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* 読画会の女流画家たち/日本画

日本画  《 読画会の女流画家たち 》

断固抗議します!
私共のサイト上の写真をクリックすると、赤地の画面に次のような悪意のある文章が大文字で写し出されました。
【 これは報告されている安全でないWebサイトです
Blog―imgs―26,fc2,com
このページを閲覧しないことを推奨します
代わりにホームページに移動します
このWebサイトは個人情報や金融情報を盗み取る可能性のあるお使いのコンピューターへの脅威を含むWebサイトであると報告されました
▼詳細情報 】
以上

< 1月24日午前1時30分ごろ悪意ある文章の画面を発見しました。私共が公開しておりますカテゴリにある他の名前も確認しました。同様の悪現象が起こりました。

私共は退職後も社会参画したいと云う思いで
“日華連合絵画展覧会・暹羅日本美術展覧会、読画会”外のデータベース作りに邁進しています。

先考文献・研究の有無を調べ、ユニークでオリジナリティーのある作品を目指そうと今日までやってきました。
私共の企画段階で確認した事は、動乱の時代に戦争をしながらも、

同時に平和親善を理念に両国連合展覧会を開催したという事実。

人間は信じる事が出来るんだ!”

この事実を伝えたいという思いでスタートした企画です。

21世紀は平和に投資する時代です、21世紀は融和の歴史を求めています、

日中親善・日タイ国親善を理念にした絵画展覧会を実現した読画会に焦点を当ててきたのです。

そして売名行為や営業とは無関係の方針で進んでまいりました。
私共の願いはこれ等のテーマで資料集の追加・充実を次の世代に引き継いでいけたらと思っております。

今回の悪意ある文章の介入によって驚かれました皆様に対しまして、私共としまして誠に不本意な悪結果をもたらしたと、くやまれてなりません。
残念無念でなりません。

旧来通りの安定した情報公開の環境が戻るように願うばかりです。

どうか侵入しないでください。

お願いします。

ここに此の度の経緯を説明いたしました。
2012.1.24 3;26am シルバーネイル




◇ガントレット富美子女史

大正10年3月31日 東京朝日新聞
ガントレット_0001
ガントレット

〖 ガントレット富美子さん

―文化学院で可愛らしい先生振り

◇忙しい暇をぬすんで

◇日本画や琴のお稽古 〗

【 小作りな姿、やさしい心持ち快活な身のこなし、

本当に可愛らしいガントレット富美子さんは

今度駿河台に生れた西村伊作氏の文化学院に聘されて

一週に二時間の英語を受持つ事となり

いよいよ可愛らしい先生振りを発揮する

◆嬢は昨年八月米国より帰朝早々

英国大使館に勤むる事になって大忙しの中へ

尚日本画の稽古を志し

  荒木十畝

の門に入って昨今メキメキと上達した、

其実は美術学校が男女共学となる噂を聞いて

其処に最初の女生徒となる訳であったが

共学の議は纏らなかったのである

◆『 以前米国では南カリホルニアの学校で

西洋画をやり室内装飾法から配色法衣服の着方など迄

やりましたが 』と富美子さんは絵筆をおいて

私は色よりも線の方がよかったのです、

西洋画とは全然趣が違って居ますので

日本画は難しいと思はれますが面白くって私は大好きです


と余念もない

◆悧発な上に英国の紳士風と母君の思慮深い愛の中に

育てられた嬢は早くから多技多芸の人に仕込まれて

米国に行って修業をし益役立つ婦人に出来上った

昨今は琴の稽古もして居る相な 】
<2010・8・14追加>


 ◇ 荒木月畝女史(あらき げっぽ) 

明治三十五年来、高崎高等女等校教員を拝命し、

今春辞職、絵画を専門に研究する事と成れり

▲荒木月畝女史写真・明治44年“美術之日本“所収
月畝


▲大正5年(1916)第10回文部省美術展覧会(文展)

  T5,月畝、ゆたか
 荒木月畝入選作品「ゆたか」

▲大正7年(1918)10月29日 東京朝日新聞
  荒木月畝女史写真
T7,閨秀画家月畝写真②_0001**T7,閨秀画家月畝写真①_0001

【◇閨秀画家の顔揃ひ◇
 文相の招待会で(向って右より栗原玉葉、井上よし子、
 荒木月畝、上村松園、伊藤小波、大川秀薫の各女史】



  月畝
 「若竹」荒木月畝筆
(昭和6年・第12回帝國美術院展覧会入選作品)

  月畝あざやか
あざやか図(荒木月畝筆)

【絹本着色。艶麗なダリヤの花を主材としたものである。

女史は初め古川竹雲に学び、後ち荒木寛畝に、

ついで十畝に師事し、大正十一年一月から白光堂塾研究会を開き、

同年十一月白光會と改め、以後展覧會を催して、

女流作家のために気を吐き、月耀會(同じく女流団体)と

対峙して、荒木一門の芸術を宣揚している。】
( 日本画大成・昭和篇 二 )

白光會
白光會_0001(日本美術年鑑:昭和6年版)

  落ち葉
荒木月畝筆< 落葉 >
・昭和5年第2回聖徳太子奉賛美術展覧會

愛雛月畝
荒木月畝筆< 愛雛 >
・昭和5年(1930)第23回読畫會出品作品

  月畝鴨図
鴨図 〛 荒木月畝女史筆 
明治34年(1901)第4回日本畫會出品作品

▲美の国/昭和10年4月
月畝 1
荒木月畝女史の事西沢笛畝

月畝女史というと未見の方は若く美しい人の様に

大抵は想像されていた様です。

「寛畝先生の娘さんですか」それから

「十畝先生の奥様ですか」とよく私は聞かれた者です。

それ処ではありません

明治五年の誕生ですから、

今年いられゝば六十四歳になられたお婆さんです。

物優しい落着いた故人は婦人達に繪を教える事が

大変に上手でした。

で上流家庭の方々に沢山の門人があり

晩年はこの指導に寧日なしたと言った形でした。

私は四十代の頃から女史を知る様になりました。

その頃は頗るの元気で野に山によく写生に行かれた事です。

郷国の関係もありますが上州辺の山々を跋渉して

女らしくない畫題をよく描いた者です。

尾瀬沼といへば今日では行くにも大変便利ですが

十五六年も前には中々男でさへ行くに不便か多か。

そこへ馬の背をかりて一人で出かけ案内人の長太郎小屋に

幾日かを送って、その頃としては珍しい

写生を沢山持ち帰った事を知っています。

文展に稲穂に雀を描いて入選され、

帝展には竹林を材料にして入選して居ります。

何しろこのお婆さん、いつも元気で大きな作品を仕上ることが

何によりの楽しみらしくいつの展覧会にも繰り返す様ですが

女らしくない作品を搬入して人々を驚ろかしていました。

寛畝先生の御在世中左右に侍って永く御世話をされていました。

そんな点で繪はよく故師の特長を呑込んで

中々思ひきった作品を発表された者です。

御夫君には早く別れて一人の御令息を立派に腕一本で

仕上るといった女丈夫ですから

中々御意見もしっかりして居た者です。

よく読画会の相談会に出席された時などは

ねちねちと男の中に交って女流方面を代表した

意見をはかれた事を覚えています。


=================
<御参考>
▲大正13年12月14日 東京朝日新聞

月畝 4

婦人参政の叫び 熱烈な期成同盟會発會・・・・・

ガンドレット恒子夫人司会の下に茶話会に移り熱弁を揮い合ったが

(注:ガンドレット恒子夫人は、婦人の社会的地位向上に尽くされた

 先駆者の一人です。
 
 本論「ガンドレット・富美子女史」参照)

参會は百五十名、大阪や群馬からも代表が来り

堺真柄、荒木月畝、・・・・

(*堺真柄女史は、社会主義者、婦人運動家。父は高名な堺利彦 )


=================

明治から大正に且つ昭和時代に渉って女流花鳥画家として

随分活動されたその功績は大きなものであります。

読画会翠紅会に会員として力を致し又

白光社を起してその主任となり

活動された事も忘れる事の出来ない女史の仕事であります。

昨年の秋御令息の任地大阪に引上げて間もなく

彼地で永眠された事は私達としては永く東京にいた丈けに

何となく心残りでもありますが、

女史としては御令息の手厚い看護に

屹度満足の笑顔でこの世を去った事でせう。

““昭和十年三月二十二日稿””(美の国/昭和10年4月)


◇「荒木月畝氏逝去」

塔影S912
  
今夏来心臓を病んで臥床療養中の處

十一月十八日夜大阪天王寺区○○町の長子荒木忠一氏方で、

永眠した。行年六十六、告別式は廿日忠一氏宅に於て執行された。

月畝女史は、荒木寛畝氏の門下として花鳥を得意とし

帝展に数回入選、後本郷向ヶ丘に白光社を組織、

多数の子女に日本画を教授していたが、

今夏東京を引払って前記忠一氏方に療養旁々帰って間もなくの訃音だった

(“塔影”昭和9年12月)


◇「故荒木月畝女史一周忌」

月畝 2

故荒木月畝女史一周忌は

十一月十八日本郷区弥生町桜井女塾講堂で行われ、

長泉寺平山住職による仏式追悼会の後藤懸静也博士、

荒木十畝氏等の追悼談があり、

白光会、閨秀画家等縁りの人々約七十名が出席盛大に行はれた。

(“塔影”昭和10年12月)


読売新聞 大正11年(1922)9月8日

月畝 3

“絵を習う夫人は大抵趣味と修養から入る

帯や手箱に絵を描かせて門下を教ふる荒木月畝さん“


絵を習う夫人が近ごろ非常に多くありますが、

その方々は何のために絵を描くのか、

生活のため又は修養のために或いは娯楽として

絵筆に親しんでいられるのかと

閨秀画家荒木月畝さんのお話をうかがうと

「今は夏休みで誰方もおいでになりませんが、

十月から又始めますと奥様の方は火曜に外の人は

日曜に一週一回づつお稽古があります 

まあ大抵はご婦人の方で楽しみにお習いになる方が多いのです 

尤も中には専門になりたい人が五六人はおります、

男の人も五人くらいは参られますが、

その人たちはみな専門になさりたい方々でなかなか熱心です

   中略

奥さまや普通のお嬢さん方は勿論娯楽か

又は修養のためにおいでになるのです、

それでそういう方がただ絵を描くだけではつまらない

と思いましたので昨年の秋頃から何か実用的に

帯、手箱、又はお子さんの洋服や長襦袢、

お召物の裾などは畫くことを奨励していますが、

大そう面白く手際よくできます、

おいでになる方はいろいろな階級の人で

華族様や商業、工業、官吏、又米国や(中国)の方も

お出でになって熱心に習っていられます、

そして皆ご自分の畫いた物を、一月に一回づつ集まって

それぞれ批評をし合ふのを楽しみにしています」と

帝展出品の製作に忙しそうだった とあります。


読売新聞 大正14年9月18日 

T14、9,18ジョージ殿下 月畝

〖ジョージ殿下きょうお帰り

 午後4時半横浜発一路威海衛へー〗

【 前文略

 摂政殿下を初め閑院元帥宮、伏見大将宮、東伏見宮大妃殿下、

 久邇両宮殿下、梨本両宮殿下、にも御列席になり

 エリオット大使、ハルセ―御附武官、

 一木宮相、牧野内大臣、財部海相、幣原外相等も

 御陪食仰付けられるはずである、

 又午餐後御興を添える為

 日本画の畑仙齢画伯及び

   荒木月畝女史

 に御前揮毫仰付けられる事になっている】

=====================
==== ~~~~~ ==========



山下紅畝女史(中田久良子女史のことです)

読売新聞 大正9年(1920)10月19日

紅畝2
紅畝弟子と写真

紅畝①

紅畝②

関西の方の作品は品位が乏しい 

閨秀画家入選十一名の中の一人

中田紅畝女子の帝展感想〗 

【 荒木十畝氏門下の

中田紅畝女子も月見草を描いた

「朝露」が目出度く入選しましたが

紅畝朝露
「朝露」

女子は先に帝大文学部の聴講生として

美術史の講堂に異彩を放って居られる方です。

お宅に訪ねて帝展見物の印象やお作の苦心などを伺いました。

ちょうどお稽古日で女史はお弟子さんに囲まれながら

「私はあの深みのある透きとほつたやうな

花の月見草が好きでそれを描いてみたく

七月の下旬のお友達と二人で深夜玉川の二子の渡しから

約十町の下流を彷徨ひ遂に夜を明かして終いました。

    中略

曉の靄に包まれた草に露の雫の懸った○を取材といたしました

月見草を描いたのはホンとに今度が初めてですが

最初から気が進んでおった故か下絵が出来上がった時も

十畝先生はスラスラと善い出来栄えだと批評してくださいました

 帝展も一通り拝見しました。

私などが兎角の批評は実におこがましく存じますが、

強いて言へば関西の方の作品は関東に比べて

幾分か品が無いように感じました。

梶原緋佐子さんのも以前三越の図画創作展覧会で

見たのよりは劣っているようです。

伊藤小波さんも今度のは私たちの十分な期待に背いておりました。

月乃さんと花乃さんは成園さんと同門の関係でしょうが

図柄の全く同じもののように感じました」

と次に大学聴講の感想に移り

「九月二十日ごろから美術史、絵画史の講義を聞いていますが、

今は仏教渡来以来の推古帝時代の仏画が重で、

私の専門とする山水花鳥は、

平安朝から足利、徳川時代でなければ面白いところが

聞かれませんので、従って講義に対するまとまった感想は

少なくとも一カ年経ちませんと出てこないと思います。

ほんとうに今度は徹底的の研究をして見たいので

三カ年の修業を済ましてから研究室で勉強を続ける考へであります。」】

とあり、“稽古中の中田紅畝女史(昨日自宅でうつす)と

お弟子に囲まれた写真が掲載されています。


≪ちなみに≫お弟子さんからは謝礼を頂くのですが

相場は如何程だったのでしょうか?

昭和3年読売新聞記事・女流画家の生活には

《しかし収入の点からみれば

日本画の方は洋画よりもずっと恵まれています。

なぜかと言いますと上手になれば

頼む人が洋画より多く、

お弟子も多くつき、

一週に一人五円位はとれるからです。

そのほかのことはあまり洋画と変わりはないでしょう》

と載っています。

絵描きになるなら日本画家になれ、西洋画はだめだ、食えない、

と言われた時代です。

こだわりが、日本画、洋画の区別を生み

実質的な生活面にも反映しています。


▲大正11年(1922)第2回日華連合絵画展覧会出品作品
「花の雫」(日本側出品ノ中売約トナリタルモノ) 
T11紅畝


東京日々新聞・大正9年7月5日の記事に

紅畝 1


紅畝女史が東大へ

“婦人の知識欲が旺盛となって

高等教育を受けんとする者が益増加しつつあるが・・・・・

其後大学令の改正等で婦人に解放するに至らず・・・・

婦人の大学入学は不可能となった。・・・・

東大の文学部は之等に率先して婦人に解放する事となり

九月の新学期より三人の婦人に聴講を許す事となった

此の三人の中には女高師出身で日本画家たる

中田紅畝女史がある。

女史をきのふ本郷区森川町の自宅に問へば 

数多の年若い女弟子に囲まれて彩管に余念のない女史は

しづかに筆を置いて

「未だ許可の通知を受けませんが多分よろしかろうと思っています。

研究科目は美術史と美学で早くから研究したいと思っていましたが

学校を出てから引き続いて助手をしていましたり

こうして沢山のお弟子さんたちのお世話をしていたり

生活の必要から自分でも絵を描かなければならず

○○研究の間がありませんでしたが

いよいよ万難を排して大学へ入れて頂く事にいたしました。

私の聴こうと思う講義は大塚保治博士の美学、

滝精一博士の画論、中川忠順先生の美術史ですが

一周僅か十四時間でそれも三年間に仕上げるというのではなく

自由に研究させて頂くつもりです。

私の好きな事は写生旅行と音楽を聞く事ですが

時々小説などもよみます」と。

因に女史は荒木十畝氏の門下での

婦人としての最高弟で

彼の女理学士黒田ちか子女史とは

女高師(東京女子高等師範学校・現 お茶の水女子大学)の同期生である。


読売新聞 大正13年5月15日

紅畝3


〖 婦人参政権に賛成する 

新代議士とその意見/

山下紅畝さんの夫君も

めでたく初陣で当選の喜び 〗

山下紅畝(中田久良子・紅畝女史のことです)画伯の夫君:
山下谷次氏が、国会議員となられた記事です。


【 候補に立った夫君の為めに夜の目も

ねずに奔走し戸別訪問までして当選の

栄をかちえた夫人のよろこびもさるこ

とながら、自分が立派な職業婦人として

又は芸術家として立っていて静かに遠

くから夫の戦勝を祈っている夫人にし

ても夫君の当選に対するよろこびに変

りは無い筈、日本女子大学の教授で婦人

平和協会の首領、櫻楓會の理事長として

常に多忙な仕事をもっている

井上秀子さん、

閨秀畫家として知られる

山下紅畝さん

の二人はめいめいその夫君の当選

で一家喜びにみたされている。

井上さんの夫君雅二氏は兵庫県第六区

から、

山下さんの夫君 谷次氏は香川県第五区

から

何れもめでたく鹿を射止めたので而も

どちらも初陣のお手柄だといふ 】



また、明治44年“美術之日本

  所収の「読画会展覧會」には、

【 中田久良子女史~東京女子高等師範技芸科卒業生にして、

  現今同師範学校技芸科中図画科の助教授を拝命、

  幷付属高等女学校教授たり、

  而して専心日本画を研究して前途望を属せられつつあり 】


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 ◇ 上原桃畝女史 

大正8年(1919)10月11日読売新聞

桃畝①

上原桃畝春光_0002

上原桃畝筆「春光」
大正8年(1919)・第1回帝国美術院展覧會入選作品

桃畝読売
 大正8年(1919)10月11日 読売新聞

△ 帝展唯一の女流入選者 

日本畫『 春の光 』の上原桃畝女史

〖 帝展の紅一点 日本画洋画彫刻三部

を通じて唯一の閨秀入選者 夢の如く

喜ぶ上原桃畝女史 〗

日本画、洋画、彫刻三部を通じて入選せ

る女性は僅かに日本画に六曲片双の

「春光」一点を以て選ばれた

上原桃畝(三八)女史一人である

△此名誉ある女史を入選発表と共に

昨日午後四時小石川原町の自宅に

逸早く報を齎すと、

流石に包み切れぬ嬉しさを見せて

女史は語る「私が?私一人ですって?

まるで夢のようです。

私は故荒木寛畝さんに就いて習ひまし

たが、先生の亡き後は

十畝さんにもお世話になっています。

桃畝つつじ_0002
  上原桃畝筆「つゝじ」
  明治42年(1909)・第3回文部省美術展覧會入選作品

△文展の第四回に「つつじ」を出して

入選しました、其後近年まで出品しませ

んでしたが一昨年来又出すやうになり

ました 

今回入選の「春光」は寒竹に梅を配した

構想で、出来るだけ青くせずに、日光を

出さうと勤めました、

製作には八月二十四日から一月位かかりました 

大変厳選だという話ですから、無論駄目と思っていましたのに、

本当に夢のようです、

十畝さんの退かれた後は女子高等師範

学校に勤めて外の方と共に一週に三日

宛図画科を受持っています、

家は母と姉夫婦と其の子供とで五人暮

らしです

△師匠の寛畝さんも私の売残りは

困ったものだと屡云ってゐらっしゃい

ました」


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落選①

落選②

(著者注記 )
大正8年(1919)の第1回帝国美術院展覧会は厳選を極め

「所謂文展(帝展の前身)の定連に落選多し」とあり

「日本画は二千余点の出品から八十五六点入選した。」

と審査員の橋本関雪画伯が言う

「今年は美人画が全滅で成園女史も通らなかった。

(島成園・1893~1970・翌第2回帝展に「伽羅の薫」を出品、
入選を果たす・上村松園、池田蕉園と日本の{三園}と呼ばれる。)

大正時代に入選する事は至難で、3回入

選すると蔵が立つと言われたそうです。

「第1回は改革帝展で厳選でしたね

・・・・・その時は友人連中が 描け描

け、分からんかったら手伝ってやるから 

という。・・・・・・ 

その頃はね、今では考えられないが手伝

いという事がよく行われていたんです

ね。これは友人の間の友情という事にな

るんですな。ときには美術学校の先生が

生徒の絵に手を入れているということ

をも耳にしていましたが、この“南郷の

八月”は・・・・(第1回帝展入選作)

岩絵の具の使い方はまだまだ判らない

ので渋滞渋滞はあたりまえ。そこへ友人

が入ってきて“私がやってやる”と、丘

の上のあちこちの樹木を立てかけたま

まで、六番ぐらいの緑青で塗ってくれた。

岩絵の具はこんなふうにやるものか僕

は感心して見ていましたね。その他は手

伝ってもらった記憶はないんですが、僕

はすすめられるままに、何でも勉強だと

思っていたので、入選するとは夢にも考

えていなかったですね。その時は、友人

の常連は落ちましてね。僕は嬉しいやら

とても気の毒やらで妙な気持であった

のを憶えています。その時分はね、三回

通ると蔵が立つという時代でね、官展に

入選すると。
」と池田遥邨画伯

(日展史P610~P614・<対談>洋画から日本画へ) 

で語っておられます。

ともかく「美人画は全滅で成園女史も通らなかった。

女では上原桃畝女史の「春光」だけが入選した。

女らしい優し味があって梅と竹の構図に理知の働きもある。」

と橋本関雪審査員が語る。


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◇中山彩畝女史

中山彩畝

彩畝文

妙齢にして多技、美術界中彩畝女史の名は多く世人の知る所、

近来彫刻を学び又名あり、性活発洒脱にして、毫も脂粉の気なし

<美術之日本・明治44年(1911)>


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 ◇永野静畝女史

水野静畝

静畝文

明治三十三年跡見女学校卒業、同時に寛畝門下と成る、

美術協会、女子美術協会等に出品優賞を賜はる、

日本画會にて皇后職御用品、李王殿下御用品と成る、

昨年印度王族来朝の折紅葉館に席画を務む

<美術之日本・明治44年(1911)>


strong>=====================
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 楠原馨畝女史

ベルギー聲

“塔影”P61 昭和10年8月10日発行

〖 無名閨秀作家が作品をベルギー皇室

に献上 〗

【 元ベルギー大使故田付七太氏のお孫

さんにあたる田付清子さんは東京日出

高女在学中から荒木十畝氏の門弟

楠原馨畝女史に師事、日本画に精進している

女性であるが、お母さんの辰子さんが故

大使の長女で外務省や赤十字会議の翻

訳員として活躍しフランス語の権威で

あるが昨年赤十字国際会議が東京で開

催された際、ベルギー代表モーリス・フ

ェチエ氏がフランス語関係から辰子さ

ん母子と懇意となり、帰国の際清子さん

の描いた日本画を土産に故国に持ち帰

ったのが機縁となり、去る五月同国赤十

字社総裁から同国皇帝へ献上画を描く

ようにとの便りがあり清子さんはいた

く感激、献上画四幅を描き上げたがその

うち尺五山水画二幅が皇后陛下に、尺二

の武者絵一幅は皇太子殿下に、尺二のお

雛様の絵一幅は内親王殿下に献上され

る筈で七月五日佛国の任地へ向け出発

した外務省書記生山津善衛氏がこれを

携行し、ベルギー通過の際同国赤十字社

本部に届ける事となった 】


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陸 恵畝

▲大正9年(1920)3月2日 東京朝日新聞
陸恵畝0

陸恵畝①陸恵畝陸恵畝③

〖画壇に芽ぐむ 若草の真末さん 

 ◇故羯南を父として◇

 ◇趣味豊なる十畝門下の花◇〗

【真末さんは明治文壇の傑物故羯南陸實氏の愛娘で

 五人姉妹の季から二番目であるが、

 父君逝去の折はまだ可愛いけ盛りの六歳であった、

 爾来十四年の年月を慈愛深き母刀自の温かき腕の間に

 若草の素直にも生ひ立つて一昨年府立第一高女を卒○後

 父君に承けた趣味性は豊に長じて丹青の道に切なる望みをかけ

  荒木十畝

 の門に入った

 ▲それからまだ二年にも満たぬ今年の春

 同門の読畫會が竹の臺に開催の際

 多数女流門下生中厳選に当って

 美しき真末さんの名は画壇一部の注目を惹くに至った、

 昨日訪ふた玄関に

「真末は私でございますが」と物腰もはきはきと

 故意らしからぬ無邪気さ溢れて母刀自掬育の程を偲ばせた

 ▲姉君も見えられて

「まだホンの始めましてから二年足らずで

 怎んな物が出来上りますか判りませんから」と庇はれる、

 其袂の下から「読畫會への入選も全くの僥倖ですの」と

 可愛らしい謙遜の言葉、刀自君の楽しみも想はれた 】 


▲東京日日新聞 昭和6年(1931)10月13日
陸恵畝

昭和6年(1931)10月13日 東京日日新聞

【 十五歳の少女が入選 

日本画(第一部)】

〖 帝展日本画鑑別の結果は、洋画とは

逆に常連が揃って顔を並べ。まさに常連

オンパレードの觀を呈した。

殊に帝展外の中堅作家が進出したこと

も例年にない傾向で、‥‥‥‥‥‥

   中略

惠畝 梅
 「梅」陸恵畝筆 
 (昭和6年第12回帝国美術院展覧會入選作品)

梅林」を描いて新入選の

陸恵畝(三〇)さんは

新聞界の元老であった

陸羯南翁の六女、

本名はますえ、府立第一高女卒業後、

  荒木十畝

に師事して今日におよんでいる人。】


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荒川紅舟荒木十畝夫人)

紅舟_0001

荒川紅舟~女子高等師範出身の才媛で荒木月畝、上原桃畝女史

と共に閨秀画家として知られ、女学校に丹青の教鞭を執っていた。

「帝国美術院会員荒木十畝氏は九月十八日同窓黒板勝美博士の

媒酌で荒川糸子女史と結婚した。

昨年十月死去した先夫人は、荒木寛畝の遺児であったが、

孤閨を守る事一年、芸術家としての立場から結婚の必要を感じたのである」

    日本美術年鑑(画報社・大正14年・1925)

荒木糸子写真
 読売新聞 昭和3年(1928)8月10日

〖 菜食主義で 自家で野菜の栽培  

 夫婦で毎日草むしり 荒木十畝画伯の家庭 〗

【 帝国美術院会員荒木十畝画伯の一家は
 
有名な菜食主義の家庭で次は糸子夫人のお話です。 
◇ ◇ ◇ 
肉類はいろいろ変わった料理が出来ますが

野菜だけでは、限られた◇‥‥

材料のことで毎日変わった思い付きもなく

頭をなやまして居ります。

せめてなるべく新鮮なものをと思い、

胡瓜、とまと、茄子、とうなす、里芋、西瓜の類を

畠に栽培して居ります。

野彩の栽培がなかなかむづかしく、虫がついたり、

今年は此間中旅行してるうちに とうなす が

ふしぶしからみんな根を下し 

◇‥‥失敗してしまいました。

とまとの方は昨年は芽を摘むことを知らないで

失敗したが今年は上出来でした。

主人も朝飯前二時間位一緒に草むしりをします

私の所で異なっているのは胡瓜をたいて食べることで、

冬瓜と同じくあんかけにしたり、お吸物より

ちょっと辛いくらいの

◇‥‥甘口に おつゆをたっぷりして、

それに玉葱のみじん切りを入れケチャップをかけて

胡椒をふりかけたりしていたゞきます。

菜食はたしかに身体によく私なども

お茶の水女高師時代には欠席ばかりし、

痩せた人といわれていたが主人の菜食をお相伴する

ようになってからぐんぐん肥り、

此間計って見ますと十六貫五百目もありました。

主人は十六貫二百目です 】


▲大正10年(1921)11月26日 読売新聞
秋季写生旅行_0001

〖 読画会秋季写生旅行 〗

【 読画会では去る23日から秋季写生旅行に

沼津附近の探勝を企て24日は伊良湖峠に向かった

一行は会主十畝氏を初め東畝、耕畝、五畝、春水氏等25名    

閨秀作家は桃畝、紅畝、紅舟さん達だそうである 】

紅舟さんは、後に荒木十畝画伯と結婚されました。〛


=====================
==== ~~~~~ ==========


寛畝女流

◆池上秀畝*夫人こと池上緑畝女史

◇池上緑畝女史

明治44年“美術之日本”
〖 読畫會展覧會 〗

池上秀畝氏の令閨なり、

多病なると家政に忙しき為めに

其作品に接すること稀なるも

亦往々にして佳品を出す、

しかも女史の才は能く社交的に

発展する者の如し


<読画塾畫系>の“池上秀畝氏”の項で

「三十八年始めて薬研掘に一家を構え、

衆議院議員大岡育造氏の末妹を迎ふ、妻

名緑畝女史と云ふ」

*大岡育造氏は、長く衆議院議長を勤め

後 文部大臣 歴任。大物政党政治家。


女流について秀畝

秀畝夫人談

秀畝夫妻

*明治時代には珍しい、池上秀畝夫妻のツーショット。
愛妻家の秀畝さんならではでしょう。
下は秀畝筆「鹿」図

読売新聞 大正8年(1919)10月14日

【 画家として婦人の長所と短所と

今年の文展は閨秀画家唯一人

「婦人画家は幾割か男子に比べて損」

旅行が出来ぬ不便…池上秀畝氏(談) 】

〖 今年の帝展は、日本画西洋画彫刻を

通じて、美人画という美人画は殆ど落選

しました。

それは好いとしても多数の閨秀画家の

出品が唯一人の上原桃畝さんを除く外、

悉く落選の憂き目を見られました、

之から絵を学ばれる婦人方の為に

「婦人と絵画」の関係に就いて

御意見を尋ねようと池上秀畝さんをお

尋ねしました、

招じられた二階座敷の次には、丹に青に

絵具皿が配列して居る

◇ *夫人の 柔しいお顔も此処に混

じる、長髯の先生は「上原さん一人は、

女流が淋しい、然し出品点数から比例を

とれば、閨秀画家の入選は強ち少ない訳

でもないでせう、又落選した知名の人よ

り新選の人の絵が勝れて居れば結構な

話で

◇従来は 婦人であるというので、割引

があったらしい、今年は用捨なく取捨さ

れたのであるから、対等の扱い上から云

えば進歩したことになる、芸術家の立場

からいうと婦人は幾割か男子に比べて

損である、向上時代の二十歳前後を単身

旅行でもすれば、操行で云々云われる、

名声が高くなると八方誘惑がある、この

点でも男子は一層勇気付き、婦人は身を

守るに、精神を労する、深山幽谷の山水

明媚を称へても、直ぐに婦人には危険が

伴ふ、婦人の山水写生などは絶対に困難

で先ず美人画が、適当とは云われぬ迄も

花鳥位な処でせう、何事にも見聞を広め

るということは必要な条件であるに拘

わらず、過渡期の今日、それが出来ぬ婦

人が男子と同等に並んで行かれぬは当

然でせう 軟らかいとか、やさしいとか

いうのがまた婦人の生命ですから、これ

を悪いと許りは云われない、併し若い婦

人の中にも、年長の男子に比して寸分の

遜色も無い方もあるから一概には云わ

れないと思いますが・・・・」

◇ *夫人も傍から

「芸術家に仕上げる為には男女のけじ

めを置いてはならぬと、かうお弟子の婦

人方にも申しますが矢張り私共は相当、

というより随分心をつかいます、

ところが此節では家庭で了解して、思い

切って研究せよといわれても、世間から

兎や角いわれるので、自然と必要な研究

も鈍り勝ちという調子でお気の毒です」

と言葉を添へられました 〗





つづく









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* 日本画と浮世絵

日本画と浮世絵

断固抗議します!
私共のサイト上の写真をクリックすると、赤地の画面に次のような悪意のある文章が大文字で写し出されました。
【 これは報告されている安全でないWebサイトです
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このWebサイトは個人情報や金融情報を盗み取る可能性のあるお使いのコンピューターへの脅威を含むWebサイトであると報告されました
▼詳細情報 】
以上

< 1月24日午前1時30分ごろ悪意ある文章の画面を発見しました。私共が公開しておりますカテゴリにある他の名前も確認しました。同様の悪現象が起こりました。

私共は退職後も社会参画したいと云う思いで
“日華連合絵画展覧会・暹羅日本美術展覧会、読画会”外のデータベース作りに邁進しています。

先考文献・研究の有無を調べ、ユニークでオリジナリティーのある作品を目指そうと今日までやってきました。
私共の企画段階で確認した事は、動乱の時代に戦争をしながらも、
同時に平和親善を理念に両国連合展覧会を開催したという事実。 人間は信じる事が出来るんだ!”

この事実を伝えたいという思いでスタートした企画です。

21世紀は平和に投資する時代です、21世紀は融和の歴史を求めています、

日中親善・日タイ国親善を理念にした絵画展覧会を実現した読画会に焦点を当ててきたのです。

そして売名行為や営業とは無関係の方針で進んでまいりました。
私共の願いはこれ等のテーマで資料集の追加・充実を次の世代に引き継いでいけたらと思っております。

今回の悪意ある文章の介入によって驚かれました皆様に対しまして、私共としまして誠に不本意な悪結果をもたらしたと、くやまれてなりません。
残念無念でなりません。

旧来通りの安定した情報公開の環境が戻るように願うばかりです。

どうか侵入しないでください。

お願いします。

ここに此の度の経緯を説明いたしました。
2012.1.24 3;26am シルバーネイル



〖 最新情報 〗

▲〖 美術真説 〗明治15年(1882)フェノロサ氏演説

○なぜか美術真説には「西洋画」と「洋画」という言葉は出てこない

○欧州ノ画術 と 日本ノ画術

○東洋一般ノ画 と 西洋ノ油絵

○日本画 と 油絵

○東洋ノ画 と 欧州ノ画



△「畫師(327頁 中段23行目)」という言葉と「(日本)画家(331頁上段7行目)」という言葉
「則チ角觝家ハ最好ノ畫師タルヲ得へシ」と「若シ宮闕殿閣ヲ経営スルコトアラハ日本畫家ヲシテ」

△西人と外人
「西人或ハ日本画ヲ視テ(327頁上段1行目)」と「西人或ハ日本画ヲ以テ(328頁上段12行目)」

「外人嘖々トシテ北斎ヲ賞スレトモ余ハ独リ之ヲ謗レリ(327頁下段20行目」 

美術新説表紙**美術新説?_0001**美術新説?**美術新説?**美術新説?**美術新説?**美術新説?**美術新説?**美術新説8**美術新説9**美術新説10


合理的疑問

日本画に対応する英語は、いったい幾つあるのでしょう?

朝日新聞 1995(平成7年)9月1日(Japanese Pictures)

朝日新聞日本画**朝日日本画2

“<日本美術>誕生”(Japanese paintingJapanese picture)
(1996年12月10日第一刷発行 発行所㈱講談社)

