芸術上
の挙国一致的一団体は出現し、その主催
のもとに中国から各時代を通じての名画を集め、
日本に存する名画をも加へて、
唐宋元明名画展
が、華々しく上野に開催された。
この催しは古代の名画の展覧会であるが、
現代の絵画交換展を復活するも
将に此の好機を逸すべからずとなし、
先生は昭和四年、再び同志とゝもに中国
に赴き、彼地の有力者を歴訪して、
その年十二月に帰朝した。
然しこの時は、内外の情勢険悪にして、
日華展
の再開を許さなかった、
然し先生の初一念は飽くまでその目的
を貫徹すべく、
第三次の中国行を決行した、
即ち昭和十四年四月出発して先づ北京
に到り、更に上海に赴き、各方面の有力
家を歴訪して六月帰朝し、大なる効果を
挙げようとしたのであるが、折悪しく
China事変勃発して戦乱の巷となり、
遂に今日まで再現の機会に恵まれずに了った、
然し此の行、先生の芸術上に得る處極めて多く、
作品の上には一層幽玄な趣きを加えた。
ここまでで、この本の“日華(日中)連合絵画展覧会”の記述は終わりです。
続いては、「暹羅国日本画展覧会」の模様を伝える記事です。
<美術使節(P23~24)>を転載。
【先生の国際的美術運動の第二は、
昭和六年から七年に亘り、
多大の成功を収めた
暹羅バンコックに於ける
日本美術展覧会の開催であった。
此の運動を計画された動機はかなり古く、
明治三十六年頃、暹羅から多数の留学生が来朝し
各部面に分れて就学したのであるが、
当時先生は女子高師の教職にあったので、
その中
ジョン、ピット、ヌアン、リーの四女学生に日本画を教えることになった、
居ること四年、皆それぞれに絵が描ける
ようになり日本に対する非常に深い理解も
あったので、何時かは自身暹羅へ赴き、
親しく日本画の精神を宣伝したい
と考へて居たのが遂に
昭和六年に至って実現したわけで、

<御参考>
▲昭和11年12月19日 東京朝日新聞
****〖
バンコック大学総長夫人カチャラ・バラタ・ラヤ女史(日本留学当時の名はジョン)〗
**
**
**
◇
◇◇荒木十畝画伯
▲昭和11年12月19日 東京朝日新聞
〖“いが栗娘だった” 懐しむ日本の旧友達〗
【友邦シャム國にあって日本の思い出にひたっている
カチャラ・バラタ・ラヤさん(日本留学当時の名はジョン)は、現に
バンコック大学総長の夫人で、日暹協会理事として両国親善に尽瘁している人
――遠く明治三十五年、日暹親善の声漸く盛んであった頃、
選ばれて日本へ来た数十名の男女学生に交って
ジョンさんは御茶ノ水女子高等師範へ入学した、
時の高峰校長の計らいから附属幼稚園の先生だった
雨森釧子さんが面倒を見ていた、
ジョンさんが「慈母のような優しさで」世話してくれたと
感激しているのは即ちこの雨森先生の事で、
独り身の雨森先生は文字通り実の子同様
何くれと涙ぐましい世話をしてくれたものらしい、
この雨森先生はジョンさん達の知らぬ間に
「一度逢いたい」と口ぐせにいいながら
既に一昨年世を去っている、
「荒木先生」とあるのは当時女高師の絵の先生だった
荒木十畝画伯のことで「鹿村静子夫人」というのは現富士紡績専務鹿村美久氏夫人静恵さんのこと――
<荒木画伯は長崎東町の自邸で語る>
当時の事は私にしてもなつかしい思い出です、
もう子供達も四五人あるそうです、
留学当時は例のシャム式のイガ栗頭で
一寸男女の見分けもつかぬような風態で
その上四人共日本語は全然駄目と来ているので苦労しました、
それでも四年間の間にすっかり日本語も上達して帰国しました
雨森さんとは全く親子のような生活をしていただけに
思い出が深い事でしょう、
外国との親善は全く胸襟を開いて交際してやることだ
という事がこれで証明されますね
<鹿村静恵さんの話>
ずいぶん仲良く遊んだものです
鎌倉の海で一夏泳ぎ廻った事があります、
ジョンさんはとてももぐるのがお上手で、
水から顔を出すとあの変な恰好の髪が顔に垂れ下って、
とても面白い顔になるのが未だに忘れられません】
<御参考>
▲東京朝日新聞 昭和12年8月15日




<美 術 使 節>
幸にして此の計画は外務省の後援もあり
東西画家の力作も少なからず集ったので、
着々として準備を進め湯原柳畝氏
先づ作品を携へて先発し、
先生は糸子夫人と共に西沢笛畝氏を滞同し
十日横浜を出帆、十一月廿日バンコックに
到着して、展覧会には矢田部公使が奔走し、
展覧会場には特に宮城所属のサランロミヤ御苑
の建物二棟を充てられ
十一月三十日の開会式には
皇帝皇后
をはじめ
各皇族同妃、
各省の顕官外交團主要在留内外人二百余名が参列、
翌十二月一日から一般に公開したが、
毎日観覧人数千名に達し、開期中
皇帝皇后
には特に先生夫妻に謁を賜ひ、鄭重な賜餐もあり、
非常な盛況裡に十五日に亘る会期を終へたが、
先生はその携へて往った
「五位鷺」

(暹羅展出品作)

(昭和6年帝展出品作“五位鷺図”)
を皇室に献上、出品の「芍薬」は御買上の光栄に浴した、
此の展覧会は実に日本美術史上空前のことであり、
これが美術外交上如何に絶大な貢献をなしたかは、
日に日に険悪を加へて行った当時の世界情勢の中に、
暹羅国
が終始変らぬ友情を見せたことに依っても
その一班が覗はれるのである。
暹羅に於ける日本美術展覧会はかくて
非常なる成功を見たので、
翌昭和七年夫妻は同国を辞して
先づ印度観光の途に上り各種の佛蹟など
訪ねた上、飛行機によって南洋各地を歴訪し、
熱国の自然をほしいまゝに畫嚢に満たせ、
三月九日帰朝し神戸に着いた、
東京及京都の画家はそれぞれに盛大な
帰朝歓迎の宴を設けて先生長途の労を稿った。
この行の土産として製作出品されたのが
同年五月の読画会展覧会に陳列された
「南洋の月」「熱国双絶」
の二点であった。】
〖 美術使節(P23~24)〗転載了
=================
**********
▲昭和19年(1944)3月25日初版発行 大日本雄辯會講談社刊
明治・大正・昭和 日本絵画史/石川宰三郎
**
**
**
≪ 明治大正昭和 日本絵画史 ≫420頁~421頁
(著者石川宰三郎・㈱大日本雄弁会講談社)
【――国際的美術進出、中華、伊太利、
独逸、泰國―― 日本の美術が、
国際的に海外へ進出した事実は
随所に説いたが、
大正期から昭和にかけて
荒木十畝、
渡辺晨畝
等の努力によって
数次 「日華美術展」
の開催されたのなどその著しきもの。
大挙美術家が渡支した事もあり、
相当の効果を挙げたものである。】
▲ 荒木十畝の訃報記事(昭和19年/1944年9月12日)朝日新聞
**
**
**十畝さんが、亡くなりました。
*** *** *** ***
▲ 昭和17年(1942)
▲昭和 17年(1942)8月18日 朝日新聞
**
▲ 昭和17年(1942)11月17日 朝日新聞社発行 ”美術の秋”

(第5回新文展出品作”煙雨”)
▲ 昭和 17年(1942)6月5日 国民美術研究所発行
[ 読画堂塾 ]
==『日華文化の交流と読画会』==
永田春水
=================
荒木十畝画伯門下の永田春水画伯が、
昭和17年(1942)6月5日発行の
『読画堂塾』という本の中で
「日華文化の交流と読画会」と題して、
“日華連合絵画展覧会”
のことについて執筆されています。
**
**
**
**
**
△『日華文化の交流と読画会』 永田春水
読畫會が日本画の海外進出に貢献し
たことは斯界周知の事であるが、
日華聯合展覧會 や
シャム(タイ)首都開催展
の如きは、特筆すべきことであらう。
私は、第一回日華聯合展覧會が、北京
に於て開催された時に、荒木十畝先生に
随行したので、その関係から日華展に就
いて記したいと思ふ。
関東大震災前から 渡邊晨畝氏 が屢々渡支して、
当時の関東軍司令長官坂西中将の世話で繪を描いていたが、
渡邊氏は、自分だけがChinaで繪を描い
ているといふ小さな事でなく、
日支両国の芸術交流といふ国際的にま
で進展させたいと念願して、
自分が 読畫會々員 であることから、
荒木十畝先生に相談した。