佐藤日本画誕生


~~~~++++++++~~~~



≪ 合理的疑問 ≫

7月1日(2009年7月1日時点)に近所の図書館から

“<日本美術>誕生”

(1996年12月10日第一刷発行

著者 佐藤道信 発行所㈱講談社)

を借りてきました。

佐藤日本画誕生

気にかかる個所は

『日本画と洋画が相対概念として

現われはじめるのは、

明治10年代後半である。

「日本画」の語がはじめて現われるのも、

明治一五年フェノロサが龍池会で行った講演

「美術真説」(小冊子として刊行)で使われた、

Japanese painting(picture)の翻訳語

としてだった。

伝統絵画を示す「日本画」じたいが、

西洋からのイメージ(英語)の反転(翻訳)

として成立したのである。』

一読後の感想は、

Japanese painting(picture)と書いてある不思議さ。

この本の出版は、

1996年12月10日第一刷発行とあります。

この本の出版1年前の

1995年9月1日の朝日新聞夕刊には、

“日本美術誕生”の著者(佐藤道信氏)も

写真入りで紹介されています。

朝日新聞日本画**朝日日本画2


その朝日新聞夕刊(1995・9/1)の

“学問を歩く/揺らぐ

《日本的な美術》上”

という記事の中で、

『「美術真説」は英語で行った講演。

草稿は見つかっていないが、

前年の同内容の講演草稿は、

米国のハーバード大学に残っており、

<日本画>に対応するのは

Japanese Pictures

だという。

<日本画>の流行は、英語の翻訳語が

もとだったと類推される。』

とあります。

朝日新聞夕刊には

<日本画>に対応するのは

Japanese Pictures」だという

と明確に複数形で書いてあります。

それなのに、一年を経過すると

何故、 <日本美術誕生>という御本では、

“<日本画>の語がはじめて現われるのも、

明治一五年フェノロサが龍池会で行った講演

「美術真説」で使われた、

Japanese painting(picture)

の翻訳語としてだった。”

と載せるのでしょうか?

なぜ、2種類の言葉を併記するのでしょうか?

Japanese painting と
Japanese picture  では

各々意味が違います。

直訳すると、

“日本絵”、“日本の絵”と

“日本絵画”、“日本の絵画”です。

“日本画”と云う言葉ではありません。

不思議でならないのです。

出所は同じ”美術真説”なのに、

専門家らが指摘する

<日本画>に対応する英語が


○Japanese painting
○Japanese picture
○Japanese Pictures

という具合に、3種をあげておられるのです。

この状況を例えてみると

あるペットショップでの出来事です。

チワワとブルドッグと複数のシェパードたち、

これら3種の犬たちが店頭に並んでいます。

客 「この小さな犬の犬種は何ですか?」
店主「柴犬です」

客 「この中位の犬種は何ですか?」
店主「柴犬です」

客 「この大きな複数の犬たちの犬種は何ですか?」
店主「柴犬です」

客 「では、柴犬の特長は何ですか?」

ざっとまあ、こんな具合の状況と思います。

“あいまいだ”

という言葉はこういう状況下で

使われるものではないでしょうか?

さて、

美術真説は、上記3種の英語の内、

本当は、

どの英語が<日本画>と対応しているのか?


ここに、合理的疑問の発生する余地があるのです。

本当に、ハーバード大学に残されているという

“美術真説”の講演草稿を実見されたのか?

それを関係者に問いたいのです。

<日本画>と云う言葉の誕生に、

翻訳という作業が、どうかかわったのか?




「日本画 ・ Japanese painting 」という言葉の誕生について

≪ Author:

ここで〖美術真説〗に関係した資料を提示します。

その目的は、明治15年、フェノロサの〖美術真説〗が講演された

当時の 空気感を想像していただきたいのです。

皆、命がけで、ひたむきでした、

勇気を失うことが、すべてを失うとされた時代でした。

貧しさが所有できる唯一のものは、心映えでした。

接頭辞の「日本」を多用する、当時のムンムンした爆発力を

体感していただきたいのです。

読む労を強いて申し訳ありません。 ≫




 【 日本画という言葉について 】 

目 次

・日本〇〇

・序文

・私共の意見

なぜか「美術真説」には「西洋画」と「洋画」という言葉は出てこない! 

・「美術真説」の謎、翻訳者は複数人 居た?

・時代背景

・世界観の転換

・見落としたもの

・フェノロサ氏原因説(明治15年説)

・合理的疑問

・「日本画」という言葉の生まれたわけ

・空気感(大局観)

・「日本画」という言葉は、突然生まれたわけではありません

・日本画と日本語(標準語)





◆日本画という言葉について

慶応3年から明治 16年まで(新聞集成 明治編年史参考)

≪ 日本〇〇で溢れた明治期 ≫

日本語・日本料理・日本製のビール・日本人民・日本文

日本学生/日本国人/日本大使・日本政府/日本様・

日本風・日本石炭・日本金貨/日本全国・日本政府

・日本律・日本座敷

・日本国・日本洋学・日本古画/日本人・日本国民 etc 

日本語_0001**日本料理日本製ビール日本政府保守化_0001ロンドン日本文**高杉1**高杉2**日本様**日本風**日本石炭**日本金貨_0001日本政府**日本法律_0001**日本座敷_0001**日本国仏教**日本洋学**フェノロサ古画**大村改進党


 ≪ 序 文 ≫  

「日本画」という言葉の初出例は、どのような文献に載っているのでしょう?

現状では

「フェノロサ氏が『美術真説』というテーマを英語で講演をされました。

その講演の中で使った

   Japanese painting

という英語を日本の大森惟中氏が翻訳して

   「日本画」

という言葉になりました。

これが「日本画」という言葉の初出とされています。

明治15年(1882)の事でした。

つまり「日本画」と云う言葉は「訳語」だったのです。

これが、日本画という言葉の初出例であるということです。

美術新説表紙**美術真説?<美術真説の抜粋>

フェノロサ氏が1882年(明治15年)に龍池会で行った講演

『美術真説』で使った Japanese painting の翻訳が

「日本画」という言葉の初出であるという、
(この通説を今仮に明治15年説といたします。)


アメリカ人のフェノロサ氏が「美術真説」という講演の中で

「Japanese painting」という英語を使ったのを

日本人の大森惟中氏が「日本画」と邦訳したのだそうです。

以下は「日本画」という言葉についての専門家たちの御意見です。

「日本画」は、フェノロサの言葉からはじまり、

  明治国家の政策とも結びつき、天心らによって新日本画の成立へと至った。

「日本画」は、自然と生じたのでもなく、

  日本人が危機意識から生み出したのでもなく、

  まずフェノロサという西洋人の眼によって打ち立てられたのである。


  英語で行われたであろうフェノロサの講演のなかの一語が

 「日本画」と翻訳されたと考えられている。

*フェノロサが1882年に龍池会で行った講演『美術真説』で使った

  Japanese painting の翻訳が「日本画」という言葉の初出である

*「日本画」「という言葉が初めて公に使われたのは、

 明治15年にフェノロサが行った講演『美術真説』とされています

*「日本画」という言葉が使われる契機となったのは、

 明治15年(1882年)に「龍池会」でフェノロサが行った《美術真説》という講演である。

 この講演でフェノロサは、「油絵」と「日本画」を明確に対比させ、

 「油絵」よりも「日本画」の方が優れていることを説いた。

 西洋文化偏重の中で、伝統画の価値が他ならぬ外国人によって称揚されたのである。

 この言葉が一般に使用され始めるのは明治20年代末からであり、

 その後定着していく。

以上が私共が拾えた専門家の「日本画の初出」についてのサンプルです。

はたしてそうか?

<御参考>

日本画・西洋画 洋画 】について

倭画師 音樫/日本書紀・天武天皇六年(678)
◇日本画 奥村政信 ”中村座内外図屏風”昭和8年/日本画大成・肉筆浮世絵
◇日本画師 菱河吉兵衛師宣・貞享初年(1684)/芸術新潮、1988/3 
◇日本画師 奥村政信 ”太夫禿図” 延享ころ(1744 ~48年頃)
◇日本画士 菊池容斎/天明8年(1788年) - 明治11年(1878年)
・昭和7年・日本画大成・明治編1

倭畫士***日本画政信全図

日本画士師宣**日本画師政信_0001**禿美人図日本画師_0001

**容斎1日本画士印容斎日本画士印章


明治8年10月8日 東京日々新聞 新聞集成明治編
洋画会**由一洋画会

【 一昨六日に竹川町十二番地の国澤某の稽古場にて、

 洋画会ありしに、

西洋人の画きたるは何れも皆名筆にて、

日本人の写す所も、多くは西洋人の画を模したる者多かりし中に、

有名なる高橋由一の画きたる乾魚の図は、尤も妙なりとの評判あり。

近ごろ呉服町の玄々堂にても、油絵の稽古を開きしに、

横山、亀井諸子の画く所は、既に洋人に譲らずと云へり。 】

明治14年10月24日 東京日日新聞
<日本古画>
フェノロサ古画

明治18年1月25日 東京横浜毎日新聞
T18,フェ氏日本画論
明治18年1月25日 東京横浜毎日新聞
【米人フェノロサ氏は、

本日午後二時より神田神保園に於て、

日本画の将来と云へる題にて講義するよし。】


明治18年4月24日(1885)今日新聞
 日本画  日本絵
日本画日本絵**

明治18年4月24日 今日新聞
〖 壁張に日本画 西洋で大流行 〗

【 近頃外国人がしきりに壁張の日本画を好みて、

ぞくぞく註文を申込む由、

又其の大きさは八尺位より一丈二三尺に止まり、

画柄は山水花鳥の類をよしとし、

彼の国にては之を壁に張り、一二ヶ月にて張かえを為すという、

故に紐育などの料理屋にては、壁張の日本絵なきを耻とする程に流行し、

又府下にて専ら此画の揮毫を引うけ居らるるは大澤南渓ほか二三氏なりと聞きぬ。 】


日本画・西洋画と併記!!!!
明治22年2月9日 大阪毎日新聞
〖 久保田米僊洋行す 〗
米僊M22洋行**米僊1**米僊2
明治22年(1889)2月9日 大阪毎日新聞
〖 久保田米僊洋行す 〗

【 京都の画家 久保田米僊氏は、

本年四月仏国巴里に於て開ける万国大博覧会に臨場のため、

来る十五日京都を出発東京に赴き、同地にて一週間許り滞在、

夫れより横浜に出で、仏国郵船に搭じて渡航する都合なるが、

氏は暫時佛国に滞在し、日本画の拡張を謀り、

併せて同国西洋画の状況をも実視し、

帰朝の上は日本画の改良を謀らるるの目的なりといえり。 】


〖 御参考 〗

・東京美術学校~明治22年(1889)2月 開校。日本画(文人画を除く)・木彫・彫金の3科を設置

・東京美術学校~明治29年(1896)西洋画科・図案科が新設された。






≪私共の意見≫ 

私共は、「日本画」という言葉の始まりは

「日本書紀・天武天皇六年(678)の条にあります、

倭画師 音樫(やまとのえし おとかし)に由来すると考えています。

そして、土佐派系の大和絵が続き、江戸期元禄享保の町人文化華やかなりし頃に

自然発生した庶民派大和絵の「浮世絵」は,

「日本画」あるいは「日本画師」

と署名する流行が大きな波となって興ります。
(時代背景は後述します。)

すなわち、

 ・日本画 奥村政信

 ・日本画師 菱川師宣 たちです。

そして、明治期に「日本画」という言葉の一般化に、

決定的な大きい寄与をした出来事があります、

明治天皇が、明治8年に菊池容斎に

「日本画士」号

を贈られるのです(国史大辞典)。

此の「日本書紀」から続く

「倭画師 音樫」「大和絵」「日本画師 菱川師宣」「日本画 奥村政信」等の

日本文化の連続性という大きな流れと、

明治さまの「日本画士」号の賜与は、

「日本画」という言葉の一般化に寄与し、

当時の空気感を醸成するのに大きな役割を果たしたと思います。

私共の調査では「日本画」と署名した初出例に、

奥村政信(貞享3年(1686年) - 宝暦14年(1764年))の作品

   「中村座内外図屏風」

があります。

◆ 日本画 奥村政信(日本画大成)
日本画政信3**中村座左 **日本画政信全図**日本画政信解説
六曲屏風一隻。款に『日本画、奥村政信図』とある。

従来の日本絵又は大和絵を、茲では日本画と書いている(日本画大成)



また、現在も「日本画家」と職種として使われていますように、

「日本画師」と署名した画家に菱川師宣や奥村政信があり、

「日本画士」と署名した画家に菊池容斎があります。

(Author;資料は、美術書籍・雑誌から転載しました。
     作品の実物は実見していません。)


◇倭画師 音樫/日本書紀・天武天皇六年(678)
◇日本画 奥村政信 ”中村座内外図屏風”昭和8年/日本画大成・肉筆浮世絵
◇日本画師 菱河吉兵衛師宣・貞享初年(1684)/芸術新潮、1988/3 
◇日本画師 奥村政信 ”太夫禿図” 延享ころ(1744 ~48年頃)
◇日本画士 菊池容斎/天明8年(1788年) - 明治11年(1878年)
・昭和7年・日本画大成・明治編1

倭畫士***日本画政信全図

日本画士師宣**日本画師政信_0001**禿美人図日本画師_0001

**容斎1日本画士印容斎日本画士印章


≪ 時代背景 ≫ 

▲平成14年3月27日 朝日新聞
偈雪舟_0003
〖 雪舟へはなむけの詩 〗
日本僧揚雪舟者天性善畫・・・ 】
拙宗等【せっそう-とうよう】と雪舟等(せっしゅうとうよう)は同一人物か?
」と「」の違い。この書面には「揚」とある。


▲大日本国 陶者 雍州 乾山・尾形乾山作・寛文3年(1663)~寛保3年(1743)銹絵観鷗図角皿裏
(ブック・オブ・ブックス 日本の美術「陶芸」小学館刊 昭和46年)
日本乾山**乾山大日本国


▲彫金画 <大日本彫一宮長常(1721-1787)>
大日本彫_0002**長常小柄_0001**長常下絵**
≪歴史読本/昭和48年6月増刊号≫
一宮①


≪世界観の転換≫
< 脱亜入欧と和魂洋才 >

▲明治5年11月ー新聞雑誌六九 (新聞集成 明治編年史)

改暦1_0001**改暦2

〖 断乎太陰暦を廃して陽暦採用 改暦の詔書下る

   明治5年12月3日を以てー明治6年 1月 1日と定めらる 〗

【 改暦詔書

朕惟うに、我国通行の暦たる、太陰の朔望を以て月を立て、

太陽の躔度に合す、

故に二三年間必ず閏月を置かざるを得ず、

置閏の前後時に季候の早晩あり、終に進捗の差を生ずるに至る、

殊に中下段に掲る所の如きは率ね妄誕無稽に属し、

人知の開達を妨げるもの少なしとせず、

蓋し太陽暦は太陽の躔度に従て月を立て、

日子多少の異ありと雖も、季候早晩の変なく、

四歳毎に一日の閏を置き、七千年の後僅に一日の差を生ずるに過ぎず、

之を太陰暦に比すれば、最も精密にして其便不便も固より論を俟たざるなり、

依て自今舊歴を廃し、太陽暦を用い天下永世之を遵行せしめん、

百官有司それ斯旨を体せよ。・・・・ 】


≪見落としたもの≫ 明治15年/1882 にフェノロサ氏、龍池会で『美術真説』を講演

◆内的素因~日本画史の大きな流れ      

      日本書紀( 倭画師 音樫/天武天皇六年・678 )→
      土佐派系大和絵→
      日本画 奥村政信 ”中村座内外図屏風”昭和8年/日本画大成・肉筆浮世絵 →
      日本画師 菱河吉兵衛師宣・貞享初年(1684)/芸術新潮、1988/3・ 
      日本画師 奥村政信 ”太夫禿図” 延享ころ(1744 ~48年頃)→
      日本画士 菊池容斎/天明8年/1788~ 明治11年/1878・昭和7年・日本画大成・明治編1

また、保守派の牙城「日本美術協会」の巨頭 従一位 大勲位 金子堅太郎伯爵が、

アメリカ人のフェノロサ氏とハーバード大学の同窓であるという

旧知の間柄であり、

日米協会会長の金子が、

アメリカ人のフェノロサ氏を”日本美術の恩人”として紹介した。

此の事は、国士としての金子の立場に配慮して、

フェノロサ氏一人に注意が向く方向性を与えたかもしれません。

金子の純粋なフェノロサへの高評価が、

金子にとって意図せざるフェノロサ偏重を招いたのではないか?

他の外国人の方々(ドイツ人ワグネル氏、イタリア人キヨソネ氏、

アメリカ人ビゲロー氏)の影が薄くなった一つの原因かと思われます。

・日本美術年鑑 明治44年度 日本美術協会役員審査員一覧
(副会頭 金子堅太郎/委員副長 荒木寛畝(荒木十畝の父)
・審美書院創立15周年記念祝賀晩餐会に於ける金子子爵 大正10年4月 美術之日本
日米協会会長 金子堅太郎 読売新聞 大正9年(1920)9月2日
 寛畝副長**金子演説中

金子日米会長**金子日米論文1**金子日米論文2
読売新聞 大正9年(1920)9月2日

〖 日米親善の意義 子爵金子堅太郎 〗

【 日米の親善なるべきは殆ど云うを俟たない、

先づ第一に日米両国は地理的関係に於て親善であらねばならぬ、

念うに太平洋岸に国を樹てゝ居る国家で政体、法律、制度、軍事、経済等

凡ての点に於て完全なる組織を有するものは日米両国の外にない、

・・・・中略・・・・・

米国が公平無私なるハリス公使をして

日本人を誘導教育したるは恰も慈父の如きものがあった
日本人の或者は公使館を焼き乱暴狼藉を敢てしたる事

今日の西伯利土民の如きものがあった

 此の時にハリス公使は斯の如きは

未だ日本が文明の域に達せざる結果である、何等悪むべきでないと

日本を弁護する事至れり尽せりで他国の干渉を一切排して

日本の領土に他国の一兵卒も上陸させなかった、

米本国政府も亦日本に対して些の圧迫も脅迫も加えず

只管日本の自覚を促した、

近年米国で邦人の排斥事件が頻出しても、

日本人は昔時米国人が本邦人に対し勘忍したる厚意を忘れぬ為めに

何等米国を恨んでは居らぬ、

而巳ならず移民も紳士協約を締結して労働者の渡米さへ禁じて居る、

此の如く一切万事米人の感情を害せざるに努むる事

恰も六十七年前の借金を今日 米国に返還しつつあるのである

 更に詳しく云えば米国は波理(ペリー提督)タウンゼント、ハリス公使以来

日本に投じた無形の資本を現に返還されつつあるのだ、

歴史は此の如く日米の間は切っても切れぬ間柄である、

然るに今日 米国に此歴史を無視し日本人の心理状態を誤解し

自ら日米親善を破壊せんとするもののあるは甚だ惜しむべき所である、

併し乍らこれは米国の人種が四十年以前と異なるが為めである 

四十年前の米国は四民平等なりとの国祖ワシントンの子孫であった 

それが四十年前頃から欧州諸国の移民が滔々と流れ込んできた、

是等新移民の多くは選挙権を獲得した結果、

米国建設の歴史をも顧みず十三州建設当時の少数国民の子孫を圧倒するに至った、

此の新米国民の眼中には日米の歴史は無い 

単に日本人の生活程度低く、勤勉にして且つ其の賃金は低く、

英語も亦十分に話得ざる点だけ見える、これが異分子として嫌われる所以である、

併し乍ら予は確信す米国人が少しく胸襟を開き

在米日本人に其の市民権を与えんか

必ずや日本に於て忠良なる国民たるが如く

米国に於ても亦忠実なる国民たるを疑わず、

一、二日本人の行為を見て直に全日本人の心理や行為を律せんとするは

米人の為めに取らざる所である、

故に米国民は先づ日本の歴史と日本人の性向とを

詳に研究するを要するのである、以下略  】

引用

ここに、明治三年(1870)一月十三日の
もしほ草

横浜報知もしほ草(新聞)”の記事によると、

中国のアヘンによる窮状を記述したのち、

次のような件があります。

【○爰に日本国にとりて、

幸ひ中の幸ひなり。

十有余年前、我亜國初めて此地に渡来し、

それよりしてハルリス君の手にて、

双方の協議を盡し、条約最初に取結ばれたり。

かのハルリス君には、いとかしこくも

インデアのアヘンを此国に輸入することは

堅く断りたしと、外国人に布告せしかば、

今日迄此地にこの憂へなし。


若も他国人アメリカに先達而、

日本国と条約取締に相成しならば、

かれ等は此地に無用のアヘンを

十分に輸入するに至るべしと思われたり。】

ハルリス氏のお蔭でアヘン(阿片)から

救われた日本と云う事です。

ここに登場します

ハルリス(Townsend Harris)とは、

幕末期に来日したアメリカの外交官

ハリス領事の事のようです。

(*ペリー提督をぺルリ提督と呼ぶに同じ)


▲〖 炎は流れる (明治と昭和の谷間)〗 大宅壮一著
  第2巻 P233 昭和39年(1964)文芸春秋新社
P233炎は流れるアヘン

【タウンゼント・ハリスの伝記を読むと、

彼の祖母は、独立戦争時代のことを

話して聞かせたあとでは、きっと、

「真実を語れ、神を畏れよ、イギリスを憎め」

と教えたと出ている。

また、ハリスは少年時代に、

英国製のナイフを手にしなかったし、

英国製の布で作った衣服を

きることを好まなかったという。
   (炎は流れる第二巻P233)】

▲炎は流れる 第2巻 P241
炎は流れるP241V2

【 中国にアヘンをもちこんだイギリス人を憎み、

日本に中国の轍を踏ませたくないため、

「アヘン禁輸」を条約の一条項として明記するこ

とをすすめたのも、

日本への深い愛情、彼(ハリス氏)の心の底にひめられている強い理想主義

から出たものといえよう。】


〖本阿弥行状記(中央公論美術出版)〗

  本阿アヘン1**本阿2

【一三九 毎年来朝の阿蘭陀人甚だ天文に功者なるより、

何万里の瀾の上を来りて難船をせざるは、

天文に通ぜし故とぞ。

惜むらくは貪欲に走りて

一生を過す事蠻夷の風俗なるべし。

彼が持来る品稀なるもの多き中に、

阿芙蓉(一名 阿片)

此品甚だ高料の奇品にして、

閨房の楽にせんと(字しれず ひきのあぶら抔とやら)

用ふる薬なりと。

度重るときは病となる。

いらざる奇品なり。

阿芙蓉はけしの花の少しひらきかかりの花をむしり、

六七歩のけし坊をあつめて銀の器にしぼりこみ、

日に干し候物とぞ。

凡田三反計りのけしにて、漸く懸目三匁ばかり出来候とぞ

(本阿弥行状記P91~P92) 】

何故、清国にあれほどアヘンが蔓延したのか?

アヘン戦争という世界史的大事件がありました。

此の歴史的事実は、解明されるべき

人類にとっての大きなテーマです。


▲近代日本建設のために、ハリス氏やフェノロサ氏はじめ、

どの位多くの外国の皆様方に応援していただいたのか、

もっと外国の功労者を紹介したいと思います。

小笠原島の世界遺産登録決定をお祝いいたします。

ここに、小笠原島の開拓の恩人を紹介致します。

▲明治16年(1883)2月24日 朝野新聞
プロスパレスワ―氏青綬褒章
小笠原青綬褒章**小笠原の恩人


▲明治4年(1871)8月2日 太政官日誌
〖 北海道開拓の最高顧問として
  米国農学者等三人を招聘 〗
ケプロン_0001



・美術雑誌 美術之日本 大正7年(1918)・同 大正9 年(1920)・同 大正10年(1921)
美術之日本大正7年_0001**T9行幸美術協会**美術之日本大正7年_0002**

・近代日本絵画の旅/河北倫明著/1971刊
M30代の日本画界


・美術之日本
恩人フェノロサ1**恩人フェノロサ2_0001

・日本美術院百年史
金子フェノロサ1**金子フェノロサ2_0001


外的素因~フェノロサ氏はじめ、ドイツ人ワグネル氏、イタリア人キヨソネ氏、アメリカ人ビゲロー氏
         等の方々による好意的日本美術の称揚

・戦後生まれの私共は、

「日本画」という言葉のゴッドファーザーのような

フェノロサ氏に焦点を当てて見て来ましたが、

昭和19年3月発行の

「明治 大正 昭和日本絵画史(?大日本雄弁会講談社刊)」の37頁には、

当時の空気感を伝える重要な指摘があります。

日本固有の美術・工芸の尊重すべき事を力説された外国の人々に、

ドイツ人ワグネル氏、イタリア人キヨソネ氏、アメリカ人ビゲロー氏

の皆様を紹介して居ます。

【 そうして、フェノロサ始め、

 開成所の教師独逸人(ドイツ)ワグネル、

 印刷局勤務の伊太利人(イタリア)キヨソネ、

 またフェノロサに親しき米人(アメリカ)富豪のビゲロ―

などいう人々が、

次ぎ次ぎに日本固有の美術、工芸の尊重すべき事を力説するに至ったのは、

当時の官民に多大の感動を与えたと言わねばならない。

何分、崇外思想の充ち満ちていた時代丈けに、

彼等の言動の影響は特に大きかった。 】

▲昭和19年3月発行「明治 大正 昭和日本絵画史 ?大日本雄弁会講談社刊」
講談社仲田1**日本絵画史表紙**講談社仲田2


つづく

「引用」 2011・3・11 ~ 追記

朝日新聞日本画**朝日日本画2

『「美術真説」は英語で行った講演。

草稿は見つかっていないが、

前年の同内容の講演草稿は、

米国のハーバード大学に残っており、』

とあります。

その”前年の同内容の講演草稿”について触れた記事は、
下記の記事でしょうか?

明治14年10月24日(1881)東京日日新聞
フェノロサ古画


追記2011・3・28

KURENAI : Kyoto University Research Information Repositoryを参考にします。
 
◆『美術真説』とフェノロサ遺稿・英文学評論 (1983) 村形明子氏

「明治10年第一回内国勧業博覧会の際牙角彫刻家金田兼次郎,石川光明,旭玉山ら

20数名が相互の知識交換,作品批評による実技向上を目ざして

月例研究会を組織した。

毎月20日金田宅へ集まっていたが,会員増加のため

翌年会場を不忍池弁財天境内長舵亭へ移し,

12年規約を制定して勧工会と称した。

14年竜池会幹部塩田真,岸光景等の賛同を得,

彫刻競技会と改称,河瀬秀治を会頭に推して

学識家,実験家,考案家(デザイナーか)等の講話,

フェノロサの講演

を催した(内藤政宗編『東京彫工全史』[昭和2年1,1-2頁)。

この会は画家よりも彫刻・工芸家の集まりであるが,

『東京日日新聞』(明治14年10月24日)の

昨23日柳橋の萬八楼にて大学理学部教師米国人

 フェネローサ氏

画学の演説あり云々


という記事は彫刻競技会月例会の報告であろうか。

引用 

『東京日日新聞』(明治14年10月24日)
 
  「昨23日柳橋の萬八楼にて大学理学部教師米国人

  フェネローサ氏画学の演説あり云々」

の続きの記事は下記の記事だと思われます。(Author)

 明治14年10月24日(1881)東京日日新聞
フェノロサ古画


また,この年4月10日に始まる「講演I・Ⅱ」および「講演(Ⅲ)」,「講演Ⅳ」

画家を対象としていることは明らかであるが,

これらの連続講演と彫刻競技会月例会演説,

10月23日の画学演説とは無関係なのだろうか。

こうした疑問に答えることが

「講演I・Ⅱ・(Ⅲ)・Ⅳ」の正しい位置づけ,

そしてそれらの

  『美術真説』

との係わりを理解する手がかりを提供するものと思われる。

ここで,上の論考において殆ど触れなかった新出草稿の後半24頁

「美術に関する連続講演総括-十格の詳説を終えた直後,下条の反論に答えて-」

に注目しよう。

フェノロサに反駁した下条[正雄]

桂谷と号する北宗画家,

海軍省主計官で竜池全幹部,

明治17年第二回内国絵画共進会等の審査官をつとめた。

ここでフェノロサは自らの見解が西洋の観点のみに基づくのではなく,
東洋の画論をも深く研究した上の所産であること,東西絵画の根本的相違は
それぞれの起源-書と彫刻-に由来することを確認した上で,
彼の「十格」を中国の謝赫『古画品録』の
いわゆる「六法」と同一視する見方に対し反批判を加えている。
フェノロサが冒頭で名指している下条と「前回私の次に登場」,
「私の立場に疑問を提起」した「学識ある講師」が同一人物なのかどうかは
今一つはっきりしないが,彼の連続講演が必ずしもその独壇場ではなかったこと
を示唆して興味深い。
<下条は後に鑑画会におけるフェノロサの指導についても反論を加えるが,
下条氏談として紹介されている次のようなエピソードは
批判者の側から見た真相の一端を伝えている,と考えてよいだろう。
「曽て築地の本願寺で竜池会のあった時分のことである。

フェノロサは演説して

日本画に船を上景に描いて,

地平線を下景に描いたものが多いが,

此等は自然の道理に違背した非科学的のものだと言った。

春重舟**豊広**清長舟図**北斎舟図**
左から䔥亭春重(江漢)「美人納涼図」・歌川豊広「桟橋の二美人図」・鳥居清長「美南見十二候 四月汐干」・葛飾北斎「汐干狩図」≪以上 「日本の美術」・至文堂発行≫


 ◎クロード・モネの「サンタドレスのテラス」と
葛飾北斎の冨嶽三十六景「五百らかん寺さざゐどう」

サンタドレスのテラス_0001**五百羅漢寺

*葛飾北斎の冨嶽三十六景「五百らかん寺さざゐどう」に影響を受けたといわれるクロード・モネの「サンタドレスのテラス」。北斎の構図は、彼方にある地平線を意図的に高く設定し富士の存在感を強調した。モネの作品と北斎の作品の構図が同じである。モネは、ルネサンス以来の遠近法によらなくても自然で独創的な空間を構築できる事を北斎から学ぶ。(参考・NHK”知られざる在外秘宝”より)
 


其折下条氏は白く,

日本画で船を上景に描くは,

懸物が竪幅である制約上当然であるが,

また遠景の船などは上部に位して見える者だと反駁した。

フェノロサは頑として聞かなかったので,燭台を海岸に出し,

品川の台場を望み,実験上遠景の船が高位に見えるので,

流石の科学先生も下条氏の意見に敬服した

ことかあったそうな。
(梅沢精一『芳崖と雅邦』【純正美術杜,大正9年】151頁)】」

このエピソードが「以前の講演で,新しい美術がその純粋性を失わずに外国
美術から借りることのできる幾つかの要素,特に風景画における折々の陰影,
科学的邪魔物ではなく本能としての透視画法について話しました」というフェ
ノロサの言とどういう関係にあるかは別として,それが竜池会の出来事として
語られていることに注意しよう。竜池会にフェノロサと画家下条が上のような
議論をする場があったとすれば,それはフェノロサ連続講演の舞台として彫刻
競技会より適当であることは確かだろう。それとも明治14年竜池会有力幹部の
賛同を得,河瀬秀治(竜池会創設時の副会頭,明治18年鑑画会会長)を会頭に
迎えた彫刻競技会は,フェノロサにとって画家中心の鑑画会の前身,竜池会か
ら鑑画会への過渡期の橋わたし的存在でもあったのだろうか。
いずれにせよ,フェノロサは「講演(Ⅲ)」において
「真実で論証可能な中国の六法のすべてを包含」し,
「この六法を理性の眼で敷桁,解釈すれば,すべてと言わずとも殆どを含ませ得る」
ものとして,彼の絵画批評の規準である十格を説いたのである。

「宋の郭若虚はそのすぐれた画論[『図画見聞誌』]に
おいてまさに私の立場,即ち気韻という特質は文字通り精神の優秀性,
私のいわゆる観念性であること,これは表現のあらゆる筆法や技法が気韻から生じ,
その必要に応じて相互に関連従属し合う時はじめて絵画の中に達成し得る,
ということを慎重に論述しようと努めています」。

またフェノロサの主張は「ヨーロッパの言葉で書かれた本」の中に見つかる
べくもなかった。ヨーロッパの見方だけでは東洋の見方だけに劣らず不完全で
ある。彼の目的は「哲学的研究」によって東西双方における「本質的なもの」
を見出し,それを証明することであった。「私の意見中どの論点も立証に依存
しており全体が合理的に証明されていますので,臆測の余地は皆無です。
‥・・数学が万人にとって同じものであるように,
私の美術に関する連続講演も理性の権威に基づいているのです」
従って反論は,彼の「論理の基盤を直接危うくする限りにおいてのみ」
意味を持つ筈であった。

東西の過去の画論を総合し,時代の最先端を行く理論としてこれほど熱意と
確信をもって提出されたフェノロサの「絶対的美術哲学」は,
日本人識者の間にそれなりの反撥を招いたとしても,
合理的近代批評精神確立の上で十分啓発の役割を果たした,
と言えるのではないだろうか。

最後に,『美術真説』中の訳語で善美,簾集,妙想等ルビのある言葉は
極めて限られている。
次に掲げるフェノロサ遺稿のtranscriptとの照合により,
明治翻訳語の研究にも役立てることができれば幸いである。

拙著『ハーヴァード大学ホートン・ライブラリー蔵

フェノロサ資料?・美術に関する講演・鑑画会関係資料』

には前・後半を併せた全訳を収録するが,ここに紹介する

transcriptは『美術真説』と密接な係わりを持つ

前半の「講演」のみにとどめる。

なお「東京の美術家達を前にした美術に関する講演1.1881年4月10日」,

「講演?」も鑑画会等の美術講演とともに全訳を第二巻に収録する予定である。

1日本フェノロサ学会『会報』6(1983年8月),1頁参照。

2事実,フェノロサ自身後の鑑画会講演で次のように述べている。

「私は既に何回か,日本の色々な会を前に

この点[完全な絵画の必要条件としての諸特質=十格]に関して

講靖を行ったことがあり,

その大意については二年前竜池会が発行した

私の講演の翻訳[『美術真説』]があげられます」

(「日本絵画の将来(1)」一明治17年5月11日-)。 

【御参考】
(「日本絵画の将来(1)」一明治17年5月11日-)。 の記事ではありませんが、
次のような記事があります。
明治18年1月25日 東京横浜毎日新聞
日本画の将来
T18,フェ氏日本画論
明治18年1月25日 東京横浜毎日新聞
【米人フェノロサ氏は、

本日午後二時より神田神保園に於て、

日本画の将来と云へる題にて講義するよし。】 

 *Author; 以上 村形明子氏の1983年発表の論文をインターネット上で見つけ,参考にさせて頂きました。
       私共も1997年からLife-size出版を通じて「日本画」の言葉の由来を研究しています。
       インターネットも2009年5月から始めました。

引用
△日本美術協会役員審査員一覧(委員長 下条正雄/委員副長 荒木寛畝)
△国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードA10110089300
△下条正雄(桂谷)氏訃報(大阪朝日新聞/大正9年12月2日)
寛畝副長**下条叙位公文書**下条正雄訃報

「日本絵画三代志・石井柏亭著/昭和58年刊・ぺりかん社」
下条1**下条2**下条3

△日本画大成 大正篇・下条桂谷筆/昭和8年(1933)刊
桂谷図1**桂谷図2**下条解説1_0001
下条馬図_0002**下条月図**下条解説2

▲大正8年9月8日 都新聞 (帝国美術院会員選出時に於ける下条の動向)
帝展会員下条


〖Author;村形明子氏の1983年発表の論文をインターネット上で見つけました。

”10月23日の画学演説”の記事を載せました。御参考にしてください。

その後、新しい資料の発見でもあったのでしょうか?

私共は”日本画”という言葉の誕生について研究しています。〗

〖御参考〗
▲明治16年3月2日 東京日日新聞(新聞集成 明治編年史)
≪東西絵画の優劣比較,油絵と文人画の糾弾等かの竜池会講演の核心≫
とされる事に関する記事
文人画は美術の賊**文人画は美術の賊2
【 西京建仁寺の天章和尚居常に

人に挙示して曰く 腐儒と文人画は国の蠧賊なり、

腐儒は人の心を惑わし 文人画は絵の真を紊る

故に予之を悪むこと蠅の如く蛆の如しと、

当時聞く者皆其事の滅法界なるに駭きしが、

今にして思えば果たして然り、

腐儒の迂なる者は化して国会嫌いの頑論者となり、

其黠なる者は変じて急激の偽民権家となる、

扨又た文人画も一時は後素社会に跋扈して

幾ど我邦絵画の美を損じ盡せしが、

幸いに去年の共進会ありて世人も稍目を醒し、

蕷薯の山何首烏の石の厭うべきを知り

此を美術中より駆逐さんとの念を生ぜり、

されば彼の頑迷急激の二者も、廿三年国会開設の期に至らば

果して社会を蠧毒するの最大害物たるを知り、

三千五百万の兄弟らが杖を執り棒を提げて

此を其の中間より逐い払わんとするや疑いなし。

我々は早く此の政論家共進会開設の日に遇いて、

彼らが西の海に追儺はるヽの態を見んことを切望すとの投書あり、

世の此書を見るもの又滅法界の言なりとして驚くや、将た微笑首頷するや。 】


当時聞く者皆其事の滅法界なるに駭きしが、

今にして思えば果たして然り、・・・・≫

とありますが、

もし勤王僧の天章慈英(てんしょうじえい・1815-1871)和尚のことを

懐旧しているのならば、

1882年の「美術真説」フェノロサ氏に先立つこと10年以前に

”腐儒と文人画”を指摘していたのです。






≪ 空気感 ≫
*倭画師音樫→大和絵→日本画師 菱川師宣→日本画 奥村政信 図→日本画士 菊池容斎→近代の日本画 という歴史的流れ

*西洋画(西洋画談)→西洋画士 司馬江漢→洋画会(明治8年10月の記事)→西洋画(明治22年/久保田米僊の記事)という歴史的流れ
資料1

美術真説 〗明治15年(1882)フェノロサ氏演説
美術新説?_0001**美術新説?**美術新説?**美術新説?**美術新説?**美術新説?**美術新説?**美術新説8**美術新説9**美術新説10
畫(画)・日本畫(画)〗と〖 繪(絵)・油繪(絵)〗の使い分け

西洋画と日本画は二つで一セットの対概念として成立したのか? 

<東洋一般の画>と<西洋の油絵>P327下段

<東西両洋(日本及び欧州)の画風> P328中段

<欧州画家 P328中段>と<日本画家> P331上段

▲郵便報知 明治6(1891)年2月
*西人、西畫(画) と 美術真説327頁 上段 1行目に”西人”とある
  M6,西人


西洋画」「洋画」という言葉の初出文献は何なのでしょうか?

・寛政6年(1794)<新井成美(白石の子孫)「西洋紀聞」を幕府に献ず>

・寛政11年(1799)<司馬江漢こと=浮世絵師 鈴木春重「西洋画談」を著す>
 その文面
  【 世の人西洋画を惟浮画と覚えたる輩多し 棒復にたえざる事と云うべし。 】

京都大学付属図書館「西洋画談」という名前でインターネットに公開されています。
6/11頁の画面を参考にしました。
 

・高橋由一(文政11年1828~明治27年1894)「洋画局的言(洋画+局+的言)」を著す

・高橋由一の油絵< 洋画会 > 明治8年10月8日 東京日々新聞 新聞集成明治編 
 
【御参考】
寛政8年(1796)相州鎌倉七里浜図
 <西洋画西洋画+士)司馬江漢作品>
 (日本の美術210号 昭和58年 至文堂発行
司馬江漢1_0002

明治8年10月8日 東京日々新聞 新聞集成明治編
洋画会**由一洋画会

【 一昨六日に竹川町十二番地の国澤某の稽古場にて、

 洋画会ありしに、

西洋人の画きたるは何れも皆名筆にて、

日本人の写す所も、多くは西洋人の画を模したる者多かりし中に、

有名なる高橋由一の画きたる乾魚の図は、尤も妙なりとの評判あり。

近ごろ呉服町の玄々堂にても、油絵の稽古を開きしに、

横山、亀井諸子の画く所は、既に洋人に譲らずと云へり。 】


明治16年(1883)11月4日9日 東京絵入新聞

〖 西洋蝋三千丁の光力ある電気燈 電信局製機係で製造 〗
西洋蝋_0004


明治22年(1889)2月9日 大阪毎日新聞
〖 久保田米僊洋行す 〗日本画西洋画
≪東京美術学校~明治22年(1889)2月 開校日本画(文人画を除く)・木彫・彫金の3科を設置≫
米僊M22洋行**米僊1**米僊2
明治22年(1889)2月9日 大阪毎日新聞
〖 久保田米僊洋行す 〗

【 京都の画家 久保田米僊氏は、

本年四月仏国巴里に於て開ける万国大博覧会に臨場のため、

来る十五日京都を出発東京に赴き、同地にて一週間許り滞在、

夫れより横浜に出で、仏国郵船に搭じて渡航する都合なるが、

氏は暫時佛国に滞在し、日本画の拡張を謀り、

併せて同国西洋画の状況をも実視し、

帰朝の上は日本画の改良を謀らるるの目的なりといえり。 】


・貞享初年(1684)<日本画師(日本画+師)・ 菱河吉兵衛師宣(浮世絵の始祖)>
 (芸術新潮、1988/3)
日本画士師宣
 

 ◆洋剣(サーベル)と日本刀は
 二つで一セットの対概念として成立したのか?
 

<例として>
・1060年ごろ唐宋八大家の欧陽修が

   日本刀歌

という漢詩を作っています。
日本刀歌
洋剣(サーベル)という言葉が生まれて、日本刀という言葉が誕生したのでしょうか?

▲明治5年11月(1872)新聞雑誌七○ 日本刀
▲明治10年10月6日・浪速新聞 〈桐野利秋の洋剣(サーベルとルビ)〉
M5日本刀**桐野利秋 洋剣


◆西洋画と日本画は
 二つで一セットの対概念として成立したのか?
 
<例として>
    倭画師 音樫/日本書紀・天武天皇六年(678)
    日本画師 菱河吉兵衛師宣・貞享初年(1684)/芸術新潮、1988/3 
    日本画士 菊池容斎   
   【 菊池容斎/天明8年(1788年) - 明治11年(1878年)
   ・昭和7年・日本画大成・明治編1
倭畫士日本画士師宣**容斎1日本画士印容斎日本画士印章
洋画」「西洋画」という言葉の初出文献は何なのでしょうか?

「天明年間の油絵1781-1789」明治12年9月5日 有喜世新聞
・新聞集成 明治編年史
亜欧堂1_0001**亜欧堂2_0001


 【 日本画 】という言葉を記した初出画? 

日本画 奥村政信  (日本画大成)
日本画政信3**中村座左**日本画政信全図**日本画政信解説
〖 六曲屏風一隻。款に『日本画、奥村政信 図』とある。
従来の日本絵又は大和絵を、茲では日本画と書いている。〗
(日本画大成)


◆ 日本畫師(日本画師)
・日本画師 菱河吉兵衛師宣 貞享初年(1684)
 (芸術新潮、1988/3)
日本画士師宣

・日本画師 奥村政信 ”太夫禿図” 延享ころ(1744 ~48年頃)
日本画師政信_0001**禿美人図日本画師_0001

 ◆【 日本繪(絵)】 (日本画大成)

日本繪(絵) 宮川長春 >
日本絵趙春2**日本絵長春1**日本絵趙春解説

〖 款に『 日本繪(絵)宮川長春図 』とあって、

 この款識は全く菱川師宣に倣ったもので、

 ヤマトエを日本繪とさえ書いている。 〗

◆『 日本繪菱川師宣 』<日本画大成>
 <日本画大成の内容>昭和8年刊 発行所 東方書院
恋せずは師宣立姿美人図**恋せずは師宣解説**日本画大成顧問目次

〖 款に『 日本繪菱川師宣書畫 』とあり、

賛に『 恋せずば、人は心のなからまし、

   ものヽあはれも、これよりぞしる(藤原俊成) 』

の和歌を記している。

款に特に日本繪(絵)とあるのは、

師宣から初めて菱川の流れを汲むものヽ好んで書いたものである。

その特に日本繪と強調したところに見識があるので、

唐絵(又は漢画と言うも同じ)でない、

日本の純粋画であるということを表明しているのである。

言い換えれば当時全盛の狩野派の畫(画)に対峙して、

よく大和絵の存在を明示したもので、

大和絵の行く道を、特に美人風俗画(謂ゆる浮世絵)に発見した

師宣の精透な観察には、歎賞に余りあるものである。 〗


日本独特の様式美を絵画化した大和絵(浮世絵

鳥居清信ほうずき**懐月堂上図**懐月堂安度_0002*懐月堂安度

【 ここで注意すべきは、鳥居清信、懐月堂度繁、の作品にみるように、

絵師自身は、”大和絵師”“日本戯画”などを署名に冠して用いて、

けっして自分から浮世絵師何某ということはなかったことである。

この“浮世絵”あるいは”浮世絵師“という文字は当時の人々が、

浮世傘、浮世ござなどと同じ軽い気持ちからつけたものが、

現在では一つの固有名詞となったのであろう。

今日では浮世絵とは、庶民的大和絵であるという解釈が一般定説となっている。

(*カラーブックス99頁 昭和38年 保育社発行 ”浮世絵” 菊池貞夫氏著) 】


◆大和・大和

古山大和絵_0001**古山解説
大和絵古山師重図<日本画大成>

大和画師利信**大和畫師利信2 
大和画師 奥村利信「風流うかれ馬かた」(ビクトリア・アルバート博物館蔵)


◆明治35年(1902)1月18日
日本新聞〈新聞集成 明治編年史〉
<美術真説>の出版人 龍池会員 松尾儀助氏の記事
松尾1_0001**松尾2_0001


【 日本繪(絵)】という署名
?菱川師宣筆 立姿美人図と観花図 ?男女図 師宣筆 ?美人若衆図 師宣筆 ?美人図 師宣 ?見立源氏若紫図?柄えらみ図 ?放下師図 ?風俗屏風 ?美人読書図 菱川師房筆 ?風俗屏風 菱川師房筆 ?鏡台美人図 菱川師秀筆 ?婦女図 宮川長春筆 ?柳下美人図 宮川長春筆 ?汐くみ図 宮川長春筆 ?乗鶴美人図 宮川長春筆 ?遊女聞香図 宮川長春筆 ?雪中三美人図 宮川長春筆 ?官女図 宮川長春筆 ?伊勢図 宮川長春筆 ?若衆図 宮川長春筆 (21)紫式部図 宮川長春筆 (22)舟あそび図 宮川長春筆(23)婦女図 宮川長春筆 (24)婦女図 宮川長春筆 
  
?恋せずは師宣**師宣遊山図_0001?男女図師宣?美人若衆図?美人図_0001?源氏若紫図_0001?柄えらみ?放下図?風俗屏風?読書図
?風俗屏風師房**風俗屏風師房2?鏡臺美人図?日本絵長春1?柳下美人図?汐くみ図?乗鶴美人?遊女聞香長春?雪中三美人?官女図?伊勢図?若衆図*(21)紫式部図*(22)舟あそび図*(23)婦女図1*(24)婦女図2*(25)長春美人図*(26)長春笛吹き図*(27)長春立美人図*長春美人図_0001*(28)長春風俗図*(29)遊楽絵巻*(30)風俗絵巻*(31)美人図*(32)長龜遊女図*(33)たまむれ図*(34)長龜格子図*(35)歌留多遊び図*(36)一笑観花図*(37)夏姿図一笑*(38)柳下図一笑 *(39)花下美人図一笑*(40)三味線図*(41)長春立美人図3*(42)長春蚊帳図


【 大和繪(絵)】という署名
?古山師重筆 美人図 ?菱川師政筆 風俗絵巻 ?
?古山大和絵_0001**?大和絵古山


【 大和畫(画)】という署名
?菱川和翁筆 演戯図
?和翁演戯図


【 大和繪(絵)師 】という署名
?古山師政筆 楠公決別図
?楠公決別


【 大和画師 】という署名
?奥村利信「風流うかれ馬かた」(ビクトリア・アルバート博物館蔵)
?大和畫師利信2


フェノロサ氏の記事
▲明治17年(1884)4月1日 東京日日新聞 フェノロサ氏の雅号 新聞集成 明治編年史
▲明治18年(1885)9月30日 東京日日新聞 フェノロサ仏門に入る 新聞集成 明治編年史
▲明治42年(1909)8月30日 東京朝日新聞 フェノロサ氏の亡骸 新聞集成 明治編年史
▲大正9年(1920)フェノロサ氏の回忌 美術之日本 美術之日本
▲大正9年(1920)9月 フェノロサ博士記念祭と未亡人 美術之日本
▲大正9年(1920)11月 日本美術の恩人フェノロサ 美術之日本
▲大正10年(1921)2月 日本美術の恩人「日本美術協会報告」 日本美術院百年史所載

フェノロサ雅号**フェノロサ仏門**フェノロサ氏亡骸

フェノロサ氏回忌**フェノロサ未亡人_0001

恩人フェノロサ1**恩人フェノロサ2_0001

金子フェノロサ1**金子フェノロサ2_0001


ドイツ人ワグネル氏、イタリア人キヨソネ氏、アメリカ人ビゲロー氏

戦後生まれの私共は、

「日本画」という言葉のゴッドファーザーのような

フェノロサ氏に焦点を当てて見て来ましたが、

昭和19年3月発行の

「明治 大正 昭和日本絵画史(?大日本雄弁会講談社刊)」の37頁には、

当時の空気感を伝える重要な指摘があります。

日本固有の美術・工芸の尊重すべき事を力説された外国の人々に、

ドイツ人ワグネル氏、イタリア人キヨソネ氏、アメリカ人ビゲロー氏

の皆様を紹介して居ます。

【 そうして、フェノロサ始め、

 開成所の教師独逸人(ドイツ)ワグネル、

 印刷局勤務の伊太利人(イタリア)キヨソネ、

 またフェノロサに親しき米人(アメリカ)富豪のビゲロ―

などいう人々が、

次ぎ次ぎに日本固有の美術、工芸の尊重すべき事を力説するに至ったのは、

当時の官民に多大の感動を与えたと言わねばならない。

何分、崇外思想の充ち満ちていた時代丈けに、

彼等の言動の影響は特に大きかった。 】

▲昭和19年3月発行「明治 大正 昭和日本絵画史 ?大日本雄弁会講談社刊」
講談社仲田1**日本絵画史表紙**講談社仲田2



資料2≪新聞集成 明治編年史≫

▲元冶元年(1864)四国連合艦隊、下関を砲撃
馬関高杉**「炎は流れる」第4巻 昭和39年・文芸春秋新社刊
歴史の古さと一王朝の連続性を尊ぶ  日本という国柄の説明者 高杉晋作 】

△「本阿弥行状記と光悦」69頁/中央公論美術出版/昭和56年(1981)発行
"日本国中は神の御末にてみなみな禁裏様の物也”
皆、禁裏の物


▲慶応4年正月十日(1868)
〈 日本国天皇 〉
日本国天皇慶応元年

<昭和20年のGHQ占領迄、長い文化的連続性の象徴である天皇>

▲慶応4年四月十日(1868)中外新聞
我日本は永久独立国たるべし・日本國中(このフレーズは明治期の時代精神です)〉
五カ条神田孝平

【 神田孝平(かんだたかひら)幕末・明治の洋学者。男爵。岐阜県の人。
 蘭学を納め、開成所教授。後、兵庫県令・元老院議官・文部少輔。
 また、明六社に参加、欧米文化の紹介に尽力。1830~1898 広辞苑 】

日本畫士( 日本画 + 士 )・菊池容斎
     と
油絵師( 油絵 + 師 )・高橋由一


▲明治2年(1869)6月5日 中外新聞
▲1937年初版 日本人名大事典(新撰大人名辞典)平凡社 
日本畫士( 日本画 + 士 )・菊池容斎 
M2,容斎**容斎日本画士

▲明治9年(1876)8月22日 郵便報知 ・ 新聞集成 明治編年史 
▲明治12年(1879)6月17日 朝野新聞 ・ 新聞集成 明治編年史
油絵師( 油絵 + 師 )・高橋由一
油絵師高橋**皇太后像寛畝


参考・日本画師 菱河吉兵衛師宣/芸術新潮、1988/3
    倭画師 音樫/日本書紀・天武天皇六年(678) 
    賜 日本画士の印影(菊池容斎1788-1878・賀の祝図)
    日本画家(日本画+家) 荒木十畝
日本画士師宣倭畫士容斎1日本画士印容斎日本画士印章

容斎解説1**容斎解説2**官員様1**科人様日本画士容斎の「日本画士」号の由来
昭和7年・日本画大成・明治編1


◇〈 日本語と国語 〉 〈 日本画と国画 〉 〈 日本史と国史 〉〈 National LanguageとEnglish 〉
▲慶応3年6月中旬 萬国新聞紙 〈 日本語と国語 〉
日本語_0001

▲明治4年8月(1871)新聞雑誌二 〈 日本画と国画 〉
M4国画
【 明治4年(1871)8月新聞雑誌二

 東京本所緑町五丁目角薬種店伊勢喜別宅ニ於テ,

 8月15日ヨリ日数15日ノ間、

 土石、草木、蟲、魚介、禽獣、奇物写真、国画等ノ展覧会アリ、・・・ 】


資料3≪新聞集成 明治編年史≫

▲明治14年10月24日(1881)東京日日新聞
学〉〈日本古〉 〈油

▲明治17年 1月28日(1884)東京日日新聞
 日本の繪畫(絵画) 

▲明治18年4月24日(1885)今日新聞
 日本画  日本絵
M14フェノロサ絵画講ず_0001**M17,日本絵畫**日本画日本絵**


畫(画)〗と〖 繪(絵)〗の使い分け

 Drawing(線画Painting(色絵の使い分け

◇(翻訳工程)
〈翻訳のための参考語を捜す:日本古畫 等〉→日本(古)畫→(古)を抜いて<日本畫>誕生 




≪ 日本画という言葉の生まれたわけ ≫

< 国内事情(日本史ほか)を国際舞台で主張する>

▲1990・10/3 朝日新聞
西園寺井上_0002

井上は、古事記日本書紀を例に引き、

明治憲法はヨーロッパの模倣ではなく

「遠つ御祖の不文憲法の今日に発達したるものなり」と

日本の独自性を強調している。>とありますが、

非力の日本丸を欧米に向けて漕ぎだした

新政府幹部の一人、井上の心細い思いが言わせた言葉かもしれません。

いじらしいではありませんか。

これに対し、西園寺(公望)は

妄誕(もうたん)ノ史(=架空の神話)ヲ

重スルガ如キハ大二国二損アリ」

「学問ナキヲ自白セリ、

梧陰遂二一種ノ偽君子タルヲ免カレズ」と非難。

井上を「村夫子」と、いなか者呼ばわりする記述もあった。

西園寺は、井上の非科学的態度を批判しているそうですが、

どのようにして明日を迎えるかという井上の戦略観と、

明日が抜けた明後日ばかりを夢想する西園寺のアマチュアリズム

との相違でしょうか。

政治はアマチュアが関わるものではありません。

プロがするものです。

一方で次のような見方も紹介させてください。


▲1996・12/5 朝日新聞
ロシア歴史家
日本書紀に「違う伝承がある場合、

  『一書に曰く』

として併記している。

こうした民主主義的な記載方法

世界の古典の中でも極めて珍しいのではないか」

とロシアの研究者は話されています。

「違う伝承がある場合、『一書に曰く』として併記している。

こうした民主主義的な記載方法

世界の古典の中でも極めて珍しいのではないか」

よく、ロシアの研究者たちは気づかれました。

ここに、「正直で、つつしみ深く、おごらぬ様」があるのです。

日本人の特性です。

【意識】
▲「本阿弥行状記と光悦」69頁/中央公論美術出版/昭和56年(1981)発行
"日本国中は神の御末にてみなみな禁裏様の物也”
皆、禁裏の物


▲明治2年7月8日 明治新聞・

 ローカル色(日本の活花)を強調することで、創造性に寄与する

〖 英皇子来朝の準備 狩野法眼御浜御殿に描く 〗
【英国の王子アルフルト、西洋の8月8日我国の7月朔日着船の日積りなり、

依之御浜御殿御座敷惣金張り付の画を、狩野勝川法眼に被仰付たり、

此入費1万2千両という、

且王子着後天子御浜御殿へ行幸有之はづ、

供奉する諸藩の供まちは、仙台、脇坂、奥平の三屋敷へ被命候由、

王子の饗応に活花を命ぜらる、

寳松庵一玉此命を承たまわると。

外国人は花を愛する事甚しといへども、

日本人の愛するとは異なるなり

種々の花ぶさを取りて大なる盆杯に盛りて、楽しむ故、

活花はかへって賞翫うすかるべしという、

然れども大花瓶に沢山活たるは又更に珍しかるべしとぞ。  】


【認識】
▲中外新聞 慶応4年 閏四、三(1868・4・3)
【タイムスと名くる新聞の譯

〇日本に於て御門と云う称号は

偏に人の畏服するものと見えたり。

且国人の信仰するや恰も神仏の如くなり。

現在幼年の君を擁してさえ天下に命令を下すの勢い有り。云々】

御門_0002



独立を全うすることを目標に、国際的危機感

日本画」という言葉をクローズアップさせた。

貞観8年7月(866年/この年 応天門の変あり・貞観11年/869年 貞観地震)
大村家系1**大村家系2

【 この大村直は、蓋し肥前大村家より大典に補せられしにて、・・・・中略

貞観8年(866)7月、

肥前藤津郡大領葛津貞津、高来郡擬大領大刀圭、彼杵郡人永岡藤津、等が、

新羅と通じて兵を挙げんとせし事あり。

幸いに陰謀早く漏れ、事なきを得、

而して是等叛人の私領地は没収され、

其の地は当時太宰帥にて御座せし光孝天皇の御為に

建立せし仁和寺の所領となれり。

これ仁和寺藤津御領にして、大村氏は実に其の庄官たりしなり。
(姓氏家系大辞典/昭和38年・角川書店)】


▲元冶元年(1864)四国連合艦隊、下関を砲撃
馬関高杉**「炎は流れる」第4巻 昭和39年・文芸春秋新社刊

【 歴史の古さと一つの王朝の連続性を尊ぶ
  日本という国柄の説明者 高杉晋作 】

▲「本阿弥行状記と光悦」69頁/中央公論美術出版/昭和56年(1981)発行
"日本国中は神の御末にてみなみな禁裏様の物也”
皆、禁裏の物

▲慶応3年(1868)2月中旬・万国新聞紙
〖 米大統領リンコルン暗殺の犯人就縛 〗
リンカーン

≪万延 1年(1860)桜田門外の変、井伊大老暗殺/
 文久2年(1862)坂下門外の変、安藤老中負傷
 慶応3年(1867)11月15日 坂本竜馬(33)・中岡愼太郎(30)、
    アカデミー教育と無縁の才能が暗殺されました。
     ここから学歴偏重の日本社会の始まり(Author)
 明治1年(1868)英公使パークス、刺客に襲わる
 明治2年(1869)新政府 参与 横井小楠、暗殺
 明治2年(1869)兵部大輔 大村益次郎 襲撃さる、後 薬効なく没。
 明治4年(1871)新政府 参議 広沢真臣、暗殺
 明治11年(1878)内務卿 大久保利通、暗殺≫


▲慶応3年(1868)6月中旬・万国新聞紙
〖 米国が日本全土を買収 驚くべきアメリカ人の虚喝 〗
米国日本買収


▲慶応4年正月十日(1868)
〈 日本国天皇 〉
日本国天皇慶応元年


▲慶応4年四月十日(1868)中外新聞
我日本は永久独立国たるべし・日本國中(このフレーズは明治期の時代精神そのものです)〉
五カ条神田孝平


▲慶応4年五月二日(1868)もしお草 新聞集成 明治編年史
七帝国**七大國2
日本は世界で七大国の一 仏国博覧会に於る名誉 〗
【 】


▲慶応4年五月十六日(1868)曽よ吹風 新聞集成 明治編年史
日本弱小国_0001
然るに日本人何れの諸侯も

朝(朝廷)とさへ唱ゆれば是に従い、主家に向い

敵対し名義を失い不義を行う、是則大弱国の証しなり。

今只日本国において強国と称すべきは独会津のみにて、

名義を確固と建る者は此藩なり、外にあることなし。

此他の諸侯は建れぬもの也。

若吾日本を取らんには多くの兵を用るに足らず、

千人あらば足るべしと云々



▲慶応4年八月二五日(1868)もしお草 新聞集成 明治編年史
〖 何事ぞ!奥羽越の列藩 外国の力を借らんとす 〗

  ≪河井継之助秋義 ≫の記事

奥羽越1**奥羽越列藩2
【 慶応4年8月25日 もしほ草(新聞)
奥羽越列藩より外国諸ミニストルえ文通之写。
(横浜タイムス新聞より抄訳す。
但し原文は漢文にてしたためたるよしなり)】


▲明治3年3月13日 もしほ草 新聞集成 明治編年史

M3日米航路

【 日本の高貴のかたがた、

学問修業のためアメリカに行かれたり。

且又日本人の諸学研究の為海外諸国え船出せり。

故に世界の諸事日本に集まることにいたるべし。

〇当時日本人アメリカに旅行することは、

先年中京都え行くより至てすみやかなるべし。

 大形の蒸気船は、日本よりアメリカにゆく事、

凡そ15日にして相達すべし。

しかして上等の賄にて250ドルの価なり。

且つ右船運用の代料50ドルなり。

〇故に日本爹々、おのれの子供を外国の学校に送りしならば、

そのもの帰国に及びて、政府の利益たる勤めを取るべく、

立派なる人物になるべし。 】


▲明治7年9月15日 東京日日新聞 新聞集成 明治編年史

M7英軍20万

【 シンガポールより香港上海等に置く所の英国の精兵20万あり、
若し一旦東方に事あれば調遣甚だ速かなり。 】


▲明治8年3月31日 東京日日新聞 新聞集成 明治編年史

日本の進歩驚く_0001

【 日本は一たび西洋諸国と開渉して、

遂にまた止む可からず其利を得て自ら益し、

西洋開花の風を変通して、自国に取り行う。

其進歩の速なることは実に人をして不思議の思いを為さしむ。 】


▲明治16年 1月7日 絵入自由新聞 新聞集成 明治編年史

日本外史
明治16年1月7日 絵入自由新聞
日本外史をChinaが翻刻して逆輸入 〗

頼山陽の日本外史は、

数年前よりChinaに購求するものあれば追々輸出したりしが

此頃彼の国にて学士が評論序跋を加えて翻刻したり。

我邦人の著書を彼国にて翻刻したるはこれが嚆矢にして、

既に去月初旬に輸入したりと云う。

去れど我国の版権ある書の

彼国にて翻刻せしを輸入するは

我国の禁ずる所なれば、輸入せしとの説は如何にや。】


▲明治22年1月10日 東京日日新聞 新聞集成 明治編年史

2500の外人1**さらけだされた日本の無力
〖 二千五百の外人 三千七百万の日本人を支配す
 サラケ出された日本の無力さ (一)「ヘンリー・ノルマンの政論」 〗
【 嚮に倫敦べルメル・ガゼット其他ニ三新聞の特別通信員となりて渡来せしヘンリー・ノルマン氏は、暫く我邦に在留して朝野の事情を探索し、一々右の諸新聞に報道したりしが、同氏が条約改正事件に係る報道は善く其情を詳らかにして参考とす可き廉無きに非れば、茲に其全文を訳出して読者の参考に供せん 】


治外法権の撤廃、関税自主権の回復を目標
▲明治27年(1894)7月

日英通商航海条約が調印される

明治27年(1894)7月16日、

ロンドンで駐英公使青木周蔵とイギリス外相キンバレーとの間で

日英通商航海条約が調印されました。

同条約は、8月24日批准、同27日公布の上、

明治32年(1899)7月17日から施行されました。

この条約により、領事裁判権(治外法権の一つ)が撤廃されたほか、

関税自主権を部分的に回復し、

「安政の不平等条約」の改正の第一歩がしるされました。
(国立公文書館・日本の歩み より)

▲明治44年(1911)2月
日米通商航海条約が調印され、関税自主権を完全に回復する

明治44年(1911)2月21日、日米通商航海条約が調印され、

4月4日に発効しました。

これにより関税自主権が完全に回復しました。

また、明治27年(1894)に結ばれた旧通商航海条約では、

アメリカは日本移民の入国・旅行・居住について

差別的な法律を制定することができることが規定されていましたが、

これも改正条約で撤廃されました。

ただし、改正条約の調印と同時に、

日本側は日本人労働者のアメリカ移住について

過去3年間実施してきた自主的制限を今後も継続することを宣言しました。
(国立公文書館・日本の歩み より)


▲大正8年(1919)4月15日 東京朝日新聞 新聞集成大正篇

人種案**人種案2

人種案否決か 日本は飽まで主張 〗

【其筋に対しては過般人種平等案が絶望に陥りしより

帝国委員は平等の二字を削り「正当なる待遇」と修正し】

当時は黄色人種の日本人という限定的見方だったようです。

「人種的差別撤廃提案」を提案しても、とり上げられなかった。

五大強国の一つの”日本”の現状でした。

石の上にも三年したら、また次の石。

中々に欧米との対等という環境整備は至難でした。



◆【 欧米の機械文明に対する危機感と、もうひとつの危機感があったのではないか?
それは、中華文化圏周辺の日本文化という誤解を恐れたのではないか? 

▲慶応4年(1868)8月25日 もしほ草 新聞集成 明治編年史
Chinaの下位
【 China政府にて世界一統の附合をなし、後レをとらざるべしと心掛ケ、 】

・「炎は流れる」第2巻 220頁 文芸春秋社刊 昭和39年4月25日
・小泉信三全集 21 「福沢諭吉」26頁 昭和43年5月 文芸春秋社刊
・小泉信三全集 12 「師、友、書籍」52頁 昭和42年8月 文芸春秋社刊
炎は流れる和文

福沢排漢文_0002**福沢独立


〖追記 2011・3・11 ~  〗



   つづく

* 日華連合絵画展覧会 Japan and China union painting Exhibition

 日華連合絵画展覧会
  Japan and China union painting Exhibition 1921~1929

断固抗議します!
私共のサイト上の写真をクリックすると、赤地の画面に次のような悪意のある文章が大文字で写し出されました。
【 これは報告されている安全でないWebサイトです
Blog―imgs―26,fc2,com
このページを閲覧しないことを推奨します
代わりにホームページに移動します
このWebサイトは個人情報や金融情報を盗み取る可能性のあるお使いのコンピューターへの脅威を含むWebサイトであると報告されました
▼詳細情報 】
以上

< 1月24日午前1時30分ごろ悪意ある文章の画面を発見しました。私共が公開しておりますカテゴリにある他の名前も確認しました。同様の悪現象が起こりました。

私共は退職後も社会参画したいと云う思いで
“日華連合絵画展覧会・暹羅日本美術展覧会、読画会”外のデータベース作りに邁進しています。

先行の文献・研究の有無を調べ、ユニークでオリジナリティーのある作品を目指そうと今日までやってきました。
私共の企画段階で確認した事は、動乱の時代に戦争をしながらも、
同時に平和親善を理念に両国連合展覧会を開催したという事実。 人間は信じる事が出来るんだ!”

この事実を伝えたいという思いでスタートした企画です。

21世紀は平和に投資する時代です、21世紀は融和の歴史を求めています、

日中親善・日タイ国親善を理念にした絵画展覧会を実現した読画会に焦点を当ててきたのです。

そして売名行為や営業とは無関係の方針で進んでまいりました。
私共の願いはこれ等のテーマで資料集の追加・充実を次の世代に引き継いでいけたらと思っております。

今回の悪意ある文章の介入によって驚かれました皆様に対しまして、私共としまして誠に不本意な悪結果をもたらしたと、くやまれてなりません。
残念無念でなりません。

旧来通りの安定した情報公開の環境が戻るように願うばかりです。

どうか侵入しないでください。

お願いします。

ここに此の度の経緯を説明いたしました。
2012.1.24 3;26am シルバーネイル



温故知新

引用 

▲昭和2年(1927)2月9日大阪朝日新聞 クロ-デル駐日フランス大使
S2,2,9クロ-デル1
「大和魂の新象徴
「人生相伝える生命の象徴


▲大正10年(1921)7月 1日 読売新聞
T10渡支栖鳳1**T10渡支栖鳳2
〖 再度のChina漫遊を終えて 竹内栖鳳
【 ・・・・・・Chinaの文人墨客には会う機会もなへ、また会おうともしませんでした。Chinaの風物を見るのが目的で、人に会うのが目的ではなかったからです。(談) 】


▲大正11年12月 日華連合絵画展覧会図録
 (国立公文書館アジア資料センター
  レファレンスコード B05016015100)
  
T11図録**T11中国側**

T11図録裏表紙**
編集兼発行者 東京市本郷区弥生町3番地
       日華連合絵画展覧会
       代表者 荒木十畝
≪御参考≫荒木十畝の住所
     東京市本郷区弥生町3番地

⑦木村廣畝・荒木十畝
*⑦廣畝・十畝

⑫齊璜白石と江采南蘋女士
*[emoji:e-247]⑫T11齋白石


〖 ご参考 〗
広重 三保_0001**⑫齊白石横舟

*「 江尻 三保遠望 」歌川 広重 と ⑫「 横江揚船 」齊璜白石

≪ 新趣味の著しいのが、

  齋璜氏

の「横江揚船」であった。

萬帆去来の港の景色、シムボリック

松林を前景とした調和が実に佳かった。

( 大正11年5月20日発行 “美術之日本”
最近の諸展覧会 一記者 日華聯合絵畫展覧會 より ≫




◇ 序文

日中交流史を形成する

"日華(中日)連合絵画展覧会”

は1921~29年の間に5回開催されたと云う事です。

この基本線に沿って、 日華展 日華(中日)連合絵画展覧会のこと について

書かれた新聞記事や美術雑誌の記事

を時系列に並べて見ました。

また補完資料として

東京美術学校校長正木直彦氏の日記

“十三松堂日記”や、    

内大臣牧野伸顕氏の日記等と合わせて

美術書も資料として援用し、時系列に配置しました。

〚 私共の主張 〛

私共は、

①第1回日華連合絵画展覧会

  開催を実現するまでの準備活動、

②第1回から第5回までの展覧会開催

  実現の下準備計画、

③第5回終了後の

  日華連合絵画展覧会

  復活のための計画

などを中心的に企画実行した
 
  読画会

という画塾に焦点を当てゝいます。

読画会写真

(上野公園 読画会展覧會正面の写真
・明治44年“美術之日本”所収)

会員氏名1**会員氏名2
*「読画堂塾」昭和17年(1942)国民美術研究所発行


日本画史の主人公である画家たち、わけても、

  読画会

の主宰者である 荒木十畝 画伯や

読画会を支えた大きな柱であった 池上秀畝 画伯、

そして渡辺晨畝画伯、西沢笛畝画伯、

永田春水画伯、荒木月畝女史,森白畝画伯 外の会員

皆様を採り上げています。

遺憾ながら、読畫會会員の皆様は現代の日本画壇からは

全く忘れ去られた存在となって居ります。

私共は、読画会の会員皆様が、

明治・大正・昭和前期を通して

真摯に日本畫壇に尽くされた、

その功績を顕彰したいのです。

読画会々員の画家たちは、

近代日本画史を作った主人公たちです。

この読画会々員の皆様を強調することにより、

日華連合絵画展覧会史

は、広がりを持ち、豊かなシーンを見せてくれます。

この編集方針のもとに、
  
  日華連合絵画展覧会 集成

を纏めました。

なお、〖 〗は見出しを、【 】は本文を表します。



日華連合絵画展覧会

新聞・美術雑誌・美術書・出典一覧 

< 暦年区分 >

  
 

大正前期  

日華連合絵画展覧会が開かれるまで

      
   ▲大正4年10月13日 東京朝日新聞
    
    ( China人の入選 ▽在京の留学生  鮑小游 画伯 )
   

鮑小游 画伯 関連記事
▲大正10年12月 4日 大阪朝日新聞
▲大正10年12月24日 大阪毎日新聞


      ▲大正7年1月15日発行 美術之日本

    ( 書画展覧会の嚆矢 北京「京師書画展覧会」に就て )


       

大正8年(1919)

    幻の第1回

日華連合絵画展覧会 計画報道

 
     8月26日  大阪朝日新聞 

     8月26日  東京朝日新聞

     9月 6日   読売新聞

     9月 9日  東京朝日新聞

     4月15日発行 <美術之日本> 
        P13~19 補完資料集参照

     5月18日発行 <美術之日本>
             補完資料集参照
        
     10月25日発行 美術之日本

     11月20日発行 美術之日本

     11月28日 大阪朝日新聞

 


     大正9年(1920)

     ( 排日運動・日米戦争論 ) 


      8月26日  読売新聞
   

ハリス氏関係
   明治3年(1870)1月13日 横浜もしほ草
   昭和39年(1964)文芸春秋新社 P223・P241
   昭和56年(1981)中央公論美術出版 本阿弥行状記と光悦   
   国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコードB04012304900

       12月22日  大阪朝日新聞   

   

大正10年(1921)

    第1回

日華連合絵画展覧会
<於 青島・北京・天津>

   
        ◎国立公文書館アジア歴史資料センター
         ・レファレンスコード B05016015100
          (日本側出品作品と中国側出品作品)

       11月20日発行  美術之日本  P29

        昭和14年(1939)発行  日本美術年鑑 106頁              
        (大正10年・第1回日華展について触れた記事

        7月 1日  東京朝日新聞
        7月28日  東京朝日新聞
        11月15日  読売新聞≪華盛頓(ワシントン)会議號≫
        12月4日 大阪朝日新聞
        12月24日 大阪毎日新聞
        11月11日 東京朝日新聞
        12月6日 大阪毎日新聞
        12月6日 大阪朝日新聞
        ◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコード A10112954000
        大正11年(1922)3月3日「China陸軍中将何恩溥外二名叙勲ノ件」

        12月20日 大阪毎日新聞【China政変の一考察 興味を惹かぬ理由】
        12月22日 大阪毎日新聞〖孫文氏の夫人 土匪に浚わる〗
        12月30日 大阪毎日新聞

        国立公文書館アジア歴史資料センタ
        ・レファレンスコード B05016015100
        ・杏芬女士 出品作品レファレンスコード B05016015100
        ・レファレンスコード A10112954000 

   

大正11年(1922)

    第2回

日華連合絵画展覧会


  4月 25日   読売新聞/陳衡恪氏、金紹城氏、呉煕曾氏写真

◎国立公文書館アジア歴史資料館レファレンスコード;B05016015100
日華連合絵画展覧会図録     

 5月 2日   大阪毎日新聞 「大トランクが紛失した」 

 5月20日発行  美術之日本 P12-14
        (出品作品解説附き)

5月 2日   読売新聞「中日聯合美術展覧会」

4月 27日   読売新聞「呉翁像」

(参考)◎国立公文書館アジア歴史資料館・レファレンスコード;B05016015000
「 中日美術協会会則」       
(参考)◎国立公文書館アジア歴史資料館・レファレンスコード;B05016015300
「中日美術」
(参考)大正12年8月17日 東京朝日新聞「中日美術倶楽部」

5月 3日   読売新聞〖日華連合展〗 

5月 6日   東京朝日新聞「第一回 日華連合絵画展覧会」

◎国立公文書館アジア歴史資料館レファレンスコード;B05016015300
「日華連合絵画展覧会報告」

2月16日   東京朝日新聞「渡邊晨畝氏 歓迎会」

5月 4日   東京朝日新聞≪ China女高師生 来日 ≫
5月 4日   読売新聞 
5月 14日  東京朝日新聞
5月 15日  東京朝日新聞

6月 9日   東京朝日新聞〖美術雑感 懶青楓〗

6月 10日  東京朝日新聞〖美術雑感 (下)懶青楓〗

5月 20日  東京朝日新聞

5月 9日   読売新聞

5月 20日  東京朝日新聞「送別宴」

3月      美術之日本〖△日支聯合大展覧会〗

12月 14日   東京朝日新聞「回想の美術界(上)」

5月 6日   東京朝日新聞〖 平和化されたクルップ工場 伯林にて 関口 泰 〗

4月 27日   読売新聞「昨日の強震」

4月 28日   読売新聞「英太子が震災に御同情」

    

大正12年(1923)

    日華連合絵画展覧会

準備工作記事


<参考>
「日本画大成 大正篇(三」昭和8年(1933)4月14日発行/東方書院-

 ▲関東大震火災関係
  「十三松堂日記」(東京美術学校校長正木直彦氏の日記
  △大正12年(1923)9月1日 関東大震災
  △大正12年(1923)9月27日 強震と荒木十畝の妻 鈴子(荒木寛畝の娘)の葬儀
  △大正13年(1924)9月18日 荒木十畝の再婚と強震
  △昭和7年7月9日「十三松堂日記」

◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコード
A03021470000・A08072014300とA08072018700

6月30日発行  美術之日本 P25-26 〖 命拾ひの写生旅行 池上 秀畝 〗

大正12年 8月 17日 東京朝日新聞 「中日美術倶楽部」

◎国立公文書館アジア歴史資料センター レファレンスコードB05016015000
「中日美術会館」建設を予定する上海 「中日美術協会」

◎国立公文書館 アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016015000

◎国立公文書館 アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016015100
「小村参事官の処遇」 

◎国立公文書館 アジア歴史資料センターレファレンスコードB05016015300
(中日美術会館設計図)

◎国立公文書館歴史資料センターレファレンスコード;B05016015000
「中日美術協会の会則と沿革」

▲大正12年9月2日(十三松堂日記・石野哲弘氏の事)


≪ 日華連合絵画展覧会に登場する中国側要人 ≫

大正10年10月30日 東京朝日新聞 ・周自齊氏を訪ふ 一日横浜出発

大正11年12月 8日 東京朝日新聞 ・顔氏 China公使館内で展覧会を開く

大正11年12月25日 東京朝日新聞 ・顔氏の歓迎会

大正12年3月20日発行 美術之日本 ・China公使館に於ける古名書画展観追記

大正12年8月17日 東京朝日新聞 ・梅蘭芳丈

   大正13年 5月 8日 東京朝日新聞 ・黎元洪氏帰国



  

大正13年(1924)

    第3回

日華連合絵画展覧会


  5月 6日  東京朝日新聞
   
  5月18日  大阪毎日新聞 

  5月 8日  東京朝日新聞 「國恥記念日」

  ◎国立公文書館アジア歴史資料館
  (レファレンスコード;B05016015000)
   「中日絵画第三届連合展覧会出品目録」
   「北京上海日華連合絵画展覧会報告書」   

  ◎国立公文書館アジア歴史資料館
  (レファレンスコード;B05016015300)
   「閑話休題」

  ◎国立公文書館アジア歴史資料館
  (レファレンスコード;B05016015200) 
   「金氏ら四氏の献上画」「北京週報」

  ?月 ?日   日本美術年鑑 P160-161
         
  6月26日~  
   12月10日  正木日記
   


大正15年(1926)

    第4回

日華連合絵画展覧会



 ◆ 参考< 革新日本画会について >
  10月   十畝画選
  美術五十年史
  大正13年2月6日  都新聞
  6月20日 東京朝日新聞 革新展と日華連合会
  昭和2年版 写真・日本美術年鑑

  6月8日  東京朝日新聞

  6月9日  東京朝日新聞

◎国立公文書館アジア歴史資料センターB05016016000 「最初は個人の企画に過ぎず」
◎国立公文書館アジア歴史資料センターB05016016000 「名士の余技」
◎国立公文書館アジア歴史資料センターB05016017100 「申請書」
◎国立公文書館アジア歴史資料センターB05016015900 「晨畝China視察」
◎国立公文書館アジア歴史資料センターB05016017200 「出品目録」

  6月19日  読売新聞

  6月19日  中外商業新報

======================
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   金 紹城 氏 追悼関係
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
======================

◆大正15年(1926)9月11日付
◎国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードB05015959300 金紹城氏 追悼模様
◎国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードB05015959300 金氏 勲三等叙勲
◎国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードB05016017100 中華美術家名簿
  ◆正木日記
    9月27日付
    10月8日付
    10月15日付
    10月17日付
   ◇昭和6年5月10日付 周湘雲氏“遭難について”

  ◆牧野伸顕日記
    6月18日  

   8月号   中央美術


  7月7日  大阪朝日新聞

  7月7日  大阪毎日新聞(出品作品解説附き)
     
  7月8日  大阪毎日新聞

  7月8日  大阪朝日新聞

  7月9日  大阪朝日新聞
       ◇昭和6年1月18日付<十三松堂日記>

   7月12日 中外商業新聞

   6月17日 中外商業新聞



  

昭和2年(1927)

     日華連合絵画展覧会

計画報道


    1月1日 大阪朝日新聞 「象徴天皇」

    7月11日付“十三松堂日記”東京美術学校長正木直彦氏の日記「後鳥羽上皇の菊御作
          

    2月 23日  東京朝日新聞 「東方絵画協会」


  < 御参考 >
    ◎国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードB05016015900
     大正15年2月28日 於 華族会館【 日支絵画展覧会に関する打合会紀念写真 】
     「日支美術家連合展覧会に関する協議会 記事」
    ◎国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードB09041711700
     「地熱発電 東京電燈㈱研究所」

    2月2日 大阪朝日新聞「パリのオペラ座で花々しい柔道試合 」



昭和4年(1929)

    第5回

日華連合絵画展覧会


  ▲中日現代絵画展覧会(標題 第五回日華連合展覧会 分割2)
  国立公文書館アジア歴史資料センター
  レファレンスコード;B05016017800

  10月26日   読売新聞

  10月21日   読売新聞

  10月23日   大阪毎日新聞

  10月26日   大阪朝日新聞

  11月 2日   読売新聞

  10月26日   東京朝日新聞

  12月 3日   読売新聞

  12月 4日   大阪朝日新聞

  11月21日   読売新聞・日華展委員畫信

  11月27日     〃

  12月 3日     〃


    9月 18日  東京朝日新聞
   10月 20日  東京朝日新聞
   11月 2日  東京朝日新聞
   11月 2日  東京朝日新聞


昭和 6年(1931)

日華古今絵画展覧会(於 帝室博物館       
    と
日華連合絵画展覧会(於 東京府美術館)

 
 
  5月17日  大阪朝日新聞

  5月17日  東京朝日新聞
  
  5月16日  牧野伸顕日記

  昭和7年版 (前年の行事を纏めたもの)
    P65-66 日本美術年鑑



昭和 9年(1934)

日華連合絵画展覧会(於 東京府美術館)


  5月22日~
    5月23日  正木日記



昭和14年(1939)

日華連合絵画展覧会 復活計画

 

  4月23日   東京朝日新聞

  昭和15年版  日本美術年鑑



昭和19年(1944)
       
日中両国の芸術復活を信じて

  
  3月25日初版発行 <明治大正昭和 日本絵画史>

             420頁~421頁

           (著者 石川宰三郎・㈱大日本雄弁会講談社)



昭和23年(1948)
       
日華連合絵画展覧会 回想


     6月10日    十畝先生   芸艸堂出版部






*******************
   

写真版 

   日華連合絵画展覧会

   関係資料 < 暦年区分 >


*******************


   ”なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな ”
                      古今和歌集・仮名序 王仁博士


 

大正前期 

 日華連合絵画展覧会が開かれるまで


▲大正4年10月13日 東京朝日新聞
T4,東朝支那画家入選**T4,鮑氏

**T4,東朝支那画家入選②**T4,中国人入選①

大正4年10月13日 東京朝日新聞
〖●China人の入選

▽在京の留学生 〗

【文展の日本画に入選せし二百余名の画家中

鮑小游

夾竹桃も其一なるが

同人は中華民国人にして明治24年4月に本国に生れ

後神戸に来り目下神戸中山手通四丁目十五番地に居住し

今より四年前京都美術工芸学校に入りて

竹内栖鳳 山本(元)春挙 菊池芳文 等の各画伯に就き

絵画を学び本年四月京都絵画専門学校に入り

目下同校一年生なるが

今回初めて文展に出品し入選の光栄を博したるなりと(京都電話)】

引用 鮑小游画伯 関連記事

▲大正10年12月4日 大阪朝日新聞
T10,鮑小游1**鮑少游


▲大正10年12月24日 大阪毎日新聞
T10,鮑小游氏①**T10,鮑小游②**T10,鮑小游③


【◇China画家

  鮑小游

の作品展覧会を見る。

作品は総て五十余點全体とし些か食い足りないが、

然し将来に嘱目する事にしよう。

日本で畫を学んだ人だけに、我々の注意を引く様な

異国的な情味にも乏しい。

それに氏は日本の画家達の悪い写実に毒せられて居はしないか。

とは云うものゝ、中には非常に感じの好い作品も無いではない。

例えば

「江南春」は柔い味があって、好きな人には好くだろうし、

「花港観魚」暫く見て居ると、好い味が出て来ると思う。

「湖山秋暁」も䔥條たる気分が出て居る。

「西湖雨後」には流石に日本には見られない筆致があり、

「寒林歸騎」は枯淡な所があって好い。


猶ほ同時に展観された刺繍作品には余り感心しなかった。

精緻であると云うに過ぎない。

これも悪写実に毒せられて居るからなのだが、

昔のChinaの装飾的な刺繍の方が、どれだけ芸術的だか解らないと思う。】



▲大正7年(1918)1月 15日発行  美術之日本
京師①**京師②_0001**京師③

「美術之日本」大正7年1月15日発行

<評論及研究>
〖北京「京師書画展覧会」に就て 稲葉岩吉

   □ 展覧會開催の趣旨

【私共が旧臘Chinaを巡回する中に、

漢口から北京往きの汽船に便乗して

定州附近に至ってChinaの新聞紙を閲覧すると、

図らずも其の新聞の記事に依って、

北京に於て京師書画展覧会なるものが

開設せらるゝ事を承知した。

其の展覧会は十二月一日より開かれ、

我々が北京に着いたのは二日の夜であったので

第一日と第二日は見られなかったが、

其後はずっと見る事を得て大変に面白く感じた。

抑も此の展覧会は、過般Chinaに於て二つの厄難と謂はれて居る

其の一たる即ち洪水の為めに北京及び天津附近の

被害が非常に大きかった為めに

官民共同して現に其の前後策を講じつゝあって、

其の救済の為めに開かれたものである。

聞く所に依ると、此の水害は直隷省、山東省、河南省の

九十餘県にまたがって居るそうで、

其の被害の程度の甚だしかった事は想像に余りある。

我々は前に言った定州附近で水害の状態を瞥見したが、

其の悲惨な且つ劇烈なる事は筆紙に述べ盡し難い。

従って北京天津辺の官民は其の前後策に於て非常に努力して居る次第で、

其の為めに巨額の借款を起して現に経営に当って居る。

京師書画展覧会

即ち其の経済に対して幾分の義捐をしたいと云うので

北京の有志者間に企てられたものである

即ち北京に於ける書画収蔵家が其の収蔵品を持出して

公衆に観覧せしめ、其の観覧券の売上より得た収入全部を

水災の救済に投ぜんとする義擧であった。


   □ 書画展覧会の嚆矢

Chinaに於ては展覧會なるものは近時の流行物であるが、

併し其の展覧会は物産の博覧会に類似したもので、

書画の収蔵家殊に聞こえて居る収蔵家が、各々惜げもなく

少なくも一品以上を持出して其れを観覧せしめたと云う事は、

此の京師書画展覧会が初めである。

殊に場所が北京であるから、新聞紙に依って知った時に

既に多少の興味を起した。

そして北京に到着し正金銀行に立寄って小貫君が直ちに我々に示された

展覧會の目録を見て其の内容の大体を知る事が出来た。

右の如く展覧會開催の動機は非常に道徳的の見地に在ったのだから、

之れに対する同情の、北京の識者間に翕然として起ったのは当然である。

会は十二月五日より七日迄開かれ、観覧券の代価は一日二元、

一週間を通じての場合は十二元と云う定めで

場所は中央公園に設けられた。

中央公園は北京の宮城の一部に清朝末期に新たに設けられた

午門の外辺であるので、場所としては最も適当な處である。

我々は第三日目より観察したが、何分にも多忙の身であり、

十分に観る事は出来なかった。

殊に北京は十二月になっては日脚が短く光線の関係もあって、

午前十一時頃から開催して午後四時近くに閉会したので、

恐らく一般の人も物足りない感じがしたろう。


□ 主催者と出品

此の會の主催者とも思はるゝ人を挙ぐれば、

景樸孫、寳瑞臣、顔延伯

の諸人であって、一人の出品数は少きも二三品、

多きは六七十点位も出品した人があって、

全体の品数は四五百点の多きに上った事と思う。

それを毎日取り代へ取り代へ見せるのであって、

先づ最初に全体の出品の予定目録を発行し、

開催当日は出品ビラを来会者に頒ち、

更に英文の総目録も作って外人観覧者の便を計るなど、

十分用意の行き届いた会であった。

我々は多忙の間を偸んで第三日より七日目迄観る事を得た

多くは御餐後に駆けつけたのであるが、

Chinaの言葉で言えば、所謂寳車香馬を以て中央公園の一角は埋められた

と言っても可い程の盛況であった。

其の観覧者中には政治家もあり、学者もあり、実業家等もあり、

殊に婦人の熱心なる観覧者を認めたのには我々も意外に感じた。

如何なるものが出品中の白眉であったかは

別にお話しする機会もあろうし、

又 内藤博士が親しく綿密に観察されたから

恐らく博士の手に依って発表されよう。

又其の全体の目録も持ち帰ったから他日発表の機会もあろうが、

兎も角も此の展覧会はChinaに於ては

空前の計画

であったと思われる。

又Chinaに於ての現存する逸品の大なるコルレクションであったと思われる。

殊に我々の意外に幸福と感じたことは、

革命の結果として、清朝の宮殿に深く秘せられてあった多数の逸品が、

此の会に展覧し得られた事であった。

即ち熱河の尊蔵として認めらるべきものが今は北京に現在して、

それが此の会に陳列されたものも少くなかったようである。

展覧會の成績は如何なる結果であったか、

爾後忽々北京を去ったから一寸想像し兼ねるが、当日の光景より推せば、

主催者の幾分の希望は充されしことゝ思う。


  □ China国民性の一面

Chinaは今日我国の人々をして想像せしむれば、

国内に南北の争いあり

日々干戈を取って戦いつゝあって、

頗る物騒のように思うか知れぬが、

それは一部の観測であって、

斯る平和の気分に満ちた会合も

北京に於て故障無く開催されるのである。


我々が図らずも此の展覧會に出会したのは非常に幸福であると思う。

China人の一面には断えず斯る気分が充満して居ると云う事を

我々は一面に於いて考慮しなければ、所謂China民性なるものを

了解することは出来ぬと思う。

在北京の日本人が斯る展覧会に接し乍ら

殆んど馬耳東風に看過して居たことは我々は不思議に思った位である。


外国人は実に熱心に見物に来て居たに拘らず、

北京に於ける千人乃至千五百人の日本人が之を観ないのは

我々の甚だ了解に苦しむ所であった。

(一月九日談話)
          *転載完了

<御参考>
T10,稲葉君山著**稲葉君山

▲大正10年11月24日 東京朝日新聞

〖対支一家言 稲葉君山著(=稲葉岩吉)〗

【最近支那の諸問題に関する著者の論文集で

大部分は諸雑誌に一度発表せられたものであるが、

英米諸大家の意見や興味ある挿話を交えて

平易に記述した点に特色がある。

(金二円五十銭、本郷弓町日本評論社)】





大正8年(1919)

    幻の第1回

日華連合絵画展覧会 計画報道<



▲大正8年(1919)8月26日(火曜日)
 大阪朝日新聞

写真版T8・826大朝

〖 日支合同絵画展覧会 

北京宮城内に開催

十月一日から一箇月間 

日本は荒木十畝氏等発起 〗

【 北京に於ける大官の間に
 
数次話題となり居たる

  日支合同絵画展覧会

は協議愈熟し

China側は曩に

  周自齊氏

を始め

  外交顧問 顔世済、

  前財政総長 王克敏、

  国務院諮議 王任化氏

及China第一の南画家にて衆議院議員なる

  金紹城氏 

等五名発起人となり

又日本側にては

  渡辺晨畝

  福井江亭、

  荒木十畝

の三氏発起人となりて

今秋十月一日より一箇月間北京宮城内

傳心殿に第一回展覧会を開催するに決し

近々幹事は同地に向け出発の筈なり

          (東京電話) 】

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Osaka Asahi Shimbun(Newspapers) 1919/8/26(大正8年8月26日 大阪朝日新聞)

【 Japan and China coalition painting Exhibition 】

Exhibition by a coalition of Japan and China will be held in the royal palace in Beijing.

The exhibition will be held one month over a period from October 1.

in Japan, the founder is Araki Jippo(Pen name) etc.

Painting exhibition was a topic of Chinese dignitaries.

This painting exhibition had become a hot topic many times in Beijing.

Exhibition is held in a room in the royal palace in Beijing.

Consultation of both Japan and China entered the final stage.

The Chinese side, 周自齊氏, 顔世済氏,王克敏氏, 王任化氏, 金紹城氏will be the founders.

金紹城氏 is a leading figure of China's painting circles.

The Japanese side, Mr.Watanabe Sinpo and Mr.Fukui Khotei and Mr. Araki Jippo will be the founders.

In this Autumn, Exhibition by a coalition of Japan and China over a period of one month, from October 1 will be held the first exhibition in a room of the royal palace in Beijing.

The secretary will leave for Beijing in the near future. (Tokyo Phone)

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▲大正8年(1919)8月26日(火曜日)
 東京朝日新聞

T8東朝**日華展T8東朝

〖 日支合同の絵画展覧会 

 十月から北京宮城内に於て 〗

【 日支親善の為めにも効果あらんと

北京に在る日支名士間に豫ねて話題と

なり居たる日支合同絵画展覧会は

協議愈熟しChina側は

  周自齊氏

を始め

  外交顧問 顔世済、

  前財政総長 王克敏、

  国務院諮議 王任化氏

及China第一の南画家にて衆議院議員なる

  金紹城氏 

等五名発起人となり

又日本側にては

  渡辺晨畝

  福井江亭、

  荒木十畝

の三氏発起人にて

今秋十月一日より一箇月間北京宮城内

傳心殿にて第一回展覧会を開催する事

に決し日本側幹事は近日同地に赴く筈なり 】

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▲大正8年(1919)9月6日
 読売新聞

T8,9,6読売**日華展T8読売_0003

〖 今秋十月北京で開かるゝ日華絵画展覧会 〗

【 既報の日華連合絵画展覧会は

毎年一回東京並に北京に於いて開く事となり

第一回を今秋十月下旬より向ふ一ヵ月間

北京舊宮城内傳心殿で開催することに決した。

同会では昨日各方面へ展覧会規約を配布したが、

発起人は正木直彦、川合玉堂、小堀鞆音、

小室翠雲、荒木十畝の五氏、

幹事は十畝渡辺晨畝の二氏、

庶務は山下喜三氏が之を担任する筈で

出品締切期限は十月十日迄、搬入先は

下谷谷中坂町日本畫會事務所内

同会假事務所(電話下谷四三四七)との事である 】


▲大正8年9月9日 東京朝日新聞
T8日本聯合会展

        T8,9,9
      
<本文>
日華連合絵画展覧会視約 (規約?)   
                 
正木直彦 川合玉堂 小堀鞆音 小室翠雲 荒木十畝

諸●を発起人とする

日本連合絵画展覧会

は愈々本年十月下旬より一箇月間北京舊城内得心殿にて

開催する事となりたるが

北京全部審査を行はず屏風其他の厖大なるものを除く由

出品締切は十月十日にて搬入先は下谷谷中阪町日本畫會事務所内なりと】


▲「美術之日本」大正8年10月25日発行
T8,10美術之日本

「美術之日本」大正8年10月25日発行 

日華美術展覧会開催期

【豫て報道したる日華連合美術展覧会開催の議は、

其後徳川頼倫侯、山川健次郎男、森林太郎博士を初め、

諸名家三十余名の賛助後援に依りて頗る好都合に進捗し、

出品絵画も略〃揃ひたれば、

いよいよ本月下旬北京へ向って出発し、

開会するの運びとなりたりと云う。】


▲「美術之日本」大正8年11月20日発行
T8,11,20美術之日本

「美術之日本」大正8年11月20日発行

〖 日支展覧會延期 〗

【曩に日支交驩の意味に於て、両国芸術

の握手を企画し、正木直彦、小堀鞆音、

川合玉堂、小室翠雲、荒木十畝渡辺晨畝

及び

周自齊、王克敏、顔世清、金紹城、王任化

の諸氏発起となり、日支朝野知名の士の賛助を得、

来る十一月北京に於て

日支連合絵画展覧会

開会の筈にて、既に本邦画家の出品は二百餘点に達したるも

China側出品の都合と排日風潮未だ鎮静に帰せざる為め、

China側発起人より来春に延期方申込来り、其結果明春三月の候に

延期する事に決定せり。】


〖 ちょっと寄り道〗

< 日華連合絵画展覧会のプロモーター 荒木十畝という男 > 

▲「現代日本画大鑑」昭和11年 石井柏亭監修 昭森社
 
現代日本画大鑑作家言
作家言(荒木十畝の信条)「画家は学者であり、理想家であり精神家である」


▲平成1年(1989)10月25日
 里文出版「昭和画壇の巨匠たち」遠山孝著
△大礼服姿写真「荒木十畝とその一門・1989年」練馬区立美術館発行

  遠山孝**十畝写真**  **裏表紙遠山**十畝大禮服_0001

▲大正9年(1920)雑誌“美術之日本”
T9十畝画高騰

▲東京美術倶楽部入札記録
東京美術倶楽部2**東京美術倶楽部1


▲「東介波瀾万丈」1991・4・8 銀座屋出版社発行

「東介波瀾万丈」の著者 木村東介氏は

「羽黒洞」というギャラリーのオーナーで、

ジョン・レノンさんとオノ・ヨーコさんが来店し

肉筆浮世絵などを求られたという

一寸世間様に(特に団塊の世代に)ご紹介したいエピソードではあります。

波乱万丈中表紙**波乱万丈十畝1_0001**波乱万丈十畝2_0001

「(岸田)劉生の値は浮世絵関係の店だけで、

一般の美術商では通用せず、

当時、最高は寺崎広業、荒木十畝、木村武山、横山大観、

池上秀畝、小室翠雲等で、

荒木十畝などは当時五万円で千葉の山サ醤油から

屏風一双を頼まれ、それをはねつけたという

画家の気概として一流新聞に一斉に報道されたほど豪勢だったが、


今は逆転して劉生の絵は最高価格であり、十畝や広業の値は消えた。」


▲大正8年(1919)美術之日本

△読画会の主宰者 荒木十畝は

民間画塾の「読画会」を私物化しないで、

自分の子孫には継承させないと宣言する。

T8図書庫


▲位階勲等レースでは、ダントツのトップを走る十畝さんでした。
△大正8年(1919)9月9日 読売新聞
T8読売会員

△大正6年(1917)美術之日本と 大正8年(1919)官報
位階官報

△大正8年国立公文書館アジア歴史資料センター(レファレンスコードA11112710800)
T8十畝叙位公文書**T8十畝叙位公文書2
 


▲大正8年11月28日 大阪朝日新聞
支那陸大卒**支那陸大2

〖 陸軍大学を卒業したChina武官 皆要路の人 〗

【 今回我が陸軍大学校卒業者の内 異彩を放てるは左記

覃中将 以下八氏のChina武官にして

同氏等は我が学生と何等異ることなく

満三カ年の間頗る熱心に勉学し正式の課程を修了し

其の成績頗る良好にして何れも陸軍大学卒業の徽章を付与せられたり

是外人中我が陸軍大学を卒業せし嚆矢にして

日支親善の為喜ぶべき現象と云うべし 】


 


     大正9年(1920)

     ( 排日運動・日米戦争論 ) 

    

▲読売新聞 大正9年(1920)9月2日
〖 日米親善号 〗読売新聞 大正9年(1920)9月2日
  日米号1**日米豪2
〖 日米関係の追懐 男爵 渋沢栄一〗
【 ・・・前略・・・、

次に我国民の忘るべからざるは日米国交開始後最初の駐日公使たりし

タウンセンド・ハリス氏

の日米親善に盡せる功労也、

・・・中略・・・

米国公使ハリス氏のみは列国と我国との間に斡旋して

出来得る限り我国の不利益を少なからしむるに努力せしことは

当時の実情を知れる者の斉しく感謝せる所なり、

我国最初の関税取極めの如き極端なる不公平を避け得たるは

偏にハリス氏の力なりしを否む可らず

其他ハリス氏が我国に対し常に好意を寄せたりし実例としては

文久3年(1863)頃起こりたる蘭人ヒュースケル殺害事件を挙ぐるを得べし、

ヒュースケルは米公使館の通訳なりしが

某夜攘夷党壮士の為に芝赤羽橋付近に於て惨殺せられたり、

此事件は列国駐在使節の激高を買い

外交団と老中安藤対馬守との交渉なりしが

列国使臣は幕府の取締緩慢なるを攻撃して止まず、

遂に一同東京より横浜に引揚ぐるに至り、

国交上由由敷大事に至らんとせり、

此時ハリス氏は幕府と各国公使との間の居中調停に任じ

極力日本側を弁護し、各公使の東京引揚げを不可なりとし

唯一人依然として東京に踏留まりたることあり

当時未だ彼我の国情互に諒解せられざりし時代に於て、

此の如き同情を寄せたりしハリス氏に対しては

須らく我国民は永久に感謝し決して忘却すること莫るべき也
、】


加州排日**加州排日近藤

〖親善宣伝の必要〗
日本郵船会社長 近藤廉平
【・・・加州に出掛けた当初の日本移民の多数は永住する  

気はなかったけれども現在同州における日本移民の多数は

永住者たらんとして盛に加州の開発を援けて居る

 加州の排日宣伝 

は日本人は人種習俗宗教を異にするが故に

自国の国籍に執着し帰化には不適当であると云っている  

加州民が現在の敵対的態度を棄て日本人の同化を一層急速

ならしむる目的を以て彼等を援助し励ますならば問題は

甚だ容易となるのである

余自身としては日米両国民の関係を改善するためには微力

の限りを尽くさんとするものであり総べて誤解を一掃し

彼我の完全なる調和を此の目的の為に鋭意尽力しつゝある

人々と協調して努力せんとするものである 】


日米協会会長 金子堅太郎
金子日米会長**T9日米親善

金子日米論文1**金子日米論文2

〖 日米親善の意義 子爵金子堅太郎 〗

日米の親善なるべきは殆ど云うを俟たない、

先づ第一に日米両国は地理的関係に於て親善であらねばならぬ、

念うに太平洋岸に国を樹てゝ居る国家で政体、法律、制度、軍事、経済等

凡ての点に於て完全なる組織を有するものは日米両国の外にない、

・・・・中略・・・・・

故に亜細亜の平和と発展の為めには日米の提携が是非必要である、

斯くして亜細亜の各国民は安心し、欧州諸国も亦安心するのである、

斯くの如く日米は絶対に親善ならざるべからざるに昨今頻りに

日米戦争論を唱道する者がある、

此の如きは世人の耳目を惹き又は親睦を聳たしむる為め一時の煽動である

と確信する、

仮に日米が開戦するとせよ、米国は布哇、比律賓を根拠として作戦するの外なからん、

・・・・中略・・・・・

米国が公平無私なるハリス公使をして

日本人を誘導教育したるは恰も慈父の如きものがあった

日本人の或者は公使館を焼き乱暴狼藉を敢てしたる事

今日の西伯利土民の如きものがあった

 此の時にハリス公使は斯の如きは

未だ日本が文明の域に達せざる結果である、何等悪むべきでないと

日本を弁護する事至れり尽せりで他国の干渉を一切排して

日本の領土に他国の一兵卒も上陸させなかった、

米本国政府も亦日本に対して些の圧迫も脅迫も加えず

只管日本の自覚を促した、

近年米国で邦人の排斥事件が頻出しても、

日本人は昔時米国人が本邦人に対し勘忍したる厚意を忘れぬ為めに

何等米国を恨んでは居らぬ、

而巳ならず移民も紳士協約を締結して労働者の渡米さへ禁じて居る

此の如く一切万事米人の感情を害せざるに努むる事

恰も六十七年前の借金を今日 米国に返還しつつあるのである

 更に詳しく云えば米国は波理(ペリー提督)タウンゼント、ハリス公使以来

日本に投じた無形の資本を現に返還されつつあるのだ、

歴史は此の如く日米の間は切っても切れぬ間柄である、

然るに今日 米国に此歴史を無視し日本人の心理状態を誤解し

自ら日米親善を破壊せんとするもののあるは甚だ惜しむべき所である、

併し乍らこれは米国の人種が四十年以前と異なるが為めである 

四十年前の米国は四民平等なりとの国祖ワシントンの子孫であった 

それが四十年前頃から欧州諸国の移民が滔々と流れ込んできた、

是等新移民の多くは選挙権を獲得した結果、

米国建設の歴史をも顧みず十三州建設当時の少数国民の子孫を圧倒するに至った、

此の新米国民の眼中には日米の歴史は無い 

単に日本人の生活程度低く、勤勉にして且つ其の賃金は低く、

英語も亦十分に話得ざる点だけ見える、これが異分子として嫌われる所以である、

併し乍ら予は確信す米国人が少しく胸襟を開き

在米日本人に其の市民権を与えんか

必ずや日本に於て忠良なる国民たるが如く

米国に於ても亦忠実なる国民たるを疑わず、

一、二日本人の行為を見て直に全日本人の心理や行為を律せんとするは

米人の為めに取らざる所である、

故に米国民は先づ日本の歴史と日本人の性向とを

詳に研究するを要するのである、以下略  】 
 

引用 〖タウンゼント・ハリス氏(Townsend Harris, 1804年10月3日 - 1878年2月25日/アメリカ国)について〗

ここに、明治三年(1870)一月十三日の
もしほ草

横浜報知もしほ草(新聞集成明治編年史収載新聞目録参考)”の記事によると、

中国のアヘンによる窮状を記述したのち、

次のような件があります。

【○爰に日本国にとりて、

幸ひ中の幸ひなり。

十有余年前、我亜國初めて此地に渡来し、

それよりしてハルリス君の手にて、

双方の協議を盡し、条約最初に取結ばれたり。

かのハルリス君には、いとかしこくも

インデアのアヘンを此国に輸入することは

堅く断りたしと、外国人に布告せしかば、

今日迄此地にこの憂へなし。


若も他国人アメリカに先達而、

日本国と条約取締に相成しならば、

かれ等は此地に無用のアヘンを

十分に輸入するに至るべしと思われたり。】

ハルリス氏のお蔭でアヘン(阿片)から

救われた日本と云う事です。

ここに登場します

ハルリス(Townsend Harris)とは、

幕末期に来日したアメリカの外交官

ハリス領事の事のようです。

(*ペリー提督をぺルリ提督と呼ぶに同じ)

*『もしほ草』(正確には『横浜新報もしほ草』)は米国人ヴァン・リード(Eugene M. Van Reed)と日本人岸田吟香(ぎんこう)により慶応四年(1868年)四月十一日に横浜の外国人居留地で発行された新聞(インターネットの「KANAGAWA University Repository」を参考にしました。)

▲〖 炎は流れる (明治と昭和の谷間)〗 大宅壮一著
  第2巻 P233 昭和39年(1964)文芸春秋新社
P233炎は流れるアヘン

【タウンゼント・ハリスの伝記を読むと、

彼の祖母は、独立戦争時代のことを

話して聞かせたあとでは、きっと、

「真実を語れ、神を畏れよ、イギリスを憎め」

と教えたと出ている。

また、ハリスは少年時代に、

英国製のナイフを手にしなかったし、

英国製の布で作った衣服を

きることを好まなかったという。
   (炎は流れる第二巻P233)】

▲炎は流れる 第2巻 P241
炎は流れるP241V2

【 中国にアヘンをもちこんだイギリス人を憎み、

日本に中国の轍を踏ませたくないため、

「アヘン禁輸」を条約の一条項として明記するこ

とをすすめたのも、

日本への深い愛情、彼(ハリス氏)の心の底にひめられている強い理想主義

から出たものといえよう。】


〖本阿弥行状記と光悦 昭和56年(1981)中央公論美術出版 〗

  本阿アヘン1**本阿2

【一三九 毎年来朝の阿蘭陀人甚だ天文に功者なるより、

何万里の瀾の上を来りて難船をせざるは、

天文に通ぜし故とぞ。

惜むらくは貪欲に走りて

一生を過す事蠻夷の風俗なるべし。

彼が持来る品稀なるもの多き中に、

阿芙蓉(一名 阿片)

此品甚だ高料の奇品にして、

閨房の楽にせんと(字しれず ひきのあぶら抔とやら)

用ふる薬なりと。

度重るときは病となる。

いらざる奇品なり。

阿芙蓉はけしの花の少しひらきかかりの花をむしり、

六七歩のけし坊をあつめて銀の器にしぼりこみ、

日に干し候物とぞ。

凡田三反計りのけしにて、漸く懸目三匁ばかり出来候とぞ

(本阿弥行状記P91~P92) 】


▲アメリカ国 タウンセンド・ハリス公使関係
国立公文書館アジア歴史資料センター(レファレンスコードB04012304900)
〖 件名標題(日本語) 各国展覧会関係雑件 第二巻 10.

「タウンセンド、ハリス」遺品展覧会

レファレンスコード B04012304900
資料作成年月日 昭和14年12月22日
組織歴/履歴 外務省

内容 
昭和14 四五一五一 略 紐育 十二月二十二日後発 米
本省 二十三日前着 野村外務大臣 若杉総領事 第五一二号
貴電第二五三号ニ関シ

(「タウンセンド、ハリス」遺品展覧会ニ出品方応諾ノ件)

先方ハ大学ノ催ヲ助クル当方好意ヲ求メ来リ居ル次第ニテ
経費ハ我方負担シ遺ル外ナシ(了)

昭和15 一五八七 略 紐育 一月十九日後発 米
本省 二十日前着 有田外務大臣 若杉総領事 第三〇号
往電第五一二号ニ関シ

(「タウンセンド、ハリス」遺品展覧会ニ関スル件

経費本邦側負担ニテ貸与可能ナリヤ何レニセヨ御回示ヲ得タシ

昭和15 二五四〇 略 紐育 一月二十九日後発 米
本省 三十日前着 有田外務大臣 若杉総領事 第四七号 〗

タウンセンドハリス1**ハリス2**ハリス3

〖 Author;つくづく思います。理想に燃えた多くの外国の方々に

      助けてもらいながら、今日の日本社会が在るのだと。 〗


▲大正9年(1920)12月22日 朝日新聞
T9大朝日米戦争1**T9大朝日米戦争2_0001
〖 日米戦争の噂(伯林特電17日○)伯林にて持ち切り〗
【 独逸に於て日米戦争の噂の旺なるは何人も頷くところなるが近時日米関係緊張し来れるに當り独逸新聞は毎日の如く英米より来る日米問題に関する電報を掲載しつゝあるが
16日“カール・アンツアイゲルは伯林の一日本人を訪問し日米戦争に関し談話を掲載せり 該邦人は日米戦争は起り得ずと断言したるが此記事を“カール・アンツアイゲルは二段抜きにて大きく掲載し居れり
普通独逸人は世界に戦争起れば世界の情勢一転化して独逸も苦しき目下の状態より免るゝことを得んとて戦争あれかしと希望し居れるが
右党側及び経済家等は日米戦争は独逸に不利益なりと考え居れり
其理由は経済家は独逸復活の為の米国の援助は日米戦争により延期せられんと之を恐れ居れるを以てなり
又軍人側及び右党が日米戦争を恐るゝは強き日本の東洋にあるは露国及び英国の独逸圧迫を東洋に牽制する利益あるも日米戦争にて日本は敗北すべしと考へ居れるを以てなり 】


大正10年(1921>

   第1回

日華連合絵画展覧会 

    <於 青島・北京・天津>


△大公報 中華民国10年11月28日(大正10年(1921)11月28日)
将開中日絵画会〗
【此次中日連合絵画展覧会在北京開会於本月30日閉会後経直隷・・・】
1921,11,28大公報-1
**1921,11,28大公報-2【・・・厳君此次提倡美術不遺餘力且厳夫人曾畢業於美術学校故尤為熱心】

◎国立公文書館アジア歴史資料センター
 レファレンスコード B05016015100
1921,12,2-3大公報と公文書
【・・・厳氏夫人は東京女子美術出身にて芸術に対し深き理解を有し・・・・】

△大公報 中華民国10年12月2日(大正10年(1921)12月2日)
大公報1921,12,2-1**1921,12,2-2大公報**1921,12,2中一通信社広告



◎国立公文書館アジア歴史資料センター
 ・レファレンスコード B05016015100
▲日本側出品作品と中国側出品作品
T10出品作品**中村岳陵 宮中行事T10,経緯9**T10,経緯10**T10,経緯11“胡瓜” 堅山南風**T10,経緯12


◆長沙 白石 画8件 藤花、凌雨月花、梅花、桃花、白荷、紅荷、荷花鳥◆
◇呉興 王 雲(震?) 一亭 画2件 達磨尊者像、東坡先生像◇

◎齋 白石氏も王 一亭氏も共に【 第1回 日華連合絵画展覧会 】に出品されておられます。◎   
T10,経緯13


**T10,経緯14**


▲美術雑誌〘 美術之日本 〙
 大正10年11月20日発行
T10,美術之日本

T10.jpg**T10美術之日本左

〖 △日支の美術展覧会 〗

【 荒木十畝 画伯

 門下の高足

  渡辺晨畝

は昨秋China大官及び画家諸氏の諒解

を得て北京に日支連合の絵画展覧会

開く筈になっていたところ、

折から

  排日問題

が勃興したので頓挫したが、

其後感情やうやく薄らぎ、

殊に今夏小室翠雲画伯がChinaを漫遊し

大官及び諸画伯連と交驩の効空しからず、

  外交総長の顔氏

   や

  周日斎氏

よりも晨畝氏の許へ交渉して来たので、

同氏は我国第一流の名家の作品を携へ、

先月上旬彼地に渡航し、

先づ

  青島

官民の懇望に依り同地に

   展覧会

を開いたところ非常の盛況を呈したので

更に北京に入り大官及び諸画家と

  會商の結果

その斡旋で去る十五日から

北京城内舊王宮の一部に於て

  日支連合絵画展覧会

を催すことゝなった

出品の日本画は総て百余点で南北宗畫は素より

日本独特の伝統を示すべき大和絵浮世絵など

現代作家の雄を集めたものだという。

又同地人士の一団は日本の絵画を見て

その風土を慕ひ三百人の会員を募りて

近く日本観光に来る由 】



Art Exhibition of Japan and China .
(Araki Jippo is an artist like Chinese Li Po(Rihaku).
Araki Jippo is a magnate of flowers-and-birds drawing.)
Watanabe Sinpo is an excellent disciple of painter Arakijippo.

Last fall, Watanabe Sinpo talked with Chinese mandarin and painters.
Result of that discussion, In Beijing, both sides was decided to open a painting exhibition of Union of Japan and China.

However, at that time, anti-Japanese problem just occurred.
The painting exhibition of Union of Japan and China were derailed.
Then, anti-Japanese sentiment began finally settled.

(Komuro Suiun is famous painter. )
Komuro Suiun went to China in the summer of this year.
He has intimate talks with Chinese mandarin.
Similarly, he has intimate talks with Chinese painters.
This negotiation was very effective.

Mr.Shu and Mr. GAN of the diplomatic president has been negotiating with the Watanabe Sinpo.
As a result, He will carry the work of Japan's leading painter.
And he went to China in early last month.

By request of government and people,
The exhibition was held in Chingtao.
The exhibition was a great success.

Watanabe Sinpo went into Beijing.
He has negotiated with various mandarin and artists.
Outcome of the negotiations ,The painting exhibition will be held at the Palace of Beijing.

The number of Japanese painting is a point about one hundred.
Contents of the exhibition is Yamato-e painting and ukiyo-e.
Centerpiece of the exhibition is the work of many contemporary artists.
People in China after watching a Japanese-style painting have shown interest in Japanese culture favorably.
In the near future,the Chinese side is recruiting for a membership of 300 people.
The organization visits Japan.


大正10年 第1回日華連合絵画展覧会開催の関係記事です。

▲昭和 14年(1939)「日本美術年鑑」
美術研究所編 国書刊行会発行
 【 渡邊晨畝画伯訃報記事 】

   T10晨畝訃報記事**晨畝訃報資料

日本画家渡邊晨畝は二月十一日逝去した。享年七十二歳。

 慶応三年十一月三日福島県安積郡多田野村に生る。

荒木寛畝の門に花鳥を学ぶ。

日本画会、日本美術協会々員となり、孔雀の絵を得意としていた。

大正七年(1918)Chinaに漫遊、北京に於て

日華連合絵画研究会を組織し、

 同十年(1921)

  及び

 十三年(1924)に

 日華連合展を開催、

又昭和九年には新京に日満連合展を開催した。

満州国皇帝の知遇を辱うし、日満支三国美術の交驩に貢献せる處大であった。

尚、東方絵画協会幹事の任にあった。


▲日本画大成 昭和篇・昭和8年東方書院発行

 ◇渡辺晨畝氏

【明治四年十一月生、三十二年(荒木)寛畝門下と成る

三十六年 第五師団偕行社貴賓室の装飾画を揮毫し、

三十八年中 羽衣図大本営御用品と成る、

幷に大本営食堂の装飾を揮毫し

自来一家を成して今日に至る。

「氏は日本Chinaの親善は、外交によるのみでは

効果がない、宜しく芸術を媒として相互の融和を

図るべきであると言ふ建前をもって、

China滞在中に自費をもってChinaの窮民、

貧児、病者を救った経験から、

大正八年日華連合展覧会を創設して、

東西画壇の有力者は勿論、外務省の後援を得て、

日支芸術の紹介と共に、両国間の意思の融和に努力して、今日に及んでゐる。】


▲大正10年(1921)日華連合絵画展覧会出品目録
・国立公文書館アジア歴史資料センター レファレンスコードB05016015100
T10,経緯
〖 連合展覧会開催の動機 〗
【 抑も日華連合絵画展覧会開催の因は、大正7年12月、渡辺晨畝氏北京に遊び、…………日本側よりは、渡辺氏の外、当時三菱北京支店長たりし秋山昱禧氏あり、・・・・・ 】

≪ 御参考 ≫
日支聯合絵画展覧会
▲大正8年(1919)6月15日
美術雑誌“美術之日本”

〖日支連合絵画展覧会 渡辺晨畝〗

【在北京三菱支店長秋山禧氏、

坂西陸軍少将閣下、岡村副官、

其他の名士の高配に依り、

  China大官

  顔世清、

  周自齊、

  金紹城、

其他の諸氏に協議をして呉れられた結果、

  日支連合絵画展覧会

を北京の中央公園又は官中の傳心殿に於いて

今秋十月一日より開会することに決定した。


▲大正10年7月1日 東京朝日新聞

翠雲 妓女①
翠雲 妓女②
《奉天所見》満州旅行中の小室翠雲氏



▲大正10年7月28日 東京朝日新聞
T10,7,28東朝①
T10,7,28 東朝②_0002**T10,7,28 ③

大正10年(1921)7月28日
東京朝日新聞
〖学芸たより〗
【○小室翠雲氏の音信 足跡を印する處

歓迎盛にして政治側にては黎元洪、潘復、

周伯圍、学者側には●寶深、方若、荘●

寛、芸術家等七十名相会し中央公園来雨亭

にて歓迎書画会を“かれ”梅蘭芳は●

氏の宅●雅宴を り小生は日支の名士

の碁会など催し来りする者五十名許り

極盛会に御座候、是より山東省を経て

上海へ向ひ可申候(七月二十日北京にて)