十畝先生は、日頃から日本画の海外進出
といふことを考慮してゐられたので、
渡邊氏の提案を攻究の後、協議一決して、
読畫會がその中心
となり、芸術を通じて、日支の握手をし
ようといふ事となった。
長岡外史中将の斡旋で外務省も積極的
に後援する事となり、
又China側では北京の
金紹城氏
と
渡邊氏
との交誼が厚かった関係上、双方の交渉
は滞りなく進んだ。
金紹城氏
は北京の富豪であり、有識者としての人
望も厚く、又絵画にも堪能な名士であっ
たので、China側の万事は
金紹城氏
が斡旋する事になった。
当時のChinaの大統領は曹錕氏であ
ったが、日華芸術展の計企を聞いて、双
手をあげて賛成し、種々なる便宜を計っ
てくれたので、プランは着々と進行して
行った。
大正十三年三月、日華連合展開催は、具
体化し渡邊氏の東導で我々は渡支する
ことになった。
十畝先生は、Chinaに見せるには、南画
も必要であるとし、
親友小室翠雲先生
にも協力を乞ふこととなり、翠雲先生も
一行に加はられることになった。
一行は両先生の外に、東導役の*渡辺晨畝、
*広瀬東畝、*太田秋民、*宮田司山、*森山香浦、それに私が加はり、
南画系から福田浩湖、佐藤華岳、久保田
翠岳を交へ、又荻生天泉君も之に加はり、
現地に於て在支中の西郷松玉女史が参
加して十三名であった。
日華連合芸術展は北京の中央公園に於
て二十日の会期をもって開催された。
日本側の作品とChina側の作品とが處
狭きまでに陳列されて、日華人の観覧者
が踵を接して集まり
Chinaに於ては有史以来の盛大なる合同
展というので、十五日間の会期が二十日
間と延期されたのであった。
China側では、我々一行を
国賓待遇
をもって歓待してくれた。

大統領の招宴は北京の宮城内で催され
た。曾錕大統領を首め各大臣が列席して、
日華聯合展が、両国の芸術交流の上ばか
りでなく、両国の親善に大きな効果を及
ぼすものであるといふやうなテーブル
スピーチが、各識者の唇から送り出て、
大なる面目を施したのであった。
我々一行は北京滞在中、北京を中心に観
光するの機会をもった。文化殿、武英殿
等に於けるChinaの芸術を鑑賞したり、
萬壽山に西太后の豪華な生活を偲んだ
り、又China大官の案内で、明の十三陵
を訪れ、途中、八達嶺の万里の長城を心
ゆくまで眺めて、興亡の歴史を回顧し、
或は北京郊外の古墳を訪ねたりして、
北京滞在二十日間Chinaの風物に親し
むことが出来た。
又展覧会出品の買約も多く、
私が出品した「小春」と題する作品は、
大統領御買上げの一つに加はったが、
日本畫をChinaの貴顕や各方面に残す
ことの出来たことも亦大成功の一つで
あった。
日華連合美術展はこの第一回展開催
を期として、今後は隔年毎に日支両国で
開催することになり、日本で開催すると、
次回はChinaで開催するといふ計画に
なったが、十畝先生の意見として、日支
美術交流といふ大きな国際的事業は、
私塾 読画会 が中心
となるべきでなく、日支全美術の交流で
なければならぬといふ事から拡張して
「東方美術協会」
と改組して、会長に故正木直彦先生が就
任して、大々的に本格的に日支芸術の交
流の気運を高めることになった。
十畝先生は第二回開催の時にも渡支せ
られて、日華美術交流と国交親善のため
に盡力せられた。
北京に於ける第一回展が終わってか
ら、私達一行は、南支方面へ旅行した。
初めは大同へ行く予定であったのだが、
その豫定を変更して南支行となったの
である。
上海から蘇州杭州の風物の探勝に四
五日を費したり、西湖では、近郊の豪華
な庭園を見に行った。花鳥画の点景とし
てよく描かれる太湖石の面白さに打た
れたり、風雅な建築物に興じたりして畫
嚢を肥し、一ヶ月餘の時日を費して帰朝
した。

その後、日支の美術交流は順調に進展
して行き、Chinaの古名画展を東京府美術館で開催した時の如きは、
Chinaの名画を殆んど網羅するの偉観を
呈し、各方面の絶賛を博した。
あれ位、Chinaの名画を一堂に蒐めたことは、嘗ってない事であった。
而も、唐、宋、元、明の代表的な作品ば
かりで、Chinaの名画が、現在、日本国
に於て珍蔵せられ、完全に擁護されてい
るといふ事実を、Chinaに示すことが出
来て、当時のChina人達は驚嘆したもの
だった。
その後、
金紹城氏が逝去し、
息 金開藩氏
が先考の衣鉢を継いで、この事業に尽力
していたが、
満州事変
が勃発して、日華連合美術展も開催され
ることなく、今日に至っているが、
日華連合美術展が、両国の親善といふ国
際的に貢献すること絶大なるものがあ
ったことは、
十畝先生
及
故渡辺晨畝氏
の功績といふべきであらう。
話が前に戻るが、
日華連合美術展第一回開催後、上海で更
に上海の名士として名高い
王一亭氏
を中心とした南方画家との提携を企図
して一週間合同展を開催し北京開催展
にも劣らぬ成功を収めた。
王一亭氏
は、当時Chinaに於ける第一流の美術家
で、仏門に帰依し、China人の渇仰の主
となって、権門を誇る存在であった。
北に 金紹城、
南に 王一亭
と、互ひに権門を競うていたのだが、
我々は王一亭氏に北京に於ける展覧会
の状況を報知し、南北合一を実現し、
全支美術家の提携をお互に心から祝した。
王一亭氏
は非常に喜んで一行を、上海郊外の切徳
林寺に案内し、有名な蔬菜料理を饗応し
て歓待至らざるなきほどであった。
ここまで
「日華文化の交流と読画会」の転載を終わります。
*印は読畫會会員

*** *** *** ***
▲昭和16年(1941)
▲昭和16年(1941)現代日本画家論 木村重夫著
**
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***** *** *** ***
▲昭和15年(1940)
昭和15年1月 「塔影」
**
**
**
【ここに お正月の新年試筆会の様子を書いた
「新聞美術記者今昔噺」(昭和15年1月美術雑誌「塔影」)
という記事がございます。
作者は田澤田軒(たざわでんけん)という方です。
(1885~1952・東京毎夕新聞編集局長、産経新聞美術部主任、
美術記者界の長老でした。)
さっそく十畝さんの記事をのぞいてみましょ
掲載写真左から3枚目の中段には
《荒木十畝氏の主宰する読画会の新年試筆会もなかなかに
思い出の深いものがある。
弥生町の荒木邸が新築完成した年は、
確か園遊会式の新年試筆会を新邸で開いたと記憶するが、
その後は、神田明神境内の開華楼が会場に当てられた。
読画会の新年試筆会では席画と楽焼の催しが断然の人気を呼んだもので、
招待された人々は余興を見たり聞いたりするより、
席画を一点でも多く手にいれようとするので、十数席設けられた
席画揮毫者の周囲は、朝から人の山で囲まれるのが常であった。
席画をする人々は読画会関係者であり、
時には十畝氏も筆を執り、
秀畝、笛畝、春水、耕畝、晨畝なんど
読画会の元老連も一筆求められることがあった。
其処に醸し出される和やかな空気は、
新年試筆会とはこんなものであろう、
と言う喜びを感じたものであった。
十畝氏が長崎町へ移転してからは、
あの広い庭園に各種の模擬店を設けて
来賓に酒をすすめビールを供し、
おでんにそばにすしに、選択勝手の園遊会式もてなしをし、
座敷では余興の数々が行われ、
庭の一隅では楽焼が盛んに焼かれ
十畝氏夫妻はその間をよく来賓に接していたのであった。
これも、事変下の今日に於いては中止の姿となっている。》
ブルジョア画家十畝の一面を語る資料です。
東京画壇を3分したと言われた
大観、玉堂、十畝ですが、残り2人はどうでしょうか?
横山大観の日本美術院は谷中の日本美術院で開かれ
《横山大観以下在京の同人、院友が揃って、天心霊社
(神号には大明神・明神・霊社・霊神の4段階があるそうです。筆者注)
に参拝して 中略 いつも下谷の美妓が十数名出席して、
酒間のとりもちをしたものである。
その美妓連中が時によると大観画伯筆になる
揃の帯を誇らかに締めていたこともある。》
下情に通じた粋人の大観画伯です。
(旧派の画家が皆、神道というイメージは大間違いです。
十畝自身、彼は熱烈な仏教徒である。葬儀は仏式であります。)
川合玉堂・鏑木清方両画伯の新年会は
《何れも派手でなく極く近しい人々と
門下生によって、楽しく開かれ》
とあります。
大久保利通侯爵の次男で宮中政治の実権者牧野伸顕伯爵
(宰相吉田茂の岳父)の威光によって
川合玉堂は官展アカデミーの頂点を極めた画家ですが、
《派手でなく》とある通り地味な質実剛健の生活振りだったようです。
一方では次のような記事もあります。
《長者番付の随一は東京で川合玉堂氏、
京都で今尾景年氏 中略 今尾景年翁で少なくとも
百五十万円は動かぬ処で 中略
次が玉堂氏の三十万円、
玉堂氏の住居はあまり堂々として居ぬが
そこが内福を現すものだ
(大正5年“長者観察”美術之日本)》
和歌をよくし、日本画家の王道を進まれた玉堂画伯です。】
*** *** *** ***
▲昭和14年(1939)
昭和14年4月23日 東京朝日新聞
**
**
東京朝日新聞
〖 新Chinaの文化再建に 差伸べる
“温い手” 畫壇と仏教界から親善の使節 〗
【 新生China目指して我国の畫壇と
仏教界から同時に二つの美しい
親善の手が差のべられる、
戦火の中に自然消滅となった
「中日絵画連合展」
を復活さすべく畫壇から六十八歳の
荒木十畝 画伯
が乗込み
「日華仏教研究會」の復活を期して
仏教界から七十二歳の京都百万遍
前法主林彦明大僧正が出発、
共に新Chinaの文化再建設に老躯を
提げて進むことになったのだ 〗
【 「中日絵画連合展」
が提唱されたのは大死(正)七年の頃、
主唱者は
荒木十畝、
該 晨畝 両画伯
らで折柄の排日の気運の中で種々な障害
を受けつゝも
十一年に呱々の聲をあげ日本畫壇の大家とChina一流の画人とが
共に東洋美術を研鑽し
日本側からも竹内栖鳳、横山大観、
川合玉堂、山元春挙、小室翠雲画伯らが
参加し絵筆を親善の楔として苦難の中にも
堅実な発展を遂げ
一時は両国の四百余點に及ぶ作品が
出陳される等親睦の美果をあげて来たものだが
事変前の国際関係の悪化で會は自然消滅
となり戦火の中に流離して
China畫人達の消息も今は全く絶えているのだ
ところが興亜建設の春に
”何とかして復活させたい“といふ聲が
最近我畫壇に強く起り
荒木画伯
が愈二十七日東京を出発することになったのだ、
二十二日、豊島区長崎南町の自邸で語る
あの頃を思い出すと懐しい、
政界で鳴らした
曾錕、
徐世昌 氏
等も自分の畫を出品したり
會の世話をしたり
呉佩孚、
王克敏 氏
らもこの會に入っていました、
日本側では吉沢公使、坂西中将、
長岡外史将軍の骨折もあって
天津北京ではいつも大入の展覧会だったのです、
思い出す畫人達は
呉俊郷、
◆◆士、
汪大◆‥‥
何とかしてその人々を探し出して
あの會をもう一度前以上のものに
してゆきたいのです】
(当時の寄せ書に見入る荒木画伯・写真二段抜き)
▲ 日本美術年鑑 昭和15年版(1940)<昭和 14年の芸術界の出来事を纏めた本>
〖 荒木十畝渡支 〗
【 荒木十畝は皇軍慰問と美術による
日満支提携に貢献せんとして、
四月二十九日門司発渡支した。
先年日支両国間に展覧会を開いた
東方絵画協会の事業を再開する希望である。】
*** *** *** ***
*** *** *** ***
▲昭和6年(1931)
▲ 昭和6年(1931)7月14日 東京朝日新聞
**
昭和6年(1931)7月14日 東京朝日新聞
〖シャムに開く日本美術展 今月中に出品収集〗
【 荒木十畝氏が中心となり外務省の援助を受けて、
豫てから準備中のシャムの日本美術展覧会は、
いよいよ十二月一日バンコック市で開かれることになった
同展に出品すべき作品は荒木十畝氏が奔走した結果、
今月下旬までには百五十點乃至二百点が集まる模様で、
荒木氏は十月下旬乃至十一月上旬には東京を出発、
同国に赴く事に決したが、
更にシャム皇室に大家の作品数点を奉呈すべく、
二、三作家に依頼すると共に同氏も制作に精進する事になった、
なおシャム國における会期は約一ヶ月であるが、経費の都合がつけば
インドでも最初の日本美術展を開く事になる模様である 】< 御参考 > 日タイ展模様
**
**
**
昭和17年(1942)〖 読画堂塾 〗国民美術研究所発行
1989年「荒木十畝とその一門」展図録 (練馬区立美術館)掲載写真
◇昭和6年(1931)
第12回帝国美術展覧会『 鷺(五位鷺)図 』
**
【 日展史・解説 】
*
**(昭和6年 暹羅展出品作"五位鷺図”)