~~~~+++++++++~~~~

〘御参考〙
2009・9.22 朝日新聞の記事に
G20 24日開幕 
“世界不均衡 解消どこまで”
という見出しに目が止まりました。

“米国 縮小する消費 貯蓄率は上昇”
“中国 内需好調でも「代役」に限界”
とあり、
“中国の内需がどこまで米国の「代役」に
なれるのかは、定かでない。
中国のGDPは米国の3分の1以下にとどまる。
 中略
「中国、インド、ブラジルはおそらく消費を
増やすだろう。しかし、米国の消費減少を
埋め合わせられるだろうか。
そこは不透明だ」”
とあります。

ここでちょっと御案内したい
次の記事が御座います。
T10読売1**T10読売3_0001

大正10年(1921)11月15日付で
読売新聞が≪華盛頓(ワシントン)会議號≫
と題して
“太平洋上に響く軍備制限の合奏 
幕をあけた華盛頓会議の前途 
之に対する内外諸名士の観測”
とあります。

その紙面の中で、犬養毅が、

“寧ろ日本に向かって世界を解放せよ
軍備縮小は日本の希望 
問題は過剰人口の出口”

と要点をあげて、当時の国内問題を論じています。
注目すべき犬養の論点は、

【◇更に一歩を進めて軍費節減を目指す
◇海軍は薩摩閥、陸軍は長州軍閥の
占有して居った時代があって、
是等が勝手に時の内閣の主義政策を
左右した歴史はある。

軍閥によって動かされて居た時代が
過去にはあった、
今は軍閥の威力は全然地を払ったとも云へる。

日本の国内事情は、一小島国で、
耕作に適せぬ山嶽地の国のため

到底現在の人口を維持して行ける丈の
食糧を得ることは出来ないのである

のみならず年々人口は増加する許りで、
将来日本民族を如何にすべきかは
我々の最も重大な憂苦である。

国内に於いて現在以上の耕地を得ること
難く、如何に豊作の年でも国民を養う
だけの食糧がないとすれば自然の勢い
として外国に出て行くのは当然の経路である。”】
と当時の国内事情を解説しています。

“食糧問題”は、現在進行形で、
21世紀の今以って解決されていません。


続いて
フランク・シモンズと云う方が、
中心はChina問題
≪日本勝つか米国勝つか 
失敗せば第二の巴里会議≫
と題して
T10読売4
【 <経済的要素> 
巴里会議は重要な事を閑却して居た。
それは経済的要素を認めなかった事である。
   中略
巴里会議は多年他民族の苛政に呻吟して
居た多くの被征服民族を解放したが、
これがために中欧各国の経済的産業的
萎靡は毫も匡救されて居らない。

<華府会議の意義> 
日本は往時の英独の如く産業上急速の

発展を遂げ今や有力なる輸出国となっているが、

米国の一州にも足らない小国であるから、

若し海外から十分な食糧の供給を受くるに

非ざれば、到底其の人口をいつまでも国内に

維持する事は出来ない。
   
    中略
然るに日英米三国に取って極東特にChinaは、
此の上もなき商権の扶殖場である。
日本に取っては之を得ると否とは直に其の死活
に関する事であり、英国も亦其の欧州に失へる
市場を此処に補ふ必要があり、
米国にとっても亦其生産の好個の捌口である。
   中略 
実際、機会を均等ならしむる事は
即ち米国の優越を意味する  
   中略
米国上院議員ボラー氏は過般の大戦は
軍備の拡張と秘密外交に起因すると謂って居る。
そして此考へは米国の公人間に可成り多くの
信者を有って居るが、

併し吾人の見る所に拠れば、
大戦の原因はそんなものではない。

欧州大戦の眞因は近世独逸の勃興である
彼は其の膨張欲を満たす為めに盛んに
他の勢力範囲を侵さんとした。

そこで各国は同盟を作り協商を結むで
之に対抗した。其の結果独逸は遂に
乾坤一擲の挙に出たのである。

それと同様に今日に於ても世界平和に対する
危険は過大なる軍備に非ずして、

各国共購買力の著しく減少した事である。

今日の状態を見るに世界の船腹は
多く空虚であり、世界の工場が産出する
多くの貨物は顧客なくして苦しむで居る。

そこで英国は多数の失業者を出し
日独もまた経済的不況のドン底に沈淪して居る。

そしてこの悲境を脱する唯一の途は

販路の拡張あるのみ

であり世界に於ける市場の中最も有望なのは

露国とChina

である。

然し露国は堅く鎖されて居るから各国にとって
唯一の市場はChinaであり、Chinaに於いて
市場を争ふ主なるものは日英米三国である。

機会だに均等ならしめむか、此の競争は
米国のものであるが、

若し米国にして優勝すれば、

数百万の日本人は飢ゑるか
海外に移住するかの外にはないのである。

然らば英国は何うかと云ふに、

若し米国の生産力が現状を維持して行けば、

彼は遠からず悲惨な境遇に陥るであらう。

軍備の縮小は結構である。

太平洋上に於ける各国の政策を協定する事も

素的な事である。

然し是等両者の背後には

飢餓の問題が横たはって居る

事を忘れてはならぬ。

此の飢餓の要素こそは

実に将来の戦争の禍根となるものである。

華盛頓会議は此の點に留意して
之が解決を計らねば、
其失敗は巴里会議の比ではないであらう。】
          〘点線はAuthor付記〙

また、同じ読売新聞に
T10読売2
≪日本を救ふの道は近きに在り 
 汎日本主義より産業化へ≫

と題してシドニー・グリンビイという方が
論文を掲載されています。
T10読売5
【“太平洋の諸問題を解決せずして
眞の軍備縮小は行はれない。”
(という書き出しで始まります。
以後の文章は割愛して結論部分のみ記します)

“之を要するに、
日本は今や(大正10年・1921年時点)
非常に逼迫して居る。

内に過剰の人口あり、

外には移民問題の困難がある。

故に

日本が今日の窮境より脱する途は唯一つある。

それは日本の産業化である。

日本にして十分なる産業を発達せしめんか、
将来百年間は過剰人口の処分に
苦しまないであらう。】

とあります。

内需振興という鉄則を語っています。


引用 〖繁栄のための算術〗松下幸之助/文芸春秋・昭和39年(1964)8月特別号

松下①_0001**松下②_0001**松下③**松下④_0001**松下⑤ー1**松下⑥**松下⑦**松下⑧



~~~~+++++++++~~~~



≪ 中国画家の紹介記事 ≫

▲大正10年12月4日 大阪朝日新聞
T10,鮑小游1**鮑少游
〖 鮑少游個人展覧会 〗
【 鮑少游氏が郷国江南地方の写生旅行から得た作品を三、四、五口神戸市明石町明海ビルヂングで展観す 】


▲大正10年12月24日 大阪毎日新聞
T10,鮑小游氏①**T10,鮑小游②**T10,鮑小游③

◇China画家

  鮑小游

の作品展覧会を見る。

作品は総て五十余點全体とし些か食い足りないが、

然し将来に嘱目する事にしよう。

日本で畫を学んだ人だけに、我々の注意を引く様な

異国的な情味にも乏しい。

それに氏は日本の画家達の悪い写実に毒せられて居はしないか。

とは云うものゝ、中には非常に感じの好い作品も無いではない。

例えば

「江南春」は柔い味があって、好きな人には好くだろうし、

「花港観魚」暫く見て居ると、好い味が出て来ると思う。

「湖山秋暁」も䔥條たる気分が出て居る。

「西湖雨後」には流石に日本には見られない筆致があり、

「寒林歸騎」は枯淡な所があって好い。


猶ほ同時に展観された刺繍作品には余り感心しなかった。

精緻であると云うに過ぎない。

これも悪写実に毒せられて居るからなのだが、

昔のChinaの装飾的な刺繍の方が、どれだけ芸術的だか解らないと思う。】


▲大正10年(1921)11月11日 東京朝日新聞

〖 学芸だより 〗
T10,支那女士画家①**T10,

【 ○ China呉杏芬女士画幅展覧会 

 報知新聞社主催で十二日より十四日迄上野公園日本美術協会にて 】

≪ご参考≫

大正11年(1922) 日華連合絵画展覧会 杏芬女士 出品作品

杏芬女史

◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコード B05016015100



▲大正10年(1921)12月6日 大阪毎日新聞
T10張作相1
〖 大演習参観の帰途 本社を視察したChina武官 〗
【 過般武相の地に行われた大演習参観のため来朝した

China武官何恩溥、張作相両中将以下・・・・ 】

▲大正10年(1921)12月6日 大阪朝日新聞
T10張作相1
〖 大阪城見物のChina武官 〗

【 何恩溥、張作相両中将を始め・・・ 】

◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコード A10112954000
△大正11年(1922)3月3日
「China陸軍中将何恩溥外二名叙勲ノ件」
T11張作相叙勲1**T11張作相叙勲2**T11張作相叙勲3

【 叙勲 】
**T11張作相叙勲4_0001
勲二等旭日重光章 陸軍中将 何恩溥
勲二等旭日重光章 陸軍中将 張作相
勲二等瑞寶章 陸軍少将 張学良(張作霖の長子)
**T11張作相叙勲5**T11張作相叙勲6



▲大正10年12月22日 大阪毎日新聞

孫氏夫人男勝り①**男優り孫夫人**
大正10年12月22日 大阪毎日新聞

〖孫文氏の夫人 土匪に浚わる 

 土匪から孫氏へ人質の代償五十万元を要求 〗

【悟州に在った孫文氏の夫人は夫の後を慕って

桂林に向かう途中廣西の土匪のために人質として捕らえられ

土匪は孫文氏に対して五十万元の代償金を要求したとの報が伝えられた、

上海の孫文氏留守宅にある夫人の妹は

「姉は道中一千五百の兵隊に護衛されて居るからそんな筈はないと思います」

と語っている

孫氏の秘書役も「そんな電報は来ない、反対派の宣伝だろう」と語った

因みに同夫人は米国育ちの美人で

今度北伐に際し赤十字隊長として戦陣に臨まんとするのであった

(上海特電廿一日発)】

▲大正10年12月30日 大阪毎日新聞

T10,孫文夫人奪還**T10,孫文夫人奪還②

大正10年12月30日 大阪毎日新聞

〖三十隻の護衛船奮戦 

  孫文夫人

 を奪還す 

土匪軍を撃退して桂林に引揚ぐ 

花で飾られた夫人の船〗

【廿八日上海 孫文氏の留守宅に達した報道によれば

広西省で土匪の為に攫われた

  孫文氏夫人

は護衛兵の奮戦により危難から救われ

無事桂林に到着した由、

遭難地点は梧州から二百八十支里上流

桂林から三百八十支里南方の昭平附近で

三十隻の民船に搭乗した護衛兵は孫文夫人を取返すべく

二時間に亘り土匪軍と交戦し遂に土匪軍を撃退した、

一行が桂林に到着した時は

美わしく花を以て掩われた孫文夫人の乗船を先頭に

三十隻の護衛船が意気揚々としてこれに続き

群衆の大歓迎を受けた(上海特電)】


▲大正10年(1921)12月20日 大阪毎日新聞
T10,China論

【China政変の一考察 興味を惹かぬ理由】
〖北京政界では内閣総辞職でごった返しをやっている。

新内閣と言えば一昨年十一月に成立して、Chinaにおいては珍しく長寿を保った内閣である。

単にそれだけの事実から考えても、又華盛頓会議が開かれている今日、

国際政局における最も注目すべき一国として、

極東政局の重要なる立役者の一つとしても、

その内閣の更迭は当然平日より以上に世界の注視を集めねばならぬ筈である。

併しながら、事実は全くこれと反対である。

Chinaに密接な関係を持つ各国がこの政変に冷淡なばかりでなく、

従来Chinaの政変を自国の政変であるかの如く騒いでいた日本も今度は一向騒がない。

甚だしきに至ってはChina国民自身が自国政府の動揺に向かって

全然風場牛の有様である。

近年北京政界に政乱相次ぎ、

Chinaの面上にいわゆる「紛乱國」たる烙印を捺されて以来、

世人のChinaの政変に対する冷淡は年を逐うて甚だしく、

今に至っては殆んど真面目に之を取扱う者なき状態である。

この傾向は果たしてChinaにとって等閑に附してよいものであろうか。

吾輩は次期内閣の如何よりも、むしろこの傾向とChinaの国運との関係について

ヨリ深甚なる興味をもって眺むるものである。



▲大正10年11月3日 大阪毎日新聞
《 外征五年、本日帰朝する清水選手の無線電信 本紙を通じて日本庭球界へ 》
〖 庭球は日本人に最適の競技である 〗
【日本代表選手として熊谷一弥氏と共にデビイスカップ優勝戦に出場し
 世界的名声を博した三井物産の清水善造氏は・・・・・】
T10清水3

▲大正10年11月13日 大阪毎日新聞
【 世界的庭球大選手清水氏歓迎大競技来十五日豊中コートに於て
  関西における最初の大試合 】
T10清水2


  

大正11年(1922)

第2回 日華連合絵画展覧会

< 於 東京 >

 
▲大正11年4月25日 読売新聞【 右から陳衡恪氏、金紹城氏、呉煕曾氏 】

T11金氏3氏写真**T11金氏ほか写真**T11金氏の記事
▲大正11年4月25日 読売新聞
〖 大総統や梅蘭芳の画を携えてChina一流画家来る 一日から府奨励館で展観する 〗
【 5月1日から東京府庁内商工奨励館で開かれる

  日華連合絵画展覧会

の為め来朝した北京の画家金紹城、陳衡恪、呉煕曽の三氏は下の関迄出迎えた

渡辺晨畝氏と24日午前8時20分東京駅に着した。

駅には同会の幹部たる川合玉堂、小堀鞆音、荒木十畝、小室翠雲の四画伯

大村西崖、油谷日華実業協会主事、後藤朝太郎其他十数名が出迎えた。

金氏と陳氏は瀟洒な洋装、呉氏のみChina服、

日本側では小室翠雲氏一人が新調のChina服で納って居る、

斯くて一行は自動車を連ねて特に日本旅館へとの注文に基いて駿河台の龍名館に入いった。

一行中の陳氏は流暢な日本語で語る

『今回は他にも数名同行者がある筈であったが時局の為見合すものが多く

私共3人丈け出発することになりました、

出品に就いてはChina側でも非常な意気組で

北京側が32人で301点、上海側が33人で112点である。

北京側は徐大総統も1点出品するし梅蘭芳も佛画を2点程出品することになった。

尚上海の方は既に船津総領事の手から外務省へ宛て発送した筈であるから既に着いたことであろう』

因に日本側では24日夜幹部会を召集して一行の歓迎其他に就て協議会を催した 】

The Yomiuri Shimbun April 25, 1922
(Mr. Chen Hengke, Mr. Kungpah T. King, Mr.Woo Ching Hu from the right)
〖Famous painters of China will bring many painting in Japan.
The Chinese painters has brought a picture drawn by President and Mei Lanfang 〗
【In Commerce and Industry Promotion Hall from May 1 The exhibition will be held. The name of the exhibition is called " exhibition by Japan and China Union " . This exhibition was jointly made by Chinese painters and japanese painters .
Watanabe artist went to the port of Shimonoseki. He welcomed the painter of China.
Watanabe artist went to the port of Shimonoseki. He welcomed the painter of China.
Painters who came to Japan is three people. Their name is Mr.Woo Ching Hu and Mr.Kungpah T. King and. Mr Chen Hengke .・・・・・・】

△中華民国11年(1922)5月6日〖 申報 〗
◎画家携画東渡参與展覧会
【中日連合絵画展覧会、自5月1日起、在東京府廰商工奨励館、@第2次展覧大会、・・・】
中華民国11年(1922)5月6日〖 申報 〗-2**中華民国11年(1922)5月6日〖 申報 〗-1


▲大正11年12月 日華連合絵画展覧会図録
 (国立公文書館アジア資料センター
  レファレンスコード B05016015100)
  
T11図録**T11中国側**

**T11図録 奥付
編集兼発行者 東京市本郷区弥生町3番地
       日華連合絵画展覧会
       代表者 荒木十畝
≪御参考≫荒木十畝の住所
     東京市本郷区弥生町3番地

T11趣旨書

▲中国側作品
T11,徐世昌_0001***

徐世昌画2**坂西謹識_0002「大正十一年四月 坂西利八郎謹識」

◎徐世昌大総統のこの作品の賛は「坂西利八郎謹識」のように読めます。
もしそうならば、この方は、日本陸軍にあって中国通として有名でありました。陸軍中将迄進まれました。後、貴族院議員に勅選されています。この方の奥様の妹が横山大観夫人です。
大正15年10月号「 中央美術」には≪自叙伝(五)横山大観≫を連載しています。
T15大観結婚
▲大正15年10月号「 中央美術 」
〖 自叙伝(五)〈 結婚 〉 横山大観 〗
【この当時日本美術院から受ける私共の月給は、いづれも二十五円であった。美術院で制作するすべての作品は、全部院で処分し院の維持費に充当するのであったから、私の生活費は俸給二十五円以外には一文の余裕もなかった。この頃は私は両親、妻子、兄弟、女中を加へて九人の家内を養はねばならなかった。二十五円の収入で、九人の生活を維持する事は随分辛い事であった。只私には前途に大きな希望があった、心の中には芸術に対する燃ゆる様な熱情があった。この二つのものゝ力に押されて、艱難と苦痛を堪え忍んだのである。只管に芸術の世界に精進する心情に依って極度の節約にも堪え、幾多の欲情をも制止することが出来た。事の序に私の家庭事情をも一通り叙べねばならないが、明治三十年、美術学校奉職後四カ月程経て、私は妻文子を迎へた。妻は信州上田の儒者で瀧澤と云ふ人の末子で、現在Chinaの軍事顧問をしてをる坂西(ばんざい)中将夫人の妹であった。】

*②T11梅蘭芳*③T11湯滌

T11陳衡格*⑤T11王一亭*⑥T11王雲夢白

T11顔世清*⑧T11兪明*⑨T11葉伯常

T11黄俊*⑪T11呉仲態*[emoji:e-247]⑫T11齋白石

T11金紹城*⑭T11杏芬*⑮T11淑儒

T11趙森寶

(①呉昌碩と大総統徐世昌(坂西利八郎 日本陸軍中将の賛か?) ②梅蘭芳と呂萬選青 ③湯滌と潘琅圃 ④陳年と陳衡恪 ⑤王一亭と凌文淵 

⑥賀良撲と王雲夢白 ⑦顔世清と韓心壽 ⑧兪語霜と兪明 ⑨秦(泰)裕?と葉伯常 

⑩黄俊と秦(泰)裕? ⑪呉仲熊と呉煕曾 ⑫齊璜白石と江采南蘋女士 ⑬金紹城と歸安兪原語霜 

⑭杏芬女士と季上達 ⑮叔孺?と䔥○ ⑯趙森寶  

▲中華民国側出品(北京の部)
(国立公文書館アジア資料センターレファレンスコード B05016015300)
T11中国側1T11中国側2T11中国側3T11目録6

T11目録7

T11目録8


〖 ご参考 〗
広重 三保_0001**⑫齊白石横舟

*「 江尻 三保遠望 」歌川 広重 と ⑫「 横江揚船 」齊璜白石

≪ 新趣味の著しいのが、

  齋璜氏

の「横江揚船」であった。

萬帆去来の港の景色、シムボリック

松林を前景とした調和が実に佳かった。

( 大正11年5月20日発行 “美術之日本”
最近の諸展覧会 一記者 日華聯合絵畫展覧會 より ≫


▲日本側作品(主として読画会々員出品作)
秀畝・長秋_0001*②友畝・秀叢_0001*③玉堂・晨畝*④五畝・黄葵*⑤紅畝・春水*⑥翠雲・休光*⑦廣畝・十畝*⑧墨仙・司山*⑨香畝・東畝*⑩白甫・恒畝
①磯田長秋・池上秀畝 ②新村友畝・堀田秀叢 ③川合玉堂・渡邊晨畝 

④高瀬五畝・田口黄葵 ⑤中田紅畝・永田春水 ⑥小室翠雲・松久休光 

⑦木村廣畝・荒木十畝 ⑧島田墨仙・宮田司山 ⑨森山香浦・廣瀬東畝 

⑩森白畝(森白畝画伯は、荒木十畝主宰の読画会の会員で、
 戦後 芸術院会員になられた森白甫画伯の父君です)・弓家恒畝



T11目録8-1**T11目録9**T11目録11**T11目録13**T11目録14**T11目録15**T11目録16**T11目録18**T11目録18_0001

米舫**華秋**晨畝**玉堂**蕉琴**頼章**曲江**彩天**龍岬**龍岬2**華谷**恒畝**

**つづく



▲大正11年5月2日 大阪毎日新聞
T11,大トランク大阪毎日新聞**日華展T11大毎

大正11年5月2日 

 大阪毎日新聞

日華聯合展覧會へ送った
 
 大トランクが紛失した 

 名僧の墨蹟や参考品がChinaを 

 出たきり東京に着かぬ 〗

【 二日から東京府商工奨励館で開会さるゝ

日華連合展覧会に北京から東京駅止で

郵送した大トランクが一箇月餘りにもなるのに

一日夜になってもまだ届かない

該トランクには近代の名僧石涛、石渓

両僧の墨蹟を始め三十餘點(五六万圓だといふ)

の参考品が入っているので

当事者は心配しているが全く行方不明だ

展覧会事務所では今も東京駅へ談判に

行ったところですが判りません

大トランクと同時に上海から送った他の荷物は

四月廿四日に着いたのにモット貴重なトランクが

着かないので心配に堪へません

東京駅では木村助役の調べによると

下関に荷揚して京都迄は確実であったが

其後は全く判らんと云ふ返事で

此間の新聞に湘南の海に大トランクが

漂うてあったが或は?と問合せて見たが

間違って居りましたと語った(東京電話) 】

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

▲大正11年5月20日発行 “美術之日本”
 
T11 美術之日本**T11.jpg**T10 美術之日本③

▲大正11年5月20日発行

“美術之日本”

〖 最近の諸展覧会

    一記者

日華聯合絵畫展覧會

【 東京府庁内の商工奨励館にて

五月一日より十五日まで、

  日華聯合絵畫展覧會

が開かれた。

此の展覧會については、

世間でも大ぶん期待していたやうであるし、

当事者は非常な意気込みで

奔走されたのであって、

日支親善といふ上から観ても

実に宜しきを得た催しであった。

事の始めは

  渡辺晨畝君

が曩に渡支された折、彼の地で

中華日本聯合の芸術展覧会開催のことを、

彼の地で有名なる

  金紹城

その他の画家と議って、

それが昨年十一月に、

北京及び天津で実現された結果、

日本でも開かうといふことになって、

春来それぞれに盡力中であって

去月中旬には前記

  金紹城

外数名のChina画伯が来朝され、

いよいよ今度の開会を見るに到ったのである。

当事者も非常な抱負を有って居り、

実際、世の中に可なり大きい反響が

あらうと思ったのに、

案外、会場は淋しかった。

縦覧御随意といふのになかなか人が

集まらぬらしい。場所がちょっと

馴染まれないせいかも知れぬ。

一方、築地の商品陳列館での

  佛国現代美術

   は

  ロダン

が呼びものになって

毎日混雑しているのと比べて、

今の思潮の何物かを語っている

のではあるまいか。

摂政宮T11 
大阪毎日新聞 大正11年5月31日
〖 仏蘭西現代美術展覧会 〗

 さて陳列品について見る。

専門の批評家などは、

現代のChina画の堕落を説いて、

頭からつまらぬものと定めているらしいが、

これはあまりに偏見過ぎる。

大きい景を割合に小さい画面に収めたものが多く、

空疎の感がなくていゝ。

次に見たまゝの感じを記さう。

 但し、此の會の出品は、

売約になると直ぐはづしてしまふ。

そうしてそのあとへは又別の絵を、

China人自身が持出してズンズン掛けて置く、

と云った調子で、殆んど毎日一部分づゝの

陳列が変わって居る。

だから見ないものに面白いのもあらうが、

私は招待日と六日目とに見た處によって書くのである。

 現代のChina画家の作品の方から

順に所感を記すと、

  陳衝格氏

の「枯荷」は、細長い縦幅に墨を主とした

極めて淡彩で枯れ蓮を畫いたものだが、

これまで有り振れた日本流の枯荷とは

同じやうな図でありながら、

どこかに異った重みがあった。

この例は他にも少なくない。

  金紹城氏

が樹石を描き、

  愈明氏

が人物を配した「羅漢」、小品の濃彩、

色の浮きつかぬ処が佳い。

  齋黄氏

(“黄”は王篇に黄が付いた文字。
“王黄” で一文字です ・齊白石画伯のことのようです)

の「桃花塢」、桃花咲き満ちた山村の景を

大まかな線と色とで写したもの。

傑出している。
 
  管平氏

の「灸茶図」、

  馬晋氏

の「春郊散牧」「柳蔭五馬」は、

西洋画の色調で、極めて細密な線で

写生的に描いたもの、一特色が目立った、

  金紹城氏

は種々の傾向を有った人らしく、

これまで吾々の目馴れたChina山水畫風の

大幅で、「策蹇尋幽」などの力作もあり、

又、「荷亭消夏」とて、日本の畫家が

よく書くやうな軽い気持ちで配色の

淡い閑悠気分の作もあった。

「捕魚図」などは古い北宗派に見るやうな

筆つきであり、或は柔かい四条派のやうな

気分の春の山水があった。

  陳年氏

の「黄巻青鐙」は巻帙と灯臺、

「茶熟菊開」は、花瓶に挿した黄菊と

提げ形の黒い急須、共に素撲簡単な線で

無雑作にかいた中に力のある気持ちのいゝ絵であった、

  周肇祥氏

の「墨梅」は、淡墨の梅の枝より下に

丸い月を見せ、水に小石を配した構図が

ことにいゝ。もう一つ「關山古寺」は極めて

ザッとした線であるが、又細かい描写も加はり、

それがうまく調和して、山間の古寺気分を

ゆたかに見せていた。

此の古典的な感じとは全く異なった

新趣味の著しいのが、

  齋黄氏

の「横江揚船」であった。

(齋黄の“黄”は、王篇に“黄”が付いた文字です。
“王黄”で一文字です)

萬帆去来の港の景色、シムボリックな

松林を前景とした調和が実に佳かった。
 
  梅蘭芳氏

の仏像二図も素人めいた處に面白味があった。

  徐総統

の小品墨畫山水や

  顔世清氏

の「楼閣」などは、大官といふ名や

筆者の人格などから芸術の価値を割出さう

とする道徳カブレの賞鍳者には有がたく

思はれるだらうが、

たゞの絵として見てはあまり感心出来ぬものであった。
 
続いて日本画家の方に移ると、

これは亦甚しい空疎なものが多かった。

China畫とかうして並べて見て、

兎も角も見劣りせぬのは

  小室翠雲君

の「白雲紅葉」と題する横ものゝ山景であった。

  田口米舫君

の牡丹や

  渡辺晨畝君

の「蹈流顧影」といふ孔雀に夾竹桃を配した

ものなど、桐當努力の作とは見えるが、

どうしても室内で作った絵で、

雄大の気が伴っていないから力に乏しい、

たゞの作り物に過ぎない。自然と無交渉である。

  小堀鞆音君 

の「阿倍仲麻呂」などは、切抜き人形を

並べた観があり、気の毒なやうだった。

前に何処かの展覧会で見たものや、

責めを塞ぐに止める 間に合はせ作をも

往々見受けられた。

どうも日本の側では幾分真摯を欠いてるやうで、

折角の発起人たちの熱心に背くの観があった。

 古畫には大ぶん面白いものがあった。

  明冀賢の山水畫冊、

  呉小仙山水畫巻、

  謝時臣の山水、

  石涛和尚の双幅雲山

などは特に名品として見るべきもので

殊に

  郎世寧の花鳥軸

は最も珍とすべきものであった。(完) 】


************************************************

◆大正十一年五月開催
〖 日華連合絵画展覧会報告 〗
T11日華展表紙**T11日華展始末2**T11日華展始末3**T11日華展始末4**T11日華展始末5**T11日華展始末6**T11日華展始末7**T11日華展始末8**T11日華展始末9**T11日華展始末10**T11日華展始末11**T11日華展始末13**T11日華展始末14**T11日華展始末15**T11日華展始末18**



荒木十畝主宰の「読画会」が推進してきた

日華連合絵画展覧会

とは違う、

もう一つの流れがあったようです。

それと思われる団体の記事を掲載します。

▲大正11年5月2日 読売新聞
支那所々**T11China所々1**T11China所々2

〖 Chinaところどころ

 上海 池田桃川

中日連合美術展覧会 〗

【江南の柳の芽生えを見に来た

橋本関雪さんの批評に據ると、

日本からの出品は殆んど見るに足るものなく、

China人の油絵のうちに却ってよいのがある。

殊に上海美術学校々長 劉海粟君の作なんか

却々優れているそうである

ーそういう展覧会が、この四月一日から五日まで、

当地日本人倶楽部の二階応接間と、三階演芸場の全部とを借り切り、

三十仙(セント)の入場料を取って可なり大袈裟に開いた。

会の名は

中日連合美術展覧会

と言うのであるが、同会場に並べてあるのは

油絵と日本絵とが大多数を占め、

それに少しの書がある許りで、

美術の全部を集めた訳ではない。

出品者は日支両国人数十名で、

China人の出品は油絵の方が多く、

且つ又それによいのがある。

関雪さんが賞めていた劉海粟君の油絵は

七八点の出品があったがその中で人

目を惹いていたのは、

「北京前門」と「将棋」 「W氏の庭」などであった。

この三点の中 前二点は十二号で売価は共に六百弗とある。

その外の出品者としては、

梁鼎銘、顧文梁、李超子、呉法鼎、張辰伯、

水彩として王亜塵、王済遠などあったが、

遺憾ながら優れたのはない。

又日本側からとして佐々李夫、大澤太郎

諸氏のも見えていたが、矢張り問題外との評判だ。

所謂見るに足らぬという日本画には、

小鹽美州の「暮色」(三百弗)小方華圃の

「花」(三百弗)、宅野田夫の「白楽天」

(五百弗)、竹村秋聲の「鶏頭花」(二百

弗)、大筆畫生の「山科」(二百五十弗)、

森村宜称の「西王母」(五百弗)、岡山聖虚の

「殉教者の春」(五百弗)、大矢春嶺の

「温泉場の春」(二百弗)、その他朝見香城、

山田春甫、堂本印象諸氏のがあり、

又China側からは例の呉昌碩を首め趙子雲、

王沖山、愈語霜、唐吉生などのが

並べてあったが、これ等も只遺憾乍らと

いう外はないやうだ。尤も日本で今大流行の

呉昌碩のが、ここでは只の二十弗という相場だから

これなんか日本へ輸入した方が、

商売としては得策であろう。

関雪さん曰く、

呉翁の絵は知れたもんだが、

詩はいゝ、どこがいゝって、

あの気骨稜々たる点がさ、

ぐにゃぐにゃしたChina現代の詩界に於て

あの骨のある所がいゝよ。

この展覧会の主催者は、

当地の一表具師

であって、その口実は日支両国人の美術

をお互いに紹介し、美術に由りて両国人

の親善―とか何とか大そう尤もらしい

事を言うているが、その実は商売である

日本の或る骨董屋のするような絵の取引である、

売れたものから二割の口銭を取るという

可なりぼろい商売である。

他人の金儲けを吾々がいざこざいうにも

当らないが只一つ遺憾なのは、

中日聯合の徹底的内容を有せざることだ。

成程中日聯合には相違ないから、間違っては居らぬが、

誠につまらない。

無価値な中日連合だ。

と言うのは、China側は兎も角として、

日本側からは誰一人代表作家の出品がないからである。

何も知らぬChina人や西洋人が来観して、

あれが日本からの出品かと驚くかも知れぬ。

それを日本の代表作品と見られるのは、

日本の画家に取り聊か苦痛であろうと思う。

何でもかでも構わない、日支人の絵を集めさえすりゃ、

それで中日聯合となる

と言って、こんな大ぴらな名をつけられるのは、

美術家諸君にとりては迷惑千万であろう。

Japan and China Combined Art Exhibition

と言うポスターを見て;

参観に来る西洋人の、参観後の感想談を聞きたいものだ。

日支美術家諸君の接近は、色々の意味に於いて結構であるが、

その方法を誤る時は、却って悪い結果を生ずる、

この展覧会も計画は面白いが、やり方に手落ちがある。

こんな事は商売人の手を経ず

両国の美術家の団体同志提携してやるか、或は

新聞社あたりで催して貰いたいものである。】


**  **
T11中日連合1**T11中日連合2_0001**T11中日連合3


< 国立公文書館アジア歴史資料センター>レファレンスコード;B05016015000
▲中日美術協会会則 大正12年(1923)1月
中日規則**
**△中日美術協会の沿革
中日沿革_0002**
** 「中日美術協会(中日連合美術展覧会)」は、荒木十畝や渡邊晨畝らの読画会が中核となって推進している「日華連合絵画展覧会」とは違った団体のようです。


▲中日美術 中華民国13年(大正13年・1924)6月10発行
レファレンスコード;B05016015300

中日表紙1**中日美術表紙**中日見出し**中日奥付



▲大正12年8月17日 東京朝日新聞

T12中日美術**T12中日倶楽部

〖我国一流の美術家を網羅して
 
  中日美術倶楽部

が愈本部建設に着手 

昨夜築地上海亭に委員会〗

大正9年4月
 
 創立された

 中日美術倶楽部

は今回その本部を建設する委員を挙ぐる迄に進捗し

同会主事石野哲弘氏は去る七日上京以来

八方奔走してその趣旨を各関係方面に諒●を求めた結果

昨十六日夜築地上海亭に其第一回建設委員会を催した

黒田清輝子、正木美術校長をはじめ小堀、岡田、朝倉、藤島、

佐藤、矢澤、田中、山内、増田の諸画伯出席種々協議の上

極力その実現を期す事とし、

日本側からは黒田清輝子を顧問に副会長正木氏、

特別会員として岡田、和田、川合、横山、高村、中村、松岡、藤島、

小堀、朝倉、下村、新海の我国一流の芸術家を網羅した

建設さるべき中日美術倶楽部は澤田泰●氏の設計になり、

フランス近代式に東洋風を加味された極めて現代的様式で、

その内容 日支両国の新古美術品陳列場、展覧會及講演会場の外に

一の社交機関として談話娯楽室等も設け其他日支両国 関する

一般●資料等 蒐集して両国国民生活の諒解と且つ親善とを促すべく

期せ●れ 銀三十万元の予算の下に既に上海新公園裏にその敷地も選定されている

此の企画は一つの理想的対支文化運動として各方面から賛同せられ

小村欣一侯や 張駐日代理公使等も種々の便宜を計り

日華実業協会其の他諸団体も極力その達成に援助している】


 「中日美術倶楽部」「中日美術協会(中日連合美術展覧会)」 は、

荒木十畝や渡邊晨畝らの読画会が中核となって推進している

 「日華連合絵画展覧会」 とは違った団体のようです。



▲大正11年5月3日
 読売新聞
T11,5,3読売**T11,5,3 ②

日華連合展

呉昌碩氏の廿餘點並に参考画帖巻類が

まだ着しないので三百点近くのChina

画の半数程を見る◇湯滌氏はたゞ一点

あり陳衡格氏は『富貴神仙』『秋山』双

幅等花卉を描かせては昌碩に柔か味を

もたせたような作風である◇王夢白氏

の『枯荷』『鶉』等いい味のものが多く

白石山翁(*Author;齊白石画伯のこ

とのようです)の印象的な諸作は新味も

あり気持がいい◇簫俊賢氏の『寒林図』

呉煕曾氏『山亭秋霽』は其代表的なもの

らしく馬晋氏の『柳蔭五馬』は矢張り新

傾向に属する◇金紹城氏の『空亭竹樹』

陶氏の作など賑かだがこれに引代へ

八十點の日本側の出品は振はない事夥

しい◇鞆音氏の『阿倍仲麻呂』

十畝氏の『春暖』

頼璋氏の『吟行』等が見え玉堂、

翠雲、秀畝、九浦、龍岬氏等の出品があ

る筈だ◇こうした展覧会の性質上もっ

と広く精粋を一堂に集めて欲しかった

(十五日迄東京府商工奨励館)
<2010・8・5追加>


▲大正11年5月6日
東京朝日新聞
T11,5,6東朝**T11,5,6 東朝

【本文】

第一回 日華連合絵画展覧会
大正10年に青島・北京で開催しました日華連合絵画展覧会を
第1回」として起算しますので、
 大正11年の日華連合絵画展覧会は「第2回」となる筈です、
 此の記事は「第1回」としています。です。

China畫壇の現状は吾々一般には全く知れていないので

それがわかる丈でもこの展覧会は有難いと思って

大に期待して出懸けたが、

まだ上海の方のは荷が着いたばかりで整理中との事に、

北京の画家の作のみしか見られず 

全部で四百十二点、中三百二点が北京の方の出品との事

だから大部分には違ひないが大抵小幅で、

力の籠った大作はなく、期待は全然裏切られた、

金紹城、陳衡恪、凌文淵諸大人の作は多く、

金氏などは一人で二十点も出しているけれども

余り感服できない。

陳氏の作では秋崖独嘯渓邊春事を佳とし、

陶鎔氏の三春図、三秋図、十分春色、繍毬桃花木蓮等

から推せば着彩に妙を得、

一流の密画花卉を以て鳴っていると思はれる。

穏健な風格をもっている秋湯滌も一方の大家

と聞いたけれども一点しか見ないので大きな事もいへぬ。

乍併、齋黄氏 (“黄”は王篇に黄が付いた文字・齊白石画伯のこと)

の「桃花塢」は気韻に富み色も面白く滲み込みに

何ともいへぬ味がある

何の恐れもなく場中での傑作の一と云ふ事が出来ると信ずる。

陳年氏の作は文人画風のもので何れも賞するに足る

就中「黄巻青鐙」「墨荷」「春林曲塢」「茶熟菊開」等の

韻致に至っては群を抜いている。

この画家の作は以前白木屋で見て其当時推奨した事があると覚えている。

花卉は一体に呉昌碩の影響を受け而も至らざる底のものである。

変ったのは馬晋の朗世寧張りの馬の図で、

これも彼に及ばざる事遠い。

梅蘭芳や徐大総統の小品はたゞ人によって興味を生ずるに過ぎぬ。

参考品に見るべきもの多少あり、

呉昌碩の作が二十点許出る筈であるから更に見直すかも知れぬが、

日本人の作に至っては言語道断、

よくこんなもので済まされたもの

と見る方が愧しくなる。

(十五日まで丸の内東京府商工奨励館)


大正11年(1922)国立公文書館アジア歴史資料館
大正十一年五月開催 日華連合絵画展覧会報告(外務省用紙)
レファレンスコード;B05016015300
T11燕楽軒**T11燕楽軒2
△大正11年(1922)5月開催 日華連合絵画展覧会報告
「日華連合絵画展覧会開催次第報告併に北京代表画家滞京日程」には

下記のような注目すべき空白の月日があります。

「我が大日本帝国と、一葦帯水の中華民国両国芸術が、
互に相提携して、東洋美術の振興を図り延いて
両国親善を弥が上にも深からしめん
との目的を以て生れたる、

日華連合絵画展覧会は、

豫期の如く大正11年5月2日より15日まで

東京府庁内商工奨励館に於て開催、非常なる盛会裡に会を終り、
第2回としては先づ良好なる成績を収め得たり、以下其の経過大要を左に記述す。

 昨年11月より12月に亘り、

予て主唱者の一人たる渡邊晨畝氏が、北京及び天津に於て、
我邦より携えたる東京画家数十氏の新作画を、
現代China画家との新作画と共に陳列して、
試験的に展覧会を開き、予想外の好評を博し、
之が為めChina側に於ても、愈々正式に
第1回日華連合絵画展覧会を開催するの意向を伝えたるより、

同氏は本年2月其の快報を齎して帰朝し、

之を発起人たる川合玉堂、小堀鞆音、小室翠雲、
荒木十畝の四氏に通し同時に展覧会開催と共に来朝すべき
China画家一行の歓迎方法其他に就いて協議する處ありたり。」

【此処に於て先づ当時の関係者に対し、Chinaに於ける成績を報告し

同時に渡邊氏が労を犒うべく  月  日

本郷三丁目燕楽軒


に於て渡邊晨畝氏歓迎慰労会を開きたり、・・・・・】

とあります。

私共が注目しましたのは「  月  日」が空白なのです。

この空白の「  月  日」は次の新聞記事で埋まるのではないでしょうか?

大正11年2月16日  東京朝日新聞

〖学芸たより〗

T11燕楽軒東朝日_0001**T11晨畝燕楽軒

【○渡邊晨畝氏 歓迎会が荒木十畝氏発起で十七日午後五時

 本郷燕楽軒で催される】

上記新聞記事による「月日」が、外務省公文書の「空白の月日」を埋めるのであるならば、

もしそうならば私共は「空白の歴史」を文字通り埋めた事になるのでしょう。




≪ China女高師生 来日 ≫

▲大正11年5月4日 東京朝日新聞
T11,5,4支那女学生_0003**T11,5,4支那1**T11,5,4支那2

▲大正11年5月4日 読売新聞
T11,5,4読売

▲大正11年5月14日 東京朝日新聞
支那女学生見学**支那女学生2

▲大正11年5月15日 東京朝日新聞
支那女学生新聞社**支那女学生新聞社2



▲大正11年6月9日 東京朝日新聞
T11,6,9青楓②**T11,6,9青楓

大正11年6月9日 東京朝日新聞
〖美術雑感 懶青楓〗

日本とChinaと合同社展覧会を見た。

たいして面白いものはなかった、

然し日本の畫とChinaの畫とを一處に集めて

見ると頗る面白い、日本人の畫は塗った

ようだし、China人の畫は矢張筆で描い

ているようだ。China人の畫は随分型に

はまった伝統的なものだが描いている

ことは確なものだ、日本人の畫は型を脱

しようとして随分苦しんでいることは

見えるが決して描いていると云う気持

ちはしない、染物の更紗でも作るように

皆塗っているんだ。実につまらない。

ことに塗ったものを一度洗い落したようで

影が薄い。どちらも欠点だらけだが

China人の方がまだ見ていて気持ちがいゝ。

参考品の龔半千の山水帖は面白かった、

真贋は元より別として、真剣な態度で畫

を描いている。

朗世寧の畫は今の時代に見ると余り面白くない。

洋画的写実の教練を経た、西洋人が

毛筆であんなこまかな写実畫を

描き出したと云うことは昔としては

驚異に値する仕業かもしれないが、それは

只珍らしかったと云う丈に止まって芸術品としては

渾然として完成の域に到達していない。

概念的芸術の反動として

起こった場合には貴重なものかも知れ

ないが今日のような、便利な時代東西の

芸術が自由に研究出来るような時代、

そして一班の思潮が総ての伝統を破壊し

てそこに何等か先人の未だ知らなかっ

たものを建設しようとしている時代に

とっては一向に面白くない。つまり低級

な洋画の写実をやったものが毛筆の手

法を覚えれば誰でも出来るからだ。

新作の方で呉昌碩の畫も無論あったが

それのお弟子の様なのも大分多かった、

自分は呉昌碩よりもお弟子の方を面白

く思った。呉昌碩の畫は少しうるおいが

足りないばさばさしている、そしてやり

なぐりが少し強ぎる。自分は呉昌碩より

も趙之謙の畫の方が好きだ、呉昌碩は決

していゝものではない。】


▲大正11年6月10日 東京朝日新聞
T11,6,10東**T11,6,10東朝

〖美術雑感 (下)懶青楓〗
日華連合展覧会の少し前に

両国美術倶楽部で

書道及畫道と云う雑誌社の主宰で

China古書画の展覧会と云うのがあった、

実に驚く程つまらなかった。

ふれ出しが非常に大袈裟だったから

つい行って見たのだ。

上下一千年間の古書画を網羅し

その神品逸品は人をして驚嘆せしむると云うのだ、

実にふれ出しの大袈裟なのに反比例する程くだらなかった、

然し顔触れは何れも堂々たるものでいかにも神品逸品がありそうなのだ、

藍田叔とか張瑞●とか董其昌とか王石谷とか邸板橋とか

沈石田とか云う類の大家の名前丈を網羅している。

実に人を馬鹿にした展覧會だった。

 フランス現代の畫の展覧会を二三度農商務省に見に行った。

面白かったけれどちっともいゝものはない、

西洋人にはとてもかなわない、

まねが出来ないと思うようなものは一つもなかった、

まねをしてやって見ようと思えばどれだって出来そうなものばかりだ、

素人だましのようないやに低級なものはないが

吾々黒人が頭を下げるようなものはありやしない。

 いつか我孫子の志賀直哉氏の宅で

宋時代の蓮に鷺の畫を見せて貰った、

その手法は銭舜挙か徐煕を思わせるようなものだった、

そして可成の大作だった。自分は非常にうれしかった、

どうよかったかをそれを見ない人に

言葉で自分は説明することを知らない

が兎に角結構なものだった、あゝ云う畫

をいゝ座敷において茶でも呑んで静か

な気持ちで一日ながめくらしたい。自分

はたった一點でいゝからあれ位の程度の畫を年に三度位見たい。

富田渓仙氏の個人展覧会を見た、可成骨

を折ったものがそろっていた。却々器用

な人だ。どれでも相当に面白かった、然

し欲を云うと品が少し足りない畫だ。

天人とか・・・明王とか云うものを材料

にした畫がだいぶあったがどうも滑稽

臭いのが欠点だ。(大正一一、六三、

晝寝から醒めてかく)】


▲大正11年5月20日 東京朝日新聞

T11,5,20日華展金氏①**T11,日華展金氏一行②

▲大正11年5月9日 読売新聞
T11呉杏
▲大正11年5月9日 読売新聞
T11会の消息


▲大正11年5月20日 東京朝日新聞
〖美術界〗
【◇日華連合絵画展は十五日に終了

 金 氏一行の為に

 二十日正午上野精養軒に送別宴が開かれる】


◇大正11年3月 美術之日本
T10,3月号美術之日本**T11,3美術之日本②

大正11年3月 美術之日本
〖△日支聯合大展覧会〗

過般 北京及び天津に開かれた

  日支聯合美術展覧会

 が非常な成功を見之が動機となって

今後China側から北京天津を初め南方の一流大家が打揃って

桜咲く日本に来り其の作品と古名画名幅を携え来り、

日本側からも川合玉堂、小堀鞆音、荒木十畝、小室翠雲

の諸大家に京都側竹内栖鳳、山元春挙の両巨頭加わり、

更に美術院の横山大観、下村観山の両氏も参加することなるべく、

右の諸氏を発起人とし東京画壇の中堅五十余名を評議員として

愈々四月中旬から日支連合の美術展覧会が開催される事となり、

目下会場の選定等に八方奔走中であるが、

来朝のChina画家は

 金紹城、

 王震、

 湯滌

其他十名位に達すべく、

一行は四月五日北京出発十二日神戸着の予定

尚上海の老大家呉昌碩翁は今年七十九歳の老體のこでとあるから、

或は作品のみで自ら来朝は出来ぬかも知れない。

  以下略 】


▲大正11年(1922)12月14日 東京朝日新聞
  回想の美術界(上)仲田勝之助
T11仲田、日華展**T11,仲田、日華展2

【 ・・・前略

 五月、日仏交換展覧会のわが美術品が仏蘭西のサロンに陳列されて公開された頃、

恰度わが農商務省商品陳列館には仏蘭西のデルスニス氏の将来した

現代仏蘭西美術展覧会

が開催された。

全く、予期しなかった丈けそれ丈け大なるセンセーションを

わが美術界に興した。

それと時を同じうして

日華連合美術展覧会

が催されたが、これは又予期に反して振るわないものであった。・・・ 】


▲大正11年5月6日 東京朝日新聞
 〖 平和化されたクルップ工場 伯林にて 関口 泰 〗

クルップ工場_0001**T11,5,6 東朝_0001**T11,5,6
△大正11年5月6日 東京朝日新聞〖平和化されたクルップ工場 関口泰〗
【独逸国民は戦争で仏蘭西に負けたとは思ってい
ない。実際仏蘭西となら今でも戦って勝てると 
いっている人もある。
英国が助けたからだ、米国が出て来たからだ。 
仏蘭西だけと戦える機会を待っているのだ。
その機会は日米戦争だ。
米国が日本と戦う、
英国は仏蘭西を助ける事が出来ない。
それが此の夏時分の空気であったらしい。
本屋には『1925年仏蘭西の滅亡』だの
『避くべからざる日米戦争』だの
という本が目立つ様に店に列んでいた。


≪ *大正12年の関東大震火災の前年(大正11年)にも地震報道があります。 ≫
▲大正11年4月27日 読売新聞
T11地震読売

▲大正11年4月27日 読売新聞
T11地震グラフ

▲大正11年4月28日 読売新聞
T11英太子


大正12年(1923

日華連合絵画展覧会

準備工作記事と関東大震火災(9月1日)


『 国技館炎上・』西沢笛畝作
T13震災笛畝**T13震災笛畝1**T13震災笛畝2
△大正12年(1923)『 国技館炎上 』西沢笛畝作 平成7年(1995)9月号「 芸術新潮 」
▽西沢笛畝は、荒木十畝が主宰する画塾「読画会」の会員です
『 離騒社は早くも東京での最初の展覧会「震災スケッチ展」を開催・・・』〈 日展史 7 〉
・離騒社は西沢笛畝が中心となって活動しています。


▲<日本画大成 大正篇(三)>昭和 8年(1933)4月14日発行/東方書院
大震災1_0001**大震災2**大震災3**大震災4

関東大震火災

“日本畫大成・大正篇(三)/昭和8年4月14日発行” 

〖美術界に大きな動揺を与えたものは、

何と言っても此の関東大震火災である。

関東大震火災は、全国的なものではないが、

日本の中心である首都の崩壊であるから、

その影響は全国的であった。

この惨害は余りにも大きかった。 

この余りにも大きかった惨害の原因は、

地震の国でありながら、地震を忘れていたことに、

最初の指を折らなければならない。


市河米庵の息萬庵は、

東京に自分の文字を残すことを嫌って、

その作品は多くは地方に保存される方針を取った。

これは東京は江戸以来、

地震と火事が名物
であるから、

この名物を持った土地に作品を置くことは、

後世に伝わらない恨みがあるから、

東京に置くことを避けたのである。

遉がに萬庵は江戸時代からの

地震と火事に対する訓練を得ていた。

大正十二年度に於ける東京の作家に、

萬庵の警戒振りの十分の一でも

あったものがあらうか。

それは勿論無かった。

そして所謂る都落ちをした、

いの一番は藝妓と畫家であった。

敏捷な畫家は東京がまだ燃えているうちに、

地方へ行って仕舞ったものもあった。

震災直後に於いて、東京の畫家の数は

非常に減少した。これは無理のないことで、

灰の中に畫の必要はないからである。

東京は灰になって、畫の需要がなくなったから、

彼等は地方の需要に応ずるために、

いづれも地方に根拠を築いたもので、

言はゞ灰の中で生活のなし得られるもの

だけが残っていたのであった。

 政府は、世界日本の顔にかけても、

復興に鋭意努力したが、

一度灰になった東京が、

容易には花やかな姿に立ち歸る

ものでないといふ作家らしい観察と、

東京は地震には不安の地区であるから

遷都すべきである

といふ遷都説などが、彼等を灰の東京に

留めなかった原因になったことも事実である。

震災直前は下谷区だけで一万乃至二万

の画家がいると概算されたものであるが、

震災直後は東京全部で下谷区の一万

乃至二万の画家であらうと概算された。

それ程に激減したのである。

 画家が激減して、

 何等の不自由を感じなかった

 灰の東京は、

 寧ろ本当の実生活に入った感があった。  

必要なだけの生活で、事が足りていた。

絵画は決して物質的な実用生活に必要なものでない

ことは、灰の東京に於いて体験されたことである。

それは取りも直さず、絵画が物質的に必要なものでないことであって、

その必要は精神的に於いてゞあることである。


然るに近代の如く

  物質的絵画のみの大量生産があって、

  精神的絵画のこれに比較して

  殆ど絶無と言ってよい状態は、どうであらうか。

  物質的に不必要で、精神的に何等の効果のない絵画

を奨励すると言ふことは、日本の福利でないのである。

政府の奨励している絵画は、この不必要な物質的絵画である。

この物質的絵画は、絵具や絹地に費用を掛けて、

安価な技術を誇る絵画で、更に枠張り装飾や、

屏風といふ道具に費用を掛けて體面を飾っている絵画である。

材料と道具と技術によって、表面を飾る絵画の跋扈は、

それらに関係ある少数の人々は利益を得ても、

それらの人以外の世間は、何等の利益も与えられないのである。

即ちそれらの人以外の世間には不必要な代物であるのである。

  新畫株券時代は、

  大正九年四月からの

  経済界大恐怖時代

  に遭遇しても、

  この不況は遠からず恢復するであらうことを期待して、

  尚ほ一縷の希望を繋いでいたのであったが、

     関東大震火災

  によって、この夢は消えて仕舞った。


そして小品畫の流行が以前よりも盛んになった。

小品畫の流行は、不必要な物質的絵画を

極端に縮小したものであって、

経済的に多少の理解は得たものゝ、

精神的には猶ほ何等の覚醒も得なかったのであるが

不必要な物質的絵画が面積を縮小したゞけでも、

それだけの意義はあるので、

新畫株券思想の消滅と共に

これは関東大震災の賜ものゝ一である。〗

以上、“日本畫大成・大正篇(三)/
昭和8年4月14日発行”の大正篇概説・飯塚米雨 著 /
P13~P14 を転載しました 2009・11・27

2011・3・28追記
「十三松堂日記」(東京美術学校校長正木直彦氏の日記)
△大正12年(1923)9月1日 関東大震災
△大正12年(1923)9月27日 強震と荒木十畝の妻 鈴子(荒木寛畝の娘)の葬儀
△大正13年(1924)9月18日 荒木十畝の再婚と強震
関東大震災_0001 **十畝妻葬儀**T13,十畝再婚 余震

2011・4・12追記
△昭和7年7月9日「十三松堂日記」
マッコイ将軍
 
昭和7年7月9日
『朝 日本赤十字社副社長中川望氏来訪 

国際連盟調査団の米国マッコイ将軍

曾て比律賓総督たりし時

大正十二年の大震災に最先に比島より

救援艦隊を派し又東京横浜の惨況を見て

米国に打電して救援を為さしめ

特に多数の組立家屋衛生材料を寄贈したる

ことある親日の人なる故

今回日本赤十字社は閑院総裁宮 

社長徳川大公爵 副社長徳川公爵 

中川望より将軍を主賓として

閑院宮家にヂ子を催さるゝにより

席上畫を以て興を添へたし 

其畫史の人撰をといふことなりしを以て

池上秀畝氏然るへし

といひ中川氏同道池上氏を訪ひて

此事を話し同氏の快諾を得たり』 
とあります。
(マッコイ将軍は、第2次大戦の敗戦後に設置されたGHQ司令部よりも上位の機関である極東委員会議長マッコイ将軍として下位機関である日本占領軍最高司令官のマッカーサー元帥と戦後の日本の国づくりに献身的に活躍されました。)


◎国立公文書館アジア歴史資料センター/
レファレンスコード A03021470000・A08072014300とA08072018700

勅令1**勅令2

**T12.jpg**大震災2**大震災3


▲大正12年6月30日発行
 
<美術之日本>

秀畝中国行**秀畝中国行②

〖 命拾ひの写生旅行 池上 秀畝 〗

【 予想していた以上に写生の獲物は沢山

でしたがその代りに もう すんでの ことに

人質に取られる處でした

あの臨城の土匪にですよ、人間の運命と

云ふものは何処で何うなるものかわかった

ものでないと云ふ事をつくづく感じさせられて仕舞ました。

上海から上ってChina南大陸の自然に親しみ

写生帖の数を好い加減ふやし、いざこれから

北京へ向かって北大陸の景象を彩り入れるべく

南京の川向の浦口から天津、北京へ通ずる

津浦鉄道に乗らうと、

之が出発時間を先月の五日の午後五時の急行

をあてゝいたのです、浦口から北への直通列車は

朝の九時半の普通列車とこの急行車の二つしかない、

とその朝です、北へ大跨を踏むのは

何だか気が進まない、それに途中一つ泰山の

高きに登ってChina人の言ひ草ではないが

四百餘州を小なりと見てやらうと斯う決めて、

夜の急行を朝の普通列車に振りかへた、

と戸外雨車軸を流さんばかりでいつかな

停車場へ體を運ぶにも運ばれないと云った調子、

やっとの事思ひ通りにその列車に投じたのです、

然しよく考へ合わせて見れば、

その列車に投ずるべく自分は目的以外の

何物かに唆られていたんです、

途中臨城のあたりを通ると窓外何となく

静まり返って妙に斯う「悲涼」とでも云った

やうな感じを犇々と受入れたんです、

まさか数時間の内にあの土匪の列車襲撃の

場面が描かれやうとは露知らないで

「臨城で外国旅行者の群が土匪に掠はれた」

とは北京へ這入ってから聞いたのでしたが、

その列車は私が最初の旅程に書入れた

あの急行車だったのです、

私の乗った普通車が臨城を通る時分には

もう後の急行車はずっと私の列車に近く

追ひ付いて来ていたのです、

此の二つに一つの列車にまつはる運命が

私が今日無事に東京へ帰らせて呉れている

とは全く人間意志以外のはからひであったとしか思へません。

臨城にたくまれた恐ろしい罠には

かゝらないですんだものゝ

それより前き西湖を写生しやうと杭州停車場に

降りた時です、

そこに饑えた猿の様な表情をした一団の

Chinaの若者がどっとばかりに降客を取り囲んで

何やら叫びざま、猿臂をのばしざま降客の

荷物を引ったくったり懐中を改めにかゝるのです、

おやおや大変な事になったものだと

思はず立ちすくみましたが

一つにらみを利かしてやれと

私は持ち合わせと云ってはおかしいが

腮髭をしごきつゝ眼をむいてじっと睨み付けました、

後から思へば芝居の舞台に役者になった様な

ものですが―、と私には一つも手出しをしません、

居合わせた他の日本人にもです、

ハテなと思って相もかわらず睨みを利かしていると

どうです、そこに降りたChina人の持参品の検討をして

日本製の物と見れば何一つ用捨せず

片っ端から引きさいたりむしったり、


又はマッチを點じて―それでもそのマッチは

日本製のでした様ですが―焼くのです、

で始めて之がやかましい

   日貨排斥

だなとわかって私は思はずむっとすると同時に

   China人は気の毒だ

との感じにはさまれて涙ぐんだのです。

北京へ入って五月七日、それが又例の

   二十一カ条問題

からの

   國恥記念日

とあって、市中を歩いて眼に入るものは

その「國恥記念日」のビラで、電信柱一つ

餘さずに貼られ

又そここゝで学生達が団をなして

日貨排斥の演説をするやら

China人の商店で日本品を商っている処へ

飛込んで有無を云はせずその品を掠め出したりなど、

もう全く日本人の眼には痛いことばかり、

実にまざまざしい日本商品の侮辱でした、

丁度此日、臨城の土匪事件があからさまに

騒ぎ出されたので、それとこれとが一緒になって

そゞろに暗澹たるものがありました、

聞いていたChinaと見たChinaとの相異、

恐らく物の相違として此の位甚だしいのは

ないと思ったのです、

そして深く日本人としての考へを考へさせられたのです、

帰りがけ、九州の別府で和田豊治さんの別荘に

泊っていられた

   久邇父宮、

   良子女王〖のちの香淳皇后〗

両殿下に写生帖を御覧に入れた際に、

私はその事をお耳にいれましたところ、

両殿下には深くうなづかせられました、

写生と命拾ひと、日貨排斥の目堵と

此の三つの土産は私には何れにして

何よりのものでした。(中央商業) 】

〖 命拾ひの写生旅行 池上 秀畝 〗転載終了


▲大正12年8月17日 東京朝日新聞

T12中日美術**T12中日倶楽部

〖我国一流の美術家を網羅して
 
 中日美術倶楽部

が愈本部建設に着手 

昨夜築地上海亭に委員会〗

大正9年4月
 
 創立された

 中日美術倶楽部

は今回その本部を建設する委員を挙ぐる迄に進捗し

同会主事石野哲弘氏は去る七日上京以来

八方奔走してその趣旨を各関係方面に諒●を求めた結果

昨十六日夜築地上海亭に其第一回建設委員会を催した

黒田清輝子、正木美術校長をはじめ小堀、岡田、朝倉、藤島、

佐藤、矢澤、田中、山内、増田の諸画伯出席種々協議の上

極力その実現を期す事とし、

日本側からは黒田清輝子を顧問に副会長正木氏、

特別会員として岡田、和田、川合、横山、高村、中村、松岡、藤島、

小堀、朝倉、下村、新海の我国一流の芸術家を網羅した

建設さるべき中日美術倶楽部は澤田泰●氏の設計になり、

フランス近代式に東洋風を加味された極めて現代的様式で、

その内容 日支両国の新古美術品陳列場、展覧會及講演会場の外に

一の社交機関として談話娯楽室等も設け其他日支両国 関する

一般●資料等 蒐集して両国国民生活の諒解と且つ親善とを促すべく

期せ れ銀三十万元の予算の下に既に上海新公園裏にその敷地も選定されている

此の企画は一つの理想的対支文化運動として各方面から賛同せられ

小村欣一侯や 張駐日代理公使等も種々の便宜を計り

日華実業協会其の他諸団体も極力その達成に援助している】

◎国立公文書館アジア歴史資料センター レファレンスコードB05016015000
▲大正12年(1923)1月「中日美術会館建設趣意書 上海 中日美術協会」
*「中日美術会館」建設を予定する上海 「中日美術協会」は、荒木十畝画伯主宰の「読画会」が中核となって推進する「日華連合絵画展覧会」とは違った団体です。(Author)
T12中日美術会館表紙**T12中日美術会館表紙_0001**T12中日1_0001

**T12中日2_0001**T12中日3**
〖 喧嘩両成敗と云うこと 〗
日華両国はどこまでも相互扶助のもとに共存せねばならぬことは、今更事新しく騒ぐ問題ではないのであります。然るに両国人の間には何んとなく奥歯に物が挟んだ感が事々に生じ、殊に中国人が何事に依らず日本とし云へば排斥して掛ろうと云う態度を採るのは亜細亜の将来に甚だ面白からぬ結果を生ずるものと言わねばなりませんけれども日本人は日本人で直ぐそれを怒ったり無闇に恐れたりしないで、何処までも其の訳を正して好く良解を求めて互に各人が個々に握手するように心掛けて国家百年の計画を立てるのが最も必要なことであります。然し人間が喧嘩をするのは必ず相方に理由があります、その理由が相互に了解出来て成程此れはアブ蜂とらずだと解かれば何も始めから喧嘩をする必要はないのであったのであります。今の日華両国の状態がそれなのであります。尤も日本の方は喧嘩をするのは虻蜂取らずだとチャンと解って居るのでありますが、中国人の方はまだまだなかなかそれが解らないのであります
。もともと日華両国間に此の悪感情の生まれたと云うのは全く欧州戦争勃発からのことであります、それ以前の両国の握手は実際欧米各国人の羨望の標的となって居たことは事実でありました。
それが独逸を攻撃するのに米国等が東洋に使った宣伝が余り中国に効きすぎて遂に中国人の頭に日本はChinaを取るのだ、亜細亜の独逸だなどと云う考を抱かせたからであります。それには当時日本にも二十一か条と云うような露骨なものをピカピカ輝らせたものだから恰度うまい具合に槍玉に上げられたのでありますが、その二十一か条も大半無効となった今となっては十分に日本の真意は解らなければならぬのであります。然し喧嘩の起りが果して此んなに簡単なものであるならば、そう根強く持続するものではありません、それには両国人間に言葉では表わし得ない無形の感情が知らず知らずの間に積もり積もって出来上がって居ったに違いありません、例えてみれば、過去五十年間日本人は只もう欧米の文化に心酔して隣邦中国のあることを忘れ殊に日清日露両戦後Chinaは弱国である、China人は毛がらわしい下等な国民であると云う先入主が日本国民一般に出来上り、何によらず南京物といえば日本より劣るのだとの考えを以て中国人に接し、中国人は中国人で最近急速に欧米の文化が自国文化を圧倒するのを見て一も二もなく欧米に心酔して漸く亜細亜に日本のあることを忘れようとし日本人は金なしだ傲慢だ礼儀しらずだなどと考え始めるに至って、互いに日本は日本、中国は中国と云った風にそれぞれ自分の立場ばかり考えて矢鱈に欧米の文化に心酔するからであります。然し一方から見ると此の数年来欧米文化の急にChinaに殺到した事実を物語るものであり、政治界と云はず経済界と云はず乃至学術界と云はず、日々に欧州化して行って居ることを証明付けるものであります

T12中日4**T12中日5**T12中日6_0001**

T12中日7_0001**
【 ・・・そして大正11年2月猶ほ排日の聲は至るところに聞く間に在って第1回中日連合美術展覧会を上海に開催しました、・・・・】

『 この年、大正11年5月1日から15日迄東京府商工奨励館に於いて,
第2回日華連合絵画展覧会(代表者 荒木十畝)が開催される。』

T12中日8_0001**T12中日9_0001**T12中日10_0001**T12中日11_0001**T12中日12_0001**T12中日13_0001**T12日中14-1**T12日中15-1**T12中日16_0001**T12中日17_0001**T12ちゅうにち18**T12ちゅうにち19_0001**T12ちゅうにち18左の頁**T12ちゅうにち20_0001**T12ちゅうにち21_0001**T12ちゅうにち22_0001**T12ちゅうにち23_0001


▲ 国立公文書館 アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016015000
「横山大観、下村観山両氏宛各通」/ 「竹内栖鳳、山元春挙両氏宛各通」
大観**栖鳳


▲ 国立公文書館 アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016015000
「外務省側よりも何分の援助を受けたき旨(関係者より)当省に願出これ有りに就き(元来?)本件事業の如きは其の性質上何等政治的色彩を帯びざるのみならず日支両国文化の接近了解を助長し自ら両国官民の親善提携に貢献する所・・・・」
T12吉田公使1**T12吉田公使2**T12吉田公使3
△小村参事官の処遇 国立公文書館 アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016015100
T12小村1**T12御願公文書**T12御願1**T12御願2


▲(中日美術会館設計図)
◎国立公文書館 アジア歴史資料センター
レファレンスコードB05016015300
中日美術会館設計図

中日美術沢田1**沢田2**沢田2_0001
B05016015000を御参照下さい


▲中日美術協会の会則と沿革
◎国立公文書館歴史資料センター
 レファレンスコード;B05016015000


中日美術協会会則 大正12年(1923)1月
中日規則**中日規則2
中日美術協会会則
名称
第1条 本会は中日美術協会と称す

目的
第2条
 本会は中日両国芸術家の提携親和を謀り互に両国美術の向上発達を期するを直接目的とし従って之に因り 両国の文化的結合と民衆の融和を促成せしめんとするに在り
 本会は目的を果たすため左記の事業を行う

一、毎年一回又は随時 中日連合美術展覧会を開催す、展覧会会則は随時規定す

ニ、中日両文よりなる雑誌月刊『中日美術』を発行し、内春秋2回に限り会員に無料配布す

三、随時両国の名士に委嘱して芸術に関する講習会を開く

四、両国にある本会会員が相互に旅行往来する際は本会は諸般の便宜を計る

五、適当の時期に於て上海に中日美術会館を建設す、同会館に関しては別に細則を規定す

組織

第3条
 本会は中日両国人の会員により之を組織す

*「 中日美術協会 」は、『 日華(中日)連合絵画展覧会 』とは違う団体です。荒木十畝や渡邊晨畝が所  属する読画会が中核となって推進する『 日華(中日)連合絵画展覧会 』とは違う団体です。


中日美術協会の沿革
中日沿革_0002**


▲石野哲弘氏の事
T12大震災石野
大正12年9月2日(十三松堂日記・正木東京美術学校校長の日記)
「前略・・・・・避難者中に中日美術協会幹事石野哲弘あり 避難民を説得し自ら団長となり自衛団を作り強壮者夫々分担し夜警炊事救療等に従事し・・・・」

 「中日美術倶楽部」「中日美術協会」「中日連合美術展覧会」「中日美術(雑誌)」「中日美術会館」 は、

荒木十畝や渡邊晨畝らの読画会が中核となって推進している

 「日華連合絵画展覧会」 とは違った団体のようです。







【 日華(中日)連合絵画展覧会に登場する中国側要人 】

◇大正10年10月30日 東京朝日新聞

T10,周自齊①

周自齊氏を訪ふ 一日横浜出発〗

【二十八日神戸上陸の太平洋会議に列する

China最高顧問前財政総長周自齊氏は

廿九日より國府津より自動車で箱根環翠楼に至り

秘書李氏と昼餐を共にし再び自動車で強羅に赴き

秋色を探り午後八時来訪の

 胡 駐日公使

と長時間に亘り何事かを密談し居し為李秘書が代って語る 】


◇大正11年(1922)12月8日 東京朝日新聞

顔氏①**顔氏③

▲大正11年(1922)12月8日 東京朝日新聞
*〖 珍品を携へて 遊びに来た馴染の顔氏=China公使館内で展覧会を開く
◇出来るだけ大勢に見せたいと 〗
Chinaの国学者で画家でまた蔵書画家たる
広東連平の

 顔世清氏(がんせいせい)は

先頃の

 日華連合絵画展覧会

に自作二点を出品した人である、
氏は今度◇突然日本旅行を思い立ち其序に
自ら営む蔵庫『寒木堂』から古名書画百三十点を持ち来り
目下China公使館に滞在中であるが
茲一週間ばかりのうちに同公使館内で二回に分けて
持参書画の陳列会を催し諸名士、専門家を招待して
展覧に供すという
目録によれば全くの名品揃いで 
唐顔眞卿眞書竹山堂連句冊、五代董源設色渓山図巻、
宋巨然設色江山秋●図巻、宋燕文貴賎設色山水巻、
宋釈法能白描水陸●図巻 其他 金、元、明、清各朝に亘る
名家の名作、顔氏が天下の逸品として伝えるものばかりである

▲大正11年(1922)12月25日 東京朝日新聞
T11,12,25顔氏歓迎会

〖顔氏の歓迎会〗

【滞京中の顔世清氏の為に犬養毅、小室翠雲、佐藤安之助

 其他知友の諸氏等は二十四日夜築地精養軒に歓迎会を催したが

 日支の名士書画愛好家美術家数十氏集まり

 日支の文化的親善を欣び合い八時過ぎ会を閉じた】  


大正12年3月20日発行 美術之日本
China.jpg**China公使館②

China公使館に於ける古名書画展観追記
           渡辺晨畝
    □
【 旧冬十一月の末、北京

顔世清氏

より一封の書留郵便が到着した。其の文面には『昨年春の

日華連合展覧会

に渡東する考であったが、時恰かも奉直の戦雲急なるの場合に遭遇し、

遺憾乍ら東京に参って諸公に拝顔するの栄を得なかったのが残念であった。

此度少しく暇が出来たので約一ヶ月の滞在の見込みを以て

観光旁々東京に参り、前年より約束を致して置きたる

自分の所蔵の古名書画百三十点を携へ行き東京に於て

展覧会を開き、日本博雅の君子の清鍳に供したいと思ふから、

其の準備旁々盡力して呉れ』と云ふ意味を記してあった。

其の国宝とも謂ふべき名画を多数携へ来ると聞いて、

所謂大陸人物の態度が見えて先づなつかしく思ふた。

其時自分は少しく不快で休すんで居ったけれども、

氏は前年より親密なる交際を続け、且つ

日華連合展覧会

の為めには非常の努力をして呉れたる

発起人

のことなれば、之れは責任を以て盡力しなければならぬと決心し、

はね起きて外務省に行って顔氏の知人を訪問し、

何か同氏より通信あらざるかと聞きたるに、

何もなしと云ふことであった。

其他実業家方面にも顔氏の知人があるので問ひ合はして見たが、

此処にも通信がなかった。

そんな訳で有力なる相談相手も得られず非常に心配して、

展覧会を開く会場ぐらいは準備をして置かなければ

顔 氏

に対して徳義も責任もないことゝならうと思ひ、それより河合、

荒木(十畝)、

小室、小堀氏等に相談して日本美術協会の会場でも

借りて置く方が宜しからんと相談して

顔氏の来るを待つて居たところ、

十二月五日頃顔氏はChina公館に到着し、

速達郵便を以て自分に着京を知らせたから、

忽惶として公使館に到り、久し振りにて

北京の親友と握手をした時、北京にての想出多く、感慨無量であった。

   □ 
そこで展覧会を開くにはChinaの国宝とも云ふべき

名品のみなれば展覧会場、及び取締り保管等に大責任あり、

甚だ心配の旨を申述べたところ、

China公使 廖 氏

は之れに同情して寧ろChina公使館に於て展観し

日本の公衆の鑑賞を乞ふ方が宜しからうとの申出によりて

相談纏まり、

十二月十七日より二十三日迄China公使館内に陳列して

諸公の清鍳を仰いだのである。

其の展観品は唐宋元明清迄の名品揃ひなれば、

観覧せられし名士君子も非常に満足せられ、

画伯諸氏の参考となったことも少なくなかったであらうし、

又日支国交上にも大に好影響を与へ、又此の挙を御聞き遊ばされて

  久邇宮殿下

も台臨を賜はり、御賞鍳の後

 顔世清氏に

『邦彦王』

と御真筆を賜はり、

 顔氏は感泣して自筆の書と畫とを献納したところ、

  久邇宮殿下

より特別の思召を以て銀盃を下賜せられた。

顔は光栄に浴して感喜したるのみならず、

日本の宮殿下の御高志のほどは

China国民に大に喜ばしい感情を懐かしめることゝ思ふ。

次で顔氏が自分の寶物を自費を以て日本に携帯し、

自費を以て日本公衆の展観に供したるの挙は

東洋美術研究の上に於て貢献する所少なからざるべし

との趣旨を以て外務大臣、渋沢子爵、岩崎男、後藤市長の

招待あり又朝野名士の連合歓迎会あり、

大観、観山、玉堂、鞆音、十畝、翠雲氏等

発起の画伯団の盛んなる歓迎会もあり、

顔氏の厚意に報ふるに至れり盡せりと謂ふべく、

同氏も非常に喜び、大に満足して一月十六日帰国の途に着かれた。

 又此の展覧会中

廖公使は日本の画伯玉堂、大観、観山、鞆音、霊華、映丘、十畝

翠雲及び自分をChina公使館に招待して公使が國より

伴ひ来れる料理人に自慢のChina料理を作らせ

乾隆時代の器に盛り、叮重なる酒肴を備へて

長夜の宴を張られ、快談夜を更かし、其の酒宴中、

公使は美術は国境がない、

日本の芸術家とChinaの芸術家と提携して

年々研究会を東京、北京に開会して

東洋美術の声価を世界に発表する

と云ふ計画は非常に東洋美術の為め、

両国交誼の為め衷心より賛成する所である』

と挨拶あった。

美術が斯の如くして国民と国民との親密なる交際を

結ぶやうになった事は

同種同文の同胞の将来の為め大に慶賀すべきことゝ信ずる。

*本論は〈 補完資料集 〉に全文掲載しています。


▲大正12年(1923)8月17日 東京朝日新聞
△ 梅蘭芳 丈
〖 大倉男の賀筵に遥々来る梅蘭芳 引退の噂をよそにいま箱根の別荘に悠々と 〗
T12中日3
**T12梅蘭芳1**T12梅蘭芳2
**大正11年(1922)第二回 日華連合絵画展覧会 中国側作品
 仏像 梅蘭芳筆 ◎国立公文書館アジア歴史資料センター・レファレンスコードB05016015100
**T11梅蘭


▲大正13年(1924)5月8日 東京朝日新聞

〖黎元洪氏帰国〗
T13,黎元洪②_0001**T13,黎元洪①

大正13年5月8日 東京朝日新聞

黎元洪氏帰国〗

〖〚門司特電〛約半歳に亘り我が国に来遊中であった

 前中華民国大総統黎元洪氏夫妻一行は

 九州一周の遊覧旅行を最後として

 七日門司出帆淡路丸で天津に向かって帰国した〗




大正13年(1924)

第3回 日華連合絵画展覧会 

   < 於 北京 >

 

▲国立公文書館アジア歴史資料館レファレンスコード;B05016015200〖 日支画会創立の回顧 〗渡辺晨畝
△大正13年(1924) 「北京週報」
T<strong>強調文</strong>13晨畝回顧1-1**T13晨畝回顧2-1
〖 日支画会創立の回顧 〗渡辺晨畝