Author;当サイトのカテゴリにあります
<タイ(暹羅)日本美術展覧会>
を見ていただければ嬉しいです。
*** *** *** ***
▲ 昭和4年10月21日
読売新聞
**
**
〖帝展の中堅が上海で日本画展
国民政府に招かれて
荒木画伯
等の代表が渡支〗
【 China国民政府では豫て我が外務省
を通じ『帝展』を招待していたが
愈よ準備が整ったので来る廿五日
荒木十畝 画伯
を始め飛田周山、勝田蕉琴、西沢笛畝(以上東京)
山内信一、登内微笑、大村廣陽、松本一洋、
川北霞峰、阿部春峰、八田高容(以上京都)等
の代表委員が渡支することになった、
同展のChina側委員は
王正廷、
王一亭 氏
等多数の大掛りで出品は帝展を中心に
推薦作家以上と特選級から選定して
東京で九十点、京都で八十六点計百七十六点
の日本画を携へ
十一月一日より十五日間上海で開催し
帰途大連で十日間を開く予定である
其会名は
日華連合絵画展覧会
といふのだが実は日本画室を作って
邦画の粋を見せるので
帝展の上海出張
とも云ふべき最初の大展覧会である】
*** *** *** ***
▲東京朝日新聞 昭和5年(1930)5月11日
**
< 下村観山画伯逝く けさ横浜の自邸に卒然として 美術院派の巨匠 >
〖 風潮から超脱 観山の後に観山なし 荒木十畝氏談 〗
【観山氏は、帝展、院展の流派の如何を問わず
あくまで日本画家としてその進むべき真道を歩んで行った人です
従って一切の風潮を超脱し真面目に地味にじゅんじゅんとして
日本画の精髄を守った人としては恐らく日本畫壇の第一人者であり
それだけに観山氏の急死は広く日本画界の大損失であることはいうまでもなく
今後観山氏に比肩すべき芸術を歩むに足る人は恐らく云々】
*** *** *** ***
▲昭和3年(1928)
昭和3年(1928)10月28日 東京朝日新聞
**
(荒木十畝とその一門展カタログ・練馬区立美術館)【 そこへゆくと流石に
荒木十畝氏の「鶴」(第十二室)の構成には不満はない。
竹の園生にずい雲たなびき、鶴はご大典をことほげるかに見える。
そういう意味で時にとっての興味が多い。
それに伸び伸びして大どかな所がよい。
竹の描写にも朱線を加えた如き創意がある。 】
*** *** *** ***
▲大正15年(1926)
▲ 大正15年(1926)【美之国】
「日展史 7 」出版社 日展の掲載記事
◇帝国美術院展覧会入選者系統調べ
**
* 日本画〖 日本画の定義 〗
断固抗議します!
私共のサイト上の写真をクリックすると、赤地の画面に次のような悪意のある文章が大文字で写し出されました。
【 これは報告されている安全でないWebサイトです
Blog―imgs―26,fc2,com
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代わりにホームページに移動します
このWebサイトは個人情報や金融情報を盗み取る可能性のあるお使いのコンピューターへの脅威を含むWebサイトであると報告されました
▼詳細情報 】
以上
< 1月24日午前1時30分ごろ悪意ある文章の画面を発見しました。私共が公開しておりますカテゴリにある他の名前も確認しました。同様の悪現象が起こりました。
私共は退職後も社会参画したいと云う思いで
“日華連合絵画展覧会・暹羅日本美術展覧会、読画会”外のデータベース作りに邁進しています。
先考文献・研究の有無を調べ、ユニークでオリジナリティーのある作品を目指そうと今日までやってきました。
私共の企画段階で確認した事は、動乱の時代に戦争をしながらも、
同時に平和親善を理念に両国連合展覧会を開催したという事実。 人間は信じる事が出来るんだ!”
この事実を伝えたいという思いでスタートした企画です。
21世紀は平和に投資する時代です、21世紀は融和の歴史を求めています、
日中親善・日タイ国親善を理念にした絵画展覧会を実現した読画会に焦点を当ててきたのです。
そして売名行為や営業とは無関係の方針で進んでまいりました。
私共の願いはこれ等のテーマで資料集の追加・充実を次の世代に引き継いでいけたらと思っております。
今回の悪意ある文章の介入によって驚かれました皆様に対しまして、私共としまして誠に不本意な悪結果をもたらしたと、くやまれてなりません。
残念無念でなりません。
旧来通りの安定した情報公開の環境が戻るように願うばかりです。
どうか侵入しないでください。
お願いします。
ここに此の度の経緯を説明いたしました。
2012.1.24 3;26am シルバーネイル
▲ 日本画 Japanese painting ( Nihonga )
日本画は
形式的構成要素(平仮名様・刃文様・省略様)
と
内容的構成要素(歴史的エピソード・話題性・伝統性)
の2つの構成要素から成立すると仮定します。
◇美人を定義するのは難しい。
では日本画はどうでしょう、
実は、日本画は曖昧な言葉ではないのです。
定義できるのです。
明らかな形式的構成要素と内容的構成要素があるのです。
日本画は、まるでワインのようです。
ブルゴーニュ産か、ボルドー産か区別できるように
ドイツには白ワイン、
フランスには赤白ピンクと、
お国の気象・地理的風習的条件の違いにより、
ローカル色の強い種々のワインが生まれ、
豊かなワイン世界を現実のものとします。
ローカル色の強調こそが、豊饒のワイン世界を構成するのだと思います。
日本画様式の油絵、
日本画様式の水彩画
日本画様式の花鳥画、
日本画様式の人物画、
日本画様式の抽象画
と明瞭に指摘できるのです。
確固とした形式的構成要素があるのです。
前置きが長くなりました。
では「山の井会」の記事から紹介いたします。
日本画の形式的構成要素
◆平仮名様(日本画の線)
山の井会」と日本画の描線
ここに大正5年発行”美術之日本”の一つの記事がございます。