【 私は大正7年の7月日支画会の連絡に関する考を起し、9月北京に参ったのでありますが、Chinaの古名画古美術古建築を見て是れ単に東洋美術として誇るのみならず実に世界の大美術として尊重すべきものなるを感じ、此の如き芸術を有する隣邦と我邦芸術家の接触を為すことの双互に非常なる利益なるを思って、益々画会創立の必要を確信し、

之を阪西秋山等北京の有力者達に諮った所、諸氏も大に賛成し、顔世清、金紹城の両氏に紹介され、私は両氏に会見して懐抱を語ったが非常の歓迎を受け、両氏から其友人の〇陳呉諸氏に紹介されて、其所蔵の名画なども見せて貰ってChina古画の実に風韻に富み雅致の豊かなるに今更感服し、日支の画家相提携して東洋美術の研究に努めたなら東洋美術は将来必ず世界に雄視すべき信念を益々旺んにし、是に於て金紹城顔世清周自齊の諸氏と共に両国の連合絵画展覧会を創立すべき計画を申合せ、さらに他の諸名士にも相談して其の賛成を得ました。

其処で大正8年2月日本に帰り師門の荒木十畝氏に其由を語った所、其れは面白かろうから大いに尽力しようということで、氏と共に日本の諸名家、徳川公、渋沢男其他人々を訪問して賛助を乞った所、何れも承諾を得たので、茲に川合玉堂、小堀鞆音、小室翠雲、京都の竹内栖鳳、山元春挙の諸名画伯を訪問して発起人たらんことを求め、悉く快諾を得て、

8年の秋に展覧会を北京に催そうと、9月迄に出品絵画2百余点を募集し、内150点を撰んで、北京に赴こうと電報を金顔の諸氏に発した所其返事は今恰も学生の猛烈なる排日運動が起って、無理に画会などを開けば会場は或は学生等の乱暴を蒙るかも知れず、斯くして国際問題などを惹起するも面白くないから今暫く時期を待つが宜かろうとのことに折角準備までしたのを見合せることにしました。斯くて9年排日風潮が依然熄まぬので駄目、10年になっても未だ山東問題などで矢釜しかったが、一旦声明した事業を此儘にしては結局不成立に終る外ないから是非決行しよう。其れには万一失敗せば自分一人が責任を負うことにすれば差支ないからと、其処で決死の覚悟をし、費用も一切自費で之に当ることにし、荒木氏の同情を得て、其力によって出品70余点を得、之を携えて単身青島に渡航しました。

同處で由比司令官に会って計画を話した所氏も大に同情されて其勧めによって一応青島で展覧会を試みることにしました。非売品で唯1日開会したのですが、観覧者が意外に多くChina人の入場3千人に達し、画幅購入の希望もあったが、売っては北京で開けぬから謝絶をしましたが、青島の会で前途の成功を信ずるの勇気を生じ、林田副官に頼んで北京各方面への紹介状を貰い、北京に来て公使初め諸方面に希望を陳じChina側にも決心の程を語った所 金 顔の諸氏も日本の同志が其れ程までの決心をして遥々渡来をされた上は、此方も其決心をしようと、排日は終息せざるも兎も角決行に定って、両氏等は種々に尽力をし、11月の23日に漸く南池子の欧美学会に於て連合展覧会を開くことになりました。

然るに時の大総統徐世昌氏は此企を聞いて大いに同情を表し親ら筆を執って絵5幅を作って出品された。総統の絵とChinaの伝来の絵と日本からの絵画とが合せ陳列されて小いながらも有史以来未だ無かった企てが実現される というので、各方面の興味をそゝり開会となるや日支両側の名士達皆観覧に集って門前は自動車の市を為すという盛況でありました。

長い間如何かと思い煩ったことが漸く緒に就いたので、私は生まれて以来此時程嬉しさを感じたことはありませんでした。

総統新総理黎元洪其他各界有力者の絵画売約等も案外多く、日本画1点に100弗以上をChina側で出したことは此会から初めての事であると当時評されました。

先ず望外の成功に勇気を得まして今後は一層の奮発努力をして此会を更に立派に仕上げようと其時大決心を致しましたが、日支両国からは又意想外の歓迎宴等も開いて頂いて私は唯只感謝する外なく、日本に帰って此景況を荒木氏に語った所、氏も衷心から喜んで、翌11年の春東京に連合会を開こうということになり、委員会合協議の上Chinaの画家達を迎えることに決定しました。

併し今迄は自費で致しましたが段々大袈裟になっては容易でないから阪西中将からの紹介で和田豊治氏に後援を頼んだ所氏は大に同情して日華実業協会に相談して同会から3千円寄付をして貰ったので、其れを土台に準備を整えて居ますと4月20日頃金紹城、陳衡恪、呉熙曾の三代表画伯が日本へ出かけて来ました。私は下関まで出迎え、大阪有志の希望で一日同地下車、其れから東京へ直行、5月1日から15日まで東京府の商工奨励会に日支絵画展覧会の第2回を開きましたが、之も非常に盛会で、宮内省御用品を初め諸名士の買入れがあってChina側の絵画だけで1万1千円の売高に達したので、何も金の勘定をする訳ではありませんが、以て日本側のChina画に対する歓迎の意志が明示されたので、China側も大に満足に見受けました。猶其間も有力方面から毎日のようにChina画家の招待があってChina側では非常に感謝を表して居ました。

China画家達は帰途京都に立ち寄った所、其處では荒木大学総長や内藤湖南、竹内栖鳳、山元春挙諸名士の発起で東山に於て歓迎が催され是又盛大を極めました

芸術には国境もないのであるから、何等利権等に関連した事でなく、日支の間にこんな親密な握手の出来たのは今迄にない所であると、各方面から称賛を博して多少苦労の甲斐のあったことを欣びました。

12年になって秋北京で第3回の展覧会を開こうと準備中突然東京の大震災で延期の已むなきに至った所、本年になっては其震災の影響にも屈せず美術家達は努力して1月から準備にかかり4月来燕今度の中央公園の開会となったのでありますが、1回毎に益盛況を見るに至ったことは、私に取っては実に感謝に堪えぬ所で、勿論今日の状態では猶多くの不備も各方面に存する所と思いますが、唯東洋美術の発揚に対する我徒の誠心を汲まれて、日支両方面の有力者の援助を贈り、此会を十分意義あるものに仕上げさせて頂き度いと切望するのであります。(談)】


▲大正13年5月6日 東京朝日新聞
T13,5,6東朝①**T13,5,6
大正13年5月6日 東京朝日新聞

〖学芸だより〗

【◇渡辺晨畝氏 日華連合展覧会の用務を帯びて

 目下北京東城扶桑館に滞在、

 近信に

「日華連合展覧会四月廿四日より

 北京中央公園にて開催候處大盛会観覧者織るが如く

 又売約済●多数有之て

 毎日総理始め各名士の招宴引続き居候

 必ず成功を奏して帰朝可致候 】

(*渡辺晨畝画伯は荒木十畝が主宰する“読画会”の会員です)


△中華民国13年(1924)4月27日〖 盛京時報 〗
〖 中日絵画会 〗
民国13 年(1924 )4 月27日〖 盛京時報 〗-1**民国13 年(1924 )4 月27日〖 盛京時報 〗-2


▲大正13年(1924)5月18日 大阪毎日新聞   
T13,一萬巻①**T13,日華展翠雲帰国**T13大毎一万巻 
大正13年(1924)5月18日 大阪毎日新聞
   
〖一萬巻のChina古書を土産に
  
    小室画伯帰る「日支の親善は芸術から」と〗

【 北京で

  日華展覧会

を開いて十六日夜帰朝した

  小室翠雲画伯

は更に藤島武二氏等と共に

廿日頃満鮮旅行の途に上る筈であるが

今回は一萬巻に餘るChina古文書を購入して

帰った画伯は語る

 日支間の外交が兎角円満を欠く今日では

 芸術に依ってその親善の一歩を進めること

 が極めて効果のあることだと思ふ

  日華展 は

  宣統帝

の居られた社稷殿で開いたのだが
 
  大総統曾錕氏

を初め

  顧維鈞、

  張國●、
 
  顔恵慶氏

等の顕官が進んで私達のために

宴席を設け全く胸襟を披いて歓談した

 日支親善は奈良朝以来文学と美術とを以て

繋いできたものである以上 両国は先づ

この関係の深い芸術方面から進まなければ

ならないことが盛んに話題に上った

 芸術に国境なしの言葉が沁々

感ぜられる 日本から持って往った作品も

一万圓以上Chinaの高官連が好意を以て買ってくれた

又美術学校を経営して居る

  陵文淵 氏

は私達を八達嶺に案内してくれ

又例の

  梅蘭芳

等も一夕会合した

 芸術の理解に依って日支人の理解を計る

ことが最も有意義であり最も効果あること

であるまいか (東京電話)】


〖 申報 〗
img178.jpg

△中華民国13年(1924)4月25日〖 申報 〗
◎中日絵画展覧会消息
第3次中日絵画連合展覧会、・・・】
1924民国13年、4,25申報

△中華民国13年(1924)5月25日〖 申報 〗
◎参観中日絵画展覧会記 王○濤
◎中日絵画展覧会参観記 松盧?
申報 1924,5,25
**申報 1924,5,25 - コピー

**申報 1924,5,25 - コピー (2)


▲大正13年5月8日 東京朝日新聞
T13國恥記念①**T13,國恥①

〖國恥記念日 在京China学生主催で〗

【在京China学生等は七日例の

  國恥記念日

とあって小石川区富阪町聖公会館に大会を催したが

定刻一時迄に集まったものは五十人餘

正面に廿一箇条文を掲げ自由演説や決議に気焔を挙げた】


▲国立公文書館アジア歴史資料館レファレンスコード;B05016015100
中日絵画連合第三次展覧会目録( 於 北京 第3回 日華連合絵画展覧会)
T13図録表紙**T13出品者名1中村岳陵 狗兒**
T13出品者名2++img103.jpg
< 御参考 >
▲読売新聞 大正11年/1922・11月30日
【 最近に結婚式を挙げた美人の画家 大川秀薫さん(27 花菖蒲)と上野秀鶴氏(26 長生鳩) 】

T13出品作5**T13出品作6**T13出品作7鯉”堅山南風 **T13出品作8**T13出品作9**T13出品作10**T13出品作11**T13出品作12**T13出品作13

T13シナ出品作表紙**T13シナ出品作1**T13シナ出品作2**T13シナ出品作3**T13シナ出品作4**T13シナ出品作5**T13シナ出品作6**T13シナ出品作7**T13シナ出品作8**T13シナ出品作9**T13シナ出品作10**T13シナ出品作11**T13シナ出品作12**T13シナ出品作13**T13シナ出品作14**T13シナ出品作15**T13シナ出品作16**T13シナ出品作17**T13シナ出品作18**T13シナ出品作19**T13シナ出品作20**T13シナ出品作21**T13シナ出品作22**T13シナ出品作23**T13シナ出品作24**T13シナ出品作25**T13シナ出品作26


▲国立公文書館アジア歴史資料館レファレンスコード;B05016015000
中日絵画第三届連合展覧会出品目録(第3回 日華連合絵画展覧会)
T13目録1**T13目録2

△大正十三年(1924)春季開催 北京上海日華連合絵画展覧会報告書
T13報告書表紙**①T13報告書1_0001**②T13報告2**③T13報告3**④T13報告4色付**⑤T13報告5**⑥T13報告6色付**⑦T13報告7**⑧T13報告8**⑨T13報告9**⑩T13報告10**⑪T13報告11**⑫T13報告12
<マーカーはAuthorが塗りました。>

▲国立公文書館アジア歴史資料館レファレンスコード;B05016015300
「閑話休題」
T13歓迎争い1**T13歓迎争い2
【 日支美術の交驩展覧会が三次の回を重ねて芸術上の日支親善は愈濃密を加えて行くらしく今年北京で開会した同会を機として渡支した十数名の日本画家が大持てであった、其の為め歓迎争いまで起こった。目下北京には、中国画学研究会と北京画界同志会の二大別があって、官学派と民間派と対抗して居る現勢である為に、日支展の最初からの尽力者たる金紹城氏が周肇、顔世清氏等と共に権力と金力とを以て歓待するに対し、同志会の同人等は黙って居ず、明の十三陵から八達嶺観風と三日掛りの驩〇を続けた。・・・・・ 】


▲国立公文書館アジア歴史資料館レファレンスコード;B05016015200
大正13年(1924)5月1日 北京新聞
〖 成功裡に画会終る 曹総統も二幅を買上ぐ 滞京中China側の歓迎 〗
T13北京新聞
【 去廿四日より昨三十日迄の一週間中央公園内での日支絵画連合会は非常な盛況裡に目出度く閉会した 日本側の出品二百点は半分程は非売品であったが夫れでも五十幾点は売れた其中には廣瀬東畝氏筆の「鯉」永田春水氏筆の「幼鶏」の二幅は曹大総統が買い上げた(廣瀬東畝氏も永田春水氏も御二方共に荒木十畝画伯主宰の“読画会”の会員です・Author)

宣統帝へ献上 (渡辺)晨畝画伯の孔雀
渡辺晨畝画伯は其優麗の筆を揮ってものにした咲き乱る海棠の傍らに尾をひろげて立つ孔雀二尺に五尺五寸の絢爛目を奪う極彩色の傑作を陳宅琛氏の手を経て宣統皇帝に献上した 帝は非常に悦ばれて直ちに居間に懸けて嘆賞せられらお礼として近く帝の親筆を賜はるという(渡辺晨畝氏も荒木十畝画伯主宰の“読画会”の会員です・Author)

梅蘭芳と会談 小室(翠雲)荒木(十畝)渡辺(晨畝)三氏
来京して居る小室翠雲 荒木十畝 渡辺晨畝の三画伯は一昨日午後金紹城氏の案内で梅蘭芳氏を自宅に訪問して日本畫壇の雄とChina劇界の粋相互に半日の清談をなした 梅蘭芳は画の嗜みもあって一昨年東京で開いた第二回日支画会の時は自ら筆を執って一幅の佛画を出品した事がある尚梅蘭芳は近く画家一行を招待すると 

来京画家一行 滞京中の歓迎
翠雲 十畝 晨畝各画伯の外来京して居る十一画伯に対してChina側の歓迎も丁寧を極め出発迄のプログラムは今の所左の如くである
一日 高凌〇 顧維釣 顔恵慶 張國淦各氏で一行を宮城内傳心殿に午餐会招待、文華殿武英殿を観覧、夜は方洛
張漢〇氏の招宴
二日 李祖申氏西山ホテルに午餐招待 夜は金紹城顔世清両氏の招宴
三日 北京絵画同志会の招待にて南口十三陵青許橋長城等を観光南口泊り
四日 帰京
五日 王亜南氏午餐招待午後二時より貴州会館にて絵画同志会の茶会 夜は公使館に於て公使の招待
六日 公使が小室荒木渡辺三氏及びChina側の画家数名を長春亭に招宴
七日 離京天津に向う尚昨日は前駐日代理公使廖恩〇氏の午餐会に臨み萬壽山に遊び次は孫潤宇氏の招宴に臨んだ 尚此滞京中に一行は山西大同の石仏見物に行く予定であると
倶楽部で画会 小幅二十余点を
尚今回の画会に出品しなかった各画家の小幅廿余点を来る二日より三日間大和倶楽部に陳列して画会を催すと 】


▲国立公文書館アジア歴史資料館レファレンスコード;B05016015200
△金紹城・陶・周肇祥・䔥〇(孫+心という合成文字)の四氏より捧呈の献上画
T13献上画1**T13献上画2**T13献上画3**T13献上画4**T13献上画5**T13献上画6

▲国立公文書館アジア歴史資料館レファレンスコード;B05016015200
△大正13年(1924)4月27日発行 発行所 「北京週報」 極東新信社
〈 日支連合画会を観る 〉 
T13北京週報表紙**T13日華展観る1**T13日華展観る2-1**T13日華展観る3**
〖 日支連合画会を観る  今関 天彭氏談 〗
〈 1枚目 〉
【 24日中央公園の社稷壇に日支連合の絵画展覧会が催されるというので、愉快な企てと当日早速拝見に出かけましたが、日支双方の画家達の苦心になる数百幅の絵画画社稷壇及来今雨軒の側の董事会の室の両所に所狭きまで陳列されて居たのは近来になき美観でありました。
大体の感じを申すと、私は十年近く日本画を見ないので、時々内地には帰ったのですが、帰った時分は何時も帝展などのない時なので遂それを見る機会がなかったため、此十年来日本の絵画が何ういう変化進歩をしたかを殆ど知らぬのでありますが、今北京に於て突然日本絵画の多数を見ることは私に取っては思い儲けぬ獲物であります。
其処で今度の展覧会を見て十年前の日本の畫壇を回想しますと、当時は文部省の展覧会の盛んな時であって旧来の日本画と洋画とが茲に集められた。其外に美術院派の展覧会があって、此方は日本画の中の新派が之に拠って発展を図って居たので、此方には大分悪口もあったが併し其派の人々は却々努めて居り、横山大観氏が親分として非常に骨を折ったもので、此派は帝展の様に出品の件数は多くなく、少数ではあったが精撰されたもので一幅の絵画にも心血の滴りを認めぬはないと云う風で、或意味で帝展を威圧するの概があった。
或は南画の筆で西洋画を描くのだとか、日本画で水彩画を真似るのだとか、種々の批評はあったにもせよ、其色彩なり光線なりに一の新味を出さんとの苦心は之を取らなければならなかった。之に比して帝展の方の日本画は旧来の伝統を墨守したものが多く、固より大家の揃った上其門下の人達からも夫々の達者な描手が出て賑やかではあったが、其筆法は大抵其師を習い、画題なども皆之に従ったもので余り多く頭をひねらなかったという傾きがあったので、私共は此方には何うも余り多く敬服し難ったのです。
今度十年を隔てて北京の地で日本からの出品の多数絵画を見ると、当時の帝展の旧派の日本画が更に写生に傾いて来たものの様に見受ける。
・・・・中略・・・・・・・・・
大体の感じは以上の様でありますが今其中の一二に就いて申すと、中村真斉の鯉魚の図などは其写実に於る精巧に於て実に感服したものである。数匹の鯉魚は生々して本物を目の前に持って来たようである。石井林響氏の枇杷は写生を草画で行った大胆の筆で一種の才調があって面白いが暫く振りで此人の画に接した私は唯悪達者になったという様な感じを免れなかった

〈 2枚目 〉
 荒木十畝氏の雨後の牡丹は大きな沢山の芍薬を生臙脂で描き葉色も面白く花下の雉の物を考えて居る風情や、一体に静かな雨後の気持ちが好く現れて流石に上手な画だと思われたが、こういう画風が、この画会を通して流れて居る大きな流れだと思われましたが、十畝氏の画風は旧来の四条派を今日に適合させたもので、どう見ても花鳥の大家として称せらるる価値は十分にあります。渡辺晨畝氏の孔雀の大幅は随分骨を折って動物の写生をしたものと覚しく、其羽から尾から悉く本物其儘に出来て居ます。併し私共はあの絵の画味は孔雀よりも、寧ろ其上に飛んで居る黄雀の幾羽と、其下にあしらってある蘭の幾株の各変化した位置の方にあると思います。けれど兎に角力作たるには相違ありません。

其れから宮田司山という人の写生に筧と云う題の図があるが日本の庭園の一部を現したものでしょう、南天の実を赤く葉を青く其間から竹の筧が出たものであるが、筧から落ちる水の色など私共には何うも好い感じを与えない。苦心の跡は歴々として現れながらも、平凡に堕ちてどうも品格がないように思われた。今ああいうのが流行るとすると今日の傾向は平凡の中に趣味を見出すと云う事にも興味を持つようになったのかも知れぬと思うのです。(宮田司山氏も荒木十畝画伯主宰の“読画会”の会員です・Author)

 倉田松涛氏の絵も久振りであるが、其一つは楽天地と題して農夫が浜辺に酔臥し犬が唇を嘗めて居る所、他の一つは飛行機という題である、新しい画題を撰んだ所は如何にも面白いが、其飛行機に驚いて刎ね上がった馬の格好は浜辺の農夫と同じように何うも好い感じを与えない。氏は俳壇から入った人で、以前は十分面白い絵を描いた人と思ったが、今日の絵は何うも俗趣味になって感服せられない。

有名な平福百穂氏の秋渓は大胆な筆で大ざっぱにやっつけ、〇と墨とを以て秋の日暮れのありさまを現したのは甚だ面白いが近い山の案配は何うも面白くない鹿は大に好く出来て居る。
大体写生から来たのを大胆に書きなぐったのであるが、あゝいう画は今少し詩趣が豊かでないとならぬ。詩趣の十分でない墨画は徒に奇を衒うように思われて好くない。却て同氏の描いた大きな松の絵の方が、あれも鬼面人を威かす嫌いはあるものの、無難と思う。こう云う画は馬遠や牧渓などが能く描いたが何れも詩趣に充ちて居て宜い。

小室翠雲氏の春深と題する白鵬を中心として紅桃緑竹等をあしらったのは、一寸見ると明画を見る心持がする筆の力も強く鳥の尾などは筆が十分に働いて木目を見せて居る。之は余程達者でないと出来ぬ所である。日本式の南画としてこの画会では最上のものであろう。月二題と云う題で外海烟山品という人の作があったが、一種軽妙な筆致は非常に面白く思わせた。一つは月下の清流を牛を鞭ちて渡る所、一つは長松がヒョクヒョク聳えた其先に又松がボカされて隠者が月を見る所、之は私共の趣味がそういう所にある為か殊に目に着いた。

以上は日本画の方ですが、China画の方を申すと、大体に於てChina画の方は金紹城氏の関係者の手に成ったものが多く出品されたようでした。金氏は旧来の伝統的の絵画を学ぶ方で大抵昔の画様を其儘模倣して居る。之から段々名家の域に進む人でありましょう、だから氏の絵は概して皆若い。
一寸這入って会場の画を見ますと日本画の多くが四条派の伝統から漸次現代的になったものが陳せられてあると同様、China画の方も旧来の伝統を其儘懸命に描いたような部類のも(の)が多く、双方其趣を一にして居る。一口に云へば日支両画に一致した俗画が多い。併し金氏の門人には人も多く今後名を出す人も決して乏しくないでしょう。

〈 3枚目 〉
先ず其の頭目の金紹城氏の絵を見ると、恐ろしい大幅ものがあるが、何うも気が抜けて居る一寸魂が這入ったら何うかと思われるものがある。氏の画中私の感心したのは没骨法の青緑山水で宋の趙白駒の筆法に〇ったもの如何にも好く出来て居る。こう云う山水は趙子昂も画いた文徴明も画いた、特に近代では新羅山人が上手であった。
日本では没骨法の山水画かChinaに在ると云う事は知らなかったが美術院派の画家は、イロイロ苦心して之に似た山水画を工夫しただか誰れしも確かな筆法を知った人がなく、ただ筆を巧みに用うるのだから、Chinaの没骨山水とはカナリ相違したものではあるが、とに角それに似寄ったものが出来たのである。
また没骨法の花卉は日本に輸入され、それが幾多の変化をして十畝氏の画風にも関係がある事と思うと非常に興味を感ずるのである。
閑話休題、氏は万事に凝性の人らしく、第一には其絵具である藍でも黄でも皆上等なもので、あんな絵具を買い集める為には可成り苦心したものであろう。絵の筆法も細かなものを刻銘に書いて一つも乱雑になった所が見られぬ。
金氏の頭は極めて整理的に出来て居て、多く画家と云へば乱雑の傾向なものとは類を異にして居る。先ずChinaの南北画を合一した・・・趙子昂に似た画風を出して、将来は一代の画手となるのでありましょう。
其れから南方の大家顧麟士呉観岱氏等の出品もあったが見落とした、有名な人達であるから必ず立派なものがあったろうと思う。
急いで見た中敬服をしたのは嘯俊賢と嘯謙中の二氏の絵である。此二氏は此の画会の山水画家中の双璧ではないかと思う二人共画風は稍似て居るが俊賢の方が稍あっさりして居る、氏の絵は気品が高い、元人の好処を学んだものと思う、謙中は黄鶴山樵を学んだような筆致で細密なる上に渇筆を使うに巧みである。一体に隠者式の趣味を帯びて居るが其人物も恐く人と変わった所のあると思う。一度会って見度く思われる。
斉白石氏の画も面白い、白石老屋、白蕉青屋、送子従師などあの人の人物を思わせる。
王雲氏の画も俗気を離れて悪い感じはせぬ絵である。之を大観するに従来の画風を伝えて多く一様な筆つきの中に二人の䔥氏や白石、王雲と云うような人達の画が眼につく所は日本画の方でも百穂、烟山品というような人の絵が四条派の伝統を離れて少し変わった所から人目を惹くと似た所がある。茲が恐く画人の画と画人ならざる人の画から来る差別であろうと思うのです。聞く所に拠ると王雲は四十歳迄は一行商人であったと云うし白石は今五十幾つであるが三十近くまでは叩き大工をして居たのであるという。二人とも皆中年からの画家である。他の二人の䔥氏も何ういう人か知らぬが恐く普通画家というのみの人ではなく一風変った所のある人ではなかろうかと思う其等の人達の特徴が矢張り普通の絵から脱出せしめて居るのである
此の筆法で行くと烟山品という日本画の方の人も何か変わった人かも知れぬ。百穂氏なども矢張り変った人である。親からの画家ではあるが、歌も詠めば文も作る。侠気に富んだ面白い人で、其気風か矢張りあの一種の画を描かしむるのであろう。子供の時から唯伝統的の画を一心に学んだ人と比較すると一風変った所のある人のが人目に着く、或はそう云う私なども変って居るから変った人の画を好むのかも知りません。見る人々の眼で千差万別ですから一人で勝手な定めをすることは出来ません。


〈 日支絵画の共展 〉好丹青「北京週報」
日支の絵画共展1**日支の絵画共展2**日支の絵画共展3**日支の絵画共展4**T13北京週報2
〖 日支の絵画共展 〗好丹青「北京週報」
【 ◎中央公園に廿四日から日支連合の絵画展覧会が開かれるというので見に行く。恐ろしい砂風の立つ日である。此春は雨が少しも降らぬので土は乾き切り風の度に灰のような砂煙りを揚げる。でも長安街の北側のアカシア林は可愛い芽を浅緑に吐いて来た。冬はきつい寒風と戦い春となっては又此恐ろしい砂風と戦う、北京辺の樹木の忍耐と勇気も尋常ではない。
◎宮城の前の天安門側には柳が若い翠を美しく靡かせて居る。此辺は砂塵も比較的少ない。袁世凱の時御白粉を塗った大理石の橋の欄干も今はスッカリ剥げて昔通りの黄身がかった色を現して居る。お堀の水にはサラ々々と漣が打って居る。
◎中央公園入口にはChina式の彩門が設けられて、其れに中日連合絵画展覧会という文字が赤地の布に黄く張られて居る。十時の開会を十一時頃であったがChina側の観覧車も可成多い。
◎白い石の牌楼の上に瑠璃色の屋根を置いて白地に金文字で公理戦勝と標されて居るのは〇布湖同口に独逸がChinaに謝罪せしめた所謂石頭牌楼であったのを戦勝の節米国兵が打倒し、其れをChina側では此公園に持って来て戦勝紀念牌に建換へたのである。春の日が其の金文字をチカ々々光らして居る。
◎社稷壇の方へ入る。両側の空地にはライラックの花が咲き、少し進む辺りには、牡丹、芍薬の若葉が出盛って居る。社稷壇の右手の入口と標した方を入ると、其処にはもう直ぐ美しい画幅が並べ懸けられて居る。
◎先ず眼に着いたのは方洛の藤花の大幅である。方洛は此頃評判の好い画家で能く勉強する。筆が伸び伸びして前途を想望させる所がある。此藤の花は花卉を一筆々々にボツ々々打ったもののようであるが、其れが如何にも藤花の風情を現して居て好い出来事である。
◎其下には大貫鐵心という人の虹の景色や、畑仙齢の三峡天狂山やが懸けられ、日支の両画を取り混ぜに入れられてある。
◎側らに目録を売って居る。紺紙の表紙に中日絵画連合第三展覧会目録と金紹城の文字で標題してある。一冊一角、中を見ると日本画の部は平福百穂の秋渓遊鹿を1として155まである。中国の部は天津徐世昌(〇人画六件)下に英文字でLate President Hus Shu Changと記されたのを初め蒙古の貢桑諾爾布Prince Calachengとあるのが花卉一件を出品して居る。蒙蔵院の総裁である。其れから呉昌碩 顧麟士などと順次に並んで総数四百十三外に金紹堂等諸氏の刻竹などが十数件出陳となって居る。日支合せて五百六十八件の絵画であるから、一通り眼を通すも容易でない。
◎広い社稷殿の中を三つにも四つにも仕切ってギッシリ画幅は懸けられ、而も小いものは二重になって居る。大きなものでは金紹城が頻りに筆を揮い、方洛の〇門なども蜀の山水を雄大にやっつけて居る。
◎日本側では平福百穂の秋渓遊鹿や松樹や可成り大きなものがあり、渡辺晨畝の孔雀などは大きな上に金碧燦爛と云った工合に輝いて居る。
◎前の大総統徐世昌も水竹邨人と銘打って、幾幅かの可成り大きいのを出陳して居るのが眼につく。
◎目録と引合わせながら片端から見てあるく、ゴツ々したChina画の中に優にやさしい日本画の狭まったのは、松の林の中に桜の花の交ったにも譬えようか。むくつけな男共の中に美しい婦人連が加わったようで、好い対照をして居る。
◎一々の批評を別にして、一通り見廻った感じを云うと、China 画と日本画とは本来の出は同じ一家であったろうに、一方は本家に長く留まり、一方は東の離家に嫁入った為め、今久振りで一堂に会って見ると、丸で赤の他人同志の寄合ったような感じである。之が抑も同じ血統の親戚かと思われる位である。
◎絵共の心持になって見ると、ベーベルの塔を下りて来た連中と、下の連中とが話し合うと、言葉も通ぜぬので驚いて四散したというように、絵画達は互いに驚いて飛び出すかと思いの外、温順しく肩を並べて互いに睦んで居るのは不思議とも見える。
◎勿論日本画は日本一流の画家を悉く網羅したではない。荒木十畝 小室翠雲 平福百穂 渡辺晨畝などの一流処も加わって居るが猶是れ日本画全部を代表しては居らぬ。China側も同様呉昌碩や顧麟士や金紹城や呉観岱やとあるが之も必ずしも全部を代表したではなかろう。併し乍之だけでも日支の特徴は確に窺われる。
以下 略 】


▲国立公文書館アジア歴史資料館レファレンスコード;B05016015200
機密第226号 大正13年(1924)5月17日 在China特命全権公使 芳澤謙吉 日支絵画展覧会に関する件 〗
T13年十畝 頭領1**T13年十畝 頭領1-1**T13年十畝 頭領2**T13年十畝 頭領3**T13年十畝 頭領3-1
【 今回当地に開催せられたる日支絵画展覧会は4月24日より9日間に至る期間予期以上の来館者あり我画家の作品売場は9千弗に上りたる外日支両国美術家の接近に資し統治滞在中各種の招宴交驩も頗る多外交総長顧維鈞、農商総長顔惠慶、前国務総理高凌霨等も共同して一行を伝心殿に饗応せることも之有り社交的にも大なる成功を齎したるものと認められ候 而して右は主として金紹城の熱心なる尽力に負う処のものなりと雖も亦事柄自体が大に人心に投じたる点も之有り将来も之を継続して益益東洋美術の精華を発揮せしむるは至極望ましきことに存じ候 只将来此の如き挙を繰返す場合に於ては代表的画家の人選に就き一層注意を加ふること必要にして今回渡支せる画家が小室翠雲の南画派に属するものを除き他は荒木十畝を始め一行大多数は四条派に属し我国画家の各派を網羅せるものと云うを得ざるか如き観ある為め今回は兎も角今後此点を改めざるに於ては当国人士をして我画界の単調を誤信せしむる処之有り候に付次回の人選に方ては本省に於て京都より竹内栖鳳及山元春挙又東京より川合玉堂、横山大観の如き代表的画家を招致せられ此外 荒木十畝、小室翠雲及渡辺晨畝の如き今回渡支の画家を加え一応協議せらるること必要と思考致し候蓋し今回渡支せる画家中 荒木十畝は一行の頭領と相成居り従て右の如き会合を企てしむるには適当なるが如き観あるも仄聞する処によれば同氏今日の地位は首として其養父の遺名に負うものなると且つ其人と為り剛腹にして他派画家の気受宜敷からざる為め右の如き会合を企てしむるも其目的を達すること難からんとの事にも之有り旁本省自身主宰者として右諸氏を招致せらるること最も適当と信じ居る次第に之有り候間何分の御考量相煩度く尚右の関しては 其内帰朝すべき渡辺晨畝の意見を徴せらるるも好都合なるべく同氏に 対しては出渕文化事務局長宛紹介状差し遣わし置き候間然る可く御取計らい相成度く此段併せて申進候也 】

◇ご参考
 ・大正15年(1926)に発行された
《十畝畫選》という荒木十畝画伯の作品集が御座います。
その画集の跋文には「先生資性剛直権門に媚びず名利に屈せず信ずる所を言い
思う所を行う故に輙(チョウ)もすれば世の誤解を招く所なからず。・・・」
十畝畫選①_0002**十畝畫選②**十畝畫選③
**十畝畫選④
「先生資性剛直権門に媚びず名利に屈せず信ずる所を言い思う所を行う故に輙(チョウ)もすれば世の誤解を招く所なからず。・・・」

**
十畝畫選⑤


▲国立公文書館アジア歴史資料館レファレンスコード;B05016015300
*前段の機密第226号の文書にあった「尚右の関しては其内帰朝すべき渡辺晨畝の意見を徴せらるるも好都合なるべく同氏に対しては出渕文化事務局長宛紹介状差し遣わし置き候間然る可く御取計らい相成度く此段併せて申進候也」とあります。その続きと思われる文章を掲載します。
T13出渕晨畝1**T13出渕晨畝2
〖 日華連合絵画展覧会に関する件 〗
【 大正13年6月6日渡辺晨畝 出淵局長を来訪し過般北京に催されたる日華連合絵画展覧会の成功が局長の尽力に依ること多大なるを述べ感謝の意を表したる後同展覧会も其成功に伴い愈使命の重大なるを感じ今後は到底画家のみの手にて之を為すべきものに非ずして外務当局の御援助を待つべきものと思考せらるるにつき将来何分と共御教導仰度又一年置きに金壹万円宛の経費補助を外務省より仰ぎ度旨願出たるに依り局長は此種連合会が日支国交上頗る有意義なることを認むるを以て主義上将来相当経費の補助をなすことにつきては別段異存なきも其金額に至りては今より之を何程と予定すべき性質のものにも非るべしと答へたり尚渡辺画伯は芳澤公使よりの御書面にて既に御承知の通此種日支両国画家の会合をなす上に於ても日本側画家の結束を必要とする処不幸現在に於ては此点十分ならざるものあるに依り自分は是非共此結束をなさしめ度考にて不日京都に赴き同地方の代表者たる竹内栖鳳及山本春挙の両画伯に対し此趣旨にて勧説せん考なるに付局長よりも両画伯宛に何卒御書面を賜り度と申出たるに依り局長は此趣旨は至極結構なれども自分として未知なる両画伯に対し此際突然書面を送ることは些其当を得ざるものなるべしと述べたる処渡辺氏は然らば今秋文展開催の折両画伯も上京すべきのみならず其他の代表的画家も東京に集まるべきにより其節何とか御斡旋願われ間敷哉と云へるに依り局長は其場合には適当なる機会を求め出来得丈け御尽力致すべしと答へ置かれたり 】


◎国立公文書館アジア歴史資料センター・レファレンスコードB05016015200
▲大正13年(1924)6月22日
日華連合絵画展覧会に就いては・・・日本内地の諸展覧会よりは意義有る最も権威有る会と為さざる可らず
・・・帝展以上の会と為し・・・


発 渡辺晨畝 宛 外務省亜細亜局長出渕勝次殿
img168.jpg**img169.jpg**img168 - コピー**img170.jpg**img171.jpg
▲大正13年(1924)6月22日
発 渡辺晨畝 宛 外務省亜細亜局長出渕勝次殿
【 ・・・前略 偖 日華連合絵画展覧会に就きては実に容易ならぬ御尽力賜り誠に有難く拝謝奉候〇〇川合玉堂、横山大観、小堀鞆音の諸先生へ推参御協議申上げ目下京都へ来り竹内栖鳳、山元春挙両先生へ御相談申居り候處何れも此の問題に付ては固より賛成に之有り候へ共之は日本内地の諸展覧会よりは意義有る最も権威有る会と為さざる可らず而して東洋芸術の精華を世界に紹介する必要も有る義に付我々局に当って尽力するには外務当局の尽力と御補助を仰ぎ帝展以上の会と為し正々堂々たる連合展覧会を開催し邦家の為めに尽し度しとの意見に一致致申候間お含み置き下さり将来立派なる意義有る会合と相成り候様何卒御尽力賜りたく伏して懇願奉候 両国画家の連合に付いては小生及ばず乍ら一身を捧げて努力致す可く誠心に御座候 何れ拝趨申上ぐ可く候
6月22日 夕
渡辺晨畝
亜細亜局長閣下】

▲大正13年(1924)6月23日
発 渡辺晨畝 宛(外務省)岡部閣下
【 外務当局の御尽力と補助を仰ぎ帝展以上の会と為し正々堂々たる連合展覧会を開催致し国家の為め・・・】
img214.jpg**img215.jpg

【 ・・・前略 偖 日華連合絵画展覧会につきては付 実に容易ならぬ御尽力蒙り有難く拝謝奉候〇〇川合玉堂、横山大観、小堀鞆音の諸先生へ推参御協議申上げ目下京都へ来り竹内栖鳳、山元春挙両先生へ御相談申居り候處何れも此の問題に付きては固より賛成に候へ共之は日本内地の諸展覧会よりは意義有る最も権威有る会と為し而して東洋芸術の精華を世界に紹介する必要も有るよし〇に付 我々局に当って尽力するには外務当局の御尽力と補助を仰ぎ帝展以上の会と為し正々堂々たる連合展覧会を開催致し国家の為め尽力し度しとの意見に一致いたし申候間お含み置き下さり時期を見て協議会を開き堂々たる連合展覧会と相成候様御尽力賜り度く伏して懇願奉候 両国画家の連合に付いては小生及ばず乍ら一身を捧げて努力仕る可く誠心に御座候 今日明日中には帰京何れ拝趨〇〇申上候 6月23日  渡辺晨畝 】


▲美術年鑑 二松堂発行 大正14年版(1925)(大正13年の美術界の出来事)P160-161
T14日本美術年鑑表紙
**T13美術年鑑①_0001**T13美術年鑑①_0002**T13美術年鑑抹茶

〖 ▼ 日支画家の親和 〗

荒木十畝氏以下渡支画家団の一行は

既報の通り六月廿五日午後零時三十分

東京駅着で帰朝した。

駅には各方面の出迎ひで非常な盛況を極めた。

一行は何れも元気旺盛で

「北京に着いたのは先月の二十二日

直ぐに中央公園で展覧会を開いたが

China側では

  金紹城 氏

一行総出で、然も多数北京の芸術家を

糾合して歓迎した、

十八日北京滞在中に歓迎会ばかり

三十回近くもあった。

  十畝 翠雲 両氏

は更に名優

  梅芳蘭(梅蘭芳?)氏

に招待され一日清談に送ったり、

  曹大総統

が特に盛大な歓迎会を開かれたと思うと、

  宣統皇帝

は一行中の代表者を経て御料理を

下賜せられる等非常な歓待であった、

一般の人々も親しく日本の美術を見、

美術家に接することを心から打解け、

毎日非常に愉快に暮し芸術界だけには

排日など煙にしたくもなかった、

上海に於ても同様の大歓迎を受けたのは

一行の感謝する処である、

来年は日本に於て

  第四回

の連合展覧会を開く筈である」と語った。 】

功徳寺**読画堂塾表紙**読画堂塾見出し**読画堂塾後付け

サイ様
  コメントありがとう御座いました
  私共の拙論を読まれるご苦労を思いまして、
  これからも緊張感を以て登載したいと存じます。

           シルバーネイル〗




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

▲美術年鑑 二松堂発行 大正14年版(1925)(大正13年の美術界の出来事) P160-161

T14日本美術年鑑表紙**T13美術年鑑①_0001

〖 ▼ 孫松畫伯来朝 〗

【 芸術上の日支親善が近年頻りに高唱されて

   中日美術協会

の設立やら

   日華展

の開催やらで彼我美術家の来往も

繁くなって来た、

China畫壇の白眉呉昌碩翁の高弟

   孫松 画伯

が今秋の帝展研究と日本畫壇への

交りを結ぶ為に来朝したので

美術界の代表者は勿論外交、実業方面の

諸名士も加はってその歓迎会を

七月十六日午後六時上野の精養軒で催ふした、

出席者は約五名、

外務省情報部の松岡新一郎氏が起って

   孫松氏

の為に列席者一同が後援して

不日同氏の作品発表畫会を華々しく

開催したいと提議して満場之れに賛し

宴果てゝからは別席に於て

   荒木十畝氏

等出席の我が畫人と一緒に


健毫を揮ひ和気藹々裡に夜を過した。】


◇東京美術学校校長正木直彦氏日記(十三松堂日記)
T13,7
*7月27日 日曜日
【 早朝石野哲弘来訪 中日美術協会の事に付き報告の為也 】


T13,8,8中日黒田
*8月8日
【 前文略 今日は終日在家 中日美術の為に黒田子爵を悼む文一篇を艸せり 】


T13,8,14石野
*8月14日
【 石野哲弘来訪 華客孫友三来朝に付

 文人の歓迎会を催すに付き発起人となれと申来る 】


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▲美術年鑑 二松堂発行 大正14年版(1925)(大正13年の美術界の出来事) P161

T13美術年鑑①_0001

〖▼抹茶の興〗

【 目下来朝中の

   上海画家 孫松氏

は池の端の假寓で盛んに丹青の筆を揮ひ、

傍ら日本の風物を研究して居るが

廿八日は午後二時から三井の由井彦太郎氏

が大塚の自宅に招待して、風雅な茶莚を開き、

純日本式の饗宴を催した、

席主は由井氏自身

客は 孫松氏 を正客とし、

正木美術学校長、今泉雄作、白石村次、

田辺孝次の四氏である、

寄附には王庭筌の竹の幅をかけ、

数寄屋には探幽の「四睡」の図をかけ、

古信楽の花瓶に木槿を挿した、

茶椀菓子器は日本の古名器を撰び

会席の道具一切は乾隆康熈の珍しいもの

ばかりを揃へた、

日本でかうした饗応を受けるのは始めての

孫 君

大喜びである、

爐に松風の音の床しく、一わたり済んで

待合へ引取ると、

   孫松氏

大喜び けふは純日本式の饗宴に預かり

禅味といふやうな気持が席の式にも

気分にも溢れて居るのを非常に

愉快に思ひました。

何といふ芸術的なものでせうと語った。】


◇東京美術学校校長正木直彦氏日記(十三松堂日記)

T13,8孫氏茶会
 
*8月28日付
【午後より由井氏宅にてChina 孫友三氏揮毫をなすと聞き往訪 

来会者は今泉雄作 白石中軒 田辺孝次 石野哲弘也 

孫氏 竹胡蘆枇杷を繪き題賛をなす 書画共に揮灑電光石火の如し 

粗なれとも生気の溌剌たるもの也 晩に茶事あり 会記別に在 】


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

▲正木日記
 
≪大正13年≫ 

*6月26日付
 
【 China安徽省桐城の人画家

   方洛字子易 氏

来訪 

   趙之謙 

   呉昌碩

一流の畫を作す人也 枯莖腊梅一軸を携贈る 】


*7月13日付

【 夜帝国ホテルにChina安徽桐城人

   方洛子易

の招宴に赴く 

   方氏は 方望渓 の裔孫なり

といふ Chinaの畫家なり】


*8月14日付
 
【石野哲弘来訪 

   華客 孫友三

来朝に付文人の歓迎会を催すに付き

発起人となれと申来る】


*8月16日付

【午後六時より上野精養軒にて

  華客 孫松友三 畫氏

の歓迎会あり 文部次官 外務省官吏 

民国代理公使 帝国美術院会員なと多数来会せり】


*8月17日付

【午後六時上野精養軒にて

   華客 孫松友三 氏

の歓迎をなす 

   孫氏は 呉昌碩 の高弟なり 

松浦文部次官 

   張代理公使 

   荒木十畝 

朝倉文夫その他美術家新聞記者等三十人計なり】


*8月28日付

 【午後より由井氏宅にてChina

  孫友三氏

揮毫をなすと聞き往訪 来会者は今泉雄作

白石中軒 田辺孝次 石野哲弘也 

  孫氏

竹胡蘆枇杷を繪き題賛をなす 

書画共に揮毫電光石火の如し 

粗なれとも生気の溌剌たるもの也 

晩に茶事あり 会記別に在 】



*大正13年12月10日付
 
【由井彦太郎 近藤宅治氏来校 

   華客孫松氏

の為に畫會を催すことを謀り

賛助員として署名することを乞へり】


▲大正13年(1924)6月1日発行「中日美術」第3巻 第6号 石野哲弘 編集発行人
「日華連合絵画展覧会をのぞいて」上海MH 生 投
日華展を除いて1**日華展を除いて2**日華展を除いて3**日華展を除いて4**日華展を除いて5

日華展を除いて6**日華展を除いて7**日華展を除いて8**日華展を除いて9
荒木十畝氏等の主催になる第三回日華連合絵画展覧会が開かれた。煤煙と塵溜で満腹して、此の上海に生活して居る私は、新聞紙の報道による、北京での好評に期待して、カナリの歓喜と抱負とに力付けられて、その会場を覗いた。其れ丈、私の忌憚なき感想を縷述すべく、貴紙の貴重な頁を割愛して頂きたい。それは少なくとも、文華の同じ流れを汲む日本と中国とが互いに相提携して、まじめに将来東洋美術の向上を企画する一線を、公正な峠に立って眺望したいからである。
出品画の全体と会場の全部とを抱合して、一つの山脈として批判するならば、日華美術の提携を旗幟として、聳立する連合展としての山姿を展眺するには、余りに誠実の表現が足りなさすぎた、と云う私の直感を、その第一線上に刻印した、とは云へ二百点余の日本画の出品中、小点物ではあったが平福百穂、石井林響、樫山南風、矢沢玄月等の諸氏が、其の力作を見せてくれたのは、確に嬉しかった。其他の出品も、其の多くが力作ではあった。然し一部分に作家の真実な努力を窺い兼ねたのを遺憾とした。殊に、かなり古い作品が売品として出品されたものゝ多かったことは、私の期待の半ば以上を裏切り、六百余の内、同一作家の作品が十数点以上も出品されて居たことは、却って私の抱負大半を削減した。縦令部分的にもせよ、以上の二点が斯うして、日華芸術と云う美しい名に出品されて、多くの中国人や、日本人のみならず欧米人に依って、私と同じように注視さるゝと云うことは従って日本画壇の或る権威に関係することは無かろうかと思考せざるを得なかった
次に私は会場其のものゝ完全不完全を批評するのではない。それは現在此の種の特殊な機関のない上海で、それを完全に望むことは不可能だからである。只その会場の設備、殊に作品の陳列に、如何なる注意が払われて居たかを実際に就いて述べてみたい。先ず会場入口廊下の受付台から五六尺を隔てゝ其の受付台の廊下の周囲に隙間もなく八点の中国書が吊してあり、第一室第二室の両出入口の窓と窓との間に平福百穂氏の大作老松と中国画壇の権威、呉待秋氏の赤仏の大幅が南北相対して掛けられて居た。私は光線の両側反射の為め斯かる大作を感賞するには、余りに不可能であった。三つの出入口の総ての階段に陳列してあった作品に至っては、讃評すべく終りに接近し得なかったのを遺憾とした。然かも斯うした陳列場の二階の大広間はガランとして却って物寂しい感じを与えてくれた 猶ほ、太田天洋氏の出品、蘆生の夢は四幅対の作品である以上、一つの場所に陳列されるのが順当だと思ったのに、其の一幅は階下の入口に一幅は二階に一幅は二階の他の場所に、そうして一幅は階段の下り口に、各幅とも其の場所を異にして吊してあったこと、六百点の作品が矢鱈に一寸の余地も無いかの如く無造作に陳列してあったこと、其他明け放した窓に吊して、室内よりも明るい窓外の光線を画幅の裏面から直射させてあったことなどは、少なくとも私の芸術的趣味に対しては埒外に属したものであった
兎に角、陳列の規道の上に、中国人側の奔走の労力のみが現れて、日本人側の労力が現れて居なかったことは惜しむべきことであった。今一つ、殊更に私をして作画に感賞的趣味の甘泉を汲み得させなかったことは、彼の剛健な、禅機を以て画かれた中国画の傍に、極くおとなしい、柔はかな日本画が、無造作に並べてあった為、互いに其の作品の気分の中に、ゆっくりと、苦痛なしに浸ることが出来ないで、無理にも趣味を一致させようと努めたかのように窺われたのは残念であった。私は寧ろ別々に感賞する事が出来たら、より以上の趣味の一致点に浸る事が出来たであろうと思った。
以上述べたように、其の総体的から言ったら、恰も先施公司か永安公司にはいったような触感が私の芸術趣味を刺激したのを悲しむ。要するに、私の期待は其の半ばを失望の底に沈めて行ってしまった。私は必ずしも出品点数の多数を望まない。山高きを以て尊からず、木あるを以て尊しとすと云いたかった。
然しながら、兎に角、年年歳歳斯うして両国画家の作品が一堂に集められて、互に趣味の交換を企図することは、東洋美術向上の為め誠に喜ばしい事であると云はねばなん。(一三、五、二〇
此の稿を書き終った翌日の邦字紙を手にした私は、左の記事を読んだので、切角茲に再録の労をとることにした。
上海日々新聞) 上略 日本人側の作品で売約出来たのは十四点で価格千三百五円であった由で、China人側の正確な数は不明なるも相当多数に上った様子である。
荒木十畝氏は 今度の当地に於ける展覧会は、設備其の他全部をChina人方に依頼してあったので、日本人の方へ充分な満足を与えることが出来なかったのは遺憾であるが、之から年々日支両国で交替に開催することゝなるので、次第に出展作品もより好きものが多く、良好な成績を齎すこととなろう云々。
上海日報) 荒木画伯は談る。
芸術には国境障壁なしと云うが、自分はそうは思わない、今度の画展でも、同じ東洋民族が書いた出品であるため、東洋精神のやとりは共通して居るにせよ、日本人とChina人との個性が濃く現れていることを認めぬ訳には行かない。だから芸術(絵画)に障壁が型づくられるのは自然の趣であると云へよう云々。】


▲北京週報 大正13年
奉直戦1-1**奉直戦2-1**奉直戦3-1**奉直戦4-1
〖 奉直戦起るか 燕京一政客 〗
【 Chinaの人達はいう。外国の人々は今わが国は紛乱を極めて居るというが、其実今のChina程平穏な時は少い。如何に治まったと称した時代でも広い四百余州は何処かに戦争の二つや三つ無かった時代はない。内乱が無ければ辺境が騒がしいと云うような事で、本当に内外何処からも戦争騒ぎの報ぜられぬような時代は殆どない。時々あっても其れは極めて一瞬の間で、理想的の平和時代が来たかと思うと直ぐ何処かに騒乱が起る。之は我がChinaという国が国と云うよりも寧ろ一つの大陸であって、各地方は地方と云うよりも寧ろ其れ々々に独立的の一国である如き関係上当然の事である。Chinaは恰も欧羅巴の各国を打って一丸としたような状態である。欧州各国間に絶えず何等かの厄介問題の起きて居る如くに、Chinaの各地方に絶えず多少の紛乱の起こるのは別に怪しむに足らない。却って欧羅巴はあれ丈けの小大陸でありながら未だに各国相対峙して連合的国家をも現出し能はざるに比して、Chinaは更に大なる大陸的土地に於いて曲りなりにも国家の形を実現し得たということは大に進歩した状態と 謂える。米国は一大陸に殆ど完全な一国家を現出したのであるが、あれは唯大きな国土に新しい移住者が国を作ったと云うべきもので、Chinaの如く大陸内に大小の国家が互いに鎬を削ったのを段々に統一的状態に進めたのとは違う。故にChinaの国家を不統一と笑わば笑え、兎にも角にも国際上の一国家と認識せらるる迄に今日の国家を持来したというものは、欧米人に比して其の手腕を誇るに足るのである。今の欧州がChinaの各省的の国家を互いに独立させて恰もChinaの春秋戦国時代に居りながら大陸連合的大国家たるChinaの国家の不統一や其の紛乱の絶えざるを笑うなどは却って自ら知らざるの甚だしきものである。併し其う云う理論は暫く措いても今日のChinaは比較的平和の時代を現出している。南の果ての広東には孫文と陳 炯明軍との衝突が多少報ぜられ福建の一部にも争闘がある如くであるが、四川も略一定し、湖南も大した混乱を呈せんとも思われず、江西亦既に或程度の平穏を来たし、全国各地方を通じて殆ど干戈らしき干戈は動いて居らぬ。勿論消極的に無事というのみで、積極的に統一平和の時代が来たではないが、其れにしても今日の如く平穏な時代はそう多くはない。之はChinaの前途にとって果たして何と看るべき傾向であろうかと。
而して或者は之を以って直隷派の統一政策が着々奏功して居るのだと云う。即ち直隷派は第一に安福派を倒し、第二に奉天軍を関外に逐い、今や相対抗すべき武力を何処にも見出さぬに至って、Chinaの天下は漸次直隷派の統一圏内に入るのである。曹錕大総統は袁世凱氏とは其成す方法は違ったが、同様の統一時代を実現すべき大人物たるに価するのであると。
或者は曰く、直隷派の統一は直隷派の統一でもなく、曹錕氏の功績でも何でもない。之は呉佩孚の武力主義の成功である。呉佩孚は自ら闘将として、第一に安福派を撃破し、第二に張作霖を打倒して北京の勢力を直隷の一手に掌握せしめ、今や自ら計画を進めて四川、湖南、江西、福建長江上下流を初め各地方を直隷の勢力範囲に@へ、遠く手を@@広東にも
延ばして今や孫文を駆逐せんとさへして居る。呉佩孚は袁世凱とは人物行方を異にするも、其武力統一を成就すべき希望は呉佩孚に存する。彼の手にてChinaの統一と平和は持来さるるであろうと。
或者は曰く、Chinaの現在の無事は何人の力でもない。自然の力である。自然の力とは革命戦争以来既に十又三年人民はつくづく戦乱に飽いたのである。民乱に飽けば如何なる野心家も亦乱を企てることは出来ぬ。最早温順しく治に入る外はない。所謂一治一乱の数の順環して来たのであると。
Chinaの現在が小康の状態にあることは洵にChinaの人達の云う通りである。而して其小康時代の来た理由に就いても、我々は前者の諸説を一々に尤もと思う曹錕呉佩孚又民の乱に飽ける皆集って此時代を持来したとは思うが、而も之を以てChinaは最早禍乱期を過ぎて全然平和期に入ったものと思惟したなら其れは大なる間違いであろうと思う。今日の小康は小康であるが、所謂小康であって、決して真の健康状態の恢復ではない。干戈の響きや烽火の光こそ無けれ、其れにも増した不安の空気は至る處に充ちて居る。第一直隷派の統一というも直隷自身すらも完全に統一はして居らぬ。同じ直隷派中にも保定洛陽は隠然敵国を為し合って居る。又洛陽と南京とも決して然く意思の完全疎通はない。保定の本系中に於いても保定の直参と天津派とは相和しては居らぬ。少しく機会があれば是等は破裂を保証せられぬものである。
孫文の勢力は広東の一隅に躊躇する如くではあるが、旧北洋系や軍閥に対する反抗の気運はChinaの全国に充ちて居る。各省には夫々の勢力と運動とがあり何時に各蜂起して督軍と相争うかを必せぬ。
段祺瑞は天津に臥して居るが彼の子分等は八分に陰謀を劃して居る。直接の兵力こそ無けれ一時北洋派の首領であった彼、殊に敵味方共に人格には敬服を惜しまぬ彼は、直隷派に取って安心の偶像ではない。殊に一昨年の春大敗の屈辱を嘗めて臥薪嘗胆を怠らぬ張作霖は、東三省に其雪辱の機会を狙って居る。
 孫や段や張や、元来相一致すべき要素ではないが、唯其反直という所以に於て一種の三角的同盟を進めて居る。
此外に呉景@を首領とする国会派も亦何等かの劃策をして居る。北京を駆逐された黎元洪、其れと結ぶ政学系中の一派、或は一時政界と@かった如くして実は風雲の機会を睨んでいる研究系、Chinaの内部には雨雲が渦巻いて居る。今の一時の小康は、山雨到らんとして風@に充つる其前の無風状態と見るが寧ろ適当ではないかと思われる。
是に於て今年の晩春初夏其れは北京に於て戦乱の年中行事に数えられて居る時代は果たして如何と云う問題が起って来る。
問題は何人も奉直戦争の開否如何に帰する。昨年は第二の奉直戦争あるべしと盛んに唱道されて遂にそれが無かった。今年は何うであろう。人々の疑心は奉直の天上に懸かって居る。現に種々の謡言や流説は例年通り聞こえて居る。曰く奉天は既に四千万圓の軍用票を印刷準備したと。曰く山海関方面に奉天軍は斯く斯くの移動を行ったと。曰く主戦の張学良は今回は最早必勝の@を並べて父なる作霖の心を煽って居ると。奉直戦争は果たして起こるであろうか、起こらぬであろうか。之は単に奉直二大軍閥の@@ではなくて、其れに因るChinaの統一か破壊か、前途の隆替 如何に大影響を及ぼすのである。
非開戦の観測者は曰く、奉天は最早何時でも開戦し得る準備を持って居るに相違ない。併し乍直隷方面の形@が奉天の南下を利する何物をも示さぬ。保洛相@くと雖も、其れは事無き時の事、一朝奉天南下の声を聞けば保洛の合するは兄弟の合するより易い。曹錕を親奉派祭り上げて其儘呉佩孚のみを討ち取ろうというような計画は前回にも失敗したが今日でも決して成るものではない。曹呉は其れ程甘い人間達ではない。
戦えば必ず曹呉を併せ討つの計を為さねばならぬ。然る時は奉天派に猶多くの勝味はない敢て負けぬかも知れぬが必ず勝つとの算盤は出ぬ。奉天の軍備を充実する如く呉佩孚も怠らず其兵を調練して居る。兵数も亦直隷各派を@ねて決して奉天にのみ優勢を称せしめぬ。且つ直隷は今天下の全権を掌握し、此上奉天を破れば統一を完成するの望みを持つ故に、人々皆最大の努力を為し、形勢を観望する者も亦直隷に味方するの有利を思うものが多いであろう。
孫段各勢力ありと雖も、大に南部中部から直隷を牽制する丈の行動を為す実力がない。
故に今に於て奉直の戦を再開することは、張作霖に取っては先年以上の大賭博に属する。一旦の敗に懲りた張作霖は危険なる賭博に身を投ずるよりは退いて猶二三年の内力充実に専注するであろう。而して戦わずして直隷自敗の日を待つであろうと開戦論者は曰く、奉天にして三省の地に其モンロー主義を@まば格別、張作霖にして一度直隷の軍を破って縦しや天下の統一までならずとも、男子一生涯の中其屈辱を雪がんとならば今日を措いて其機会は再び来らぬ今日奉軍其南下を断念すれば呉佩孚の武力統一は着々成功する四川湖南江西福建悉く其策@に入らば残る所は浙江の盧永祥のみであるが、孤立の勢を以て四方の包囲中に呼号して見ても必敗の道あるのみである。
孫文も今日の勢いを以てすれば恐く広東に長居は出来ぬであろう。孫文の共産化を害とする広東の商人や軍閥と結託して孫文駆逐を企つるは必定で、広東は其根拠を失う。
段派の策士等四方に奔走するも、実力を有する一人の将軍も彼等に與せぬ時は、其何事を為す能わざるは、革命派の猶思想的勢力を有するに比して一層の無効であろう。
斯くて長江一帯と南方と共に直隷派の勢力下に屈従すれば、張作霖は東三省に孤立となる。勿論直隷軍力の反発として、種々の思想的運動は起こるであろうが、之は尚前途@いことであって、兎に角一時消極ながらも平康の時代を現出する。機敏なる呉佩孚は此と鋒を転じて奉天退治に取掛る。東三省が南下可能侵入不可能の天嶮だと思ったなら其れは大間違である。勢いの成る所天嶮などはない。四川の天嶮でも侵入軍はドシ々々侵入する況や東三省をや、昔に於いても関内から満州への侵入は不可能ではなかった。況や今日の軍隊にお手を屋。張作霖は此時受身となって甚しき不利の戦いをせねばならぬ。東三省雄なりと雖も張作霖の実際的根底は猶薄弱なものでそう抜き難いものではない。仮に奉天派にして其境城を守り得たとするも、其れは張作霖に取っては屈辱の上の屈辱で何等の名誉でもない。
悪辣なる直隷の策士等は此時更に日本と張作霖の結託を 唱え張独立を叛中国の売国奴と絶叫して全Chinaの悪感をそそり、以て張作霖をChina近世史上から葬ろうとするであろう。
此の如き形勢の必到すべきは(十頁へ)
奉天側の策士達の看破する所である。故に彼等は直隷の統一の成らぬ間に出来る丈の妨害をせねばならぬ。仮令奉天全軍の力を挙げて南下して乾坤一擲の大戦争を試みぬ迄も相当の軍力を南下せしめて、保定洛陽を牽制し、南方反直運動の興起を援助せねばならぬ破目に在る。
 故に曰く、奉直戦争は何等かの形に於て遠からず開始をみるであろうと。
 我々は両者の何れが的中するかを知らぬ。唯しかしながら我々は前記の諸説が皆直隷の呉佩孚又は奉天の張作霖なるものを主眼としての観測であって、China全体の国民の利福を中心とし、彼等を超越した一大運動を慫慂したものでないことを憾みとする。
 今日の如くにして放棄したなら、奉直戦は或は起るであろう奉直戦起らぬとするも、直隷派の統一の前に多くの反抗は起ってChinaは決して長く平穏時代を持続せぬであろう。各国も日本も之が為経済的の損害を重ねて受けねばならぬ。是れ各国も日本も忍び能わざる所であると共に第一にChina国民の忍び能わざる所である。我々は我識者等の慎重なる考慮を要求する(完)】


大正15年(1926)

 第4回 日華連合絵画展覧会 

   < 於 東京・大阪 >



◇大正15年(1926)に発行された

《十畝畫選》という荒木十畝画伯の作品集が御座います。

十畝畫選①_0002**十畝畫選②**十畝畫選③**十畝畫選④**十畝畫選⑤

その中で荒木十畝の畫業を語る文章が載っています。

日華連合絵畫展覧会”

の事情が窺えるのでご紹介させて頂きます。

【若し夫れ

  日華美術展覧会

の開設に関しても亦先生の力多きに居る。

同門の渡辺晨畝氏偶ま燕京に遊び、

文人墨客と交はり、美術を以て日華親善を

謀るの捷径たるのみならず、

東洋美術発展の為め急務なるを説き、

同地有力者又其の意あり、

帰来之れを先生に謀る。

先生大に之れを賛し、

当時特に長岡外史氏の賛助を得て

奔走周旋頗る努め、

漸く用意成るに際し

突如China内乱勃発の為めに

之れを中止す。

後両三年、

内乱尚ほ終熄を告げず、徒らに和平を待ちて

遂に其機なからんを思ひ、断然実行に決し、

先づ日本の作品百餘點を集め、

之れを携へて渡辺晨畝氏を北京に派し、

試みに展覧会を開かしめ大に好績を得たり。

於是て會を組織し両国交互に展覧会を開くことゝし、

翌年(注記Author:大正11年・1922)其の第二回展覧会を東京に開き、

北京の大家

  金紹城氏

外数氏来朝し、

第一回に劣らざるの成績を挙げたり。

其の後第三回を北京に開き、

先生外数氏之れに赴く。

大正十五年六月其第四回を東京に開き、

外務省對支文化事業局の援助の下に、

同會を延長して新に

  東方絵画協會

を組織するに至れるは最近の事実なり。】


◎国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードB05016016000
▲北京週報〖 日支絵画展覧会の前途 一記者 〗
日支展の前途1**日支展の前途2**日支展の前途3**≪蒋介石氏のこと≫
【 頃日渡辺晨畝氏が来燕し@来月東京で開会の日支絵画展覧会に対する打合わせをして居る氏は語って曰く、
「本会も愈々日支両国各位の熱誠なる援助と指導とを蒙って逐年隆盛となり、来月は東京で其の第四回展覧会を開く運びになりました。最初本会は民国七年に私が本会創立の志を抱いて単独来燕し、金紹城、顔世清、王克敏、周自齋、坂西将軍及其他の有力者等と会見して協議を重ねたのでありますが、遇々其の際China古画を見て、China絵画の恐るべきものであることと分家たる日本も本家たるChinaも相共に努力せねばならぬことを益々痛切に感じたので、日支共同の連合絵画展覧会の創立に対する信念をも深めた訳でありますが、越えて民国八年一切の準備を整えてChina側に向け照会電報を発しました所、時遇々例の有名なる民八学生運動発生し、学生等の猛烈な反対に遇って遂に中止の已むなきに終わりました。
翌九年も亦一般排日の勢いの終息せずして開催する能わず、
民国十年となるに及んで、未だ排日気勢は終息しませんでしたが茲まで来て尚且つ之を決行せぬならば切角の苦心努力も其のまヽ世に現われず、消えて了う
虞れがありましたので思切って実行の覚悟を致し同年十月青島経由再び来燕、小幡公使坂西中将金紹城諸氏に依頼、時の大総統徐世昌氏の助力を求めました所 徐総統は早速賛成せられまして我国は数千年の歴史を有し世界に誇るべき多くの名画を出して居るに拘らず、不幸近年内乱等打続き斯の道が衰えたのは遺憾に堪えない。今絵画の流れを同うする日支両国が相携えて斯道の復興に尽力するというならばこれは最も喜ぶべきことであるとて種々同情の上、自作の山水画五幅をも出品せられた外に林琴南初め其他の名士も多く出品 南方では王一亭、呉昌碩等も亦出品があり、当時排日の本元と目された北京南池子の欧美同学会を会場として十一月二週間に亘り盛んなる展覧会を出現したのは愉快に堪えませんでした。此の会に於て、徐世昌、@雲鵬、張志潭等政府要路の大官諸氏も続々買上げて援助を表し、終って十二日天津河北公園にて又々開会、黎元洪 楊以徳諸氏の同情的買上げを得、是非非常な好成績を収めて帰国したのであります。
第二回は十一年四月東京商工奨励館に開催しまして此時はChina側から、
金紹城、陳衡恪、呉熙曾等の諸氏出席China側の出品点数三百以上に達し、
盛大李裡に閉会、頗る好評を収めました。
第三回は中一年を置いて十三年の四月、二十日から三日間北京の中央公園で開催、荒木十畝、小室翠雲画伯等を初め日本側から十数名の画家諸氏来燕出席があり、これ又非常な盛会であったことは御承知の通りであります。斯くして本会の基礎は漸く固まりました。思うに今日迄日支共同、而も東西南北合併し挙つて一つの事業を完成した如きは、他に一寸見られぬ事ではないかと思います。Chinaの政治的南北合併案は民国以来十五年になる今日に於て尚前途頗る遼遠であるに拘らず、独り私共の芸術的合併たる本会がその実を挙げ得た事は喜ばしき限りであります。私は最初本会創立の企てを抱いてより百難を排し一切の財を傾け、それが為には妻子をして真に衣食に窮せしむるの苦境にさえ陥れましたが併し今日逐年成果を収めて行く本会を見、又China側の非常な熱誠を以て歓迎を表して呉れますのを見ては欣喜に堪えぬ次第であります。来年は又竹内栖鳳 横山大観画伯等日本有名な大家も来支さるる筈でありますが、時局の影響も何等蒙らず、此度私が六月東京で開かるべき第四回日華連合絵画展覧会の打合わせに来燕して、現在各方面と相談を進めつヽあるに就いても実に心地好い程愉快に進捗しています。芸術に国境はない。来る六月の第四回展覧会は定めし従前に倍した盛大さを見る事であろうと思って今から喜んでいる様な次第であります云々。】
日支の絵画共同展覧会を開いて、東洋芸術発展の一刺激に供したらばと云う考えは、民国七年記者等がChina側の記者諸氏を日本に案内した其際に初めて起った話である。当時日知報の王伯謙君は絵画の道に好きな人とて、専ら此話に興味を持ち、当時日本側の同好者と頗る話を進めたのである。併し其時其事は事情あって具体化しなかった
其後記者の友人の知合いである渡辺晨畝氏が画家の身を以て自ら来燕してChina側と接衝し遂に此会の実現を見るに至ったことは氏の努力に対して吾人は感謝を表して居る所である。何事も出来て見れば左迄ででもないようなものの、其れ迄に漕ぎつける苦心というものは尋常ではない。此意味に於て吾人は渡辺氏の名誉を永く尊重し度いと思う。併しながら是に各人は日支両方面の斡旋者に向かって注意すべきことは、凡て日支共同の名を以てする事業は虚心平気に一切の私的観念から離れて日支両国民の真の公的希望に一致する様其誠意を大きくすることである。事の最初には見向きもせず、愈々物になると出だしては他人の功を横取りしようとする卑劣者の存することは何れの時何れの事業にも同様であろうから、そういう卑劣な野心家を警戒することは勿論之を怠っては成らぬが同時に自分等の創始した事業であるからというが為に門戸を固守せず、大いに之を解放して他の同志、又は斯界の真の有力家を之に歓迎するということに全力を尽くさぬと、動もすれば或一派の見が、全体の見である如き誤解を双方に与え、為に意外の方面に損失を及ぼす虞れがある 例えば政治上に於いても、或一派が日本なりChinaなりを代表する如くして、特別の提携をすると之が却て一般の人心に悪影響を与える。これは政治上許りでなく、凡ての方面に就て同様である。吾人は日支絵画展覧会に果して左様の傾向があるかないかは知らない。併し乍@年China側に於ては、更に別な一派が別な場所に同時に展覧会を催し、別な歓迎会を日本画家に表したことを記憶して居る。未だ会の小さい中はそういう傾向も少いが、会其のものが大きくなる程こういう傾向は大きくなり、@て一種の困難と化するものである。絵画展覧会が己でに文化事業の援助等をも受け、益々其規模を大ならしめんとするに際しては、此辺の覚悟が最も緊要であると思う。渡辺晨畝氏は人格も温順しく、心事も公明で、両側の斡旋者としては最も適当なる人物であるがこういう困難の発生せぬ様予め注意する必要は必ず存在すると思う。其れには前述の如く、先立つ人々が一切の私心から離れて、最も忠実に斯界の代表的人物を此会に網羅す
るの工夫を為すことである。
曾て他の事業に此会の趣旨と似た計画を試みた人々があるが、其れは早くも日支両国の幾多の派別の存在の為に円満なる協定を得ずして進行の遅々を致して居る。絵画展覧会は幸いにそういう暗礁に打つからぬ代わりには今後の波瀾が更に気遣われる。実際日支の芸術家を連合して東方芸術の復興をしようなどいうことは歴史的の大事業である。今日に小なりとも前途には大きな希望の光りが差して居る。こういう大事業の前には人間は大きな心持にならねばならぬ。互いに小党派を作ったり、俗的勢力を苦にしたり、絵画の売行などを問題にして居て出来ることではない。東洋の斯道は直に高尚な人格其のものの養成である。高尚な人格は俗的便宜から蒸し出されるものではない。
本会の如きも其@自ら高く標致して世人を欽仰させるような努力が肝要である。何も普通の成功などは論ずるに及ばぬ。吾人は渡辺氏の来支に対し特に此点の婆言を呈する。


東方絵画協会簡章(会則)(大正15年/1926・10月2日)華文と和文
◎国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードB05015959400
東方絵画協会簡章1**東方絵画協会簡章2

東方絵画協会簡章3**東方絵画協会簡章4

▲大正15年2月28日 於 華族会館【 日支絵画展覧会に関する打合会紀念写真 】
◎国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードB05016015900
img043.jpg**img286.jpg岡部長景日記(柏書房㈱)

▲「日支美術家連合展覧会に関する協議会 記事」
T15協議会1**T15協議会2**T15協議会3**T15協議会4**T15協議会5

一、時日   大正15年2月28日 午後6時より

ニ、場所   於 華族会館

三、出席者

四、記事要領

当日晩餐後別室に於て意見の交換を行い大体一致を見たる主なる事項左の如し
【尚当日招待せる東京側の下村観山氏及京都側の竹内栖鳳、山元春挙の両氏は病気又は事故のため欠席せらる)

(一)単一の団体を組織すること
従来の絵画展覧会は元来私的のものにしてChinaに於て開催する時は中日連合絵画展覧会と称しChina側主人役となりて日本側出席者を歓待し反対に日本に於て開催する時は日華連合絵画展覧会と称し日本側主人役となりてChina側出席者を歓待したるが今後は此団体を永続性のものとし且公的のものとなす次第なれば両国美術家を中心とする単一の団体を組織し其名称も一定するを便宜とす

(二)会長はChina人とすること
本事業は寧ろChinaのために行うものなれば成るべくChina側より芸術を理解する名望家(例は前大総統徐世昌氏の如き人物)を会長に推すこととします

(三)展覧会は毎年一回開催し日支両国交互になすこと・・・・

(四)政府の補助金は両国等分?に使用すること・・・・文化事業部より毎年総額三万円位を補助せられしことを希望す

(五)展覧会を日本に於て開くときはChina側作品のみを陳列しChinaに於て開くときは日本側作品のみを陳列すること 従来の展覧会は日支両国の何れに於て開催する場合にも両国の出品を併せて陳列し来たれるがChina側出品中には拙劣なるもの少なからず 従て日本側大家の力作を之と並べて陳列することは屑しとせざる向きもあり将来本事業の継続発展上悪影響を及す虞なしとせず 又他の一面より見るときは両国の作品を併せ陳列することは如何にも競争的の観ありて面白からず剰へ日本側作家は毎年帝展、院展等に出品すべき作品のため既に時間の余裕少きに拘らず更に本展覧会のため毎年力作を準備することは実行困難を感ずる次第に付今後は日本に於て開催するときはChina側作品のみを陳列しChinaに於て開催するときは日本側作品のみを陳列することとし度尚優秀なる出品を促すため出品点数を制限する必要あり又China側に於て希望する場合は書を出品せしむること差支えなく日本側に取りては却て得る所あるべし

◎国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコード B05016016000
T15陳列
△大正15年5月13日 第349号
渡辺晨畝より岡部部長へ
今回の展覧会はChina側は従来通り日支連合陳列を希望す 日本画出品は出来る丈けに宜敷く
或は旧作にても可なり 代表者 金紹城 周肇祥外四、五名行く 会場其他の準備願う 正木校長其他へ伝達有度し 将来の事は一仝渡日の上相談すべし