”▲山の井会 同人荒木十畝、岡田正美、尾上柴舟、佐藤梅園、
加藤義清、岡 麓の六氏は二月四日十畝氏邸で本年の発会を開いた。”
とあります。(美術之日本:大正5年=1916年2月15日発行)
日本画会のリーダー荒木十畝画伯の邸内でどのような内容が
語られたのか。
日本画とは何か? を調査中の発見でした。
日本画壇にあって
保守派の巨頭と伝えられる荒木十畝画伯と
平仮名書道界のリーダーである尾上柴舟・
同じく高名な平仮名書家である岡 麓
の文字が目に飛び込んできました。
「昭和の藤原行成」と呼ばれた尾上柴舟と
アララギ派の歌人で平仮名書家として有名な岡 麓が
十畝氏邸に出向く会合とは、一体何の集まりなのか、
私邸で開くのだから「山の井会」とはよほど親睦的な集まりだろう、
居並ぶ面々はどういう人達なのか、
そして、
この「山の井会」が私共の調査している
《日本画とは何か》とどう結びつくのか
ここで近年の日本画観の一例を見てみます。
◆日本画は明治期に作られたあいまいな絵画である
◆意識的に創出された新しい伝統である
◆日本画には客観的な様式などない あいまいなのが日本画だ
◆大日本帝国下にあってこそ有効な日本画という言葉であった
わけだが、今日その言葉の有効性が問われ始めている
と一面的に取り上げられております。
そして、日本画という言葉を(風景画)(人物画)(抽象画)
というジャンル別に置き換えるのが実体に合った見方だと
今日的状況を解説されます。
はたして、そうか?
「山の井会」の趣旨を調べる手だては今のところメンバーを
調べるしかない、一人一人の経歴を調べよう、同名異人の
場合も当然予測されるが、五名も同名異人とは考えにくい。
とにかく当たってみよう。
大根がいっぺんに畑に出来るように、
思いつきは順序よく一本づつ生えてくるのじゃないのです。
あっと言う間に生えてきた思いつきを整理して、
まず「山の井会」のメンバーを調べる作業にかかりました。
〇 尾上柴舟 1876(明治9年)~1957(昭和32年)
東京女子高等師範学校教授・日本芸術院会員。
大正12年(1923)「平安時代の草仮名の研究」をもって
文学博士となる。明治中期における仮名書道の古典復帰運動
に明確な体系を与えたものとされる。
「昭和の藤原行成」と称揚され昭和前半期の(かな)書道界を
指導した。
十畝画伯も東京女子高等師範学校教授を長く勤められ、
二人の接点は
普段から日常的にあったのではなかろうかと思われます。
〇岡田正美 1867(慶応3年)~1923(大正12年)
文部省国語科書道教員検定委員。温厚な書風で知られた。
「書苑」誌上に書風の感覚や姿態を「剛健体」「優美体」「幽雅体」
などの分類をした。
〇佐藤梅園 1876(明治9年)~1923(大正12年)
小野鵞堂に入門、その書風を受け継ぎ当時としては独特の派手な
経営法で多くの門人を指導し山野紅蘭・安達松石など輩出した。
〇加藤義清 1862(文久2年)~1941(昭和16年)
大正11年御歌所寄人となる。
古筆に深く参究し上代様仮名の名手であった。
〇岡 麓 1877(明治10年)~1951(昭和26年)
アララギ派の歌人。聖心女子学院の習字の教師をした。
その歌風は典雅で艶があり含蓄深く、真に古来の伝統を
生かした最後の一人と言われています。
1949(昭和24年)作歌者として芸術院会員に推されたが、
書も豊潤端麗な独特の書風を樹立した。
岡 麓全歌集・岩波文庫版(入木道三部集)の校訂者。
「何うまき ものと思うと とはれしに
餅とこたえて 餅をば貰う」
岡 麓の歌は、将軍家直参医家の富裕な育ちからくる卑しさのない、
都雅さと渋さが身上だそうです。正岡子規門下。
“野鳥礼讃”(巣林書房発行)という本の著者は、
内田清之助農学博士、
見返は荒木十畝、題字は岡麓とあります。
ここらあたりからも“山の井会”のメンバーであろうと思われます。
〇荒木十畝 1872(明治5年)~1944(昭和19年)
東京女子高等師範学校教授・大正13年帝国美術院会員・
昭和12年帝国芸術院会員。
大正11年(1922)日華連合絵画展主宰、
昭和6年(1931)タイ国で日本美術展覧会に
中心的役割を果たす。
読画会を主宰し
花鳥画の大御所と呼ばれる。
引用
▲「愛鳥自伝・中西悟堂著/1993,11 平凡社刊」には
(花鳥画の大御所荒木十畝画伯を
豊島区要町のお宅に訪ねたのは、)とある
▲保守派の巨頭(河北倫明美術論集第五巻・418頁)
**
画壇における立場は
保守派の巨頭(河北倫明美術論集第五巻・418頁 所収)
とあり文字通り明治・大正・昭和の三代にわたり
理論家、絵画教育者として日本画壇を指導し続けた。
標榜するところのものは
「守旧漸進主義」であり著書に「東洋画論」がある。
第二次大戦後、横山大観・竹内栖鳳・川合玉堂らの陰に
かくれて戦後の美術界にあって忘れ去られた日本画壇の
恩人であり
(絵描き風情)と見下す戦前にあって
「画家は学者であり理想家であり精神家である」と志を明らかにし、
さげすまれた(絵描き)の社会的地位向上に尽力した巨人である。
引用*(現代日本画大鑑・昭和11年・昭森社)*近代絵画/小林秀雄著*新釈 詩経/目加田誠著/岩波文庫
*古今日本書画名家全伝/昭和6年/二松堂刊**
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以上がメンバーの略歴です。ある一つの共通項が見つかりました。
いずれも、平仮名書道の名手なのです。
{平仮名の描線}が{日本画の描線}であろうという
当初の想定が、当たらずといえども遠からず
という思いでした。
日本画家が平仮名書道の名手たちをわざわざ自邸に招いて
話す一番の話題は{日本画の描線}であろうことは
容易に想像できます。
この記事の発見で
{平仮名の描線}が日本画の重要な構成要素である
という想定がはっきりとした形を持つようになってきました。
偶然に発見した「山の井会」の記事から
心細い資料の発掘という地味な作業に、はずみがつきました。
絵画は「線」で「形」を描くのが基本です。
「日本画とは何か」を定義したくて
日本画会の会員をまず調査し、
並行して日本の名品群から
共通した特色を抽出しよう
と考えました。
日本人の好きなパターンを割り出し、
ひと目で誰もが納得する
客観的日本画様式を備えた作品
は、この絵ですと提示できることを最終目標に設定しました。
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(*荒木十畝作品”五位鷺図”が典型的な日本画であります)
この基本的構想をもとにして調査を始めたわけです。
そして、次のような条件も設定していました。
◆日本の名品を調査して共通する形状的特色を探し出し、
その形状に名前を付けること。
◆千利休が「茶」を完成させ「茶庭」を付属させて「茶道」を集大成
したように、荒木十畝画伯が日本画の集大成者の一人であり、
またその事を証明する作品を発見し解説したい。
こんな思いの中での「山の井会」の記事の発見でした。
このグループのメンバーから推理しますと当初の想定通り、
「日本画の描線」は国字「平仮名の描線」であるという
着眼点にくるいがないと思われました。
一冊の美術雑誌の小さな記事の発見が、私共の着眼点の
裏づけとなりました。
「日本画の定義」という大きなテーマにのぞんでいる
私共にとって、明るい展望を授けてくれたという
思いで一杯になりました。
暫くしてさらに決定的な資料を発見するのです。
====================
*かな描法