~~~~+++++++~~~~~~~~~~

▲大正15年(1926)6月20日 東京朝日新聞
昭和2年版 日本美術年鑑
 T15東朝_0002**T15東朝_0004

両展②

〖 両展覧会 今日から 革新展と日華聯合會 〗 

【 *日本画会革新第四回展覧会

    と

   日華連合展覧会

とが 同時に 十九日から

上野の東京府美術館に開かれた 

日華展の方は

日本側は大小作家の出品九十点であるに対し

China側ははじめての宣伝的意味もあり

大馬力で三百七十六点の多数におよんでいる

畫には

   前大総統 徐世昌

T15徐世昌

T15王傳
(昭和2年版 日本美術年鑑)

を始めChina一流の大家

   呉昌碩、

   金紹城、

   呉仲熊、

   王傳

等また

   梅蘭芳、

   緑牡丹

等の變った顔振れもある会期は三十日まで 】


① 荒木十畝 画伯がリーダーであった
  
  ”*革新日本畫會”についての記事

美術五十年史

〖明治30年(1897)12月創立され、

日本美術協会と共に守旧派として

新派に対抗してきた日本畫會も、

時勢にかんがみ、

大正12年春、荒木十畝 の盡力で

更生し
、中橋徳五郎を会頭、

南弘を副会頭に戴き、

同年三月改造日本畫會の発会式を挙げた。

幹事には磯田長秋、伊藤響浦(玉堂・多門門)