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「かな描法」という冊子がございます。
開いてみると
〖 これが仮名の線で描いた絵です。〗
と絵入りで例示してあるではありませんか、
このような解説をした前人がいたのです。
資料をもっともっと集めたら出てくる
考えんでも自然にでてくる
平仮名の描線による日本画の体系が確立される
のではないか
そんな思いがふと浮かぶ瞬間でした。
「日本画の描線は平仮名の線である」という命題に
実証的な資料で裏付けられた思いでした。
その著者は
田中 魁堂(たなかかいどう) 明治29年(1896)~昭和51年(1975)
古写経研究に情熱を注ぐ 日本写経総覧 かな描法 他の著書あり
文学博士・帝塚山大学教授・日本芸術院賞受賞・日展評議員・千草会々長
田中魁堂(たなかかいどう)氏は、
その著書「かな描法」で次のように解説されています。
・ 東洋の芸術は線が根本である
・ 仮名は日本固有の文字である
・ 書画同源とか書画一致論は仮名の線が絵であり、
絵の線が直ちに仮名の線であり得ないとしても日本趣味に
醇化された大和絵は、その発達において仮名と軌を同じうする
ものであらねばならぬ
とあります。
そして、実際に平仮名の描線を研究し日本画を描かれた画家に
吉川 霊華(きっかわれいか)画伯がおられます。
書道辞典(東京堂出版)の吉川霊華の項では、
大和絵の描法と「かな」の線の共通点を見出し
秀潤けい抜な書は画法と一致している
と解説されています。
吉川霊華画伯の名作「離騒」は美しい白描画であり清明感あふれる
近代日本画の名品とされています。
また「かなの鑑賞基礎知識(至文堂発行)」という本には
「かな」の線は、書のみでなく大和絵の世界にも窺える。
源氏物語の登場女性の黒髪の線や「引き目鉤鼻」は
いずれもシャープな線描写である。近代に吉川霊華の
ように大和絵を製作するための基礎として、平安朝の
「かな古筆」を自ら臨書したということであるが、いかにも首肯されよう
と指摘されています。
戦前の石井伯亭著「日本絵画三代志」の中でも
白描画の得意の吉川霊華は故実と和学との教養に富み、
・・・中略・・・・其の流麗な描線は其の「かな文字」と共に
綺麗な上品なものであった
と評されております。
「かな」の描線が重要な「日本画様式の構成要素」であることは
明らかであり、これらの資料から十分に裏付けられると思います。
では、「かな」の描法は具体的にはどのようなものなのでしょう。
その運筆は漢字の書き方と大きく異なるようです。
言葉で申しますと
「かな」の場合は、
スー・スーという心持で伸びやかに大らかに
書くようです。
「かな」描法は虚の世界と実の世界とを「惣合」する
運筆を最大の特色とし、
一典例として「し」という文字は、
起筆は虚空間から始まり、
実線は筆が紙面に接し、
細く書き始め段々筆圧が加わり、
描線は太くなり、
また、細くなりながら筆を虚空間に抜いて終筆する
ようになります。
第三者が見ても、
どこから起筆しどこで終筆する
のか判りにくいのです。
書かれた実線は運筆運動の過程に表れた
痕跡とでも呼べるモノなのです。
おおげさに申しますと、
始まりがどこであり、終わりがどこかも不明である描線が
「平仮名の線」の特色であり、
始まりがどこで、終わりがどこかも不明であるということは
「無始無終」を感じさせます。
「無始無終」は「神性」を連想させます。
この意味で、平仮名の描線は、
「神性」
を感じさせるのです。
日本の精神風土の体質は、
物と心の「惣合化」や
虚と実が未分である事、
つまり「一体化」というバランスを目指す傾向が強いように思われます。
漢字の場合は、
トン・スー・トンと打ち込みの起筆と押さえる終筆の2点間
に、これ以外ないという確信的な線を引いているようであり、
まさに正邪を明確にする
中国的合理性を感じさせる描法という印象です。
中国儒教は「怪力乱神」を語らず なのです。
次に「平仮名様の描線」を特色とする作品群をご紹介いたします。
====================
*平仮名様の描線を特色とする作品群
◆ 彫金画(ちょうきんが)
**
【(日本の美術 第64号 刀装具・至文堂 発行)を参考】**(かな描法)
日本彫金のお家芸であり、柔らか味のある
「片切彫(かたきりほり)」の
刻線こそは「平仮名様」の描線に一致すると思います。
「片切彫(かたきりほり)」は
片切鏨で片方を深く他方を浅く切り込んだ
線彫りにする技法で、
絵画における付(つけ)立(たて)画法の筆勢を
そのまま彫り上げるものだそうです。
濃淡2種の墨を筆につけ一気呵成
に対象を描いて陰影や立体感を同時に表現する
方法が付立(つけたて)画法だそうです。
要するに付立(つけたて)画法は、没線描法なのです。
ですから、片切彫を、付立画法の意味する輪郭線を描かずに
濃淡で立体感を表す技法という説明では解説しきれないと思います。
私どもには、「片切彫(かたきりほり)」は、平仮名様の刻線に見えるのです。
〖私どもは、「片切彫(かたきりほり)」と呼ばずに、
「平仮名彫(ひらがなほり)」と呼ぶことを提案いたします。〗
ここに一人の名人彫金師をご紹介します。
一宮長常(いちのみやながつね)
と申されます。この方は、享保5年生(1720)~天明6年(1786)
の間に活躍された方です。
彼の残した作品と下絵が残っていますが、
どう見ても私共には片切彫の線は
平仮名様の描線に見受けられて仕方がありません。
下絵に描かれている数匹のネズミのアウトラインは
平仮名の「新月形」「紡錘形」などと呼ばれる
「かな」にはいつも使われる描線のように見える実例です。
平仮名の描線を模した片切彫の線で構成された作品は、
平仮名様の描線が重要な見所であり
日本画様式を備えた新しい金属板に描いた
新日本画だと思うのです。
筆を鏨に変えて出来た「彫金画」とでも呼べる
新しい日本画の誕生です。
また、エピソードとして
朝鮮国王が清国の乾隆帝への贈り物として
日本の対馬侯(対馬藩主)に依頼したところ、
対馬侯は長常に制作を命じ、喜ばれた
という逸話が残されているそうです。
海外で認められる「日本美」の一つに
「彫金画」があった事を物語るエピソードです。
≪歴史読本/昭和48年6月増刊号≫
**

「片切彫」の技法は明治期の加納夏雄から
昭和前期の清水南山にまで引き継がれました。
日本彫金のお家芸的技法が「平仮名様の描線」の
「片切彫」にあると直感いたします。

【(日本の美術 第64号 刀装具・至文堂 発行)を参考】
「大日本彫一宮長常」と冠した彼の署名が残っておりますが、
これなどは国字の平仮名の描線を
日本的特色と見て、「片切彫」という彫金技法で
美しく仕上げて見せたという充足感と心意気が
「大日本彫一宮長常」と書かせた理由だと存じます。
≒=====================
◆ 古筆平仮名
継紙(つぎがみ)国史大辞典6 吉川弘文館
**
**
伝藤原行成の「升色紙」は平仮名の描線がもつ太さ・細身
・伸びやかさ・自由さを感じさせる多様な描線群の造形美です。
絵のように対象物の再現ではありませんが運動感・解放感の
表現にはうってつけの描線でしょう。ライン・アートの「ひらがな書」
を隆盛に導かれたのは醍醐帝の御英断でありました。
平仮名で表記された和歌の古今集(西暦905年)を勅撰されたのです。
平仮名を正式な日本語表記法である国字とされて以来、平仮名は
漢字の補助文字という偏見から解放されたのです。
日本文化にとっての金字塔であったわけです。
新しい文化創造の始まりでした。
源氏物語や和歌、連歌、俳句の発展と並行して書画の親和的世界
に発展します。
源氏物語の「引き目・かぎ鼻」の描線が平仮名の描線と同じように
見受けられます。スーと筆を入れ実線を引きスーと抜いていく感じが
見て取れるのです。
カンディンスキーは、点・色・線で精神を表現できると考えていたよう
ですが、平仮名の特色ある描線を鑑賞すると(非現実の虚)と向き合い
(見えない世界)に積極的に没入することで、バランスよく日常からの
ストレスを薄めてくれる他力的癒(いや)しがあるように思われます。
文字の一つひとつは読むことができ、伝えることが出来ればよいので
あって、形よい文字を追求するという価値観ではなくて、情緒を線に重ね
あわせる表現力を第一義的な価値としたのが、大和文字である平仮名
なのではないでしょうか。
だから一文字も左右対称形のツンと澄ました文字はなく、
凸凹型が基本なのです。
「癒(いや)し」の文字が「平仮名」の特色のように思われます。
≒=====================
◆ なぜ継ぎはぎだらけの「松林図」が人気があり高い好評を得て
日本水墨画の代表作品とされるのか?
長谷川等伯(1539~1610)の松林図屏風は、独特の筆順の
描線で松葉が出来上がっているように見えます。
平仮名書道の
「逆入(ぎゃくにゅう)」という筆法を応用しているのではないか、

松葉の上と下の位置関係で申しますと、下側が揃いすぎています。
松葉を描く方向とは反対側へ筆を戻すように、筆を上下に一拍子
で線描きしているように見えます。「ひらがな」の
「逆入」の線と見えるう訳です。この「平仮名様」の描線で松葉が描かれている
からこそ他の松林図より抜きん出て見えるのではないか、
つまり
「逆入」という平仮名の書き方で仕上げられた点に松林図の特色があるように見えます。
*〘 御参考 〙
「逆入平出(ぎやくにゆうへいしゆつ)」の用筆法について{”書道芸術”・出版社:中央公論社〈第10巻〉「趙之謙(ちょう しけん、
1829年 - 1884年)」}の〖解説〗(187頁)には
【書評】
<趙之謙は最初、書は顔法を学んだに違いない。
当時の習わしとして、郷試には顔法でなければならなかったからである。
従って二十歳代の作品には顔法が見られる。
その後、阮元の南北書派論や包世臣の書論を読み、大いに感動し、
刺激され、北碑に専念するようになった。
包世臣(1775-1855)は古法を悟る要諦として
執筆運峰の法を論じて、
「執筆は普通のいわゆる撥鐙法に近いが、
ただ食指を高くかかげて、鳥の頭のように曲げて
筆を執るべきである。
かくすることによって
逆入平出の書法が可能となる。
逆入平出とは筆左に向かって斜めにして後、
やや偃し、筆尖が低きに着くと、ただちに逆にして
筆毫は紙上に平舗せざるを得ないことになる」と解いている。
趙之謙はこの
「逆入平出」の法に心酔し、更に独自の解釈を加え、
筆先を逆に打ち込み、
ついで筆の進む反対の方向に筆管をたおして
逆押の勢いを出した。
もちろん、中年以後にこの精華を発揮さすことが出来たのである。
彼は楷行草隷篆に至るまで、
すべて
逆入平出の法に基づき、終始一貫した。ゆえに書の姿態百出し、石如の書派の三変したものといわれている。云々>とある。
◆ 横山大観作「或る日の太平洋図」
昭和27年(1952)第37回院展出品作品
前景の猛々しい波の自由奔放な表現は、それ以前のいかなる作に
も見られぬものである とは「昭和の日本画100選」展(1989朝日
新聞社)の解説です。
若い頃の特徴である、描線よりも色彩に重点を置いた朦朧体といわ
れる描法の作品とは全く印象を異にする、線描中心の作画です。
それ以前のいかなる作品にも見られぬものと指摘があるように、
この絵の特色は、波の放胆な描線が「平仮名様」であることでしょう。
昭和27年(1952)に発表した作品という事実に大きな意味がある
記念碑的な日本画であります。マッカサー元帥に象徴される占領から
解放された新な第1年であります。
マッカサー元帥の父君も駐在武官として日本で勤務された経験をもつ
親日的マッカサー氏が最高司令官であった僥倖は、歴史の不思議で
ありましょう。日本は明治以来、アメリカ国には多大の恩恵を頂いてお
ります。
【新聞集成 明治編年史】ホーレス・ケプロン連邦農務局長が75人もの技術者を連れて
北海道開拓に貢献し、アマースト農業大学学長の職を休職までして
クラーク氏は札幌農業学校教頭として活躍(一種の格下げまでして応
じて下さった、この米国人の紳士のおおらかさには、頭がさがります。
虚名に対しては取るに足らない、語るほどのことではない、肩書ではな
くて仕事を残すのだと言うヤンキー魂の権化を彼に見ます)、
「ボーイズ・ビ・アンビシャス」の言葉は日本中が知っている、
あまりにも有名な金言です。
(私事で恐縮ですが、団塊の世代の我々700万人は、多分、ロバート
・フラーのララミー牧場やドナ・リードさんの“うちのママは世界一”や
“パパは何でも知っている”で育った世代です。市民社会や女性がえ
らく尊重される社会を教えてくれました。また、バーバラ・スタンウイックさん
の“バークレー牧場”は、地方の牧場社会にあって、ズボンをはいた
貴婦人ぶりに憧れをもったものです。長いスカートをはいた貴族社会
だけに貴婦人はいるものだと思い違いをしていたことを今でも感動を
もって思い返せます。周りにいるカウボーイの荒くれ男どもを指揮して、
牧場を切り盛りする女丈夫でありながら、バーバラさんの凛とした地方人
のもつ潔癖さと、大地を愛するアメリカ人に親しみを持っていました。
今はどうなんでしょうか。
我々はアメリカが大好きなのです。今でもそうです。そして尊敬しています。
それは、彼らのアメリカは、世界一古い伝統を持つ民主主義国なのです。
我々のある人は、そこから市民の歴史は始まるとして、平安時代や桃山
時代は全く関係のない立場をとります。民主主義国の歴史が唯一の歴史
なのです。この立場も分かってあげてほしいのです。そういう人たちとも
一緒にテーブルを囲み、食事を共にすれば相手の言うことに耳を傾ける
ものです、そしてその場に落着いた雰囲気が生まれるのです。
これが日本の“和”です。禾篇は食物、口はそれを食べること。
単純で具体的が日本様式であるようです。
混沌とした現代日本の数多ある歴史観の中で
“日本画様式”を語るのですから難しい状況です。)
関東大震災の折に、真っ先に援助物資を輸送してくれた
お国はアメリカ国でした。(一説にはソビエト連邦も援助に駆
けつけたと伝えられておりますが、物資の受け入れはアメリカ国
からだったようです。)
私共は、先の第2次世界大戦を越えて今日は「日米成熟期」に
あって「互譲互恵」の気持ちで、困った時は相見互いで末永く
友邦として大切にしなければならないお国と存じております。
そのアメリカ国から終戦後、援助されながら、この横山大観の
“或る日の太平洋図” が出来上がったのではなかったかと思うのです。
さあ、これから立ち直るぞという意気込みが感じられる、解放新1年の
作品であったのでしょう。
《皇室を尊ぶ》という美風を生涯持ち続けたロイヤリストの大観画伯が、
醍醐帝により国字と公認された「平仮名」の描線を画面前景に
多用しています。
この理由こそ、若い頃から内外に知己を求め、ロイヤリストとして
国際的に活躍した“堂々男児”の面目躍如とした、
大観画伯の姿勢がうかがわれます。
乃木大将や森鴎外のロイヤリストの系譜に連なる大観画伯であり、
十畝画伯なのだと存じます。
この絵の持つ不思議さは、朦朧派(没線主義)のリーダーの大観画伯が、
噴水型の波の形に平仮名様の描線を多用しています。
大正期に出版された十畝画伯の作品集 “十畝画選(大正15年刊)”や
第3回新文展出品作品の【 涛 聲 図 1939(昭和14年) 】にも
その波型が描かれています。
ヴォリューム感のある波の造形に苦心しています。
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【 上・涛 聲 図 *下・摩天振衣“十畝画選(大正15年刊)”と横山大観作【或る日の太平洋図】昭和27年(1952)】

【 涛 聲 図 1939(昭和14年)第3回新文展出品作品 】
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【 涛 聲 図 1939 】を45度回転**【 或る日の太平洋図 】昭和27年(1952)
蒙朧派と主線派、新派と旧派は意味がないことを、そして力のある
構図は循環することを、この“或る日の太平洋”図と十畝の“涛声”
図が証明してくれています。
長い日米交流の体験を持つ国際人の大観画伯の作品として
歴史的状況を考えさせる含蓄のある偉大な作品と存じます。
冒頭の「山の井会」のメンバーが歌人であり平仮名書道の名手
であったことは、和歌と”かな書”が不可分の関係であったのでしょう。
異国の画は文の如く 本朝の画は詩の如し
と土佐光起著「本朝画法大伝」にあるそうです。(画は線を重視し、
絵は色を重視するそうです。十畝は主線主義ですから主催する
私塾は“読画会”となります。)
絵画にこだわると線質が問題になってくるようです。
異国の線は起筆終筆の終始が明瞭であり、日本の線は和歌に
ふさわしい柔らかな平仮名でかかれ、その特色上、起筆、終筆
の不分明な描線のため、無始無終の「円」を想像させる理想系
につらなる線質なのでしょう。
ここに虚について注目すべき書物がございます。
芥川也寸志著「音楽の基礎」岩波新書の中で
(リズム)について書かれている一節に
ヨーロッパ音楽では、音の鳴り始めた瞬間をリズムの基準とする
のに対して、邦楽にあっては音と音との間、つまり休止をもって基準
とし、そこに第一義的な時間的秩序を求めようとする。
とあります。
「間」という「虚」を取り込むことで成立する邦楽は、
日本の風土に無理なく合った「惣合性(物と心を合わせた)」を特色とする日本風土
に根付いた方式なのでしょう。
続いて
画は詩のかたち、詩は画の意ともいへり。
和画に屋根をかかずして座席を顕すも、
これ土佐光信が巧みにして漢画の及ばざる
ところなり。唐人も感じけるとなり。
これ似ずしてよしというものなり
とあるそうです。
歌を詠む心が平仮名の線の形状を造りだしたのでしょうか。
和歌を記録するために「かな」が生まれたのではないかと思われるほど
「かな」の線質は和歌の体質に関わっているように思えるのです。
本来、歌は神に聞き届けられるために歌われたそうです。
虚を重要な構成要素とする、かな描法こそ(力をも入れずして天地を動かし)
(鬼神をもあわれと思わせ)る比喩にふさわしく思われたのではなかろうか
と思うのです。
この平仮名の描線が、日本画の最重要構成要素の一つであります。
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◆遼東の豕
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海音寺潮五郎全集(朝日新聞社発行・第21巻387頁の
明寿と忠吉 の項の中で、豊臣秀吉の朝鮮出兵により朝鮮の
寒気が日本刀を寒地に適合するように改善された模様を語って
おられますが、その中で海音寺氏は「古刀と新刀」の交代期が
豊臣秀吉の朝鮮役の休戦期と合致すると指摘されておられます。
そして
これが僕の推察である。あるいはこれは前人がすでに言っている
ことかもしれないが、であるなら、甘んじて遼東の豕のそしりを受けよう
と書かれています。
私共の見識が狭いために、ありふれた事を珍しがって自慢している
のではないかと自問しながら情報を集め構想の整備に努めてきました。
1995年11月~12月にかけてアメリカ合衆国ミズリー州
セントルイス美術館で1868~1968年までの100年の
”日本画”を概観する展覧会が開かれました。
出品総点数171点と本格的な近代日本画展が開催され、その模様が
NHK放送局の教育テレビで2日間にわたり放送されました。
この展覧会の特色は、構成・作品の選択など全てがアメリカ人
の研究者に委ねられました。外国人の手になる日本画展は
過去に例がないという事です。
海外から日本画研究者たちが集まり、日本画シンポジウムが開かれました。
その放映での印象的な意見を拾ってみます。
・近代日本画は、西洋的な要素と日本的要素を混ぜ合わせた
もののため、西洋人には魅力的ではなかった。
西洋では、浮世絵を通して斬新さや巧みさを発見し、
日本絵画の独創性を認めた。雪舟や琳派の作品が
純粋な日本的なものに思えた。
・日本画とは一体何なのでしょう それを様式ではなくある種の流れとして
捉えたい 刹那的な感情を言うのではなく 情緒的な動き、もののあわれ・
わび・さび という日本人の心に深く根ざした美意識や哲学のこと
・日本画の絵の具を使うことが 日本画の定義なら日本画の「日本」
をとって膠彩芸術(こうさいげいじゅつ)と言えばよい
絵の具を糊で貼り付ける方法です でも東アジアの芸術も同じ手法
を使っている 絵の具で日本画の定義はできない
驚きました。外国の研究者たちの日本画に対する情熱とその疑問点・着眼点
のセンスのよさに教えられました。「外圧」という先生と交流し教えられる事が
大切だとつくづく思われました。
曖昧な日本画という外国の研究者たちの日本画観は当然でしょう。
絵は基本的には「線」と「形」から出来上がるものです。平仮名の描線が、
漢字の描線とは明確に違うという事実があります。千年の豊かなストック
を持つ「平仮名文化」の伝統を、世界中に紹介しない怠慢が、誤解を生み
「曖昧な日本画」だと思われるのでしょう。
また民放では2000年3月に東大卒の有名なタレント嬢が番組進行役で
出演し「日本画って何だろう?」という番組が放送されました。番組冒頭
から、いきなりタレント嬢と専門家の「日本画の定義」について質疑応答
が始まります。その一端をご紹介したいのですが、結論だけ書きます。
Q「日本画というのは どういう定義で 日本画というふうにくくるのか」
A「ほとんど素材の問題 つまり絵の具の問題ということです]
A [昔は、日本画という言葉はなかった。
西洋画に対して「日本画」という言葉を作った」
以上がTV番組についての概略です。今日までの通説という事でしょう。
ここに列挙した、おおまかな発言をみても
「日本画」の定義は今日的問題のようです。
ありふれた事を自分達だけが知らないで
珍しがっている「遼東の豕」ではなさそうです。
≒=====================
◆平仮名と猿まね
1 平仮名は日本の国字です。
2 平仮名の特色ある描線の美しさは、
日本のライン・アートを代表しています。
3 この美しい「日本の線」とでも呼べる
「平仮名の描線」が「日本画の線」である
と結論します。
平仮名は漢字の補助文字ではないのです。
漢字には漢詩という素晴らしい文字体系があります。
国字の平仮名には和歌や俳句を中心とする素晴らしい
文字体系があります。
優劣を問う事にこだわれば不毛の悪循環をもたらします。
しかし、比較することは大切です。
人工的な建築的構造を持つ漢字は、正邪を明確にする
論理的な中国文化を背景にして生み出されたのでしょう。
雲や波などの非人工的な自然現象を線で表現する平仮名は、
「もののあわれ」を尊重し、「ちりゆくもの」に美しさを見る
死生観を背景に固有の風土が、個性的なワインのように
日本文化を特色付けるのでしょう。
民法テレビで日本の漢字書家たちが中国ツアーを組んで
本場中国の書道家たちと交流する様子が放映されました。
その中で大変おもしろいシーンがございました。
中国の書道家側から日本の漢字書家らに
「漢詩」を交換しようと提案があったのです。
たちまち日本側の漢字書家らは混乱します。
日本の漢字書家等は即興で漢詩を作れないのです。
これが「お前は何ものだ?」と問われる
文化の本質に関わる具体的な「場」なのです。
「真」か「猿まね」かの決定的違いを問われる
具体的な「場」なのです。
音楽の世界でも「日本のロック」確立を目指して民謡の中に
「日本の音」を探り当て構成しようと考えているミュージシャン
がおられるようです。
「猿まね」という強迫観念が創造する人達に影のように
付きまとうのです。この「まねしてる」という強迫観念
に打ち勝つためには「ユニークな様式美」を創造するか、
または、
「私の感性」でロックを演奏しているのだという自然さが
説得力をもつかが問われる事になるのです。
クラシック音楽の指揮者達の
国籍は様々ですが、それをかえってクラシック音楽の豊かさとみる
寛容さが整備されているからこそ「私の感性」が通用するのでしょう。
普遍性に到着する最初の第一歩とはどのようなモノなのでしょうか。
普遍性は発見という研究成果と皆様に知っていただくという宣伝活動
によって初めて獲得されるものでしょう。普遍的なモノを発見するだけ
ではだめなのです。真理が普遍性を獲得するまでのプロセスでは様々
な壁が立ちはだかるでしょう。
たとえば、二千円札は見方によれば素晴らしい
日本美の宣伝媒体でしょう。
国際的になればなるほど日本とはどのような国柄かを
考える具体的な「場」にも出会うでしょう。
そんな時に、この二千円札で源氏物語や大和絵や引き目かぎ鼻の
描線が日本国字の「平仮名の線」で描かれていることを知ってもらえ
るのではないでしょうか。
冒頭、「山の井会」のメンバーでみたように平仮名書家たちは、
皆歌人としても有名です。書家は歌が詠める事が一つの条件でしょう。
和歌と平仮名様の描線は日本美にとって大切な構成要素なのでしょう。
脱亜入欧の明治期にあっても伝統的三十文字余り一文字の
和歌形式は自然に使われました。与謝野晶子・鉄幹らによる新しい
和歌の新感性の表現が喜ばれたのでしょう。宗教・身分制・貧富などの
世間のしがらみから解放されて自然体で詠む和歌が受け入れられました。
・柔肌の 熱きちしほに 触れもみで 寂びしからずや 道を説く君
・尚も人 恋を罵る 歌ありや 玉手は清き 乳は温かき
文字数を減らす省略という修飾法が、かえって豊かなイメージを生み出す事
に注目する現代短歌は
・ 立て膝を ゆっくり割って くちづける あなたをいつか 生んだ気がする
・ 入れた瞬間(ああ)と 深い息を吐く この人を 包む羽などなくて
・ 会社での 俺が俺では ないならば 一生の大半 俺でない俺
というような、目覚めて叫ぶ者たちの受け皿として、
古くからある日本の和歌の形式をかりて現代の感性を
三十文字余り一文字に歌いあげてみせた。
この人達が日本の和歌形式を変貌させるパワーを発揮し、
三十文字余り一文字の形式が普遍性を獲得するのに奉仕されることでしょう。
普遍性は獲得するものであります。普遍性は宣伝し世界の人々に知って
もらわなければ獲得できません。
人を殺すな 他人の物を盗むな
というような証明不要な自明の真理ではなく
道頓堀のタコ焼き屋はうまい
という真理を宣伝する事により
普遍性が獲得されると思うのです。
日本画に対する曖昧観は、
普遍性を獲得するための宣伝作業を
惜しむからにほかなりません。
歴史的裏づけのある様式性の強い絵画が日本画であります。
******************************
◆日本画の形式的構成要素の刃文様
日本の形に”刃文様(はもんよう)”という呼称を付けたいのですが。
凸凹で粒状感のある、左右非対称な輪郭が
「日本の形」と考えています。
よくサッカーや野球でチームカラーが出ると言われます。
そうならば日本の名品を通して日本のカラーが
出るのではなかろうかと思うのです。
「日本画の線」にふさわしい描線は「平仮名の線」であったように、
どのような形状を「日本の形」と呼べるのか。
今から800年ほど昔の平安期の作品とされる
「継ぎ紙」
と
洋画家安井曽太郎画伯の傑作
「深井英伍像」(1937年)を並べてみました。
**
*******
*昭和12年(1937)文部省美術展覧会/伊原宇三郎氏作品・「深井英五氏の肖像」
ひと続きの同系統の絵のように見えますが いかがでしょうか?
「時」を越えて
「破り継ぎ」という技法の「継ぎ紙」
と
「深井英伍像」の2つの美は
連続しているように見えるのですが。
2つの作品の形態的な特色は輪郭部の凸凹でしょう。
侘び茶碗の王者とされる
朝鮮渡りの井戸茶碗のカイラギや
竜安寺に代表される枯山水の小石の文様や
空海の「風信帖」や
雁行すると言われる桂離宮の御殿の並び型や
(桂離宮は、古書院・中書院・新御殿が
凸凹型の変形のジグザグ型=神主の御幣のシデ型
であって、鳥が飛ぶ雁行型ではありません)
左右対称の文字がない「平仮名」
の名品群に共通して見られる形状はこの凸凹感ではないか。
この凸凹感のある形、粒状感・非対称性こそ
「日本の形」なのではなかろうか。
この凸凹感のある粒状感のあるフォルムを
一千年の長きにわたってひたすら鑑賞し続けた
芸術分野がございます。
「日本刀」の世界です。

凸凹の刃文を観察する眼はユニークな鑑賞眼に進化します。
刃文を形作る粒子が見所の一つになりました。
荒い粒子を“錵(にえ)”と呼び、
微粒子を“匂い(におい)”と名付けたのです。
ここで“錵(にえ)”という文字に ご注目願いたいのです。
いつ頃から使われたのか問題ですが
【同文通考(新井白石著・1760年刊)ー四・国字「錵(ニヱ)剣文(あや)也」】
“錵(にえ)”は金篇に花と書きます。
“錵(にえ)”こそ金属の花と見えたのでしょう。
実はこの文字は日本で作られた“和製漢字”なのです。
その粒子である“錵(にえ)”を金属の花と見た
新しい日本美の発見です。
一つ一つの粒子が集合する事で形が生まれます。
平仮名も一文字では意味をなしません。
関係的に組み合わせる事によって
意味を見出す風土性が
平仮名を生み「錵の美」を発見したのでしょう。
日本刀の代名詞とでも言える
「正宗」は“錵(にえ)”出来の美しさで有名です。
先達は微粒子が作る造形に色々な名前を付けるのです。
地景、稲妻、金筋、富士見西行などと名付けます。
**
**
**
私共は1060年頃に唐宋八家の一人欧陽修が作られた
「日本刀歌」という漢詩に注目しました。

その「日本刀歌」には
“日本に宝刀が出現した”と記されています。
私共はこの故事をかりて「日本の形」の名前を考えました。
日本刀の見所は多いのですが、
とりわけ「刃文」は神秘的です。

この「刃文(はもん)」の凸凹感から
「日本の形」を「刃文様(はもんよう)」
と呼ぶ事をお許し頂きたいのです。
掲載しました写真や押型から
「刃文」は、時代の移り変わりと共に
幅広い多様な表現をみせています。
刀を水平にして見ますとカンバスに見立てた
刀身に抽象画のような刃文の絵模様が白く描かれています。
ここで日本刀の刀身部を中心に幾つかの作品を配置しました。
**
「ニエ出来の刃文」と「深井英伍像」と
「平安期の継紙」そして「空海の風信帖」と
「光悦の茶碗・雨雲」です。
御覧のとおり日本美のアウトラインの形は
「刃文」に集約されるのではないのか。
空海の風信帖は日本書道史上最高の作品とされます。
外国の文字の漢字をいかに日本的な美と後世は認めたのか?
それは主体的な鑑賞者の眼が“錵”出来の
アウトラインの粒状感を美と見たからでしょう。
この凸凹の「刃文様」が平安期の風信帖から
近代洋画の最高傑作 安井曽太郎画伯の「深井英伍像」
まで連綿と「日本の形」として継承されています。
日本の油絵確立に苦心された安井画伯は
日本の伝統美から「刃文様」を抽出されたのではなかろうか。
アウトラインの粒状感のある、
いわば錵様的な表現と凸凹がそれを物語っています。
しかも「破り継ぎ」という「継ぎ紙」の技法は
日本の特色だそうで、世界に類例がないそうです。
問題発見能力が新しい美を造形させるのです。
当時の日本画家が積極的に西洋画法を取り込み、
むしろ西洋画家が日本独自の油絵完成に
邁進されている事実は逆説的なエピソードではあります。
******* ******* ******* *******
日本画の定義
日本画の内容的構成要素
歴史的エピソード
(五位鷺と柳の隠された意味)
五位鷺という名前の由来は神泉苑に
醍醐天皇が行幸された時、
一羽の鷺に「宣旨ぞ、鷺立事なかれ」と
蔵人が声をかけたところ、おとなしく従
ったそうです。
そして御宸筆にて鷺の羽の上に
“汝鳥類の王たるべし”と書かれ
“五位”の位を授けたという故事による
そうです。
日本では鷺が鳥類の「王」であって
鶴ではないのです。
このような伝統的叙位のケースでは、
後陽成天皇が黒田節の名槍
「日本号」に三位の位を授け、
これを豊臣秀吉はどこへ行くにも誇ら
しく先に押し立てて進んだそうです。
引用/従四位の象のエピソード
**
**
*「官位と組織のしくみがわかる本」平成13年4月発行
「官位を賜った動物たち」實吉達郎氏より
*朝日新聞 2010 5/8

(五位鷺図)
対面する二羽の鳥を
“酉(とり)”+“酉”と読み換えると
=“酉酉(とりとり)”となり
“酉酉”は“醍醐”と読むそうです
(広辞苑参考)。
引用
*〘 抄持書・しょうもつがき~寺などで、漢字の画を省略して書いたもの。
「醍醐(だいご)」を「酉酉」と書く類。(広辞苑)〙
二羽の五位鷺は“醍醐帝”を連想させる
のです。
引用*≪天皇観≫
【芸術資料・芸艸堂刊
/鷺を鳥の王】***謡曲「鷺」元清作**本阿弥行状記と光悦/中央公論美術出版*新聞集成明治編年史/明治10年(1877)2月1日/東京日日新聞
****
*****
*****
醍醐天皇は平仮名を正式の日本語表記法
である国字とされ「古今集」を勅撰され
ました。
漢字文化圏からの独立です。
真名字(漢字)の補助文字ではなく対等
になった仮名文字は、仮名書道、絵巻物、
日本画、彫金画にとライン・アート体系
を充実させます。
平仮名のルーツは漢字だそうです。
デリバティブ(先物取引)のルーツは日本の大阪堂島米会所だそうです。、
シカゴより百年も前に日本で先物取引
所は発明されたそうです。
ルーツを知ることは大切ですが、創造者
にとっては右側通行だろうが左側だろ
うが、どっちでもよいレベルの事柄なの
です。
ゴルフの歴史を知っているから
名プレーヤーが生まれるのではありま
せん。
ルーツを知る事は解放される事であっ
て、新しい未来を実現する創造者の苦悩
とは無縁のものです。
画面上のモティーフである「柳」は
仏法で最高の聖木とされるそうです。
引用 平成12年(2000)1月9日朝日新聞/名画日本史
「机の前のつぼから出よる煙のようなもの、これが柳の枝でしてな。
仏教では柳は一切樹木の王、仏に供える最高の聖木とされております」
と鷲尾副座主はいう。
「仏法」を象徴する「柳」と
「八百万的価値観」を象徴する
日本の鳥類の王「五位鷺」とが
和やかに一体化している絵であるとも
読解くことができそうです。
多神と仏を調和しようとする求同存異の
「大和心」の絵画化です。
仏教系の大学受験生が神社のお守りを
懐中にして、テストを受けても七不思議
ではないのが日本です。
この「和の歴史=情操の歩み」を社会に
悟って欲しいと願う十畝さんです。
*話題性
荒木十畝画伯は、明治以来、西洋哲学の
輸入・紹介・解説をもって始まった、
わが国の哲学が「西田哲学」において初めて
解説の段階を越えて、独自の体系を持ちえた
とされる事に注目したのではないでしょうか。
(1926年に左右田喜一郎氏の論文
「西田哲学の方法」という題名から
「西田哲学」という言葉が生まれたそうです。)
近代日本を代表する学問的業績である
「西田哲学」が、1931年(昭和6年)の
第12回帝国美術院展覧会出品作
「鷺(五位鷺)図」創作の大きな動機に
なったであろうと思われます。

(荒木十畝作“五位鷺図”)
この絵を写真でしか見たことはありませんが、
見た感想としては、疎外感も対立もない。
あるのは、遊ぶ事が仕事だった幼い頃への誘いと、
心地よい疲労感がもたらす素晴らしい
朝の目覚めのように思えますが、いかがでしょうか。
二羽の一体感は「西田哲学」の主客未分
の純粋経験を想起させます。
また、その「場」から動けない植物の柳です。
それに比べて「場」から「場」へと移動する鷺です。
両者の「生き方」の違いは文化の違いを生み、
多様な見方、考え方を派生します。
チームプレーの「場」で光る個性、
個性を輝かせる為に孤独の「場」を必要
とする創造者達。
生きる「場」を考えさせる十畝の「鷺図」
なのでしょう。
*伝統性
五位鷺のダイナミックな羽は一種の記号化された
造形に思われます。
この反リアルな記号に、ある意味を込めて
十畝画伯は表現していると思います。
反リアル的描写の羽は、錵様(にえよう)
のアウトラインに特色があり、
日本画の構成要素である錵様が作る形が
日本のユニークな形である事を絵解きしているのです。
*錵様(にえよう;日本刀の刃文は、細かな粒子が集まって出来ています。
その粒子が荒く肉眼でも見れる粒状感を錵と言うようです。
本論の“形式的構成要素”をご覧ください。)
つまり「五位鷺図」は読画する絵画なのです。
ちょうど、源氏物語の記号化された男女性別のない
同じような人物の顔を描く不思議さは、
ある高次の理念を絵画化するのに必要な形式なのだ
と言われています。
その高次の理念を暗示する和歌として
古今集には
草もきも 色かはれども
わたつうみの
浪の花にぞ 秋なかりける
という歌があります。
この古今集の歌は、
「一個一個の名詞は、普遍化と抽象化によって、
これを鑑賞する人のいかなる主観にも
代替可能のものであらねばならない。
草と木と海と浪と秋とは、人々の観念のなかで
思ひうかべられる季節の形象の最低限のもので
あり、それ以上のものを享受者に要求しないことが、
詩的礼節と考へられたのであらう。
(三島由紀夫著 古今集と新古今集より)」
と解説されています。
「部族人」から高次の「日本人」に変貌するための
求同存異の大和心が、詩的礼節を必要とした
と思われます。
源氏物語や前掲の和歌は「大同して和する」という、
その時代の高次の理念を語るために
性別不能な顔を描き、普通名詞で歌を構成したのでしょう。
その意味で心を捉えてはなさない反リアルな
記号化された五位鷺の羽の形は、
日本のアイデンティティーにかかわる
日本画様式を暗示しています。
(日本のアイデンティティーについて
は後段に譲る)
この独創的な形に意味を込めた伝統的暗示法を
踏襲している五位鷺図なのです。
伝統は、みずみずしい生命感のある作品を
創造することがその本質です。
21世紀の伝統は、新しい感動を追加せねばなりません。
一切の美を否定する事で返って一切の美の根拠となる、
ありふれた日常にこそ、美の根っこがあろうと思われます。
その日常の平凡さが持つしみじみとした
「無感動」の落ち着きにこそ
21世紀冒頭のテーマがあると思うのですが。
つづく











































































**
翌年(注記Author:大正11年・1922)其の第二回展覧会を東京に開き、





































































































































何故、清国にあれほどアヘンが蔓延したのか?



































































































