今中素友(玉堂門)川崎小虎、佐藤華岳、

田村彩天(廣業門)、畑仙齢(百年門)、

西沢笛畝、廣瀬東畝、水上泰生の

十人がが挙げられた。(美術五十年史参考)〗

~~~~++++~~~~~~~~

② 荒木十畝画伯がリーダーであった
  
  ”*革新日本畫會”についての記事

新聞集成T13日本畫會

▲大正13年・2月6日 都新聞

〖気焔をあげた 日本畫會 の総会 
 昨日上野の精養軒で〗

【東京の日本畫界を横断し百五十余名を

網羅した 日本畫會 の第二回総会が

五日午後三時から上野精養軒で開かれた。

政界の風雲を他所にして、

中橋会頭、南副会頭も出席。

十畝、翠雲、桂月、秀畝、周山、

墨仙氏等畫界の元老を始め、

来会者五十余名に上り新春以来

初めての大会となった。

先づ甫喜山主事の報告あって

今回の展覧会審査委員を

池上秀畝、石井林響、蔦谷龍岬、野田九浦、

吉川霊華、山内多門、小室翠雲、松林桂月、

荒木十畝、矢澤弦月、島田墨仙、飛田周山、

平福百穂、畑仙齢、水上泰生の十五氏に依嘱し、

三月十日より上野の美術協会で

   革新第二回展覧会

を開催することを決定し更に展覧会委員、

会場委員を選定し満場一致可決するや

中橋会頭より一場の挨拶あり

総会を閉ぢ懇親会に移った。

デザートコースに入るや中橋会頭は再び起って

美術界の為め激励する。

幹事を代表して水上泰生氏や太田天洋氏、

矢澤弦月氏が起って現代美術界の為め

万丈の気焔をあげ、一同乾杯して

會の為めに万歳を祝したが、

美術家の会合としては近来稀に見る

活気を呈し九時散会した。】


▲大正15年6月8日 東京朝日新聞

S4,
T15東朝②_0001**T15東朝②_0002

〖China画家続続来朝 日支連合展〗

【日支聯合展覧会は外務省あっせん

の下にいよいよ来る十八日より三十日まで

上野東京府美術館において開会のことゝなったが

China側の出品は書画合せて五百余点におよび

これがため関係China画伯の来朝を見ることになり

八日午後零時十五分東京駅着で

左の諸氏が入京するはずである

 金紹城

 恵拓湖

  李五湖

  王小山

  呉仲熊

  王季眉

  徐懋齋

右の外十日午前九時東京駅着で

  周肇祥、

  金開藩(金紹城氏の嗣子)

の二氏も入京する由 】

(金紹城氏の嗣子)はAuthor付記

ーーーーーーーーーーーーーーーー

▲大正15年6月9日 東京朝日新聞
  
T15東朝69_0001**T15東朝_0001**T15来朝写真

〖 [日本美術展のChina画家来る]〗

【十八日から開かれる日支展の

China側委員の画家達は

本日午後零時十五分東京駅に到着した

[写真中央が団長 金紹城氏]】


◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016016000
△大正15年(1926)5月29日 
「 右展覧会は最初は個人の企画に過ぎず候えども第三回には多少当省より補助を与え以上の如き成績を収めたるに付本年は本邦に於て開催の順と相成り居り候間当省よりは更に補助其他充分援助を与え以て前回以上の成果を得せしめたき意向にこれあり・・・・・ 」
T15個人の企画1**T15個人の企画2


◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016016000
△大正15年(1926)5月27日
〖 日華連合絵画展覧会関係者に対し簡易通関方依頼の件 〗
【 ・・・・前略   Chinaに於いては御承知の通り専門の画家はこれ無く今回出品も前記徐世昌、金、周両氏の作品は勿論其他何れも名士の余技的のものにして自然標準とすべき市価もこれ無く今回の展覧会は全然営利の目的を有せず入場料も徴せざる予定・・・・・・ 】
T15余技1


◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016017100
△大正15年(1926)6月16日 〖 日支連合美術展覧会出品物送付の件 〗
T15凌文淵1

【 今般前財政次長凌文淵氏より其揮毫に係る画四幅を送越し日本に於て開催する日支連合美術展覧会へ出品したきに付・・・・・・・従来金紹城周肇祥一派が該展覧会に関係するに対し凌氏一派は余り熱心ならざりしに今回は延引ながらも自身出品せんとするは同展覧会の前途の為喜ばしき現象 】


◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016017100
△大正15年(1926)6月16日 「 申請書 」
T15申請書1**T15申請書2


◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016015900
△大正15年(1926)3月1日「渡辺晨畝氏にChina美術界の現状視察方委嘱に関する高裁案」
T15晨畝中心人物1**T15晨畝中心人物2


◎国立公文書館アジア歴史資料センター/レファレンスコードB05016017200
▲日華絵画連合展覧会出品目録
 大正15年(1926)6月18日至30日 於東京府美術館
T15目録1**T15目録2**T15目録3**T15目録4**T15目録5_0001**T15目録6


▲大正15年(1926)6月19日 読売新聞
T15読売日華蓋開く**T15619読売日華展蓋開く
大正15年6月19日 読売新聞

〖日華展蓋開く 六十餘點の売約〗

【東洋美術の発展と日支両国間の親善を企てる目的で開かれた

  日華絵画展覧会

 の第一日は招待日として十八日蓋を明けた

午前八時早くも中橋徳五郎氏 牧野内大臣等多数愛好者の参観あり

午後は若槻首相初め外務文部両大臣China公使等

実業家としての援助者三井、渋沢、岩崎、大倉、

犬養の諸氏五百有余名の観覧者ありて賑かだった

当日の売約は西原龜三氏の吾仲態氏作「披裘釣客」をいの一番に

牧野中橋岩崎三井の諸氏六十餘點に達せられ

尚十九日からは入場無料で一般公開】


▲大正15年6月19日 中外商業新報

〖きょう招待日の日支美術展(中央は中橋徳五郎氏)〗
T15,日支展招待日②**T15,日支展招待日①


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   金 紹城 氏 追悼関係
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日華連合絵画展覧会

実現の功労者であり、中心人物であったのが、

   金 紹城 氏

であることが、はっきりと判る記録があります。

それは、皮肉にも

   金 紹城氏

が、お亡くなりになられた様子を書き記す、

東京美術学校校長正木直彦氏の

“十三松堂日記”にありました。

正木15911

◆大正15年(1926)9月11日付

【 外務省岡部文化事業部長より来信あり

  金紹城氏

帰燕の途次上海にて病に罹り

遂に客死したるよし

総領事より通信ありたりとて報知せらる 

 日華美術聯合の中心人物

なりしを惜むへき事なり 】

日本側の認識としては、

日華展の中心人物が

   金 紹城氏

であったことが分かります。

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◎国立公文書館 アジア歴史資料センター
レファレンスコード B05015959300

▲金紹城氏 追悼模様
金紹城追悼1

追悼2**追悼3**追悼3-1**追悼4**追悼5_0002


◎国立公文書館アジア歴史資料センター・レファレンスコードB05015959300
▲金紹城氏の勲三等叙勲の公文書
叙勲1**叙勲2**金叙勲3**金叙勲4_0001****金叙勲6**金叙勲6_0001**金叙勲7**金叙勲8**

◎国立公文書館アジア歴史資料センター・レファレンスコードB05016017100
▲今回来朝せる中華美術家名簿幷略歴(大正15年6月)
T15名簿1**T15名簿2**T15名簿3**T15名簿4**T15名簿5_0001

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◆大正15年9月27日付

正木T15927

T15・927金

【 日華連合展覧会々長の事を

内府(牧野伸顕伯爵)に願ひ置き

たるにより其経過成績を報告したり 

   尚 金紹城

逝去に付き追悼会を挙行することを協議せり
     中略
御所を辞して外務省に岡部子爵を訪ひ

   金拱北(金紹城氏のこと)

追悼会の事を打ち合す 】

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正木T15108


◆大正15年10月8日付

【 午前中増上寺を訪ひ来十七日の

   金紹城

の追悼会の導師を道重信教師に

依頼せんとてなり 

然るに同師は昨朝出立

満州に巡錫に出懸けられたり

と聞きて空しく引返す 】

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◆大正15年十月十五日付

正木T151015_0001


【 夜 築地田中家にて

對支文化事業部長岡部長景氏の

招待あり東方絵画展協会員の中川合 小室

   荒木(十畝)

結城諸氏及 余出席 

   金紹城氏

歿後の中國の代表者銓衡の事に就き協議す 】

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正木T151017


◆大正15年十月十七日付

【 今日は午後より

   金鞏伯(紹城)

の追悼会を開くなれば昨夜草したる追悼文を書く 

十一時に学校に行 会の準備をなす

午後二時より法要を始む 

導師は鎌倉建長寺管長菅原時保禅師也 

一偈の後 内田伯(伯爵)外務大臣 

  汪公使 

  張公節

及 余の追悼文の朗読あり 

読経中に焼香をなす 

渋沢子爵 岡部子爵

其他朝野の人士百に上れり 

廣堂には

   金先生(金紹城氏のこと)

の遺墨を陳列せり 】 


これで、金氏を悼む集まりは終わって居ません。

昭和期に入っても、次のように記されています。

正木S6510

◆昭和6年5月10日付

【 午後五時より星ヶ岡茶寮(北大路魯山人経営)にて
 
 岡部子爵主催にて

   金紹城

追悼会あり 

   金の嗣子開藩 

来朝中の華客皆来る 】

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牧野伸顕日記

▲大正15年(1926)6月18日付

(牧野は此の時、内大臣)

T15 牧野

【 日華展覧会

  に付東京府美術館に臨場。

 China代表

  

  

 両氏に面会。

 共に相当の人物なるが如し。

China側の作品は自から特色あるも

概して大作と云ふべきものなく、

矢張り前記

  金、

  周

両氏は技量に於ても勝れたるやに見受けたり。

China美術今日の程度は

我国明治の初期に比すべきものならん。】

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中央美術T15_0001
▲大正15年8月号 「 中央美術 」

〖 日華連合展覧会 〗

【 日華連合展は、聲は大きかったが、

其実績は些して云ふ程のものではなかった。

China側の出品も、数許りは徒らに多くても、

芸術的価値を認め得るものは至って少なかった。

日本側の出品に至っては御座なりの甚しきもので、

聊か閉口せざるを得なかったものが多い。

呉昌碩の出品は、別に新しい工夫になったものではない、

従来屢々接した、畫境であるが、其筆墨は格に入っている。

前大総統徐世昌の出品は一寸珍しい、品のいゝものである。

「秋巒」の一幅は自然味の豊かなものである。
秋巒T15
〈 中央美術 〉大正15年(1926)・8月号

趙士鴻は呉昌碩の伝承に過ぎないが、技巧は相当の域に到っている。

馬晋は郎世寧風の畫風を持っていて、馬を描いたものは相当見られた。
馬晋T15
〈 中央美術 〉大正15年(1926)・8月号

銭の「人物」もよいが、

陳年の「桂華月季」も一種の風格がある。
陳年T15
〈 中央美術 〉大正15年(1926)・8月号

其他 金城の「松陰待月」、

呉微の「迂翁詩意」、等が

稍々興味を惹いたものである。(黄生) 】


T15中央美術①**T15中央美術②
▲大正15年8月号・中央美術《 美術月評 展覧会記 》
〖 日本画会展 薇香生〗
【 日本画会も革新第4回を開いたが、
依然これと云った進境も見られないのはもの淋しい、
是は作家の生活が疲れている為めであろう。

技巧が如何に円熟しても、生活欲がないと、心境が濁ってしまう、
精神生活が常にフレッシュでなければ、常に流動しなければ、
画境は進まない。

日本画会を見て、私はここに出品している多くの作家の思想的背景が、
余りに貧弱であるのを遺憾に思う。

精神生活の無いのが気の毒になる。
画巻の気のないことが、残念至極だ。

秋元節朗君の「洛北晩秋」は小器用である。
が、自然を余り簡単に扱い過ぎている。
色感はよい、然し色が浮いている。これを沈めなければなるまい。

望月春江君の「白牡丹」は大胆な処を買って遣るべきだが、
技巧に破綻がある。

田村彩天君の「遍照」も何処か作りごとがあるようだ、
ピタリとぉない、どこか防げる何物かがある。
これはお互いに考うべき処だ。

亀割志想君の「花鳥図」は円熟している。
いや余り円熟し過ぎて、余韻がない、
あんまり力を入れ過ぎてゆとりがない、
その結果味が俗となってしまった。

宮田隆子君の「春」と、
成瀬芳之君の「葛飾風景」とはちょっと心境の高い処が見える。

伊東深水君の「梅雨の頃」は苦心歴々の作だが、品がない、

山田義雄君の「布良の浜辺」は自然味が豊かに出ている。
技巧もしっかりしたものだ。

矢沢弦月君の「曽根天橋」の三作中では「秋」を好む、
但し色がもう少し渾厚になる事を欲する。】

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日華展大阪2_0001**日華展大阪1_0001

▲大正15(1926)年7月7日

 大阪朝日新聞

〖けふから開く

 日華絵画聯合展 

大阪では初めて〗

【外務省の肝入りで日支親善のために催された

   日華絵画聯合展覧會

は七日(招待日)から十一日まで

中之島中央公会堂で開くことになった、

この展覧会は今度が

   四回目

であるけれども大阪としては最初で、

出品三百八十餘點の多数に及び、

中華民国現代大家を網羅している、

外に

   黎元洪、

   徐世昌 両氏や

   名優梅蘭芳氏の畫

 宣統廃帝の書

もある、

日本側からは

横山大観、竹内栖鳳、小室翠雲、矢野竹橋、

榊原紫峰氏等の作約九十點を出品し

頗る壮観である(観覧随意)】

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▲大正15年7月7日 

 大阪毎日新聞

T15大毎77①

大毎T1577


〖気韻高いChinaの絵 
けふから公会堂で日華絵画展〗

【◇‥‥日華絵画連合展覧会は

大阪府、市、大朝、本社等の後援で

中之島公会堂に開かれるので内見をした、

三階一杯に陳列されて賑やかではある

◇‥‥

   金紹城氏

の作はさすがに光っている。

穏健な筆致のうちにやゝ新しみをもち

才覚的なところがある

「清湘漁夫」の力作は

気韻高く

「鶏雛」

の雛は色と筆でしゃれている。

T15.jpg
(昭和2年版 日本美術年鑑)

   周肇祥氏

の北苑の遺風をおびた

「竹林高瀑」「岩栖谷飲」や「墨梅」は

筆に品位を見せ、

蒙泉の遺風をおびた

   呉仲熊氏

は「秋關八景」「霊山図」等に

しっとりした気分を味はせて

自然の描眞を捉へている

◇‥‥
 
   李上達氏

の絵は私のすきなものであった。

「幼々鹿鳴」「秋林逸關」等

平民的の気持ちで飾りなく

絵をかくところに質雅な味を

見せている。

   汪大變氏

の「寒林夕照」

   張崇氏

の「春江風雨」「潮山初夏」

も質雅な點に似かよっているが

地味がともなふと共にそれがまた

色彩的の調和に気分をあらはしている。

   王衡樹氏

「寒林読書」

   恵均氏

の小品「半嶺晴雨」等

優れたものとしてまた親しみをもった。

   李極九氏

の「雪景」はうまい。

その他

   李樹智氏

の「平陵散牧」

   王一亭氏

等見るべきものがある】

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▲大正15年7月8日

 大阪毎日新聞

大毎T1578**T15,7,8大毎写真


〖日華絵画展 中央公会堂で 
十二日迄公開〗

【大阪における

第四回 日華絵画連合展覧会

は大阪府、市、商業会議所及び

大朝、大毎両社後援で

七日午前九時から

大阪中之島中央公会堂で開かれ、

同日は招待日とし開会とゝもに中川府知事夫妻、

前市長池上四郎氏夫妻をはじめ、

正木東京美術学校長、画家土田麦僊氏

その他在阪画家、文人、実業家など

多数の参観者があった、

会は十二日まで毎日午前九時から

午後五時まで公開される。

なほChina側出品者代表画家

   金紹城氏

一行の歓迎会は七日午後六時から

大阪市内本町大阪実業会館で開かれ、

来会者八十余名に上り盛会であった
       (写真は展覧会場)】

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▲大正15年7月8日

楽焼日華


 大阪朝日新聞

〖 China畫家の楽焼 聯合歓迎会で〗

【七日から中央公会堂に開催された

日華畫展のChina畫家

   金紹城、

   周肇祥 氏等

十余名のために大阪府、市商業会議所

連合主催の歓迎会が

七日午後三時から実業会館で開かれた、

余興としてお手のものゝ楽焼があり、

夕刻から晩餐会に移り

その昔Chinaから渡来した明清樂を

平井連山社の手で月宮殿、長生殿など

古雅な奏楽があり頗る盛会であった】

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▲大正15年7月9日 大阪朝日新聞

村山**S4村山邸
 
〖村山社長邸へ 招待されたChina画家一行〗

【目下大阪中之島中央公会堂で開会中の

   日華絵画聯合展覧会

を機会として、日本側の招待に応じて

来朝中のChina画家一行は八日阿部房次郎氏

及び野村徳七氏の邸で饗応をうけた後、

御影なる本社長村山邸で午後のお茶によばれることゝなり

午後三時半同邸をおとづれた、直に社長

及び村山取締役に迎へられて別館に陳列

してある日本古名画を鑑賞した後

応接間で茶菓の饗応をうけ、

歓談を交はし午後五時同邸を辞した、

この日の賓客は

   周肇成氏

を中心とし

   呉仲熊、

   王小山、

  *周湘雲氏

ら列席したほかに正木美術学校長、

岡部對支文化事務課長、清水副領事、

速水一孔氏等同伴し中川大阪府知事も

顔を見せた

なほ一行は当夜清交社楼上の

大阪在住画家の招宴に臨んだ】


△東京美術学校長 正木直彦氏の日記<十三松堂日記>には、

 <大正15年7月9日 大阪朝日新聞>に登場した日華連合絵画展覧会の重要な後援者である

   *周湘雲氏

 の“遭難”を記した件が記録されています。

▲<十三松堂日記>昭和6年1月18日付 

 【 午前十時

   *周湘雲氏

 を訪ふ 上海に於ける豪紳なり
 
近時其一人息子を土匪に𢭐はれ

百五十万元を以て購ひ歸さんとの談あり

 遂に二十万元の現金を以て之を購ふことを約し

 期日を定め或日の未明に之を積載して送り届けんとしたるに

 警察官の誰何を受け遂に警察に

 引付けられて期を失したるに

 其朝 周公子は脱し歸らんとしたるを

 銃を以て追跡せられ一丸肩に中りたる際

 一輌の汽車偶々来りたるに救を求めたるに

 英人某之を救ひて直に英国赤十字病院に入れて

 治療を加へたりしに稍治癒に向ひたりといふ

 周氏は常に土匪にねらはるゝを恐れて

 久しく一歩も戸外に出てさる為に

 足疾を患ひ引籠中なりしも

 余の訪問を喜ひて書斎に請して歓待したり

 所蔵の書画を出し示さる

 孰れも精品ならさるはなし 】

とあります。


▲大正15年7月12日 中外商業新報

T15支那は興る①**T15China興る②

大正15年7月12日 中外商業新報

〖Chinaは興る 真剣なる国民の態度 河瀬蘇北〗

【Chinaを観察するには実際にChinaの地を踏んでみなくてはならぬ

 ーまことに妥当の見解である、

少し旧稿ではあるがこゝに掲げるゆゑんである

◇私は昨年の十月の中旬から十一月の下旬まで、北Chinaを旅行した、

約一カ月余の旅行を以てして急にChina通振る譯でもないが、

私にとりてはこの一ヶ月のChina視察が日本に居て、

しかも京都に引っ込んで居て、書斎よりChinaをながめた

この数年間よりも余程の知識と、観察を与えて呉れた事を

感謝せずには居られぬ

われわれ書斎に居て、Chinaを見て居るものゝ目には、

実際のChinaはうつらぬー否、新聞や雑誌によって、

時々刻々にChinaの動きChinaの出来事は伝えられはするが、

然しそれは要するに皮相であり表面的であり、

本当のChinaの正体に触るる事は出来ぬ、

故を以て、われわれの仲間には、特に極端に、

Chinaの過去の歴史のみを本位にして、

現在のChinaを論ずるものがあり、

またはChinaの過去の文化のみを中心にして

Chinaを判断するものが生じ、

往々に重大なる誤りに陥っておるものが少からぬ

     ◇
私は右のChina行きにおいては実際のChinaと触れる事をのみ専念した、

従って北京なり奉天なり天津なりで会った人にしても、

段祺瑞氏とか張作霖氏とか、李景林氏とか慿玉祥氏とかいう様な、

既に過去の人には既に誰にも知られたる人々でなく、

実際に動いて居る人―

名はなくとも、事実動いて居る人

という事を主にした、

例えば

  学生連合会の新しき人々の如き、

あるいはまた

  反帝国主義連盟の若き人々の如き、

  北京大学民國大学の教授や学生連労働団体の人々の如き、

更にとび放れては

  道教の本山や道院の本部にその主人を訪うたが如き、

実際Chinaの民衆と共に動きそれと接触の度の多い人々と

出来得る限り接触したのであった

 かくして私の得た結果は、驚くべきChina民衆の覚醒ということであった、

われわれは今日まで、Chinaの青年運動や学生運動に対して、

例によっての不統一な、一時的な燥狂的なものであろうとのみ想像していたのであったが、

私は彼等に親しく会い、彼等の運動の実際を見るに及んで、

それが決して、しかく簡単で、単純なものでなく、

一種の革命的気魄のみちみちて居るのに驚かされたのである

     ◇
私は、我日本の青年や学生の近来における不真面目、

不謹慎にして柔弱、徒に形式的、虚栄的にのみ走れるを

常に憤慨して居る一人であるが、

Chinaにおける青年学生の、その真剣なる態度を見て

興らんとするものと、守らんとするものとの

思念の相異の如何に著しきかを、はじめて知った。

   Chinaは正に興らんとしつゝある 

それは恰も我明治維新の如く

またはトルコの革命の如く、

彼等はその古き衣をぬぎ捨てて、新しき装いをこらして、

世界に出でんとしつつあるのであるー

この事は私は書斎からこれを想見して

昨年来我国民に訴えつゝあった處であるが

今は北Chinaを見舞うた事によって更に力強くこれを感ずる

     ◇
日本とChinaとの問題は、幾度も説いたが如くに、

今日第一次的である許りでなく、

将来においては更に絶対的でなくてはならぬ、

日本はChinaとの関係を円滑にするかせぬかによって、

その運命は定まるというも敢て過言ではない

 その事を知らずして、徒らに形式的の日本本位論を唱えて、

世界の動きを見ず、しかしてChinaの興りつゝある事を知らず、

ChinaおよびChina人を依然として馬鹿にするが如きことあらんか、

悔を千載にのこす事となろう】


◎国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードB05016016100
▲大正15年7月1日〖美の国〗
〖 日華絵画連合展を観る 〗 ひさ生
【 外務省の肝入りで日支親善のために催された日華絵画連合展は、
6月18日から30日迄上野美術館に開かれた、
中華民国現代大家の書画376点と本邦画家の新作90点とを題列している。
China側は宣統皇帝の書を始め黎元洪、呉昌碩、徐世昌、顔世清、
呉仲熊、梅蘭芳、郭延敬、等の名士、名優等の書画を羅列して
其あまりに多数なのに驚く。
昌碩の「落花」其他数点の佳作があったが、
斯の如く強て多数の作品を陳列しなくても
代表作数点に止めて置いた力が鑑賞に便利で宜くはないかと思う。
 日本側の出品では小さなもので、お付き合ながら各方面の人々の出品が多い、
横山大観の「@」川合玉堂の「松間飛瀑」竹内栖鳳の「子雀」荒木十畝の「月下葡萄」等
の佳作があり、尚西村五雲の「長閑」矢野橋村の「村童暇目」堂本印象の「牛」
石崎光瑤の「群芳佳禽」等も目立っていた。
 来年は日本の作品をChinaで展観するそうであるが、
日支親善の事業に相互の芸術が貢献するということはとまれ喜ばしいことだ。
ただ、一つの問題はこ展覧会がもっと感じの好い、
換言すれ若きわれ等の友だちと接触する機会の多くありたい事である。】


〖 御参考 〗【 日本文化の海外進出を図れ 】
▲神戸大学電子図書館システム 昭和5年(1930)10月29日 国民新聞
T15神戸大新聞
T15神戸大新聞 2**T15神戸大新聞 5**T15神戸大新聞 7**T15神戸大新聞 8

【・・・あの、山のような重い倍賞の負担に悩み乍ら、

たとい僅かにもせよ、7万5千円の費用を投じて、

日本の演劇に接しようとした、ドイツ当局の余裕ある心事は、

差詰め吾等に何を@へているか。

イギリスはもとより、フランスにも、ドイツにも、

共に対外文化事業部の施設があり、

これと少しく目的は異なるようだが、ロシアにも同様の施設がある。

そして所謂伝統文化に乏しいアメリカにすら、

官設ではないが対外文化事業協会の大仕掛けな活動を見ている際、

ともすれば誇らかに固有の文化を口にする人々の少なくない吾等の国に、

此の種の事業は、何一つとしてないのである。

否、ある事はある。義和団事件最終議定書による賠償金を基金とする、

東方文化事業部が、外務省の一部局として

存在するにはするが、

これは殆んど対支文化事業に終止する許りか、

ときに対手国から文化侵略などと呼号されて、

今では手も足も出ない有様である。

こうして寡聞な吾等にせめてもの心やりとなったものは、

最近、大倉男後援の下に、イタリーで開かれた日本画展覧会の

成功がある位のものであろう。

しかし、乃木、東郷を産んだ吾等の国は、また同時に聖徳太子を産み、

運慶、近松、馬琴、歌麿、芭蕉、雪舟、漱石を出している事を忘れてはならぬ。・・・



≪ おまけ ≫

▲大正15年6月17日 中外商業新聞

〖伝書鳩〗

片岡商相_0002**片岡伝書鳩

【長者番付までは行かんでも何百万という物持で、

その方では憲政会中一二を争うといわれる片岡商相、

力量手腕程に評判の良くないのも根がシマリ屋だ

といわれるがその商相の家庭経済自慢話というのが一寸面白い

▲曰く「僕の家では嬶(かかあ)が市場へ買物に行くんだが、

附近の奴等は「大臣とあろうものがケチ臭い」といいよる、

しかし僕が嬶(かかあ)を買物に出すのは

  国家経済の立場

でどこの細君もそうしたらば

国家は配達賃を非常に儲かるという理屈になるからだ

▲‥‥いつかも僕が、三越へ買物に行ったところ、

店員が「お金はあとで、お買物はお届けいたします」というから

余計なことだが重役に「それでは運び賃と集金代が殖える訳じゃないか」

といった 

すると重役の曰くに「こうせなければお客は来ませんので」と言いよる、

何も日本人の国家経済を知らんには困ったもんだ」とのゴ嘆息


(私見)

  〚21世紀の日本は、公的債務膨張・経済危機だが、

  よく言われるように、   

  創造性の危機ではない。

  日本の芸術家の皆様 がんばれ!


 

大正15年(1926)12月25日
  すなわち  
昭和元年(1年)12月25日


△大正15年(1926)12月25日
・大正天皇崩御

▲昭和1年(1926) 12月25日
即ち
大正15年(1926)12月25日

▲三菱財閥トップ経営者〖 荘 清次郎氏 〗は、
昭和1(元)年(1926)12月25日に亡くなられました。
・荘 清次郎氏 は、センスのよい,奥行きのある端倪すべからざる人物のようです。 
荘1**荘2

▲ 国史大辞典(吉川弘文館)
荘4

▲「大正名家録」大正4年(1915)8月25日発行
発行所 ニ六社編纂局
荘3


 

昭和2年(1927)

日華連合絵画展覧会関係

 ≪ 東方絵画協会について ≫


昭和2年(1927)1月1日 大阪朝日新聞
『 象徴とも拝する 両陛下 』 *The symbolic emperor
象徴天皇

【 戦後、進駐軍によって「象徴天皇」という言葉が実現されたとする説や、
 津田左右吉博士の方が少し早く原稿執筆したという説が伝えられております。

ちょっと調べてみますと
昭和2年(1927)1月1日付、大阪朝日新聞に

『 象徴とも拝する 両陛下 』

という文字が大見出しで掲載されています。
それから約20年を経て「象徴天皇」となられます。

当時は「象徴天皇」という言葉が未発の状態でありましたが、
未然の日常に象徴」という言葉を受け入れる気分的基盤が
あるからこそ、新聞に「 象徴とも拝する 両陛下 」という言葉が載るのでしょう。
天皇が日本の象徴であるという概念が既に定着していたのでしょう。

『象徴とも拝する』と『両陛下の御高徳』を並べますと、
『象徴』と『陛下』とが結ばれて「象徴天皇」という言葉が違和感なく伝わってまいります。
当時から、天皇陛下は「時代の象徴」であられたのが実相なのでしょう。

だから、戦後突然降ってわいたような「象徴天皇」という言葉概念ではなかったのです。

“花をのみ 待つらん人に 山里の 
      雪間の草の 春を見せばや” 藤原家隆
“秋きぬと 目にはさやかに 見えねども
      風の音にぞ おどろかれぬる”藤原敏行

「象徴天皇」という言葉が、日常的に使われる場面が少ないために、
未然の状態であっただけで、ある契機があれば、
未然の日常から顕然たる日常に移るのでしょう。】(Author)

***************** 「象徴」という言葉 ***********************

*ちょっと「象徴」という言葉を調べてみました。近代日本で「象徴」という言葉を使っている、
  お作品は、結構有るもんです。ご紹介致します。

▲昭和2年(1927)2月9日大阪朝日新聞 クロ-デル駐日フランス大使
S2,2,9クロ-デル1

「大和魂の新象徴
「人生相伝える生命の象徴

〖 ご参考 〗
広重 三保_0001**⑫齊白石横舟

*「 江尻 三保遠望 」歌川 広重 と ⑫「 横江揚船 」齊璜白石

≪ 新趣味の著しいのが、

  齋璜氏

の「横江揚船」であった。

萬帆去来の港の景色、シムボリック

松林を前景とした調和が実に佳かった。
T11.jpg( 大正11年5月20日発行 “美術之日本”
最近の諸展覧会 一記者 日華聯合絵畫展覧會 より ≫


<ご参考>
鴎外 イタセクスアリス
「Bhadraとは賢者の義である。あの虎は性欲の象徴かもしれない。」
日本国民文学全集 第21巻 鴎外名作集〘ヰタ・セクスアリス::明治42年7月≪ 昴 ≫第7号〙 河出書房 昭和31年7月25日初版発行

<ご参考>インターネットの「青空文庫」 < 即興詩人 > 森鴎外
≪古祠、瞽女≫の段「アントニオ、アントニオと呼ぶ公子の声~兎をや獵せんとする、否ずば天馬空を行くとかいう詩想の象徴をや示さんとする、と公子語を継いで云へば、ジエンナロ、否、・・・・」以上「青空文庫」 < 即興詩人 > 森鴎外より
・明治25年から34年にかけ、軍務の傍ら丹精を込め約10年がかりで独訳書より訳し、断続的に雑誌「しがらみ草紙」などに発表した。単行本初版は、明治35年(1902)に春陽堂・上下で刊行。以上ウイキペディアフリー百科事典より


漱石  それから
「そうして、これを目下の日本を代表する最高の象徴(シンボル)とした。」
カラー版日本文学全集9 夏目漱石(二)〘 それから::初出 1909(明治42)年の6月から10月にかけて朝日新聞紙上で連載 〙 河出書房 昭和42年5月25日初版発行

<ご参考>インターネットの「青空文庫」 <私の貞操観> 与謝野晶子 
初出:「女子文壇」1911(明治44)年10~11月 
「純潔な肉体は、自分の純潔な心の最も大切な象徴として堅く保持したいと思うのである。」
「自分の肉体を清らかに保つのは自分の心の象徴だとして、何よりも先ず自分のために尊重するのである。」

<ご参考>インターネットの「青空文庫」 < 巴里より > 与謝野晶子、鉄幹の共著の紀行文集。金尾文淵堂
底本:大正3(1914)年5月3日発行 
≪巴里の除夜≫の段「~中にも「紅雀」は青い被いを着せた紅雀の籠が何事かの象徴(サンボル)であるらしく終始・・・」
≪レニエ先生≫の段「~氏は又日本の詩壇が数年前から仏蘭西の象徴派と接触した事を聞いて、・・・」
≪杜鵑亭(晶子)≫の段「~建築は其色とともに不愉快なものの象徴のようである。・・・」
≪未来派の芸術≫の段「是等の騒音の大集団が現在及び未来に亘る我等の生活を象徴し、鼓舞し、創造する音楽であり、・・・」
≪火曜日の夜≫の段「~七篇の中で「新しい建物に」と云う詩は近頃の君の象徴だろうと云ったら、・・・」
≪巴里を去ろうとして≫の段「~其れは不思議だ、あなたの或象徴(サンボル)に用いた花が同じ様な意味での印度の何処かの門に描かれて居ると云ったが、全くの暗号だ」とも語られた。」
≪同上≫の段「翁は日本の詩壇の近状を問い、仏蘭西の象徴主義の影響した事を聞いて驚き、・・・」


芥川 象徴 枯野抄
「或は又「生」の享楽家たる彼にとって、そこに象徴された「死」の事実が、この上もなく呪う可き自然の威嚇だったのであろうか。」
芥川龍之介全集1<枯野抄::大正7年9月> 筑摩書房 昭和46年3月5日初版第1刷発行

 芥川 象徴 蜜柑
「-これが象徴でなくて何であろう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であろう。」
芥川龍之介全集2<蜜柑::大正8年4月> 筑摩書房 昭和46年4月5日初版第1刷発行

img012.jpg
「―僕はつらつらそう思ったね。これは人生の象徴だ。」
芥川龍之介全集3<一夕話::大正11年6月 > 筑摩書房 昭和46年5月5日初版第1刷発行

芥川 象徴 鷺と鴛鴦
「爾来「夏の女の姿」は不幸にも僕には惨憺たる幻滅の象徴になっている。」
芥川龍之介全集4<鷺と鴛鴦::大正13年6月> 筑摩書房 昭和46年6月5日初版第1刷発行

芥川龍之介全集5{ 僻見-1**芥川龍之介全集5{ 僻見-2
「少なくとも僕の命を託した同時代の日本の文芸に対する象徴的地位に立った歌人の一人もいないことは確かである。歌人は?-何も歌人に限ったことではない。二三の例外を除きさえすれば、あらゆる芸術の士の中にも、茂吉ほど時代を象徴したものは一人もいなかったと云わなければならぬ。」

「これは重太郎一人に限らず、上は素戔嗚の尊から下はミカエル・バクウニンに至る豪傑の生涯を象徴するものである。いや、更に一歩を進めれば、あらゆる単行独歩の人の思想的生涯をも象徴するものである。」
芥川龍之介全集5{ 僻見::大正13年3月―7月}の内< 1 斎藤茂吉 >と< 2 岩見重太郎 >筑摩書房 昭和46年7月5日初版第1刷発行

芥川 象徴 十円札
「我々の生命を阻害する否定的精神の象徴である。」
芥川龍之介全集3<十円札::大正13年8月> 筑摩書房 昭和46年5月5日初版第1刷発行

芥川 象徴 彼
「この事実は、当時の感傷的な僕には妙に象徴らしい気のするものだった。」
芥川龍之介全集3<彼::大正15年11月13日 > 筑摩書房 昭和46年5月5日初版第1刷発行


<ご参考>インターネットの「青空文庫」
底本:「寺田寅彦全集 第八巻」岩波書店1997年7月7日発行 初出:「中央公論」1918(大正7)年8月1日
「・・・・前略・・・・・・あるいは津田君の画にしばしば出現する不恰好な雀や粟の穂はセザンヌの林檎や壺のような一種の象徴的の気分を喚起するものである。」


<ご参考>>大町桂月1 ・「桂月全集 第二巻 紀行一」興文社内桂月全集刊行会1922(大正11)年7月9日発行
「前略・・・・・松なくむば、日本の庭を成さず。松ありて、神の廣前ます〳〵尊し。松や皇国を象徴す明治神宮に詣づる者、廣前の松に思ひを致す所なかるべけむや。」


<ご参考>インターネットの「青空文庫」 底本の親本:「宮本百合子全集 第9巻 」河出書房 1952(昭和27)8月発行 @初出:「アトリエ」1941(昭和16)年3月号
「前略・・・晩年のケーテの作品のあるものには、シンボリックな手法がよみがえっている。が、そこには初期の作品に見られたようなややありふれた観念の象徴はなくて、・・・・・」


◆東京美術学校長正木直彦氏の“十三松堂日記”に記された「夫故 事は重大となるなり」という一文は「昭和史の奇観」です。
昭和2年(1927)7月11日付“十三松堂日記”
S2即位刀1
【 明年御大礼に御使用可相成即位式御剣の拵御新調相成事に御治定 御剣は後鳥羽院勅作を御用いのよし 御拵の製作を美術学校に下命の事も決定せるよしを伝へらる 従来は御即位式御剣は其都度御製作ありしか今度御新調
あれは萬代不易と御治定のよしなり 夫故事は重大となるなり 】
“従来は御即位式御剣は其都度御製作ありしか”と
される前例を破ってまで、後鳥羽上皇の「菊御作」を選択
され“今度御新調あれは萬代不易と御治定”された、
この象徴的行為は何を物語るのでしょうか?
後鳥羽天皇は、上皇の折に
承久の変(1221)の中心人物として軍事政権の鎌倉幕府と対決し敗北したのです。
隠岐島に罪人のように流されました。
軍事政権の鎌倉幕府と対決し敗北し罪人のように流された後鳥羽上皇が,自ら鍛えられた「菊御作」と呼ばれる御剣を「御即位式刀」として、若き昭和帝が選択されたのは“なぜ”なのでしょうか
「夫故 事は重大となるなり」という一文は「昭和史の奇観」です。(Author)

御参考
【 江戸時代初期の ある町衆の意識
△「本阿弥行状記と光悦」69頁/中央公論美術出版/昭和56年(1981)発行
皆、禁裏の物
"権現様当代にて漸く二代なり。ゆめゆめ禁裏の御用を粗末に思うべからず。日本国中は神の御末にてみなみな禁裏様の物也”

【一つの認識
△中外新聞 慶応4年 閏四、三(1868・4・3)
御門_0002(新聞集成 明治編年史)

【タイムスと名くる新聞の譯

〇日本に於て御門と云う称号は

偏に人の畏服するものと見えたり。

且国人の信仰するや恰も神仏の如くなり。

現在幼年の君を擁してさえ天下に命令を下すの勢い有り。云々】


▲昭和2年2月23日 東京朝日新聞

S2,2,23東朝**S2,2,23東朝②

〖日支美術展打合せ 今年は北京で 
我国からも画伯派遣〗

【昨年日本で開かれた

日支連合絵画展覧会

は一年隔きに日本とChinaとに開催

されるので 明年は北京の展覧会で

日本の諸画伯の絵が広く紹介される事

になるわけであるが

この展覧会を機縁として新に

東方絵画協会

が設立され、会員には日支両国の画伯が

網羅されるはずで

既にChina側では会長に徐世昌、副会長に汪大燮、

熊希齢 幹事には周肇祥、顔世清、陳漢第、江庸、陳年、凌文淵

の諸名士が挙げられ会員も百余名も集まり

本部は北京宣武門内温家街一号に置かれた旨の報告があったので、

日本側では二十二日夜華族会館に岡部文化事業部長

木村アジヤ局長や発起人正木美術学校長、川合玉堂、

  荒木十畝

結城素明、

  渡辺晨畝

諸画伯等が集って第一回の打合せ会を開き

東京及び京都より画伯二三名を派遣する事、

その他を決定した 】

▲昭和2年(1927)〖 牧野伸顕日記 〗
S2〖 牧野伸顕日記 〗**S2〖 牧野伸顕日記 〗-2**S2〖 牧野伸顕日記 〗-3

≪Bから始まるBxxx@@@zzz00の数字は国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードのことです。≫
S2北京新聞

▲国立公文書館アジア歴史資料センター
レファレンスコード B05015959400
▲昭和2年(1927)11月15日 湖社半月間
S2,11,15湖社1**S2湖社半月間-2**S2湖社半月間-3**S2湖社半月間-4

≪Bから始まるBxxx@@@zzz00の数字は国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードのことです。≫
▲昭和2年(1927)10月14日 〖 渡辺晨畝氏のChina視察手当の件 〗
S2,11,15湖社1 - コピー**S2渡支手当**S2,10,14便宜供与**S2,10,14便宜供与 - 2**S2,便宜ー2**S2,晨畝手当**S2,2,8秀畝**S2,2,8秀畝-2**S2,2,8秀畝-1**S2,2,8秀畝-2**S2,2,8秀畝-1-3**S2,2,22-1**S2,2,22-2**S2,2,22-3**S2,2,22-4**S2,2,22-5**S2,2,22-6**S2,2,22-7**S2,名簿1**S2,名簿2**S2,名簿3**S2,名簿-4**S2,名簿-5**S2,名簿-5 - コピー**S2,名簿-6**S2,名簿-7**S2,名簿-8**S2,名簿-9S2,名簿-10**S2,名簿-11**S2,名簿-12**S2,名簿-13**S2,名簿-14**S2,名簿-15**S2,名簿-16**S2,名簿-17**S2,名簿-18**S2,名簿-19**S2,名簿-20**S2,名簿-21**S2,名簿-22**S2,名簿-23**S2,名簿-24**S2,名簿-25**S2,名簿-26**S2,名簿-27**S2,名簿-28**S2,名簿-29



▲国立公文書館アジア歴史資料センター
レファレンスコード B09041711700
《 エネルギー問題 》
地熱外務省公文書**地熱1**地熱目次

地熱2**②地熱3_0001

地熱発電 東京電燈㈱研究所
①【・・・水力電気の勃興に伴い電動力は今や全盛なりと雖も

今後数十年間にして燃料窮乏し

水力亦其経済的地点を開発し盡すの時代到達するときは

動力の資源としては地熱利用の外あるべからず。・・・】

②【・・・将来の動力界に於ける唯一の活路として頼むに足るものは

地熱の利用より他に在るべからず。・・・】


▲昭和2年(1927)2月2日 大阪朝日新聞
T13藤田柔道
〖 パリのオペラ座で花々しい柔道試合 今夜、六千の大観衆の前で藤田画伯と石黒五段が 〗
【 フランス国立劇場の筆頭でまたヨーロッパ文化の華たるパリのオペラ座大舞台で一日夜我が柔道が六千余名の社交界の人々に紹介されることになった、しかも紹介者は柔道五段の石黒敬七氏とパリ画界の人気者 藤田嗣治氏なので人気を呼んでいる、日本人がオペラ座の舞台に立つことはこれが始めてである・・・・ 】

▲昭和2年(1927)2月9日大阪朝日新聞
S2,2,9クロ-デル1
「大和魂の新象徴
「人生相伝える生命の象徴

<ご参考>インターネットの「青空文庫」 ・「桂月全集 第二巻 紀行一」興文社内桂月全集刊行会1922(大正11)年7月9日発行
「前略・・・・・松なくむば、日本の庭を成さず。松ありて、神の廣前ます〳〵尊し。松や皇国を象徴す。明治神宮に詣づる者、廣前の松に思ひを致す所なかるべけむや。」

 

昭和3年(1928)

日華連合絵画展覧会関係

 ≪ 唐宋元明名画展覧会について ≫


▲昭和3年(1928)4月3日 東京朝日新聞
〖 日支古名画展覧会 〗
S3日支名画展2**S3日支名画展
〖 日支古名画展覧会 〗
【 東方文化事業部では今秋の御大典記念のため日支古名画展覧会を開くこととなった、開期は帝展閉会直後同所において開くはずで既に竹内栖鳳、横山大観、小室翠雲、下村観山の四氏を委員に挙げ出品名画の選択に當ることゝなり博物館、宮内省その他皇室御秘蔵の名画も出品されるはず尚China側と打合せのため五月中旬渡辺晨畝、阪西利八郎の両氏が渡支すると 】


△中華民国17年(1928)11月23日〖 盛京時報 〗
1928,11,23盛京時報-1**1928,11,23盛京時報-2

△中華民国17年(1928)11月28日〖 盛京時報 〗
〖中国古名画講演会(27日東京発電)〗
【現在東京開会中之唐宋元明名画展覧会主辨之中国古名画講演会於26日夜在朝日講堂開会正木美術学校先陳述開会辞旋経阪西中将・・・・】
1928,11月28日〖 盛京時報 〗-1**1928,11月28日〖 盛京時報 〗-2

△中華民国17年(1928)12月4日〖 盛京時報 〗
盛京時報民国17 年12月4日**盛京時報民国17 年12月4日-2


▲昭和3年(1928)7月18日 〖 御宝物菊の太刀を 聖上、はつの御佩用 〗
S3,4,3朝日2**S3,7,18 漆

▲昭和3年7月18日(1928)読売新聞
〖 御宝物 菊の太刀 を聖上、はつの御佩用 後鳥羽天皇御親鍛の御神刀にて
以後永久に御即位式刀 〗
【 今秋京都において取行わせ給う@古の大典御即位式に聖上陛下が御佩用あそばされ高御座に即かせられる御神刀は目下東京美術学校で仕上げの大部分を終わり、近く宮内省に奉納の手筈になっている、畏くもこのお太刀は今上陛下が御佩用のお初めで爾後永久に宮中に御安置申し上げ歴代陛下が御即位式に御佩用あそばされるという霊刀で実にも日出づる国の御稜威と国威の発揚を象徴するものである この太刀は人皇八十二代後鳥羽天皇の御手づから鍛えさせられたもので菊の太刀と呼ばれ宮中の御宝物として伝えられて来た由緒深きものである 】
〈 本集成「昭和2年1月1日」の項を 御参照下さい 〉Author

〖群馬県下で発見された鞘塗料
の漆の珍木在来の優良漆液はみ
な輸入品保護木として申請〗
【 宮内省ではこの光輝ある御太
刀の柄及び鞘の製作方を昨年1
0月東京美術学校に下命した、
学校では無上の光栄に感激し同
校師範科2階を祓い清めて製  
作場にて鞘と金具の図案を渡辺
香涯教授、金具は清水龜蔵教授、
鞘は六角紫水教授それぞれに担
当し爾来9ヶ月の間斎戒沐浴し
て赤誠の製作に精進して来たが
鞘に加工する塗料漆液に・・・・ 】


◎国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードB05016016700
▲昭和3年10月25日 美術日報
S3,10,25-1**S3,10,25-2
・昭和3年(1928)10月25日 『美術日報』
〖 御大礼記念として催さるゝ唐宋元明名画展 〗
【 御大典直後東京で開かれる唐、宋、元、明各時代の東洋名画展開催準備のため南Chinaからの帰途北京に立寄り京津各地の古代名画所蔵家の出品を勧誘しつヽある阪西中将、渡辺晨畝画伯は今回の挙につき語る
近衛公を会長とする唐宋元明の名画展は東方文化事業部、宮内省、外務省、文部省が後援して日本側は皇室、宮家からの御出品はもちろん国宝も陳列するに決定しているが、@に南北Chinaの名画所蔵家の出品はこの会に異彩を添えるものでわれわれはこの際China側が進んで出品に応じつヽある好意に感謝する、この会の目的は御大典のため各国から来朝する多数の使臣貴顕の雲集せる機に乗じて東方美術の精華を紹介するにあり非常な使命を有することはいうまでもない、本年6月以来南北Chinaの名画所蔵家に遊説を開始して以来南方では国民政府の承認を得 蒋介石、王正廷氏ら賛助員となり上海を中心に名画100点、京津地方でも100点以上の出品が決定したことは日支両国の芸術のため喜ぶべきことである、恐らく今後これほど多数の名画を公開する機会は二度とあるまい 中には一点二三十万元というほどの高価な品が少なくない、しかし排日團の妨害があるので遺憾ながら只今出品者の姓名を発表することは出来ぬ、これ等名画輸送に関しては外務省が責任をもって援助するからこの点は安心だ 】

◎国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードB05016016700
▲昭和3年11月15日 美術日報と順天時報
S3,11,15美術新報**S3,11,15-2
〖 唐宋元明時代の古名画展覧会 いよいよ開催 〗
【 別報の通り本月廿四日から上野美術館で開催される

  唐宋元明の古名画

については一時北京の古物委員会で故障を申立てたが
南京政府の蒋介石、王正廷両氏が賛助となって居るので
事務は進捗し北京から145点、上海98点、天津76点、
大連20余点が出品される事となり14日北京、天津からの作品が神戸に着くので
北浦大介氏が受取る手筈になって居る、
此内1000年以前の唐代の作が最も重要なのは勿論で、
これ以前の作で現存して居るのは大英博物館にある顧愷之の「女史箴図 (じょししんず)」
位なもので、唐代の作では有名な閻立林の「歴代帝王図」、
福建省福州の林家旧蔵南画の祖と言われる王摩詰の作も出品され、
宋代では名高い徽宗皇帝、蘇東坡、馬遠、夏珪等や
我雪舟派や狩野派に影響を与えたと言う董源が居る、
元には倪雲林あり、明には北宗派の戴進、南宗派では文徴明、董其昌がある。
出品者はChina著名の士で前内務総長の朱啓@氏は元の朱玉地獄変相図巻、
前外交総長曹汝霖は元の倪雲林山水軸、前大統領徐世昌氏の董其昌山水草書自跋、
前内務総長の沈瑞鱗氏の唐画女@@図軸等があり、恭親王も出品されるし
上海の実業家で且つ画家たる王一亭氏  
や所蔵家の龍菜臣氏天津の新聞社長で 
葯雨と号する方若氏等が来朝すること
になっている。
又日本では弘法大師伝来の国宝李真作 
五祖像を始め大谷光瑞氏所蔵の唐画樹 
下美人があり、徳川公、前田侯、黒田侯、 
蜂須賀侯、岩崎、大倉両男所蔵品も出陳 
されるというから燦然たる光彩を放つであろう、
尚清代の郎世寧(イタリー人)ヨセフ、カスタローニが帰化したもの)
の郊原牧馬図巻も出品される筈である。


▲ 昭和3年(1928)10月30日 国民新聞
S3,10,30国民新聞_0001

〖 御参考 〗
▲昭和2年 1月13日 東京美術学校校長正木直彦氏日記(十三松堂日記)
S2古物観潮
【 夜 渡辺晨畝氏来訪 周肇祥 新に古物博物館長に就任したるよしを報す 】


▲ 昭和3年(1928)12月1日 国民新聞
S3高然暉 ぶ**S3高然暉 図 ぶ

**********************************************************
S3,10,1**S3,11,20**S3,王一亭電報**S3,11,18写真**S3,11,18**S3,11,25**S3,7,5**S3,11,22**S3,11,22-1**S3,12,13**S3,12,13-1**S3,12,13-3S3,12,13-2**S3,12,13-4**S3,12,13-5**S3,12,13-6**S3,12,13-7S3,12,13-8 S3,12,13-9**S3,12,13-10**S3,12,13-11**S3,12,13-12**S3,12,13-13**S3,11,24中外 - 2**S3,11,24中外-1**S3,11,24中外-1**S3,11,24中外-2**S3,12,6中外**S3,11,24大毎日新聞**S3,順天**S3,11,15美術日報-1**S3,11,15美術日報-2**S3,11,15美術日報-3**S3,10開催趣旨-1**S3,10開催趣旨-2**S3,10開催趣旨-3**S3,10開催趣旨-4**S3,10開催趣旨-5**S3,10開催趣旨-6**S3,10開催趣旨-7**S3,10開催趣旨-8**S3,10開催趣旨-9**S3,10開催趣旨-10**S3,10開催趣旨-11**S3,10開催趣旨-12**S3,10開催趣旨-13**S3,10開催趣旨-14**S3,10開催趣旨-15**S3,10開催趣旨-16**S3,10開催趣旨-17**S3,10開催趣旨-18**S3,10開催趣旨-19**S3,10開催趣旨-20**

S3,11,24~12,16**S3 假目録-1**S3 假目録-2**S3 假目録-3**S3 假目録-4**S3 假目録-5**S3 假目録-6**S3 假目録-7**S3 假目録-8**S3 假目録-9**S3 假目録-10**S3 假目録-11**S3 假目録-12**S3 假目録-13**S3 假目録-14**S3 假目録-15**S3 假目録-16**S3 假目録-17**S3 假目録-18**S3 假目録-19**S3 假目録-20**S3 假目録-21**S3 假目録-22**S3 假目録-23**S3 假目録-24**

S3 假目録-25**S3 假目録-26

S3 大連-1**S3 大連-2**S3天津-1**

昭和4年(1929)

第5回 日華連合絵画展覧会

( 於 上海・大連・奉天 )


中日現代絵画展覧会(標題 第五回日華連合展覧会 分割2)昭和4年(1929)
レファレンスコード;B05016017800
T15中日1**T15中日2_0001**T15中日3_0001

T15中日4**T15中日5**T15中日6

T15中日7**T15中日8_0002**T15中日9

T15中日10**T15中日11**T15中日12

T15中日13**T15中日14**T1515

T15中日16**T15中日17**T15中日18**

T15中日19**T15中日20**T15中日21**

T15中日22**T15中日23**T15中日24**

T15中日25**T15中日26**T15中日27**

T15中日28**T15中日29


▲ 昭和4年10月21日

  読売新聞

S4上海読売1021**S4上海読売1021-2_0001**S4上海読売1021-2_0002

〖帝展の中堅が上海で日本画展 
  
国民政府に招かれて 

   荒木画伯

 等の代表が渡支〗

【 China国民政府では豫て我が外務省
 
を通じ『帝展』を招待していたが

 愈よ準備が整ったので来る廿五日

   荒木十畝 画伯

を始め飛田周山、勝田蕉琴、西沢笛畝(以上東京)

 山内信一、登内微笑、大村廣陽、松本一洋、

川北霞峰、阿部春峰、八田高容(以上京都)等

の代表委員が渡支することになった、

同展のChina側委員は

   王正廷、

   王一亭 氏

等多数の大掛りで出品は帝展を中心に

推薦作家以上と特選級から選定して

東京で九十点、京都で八十六点計百七十六点

の日本画を携へ 

十一月一日より十五日間上海で開催し

帰途大連で十日間を開く予定である

其会名は

   日華連合絵画展覧会

といふのだが実は日本画室を作って

邦画の粋を見せるので

帝展の上海出張

とも云ふべき最初の大展覧会である】


〖 申報 〗
1929民国18年、 申報表題
*1929民国18年、 申報 宣伝

△中華民国18年(1929)10月31日〖 申報 〗
◎日本帝展的日本画  師竹
1929,10,31申報**1929,10,31申報-2

△中華民国18年(1929)11月1日〖 申報 〗
1929民国18年、11,1申報

△中華民国18年(1929)11月2日〖 申報 〗
1929民国18年、11,2申報

△中華民国18年(1929)11月5日〖 申報 〗
1929民国18年、11,5申報

△中華民国18年(1929)11月11日〖 申報 〗
1929民国18年、11,11申報

△中華民国18年(1929)11月14日〖 申報 〗
1929民国18年、11,15申報

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

▲昭和4年10月26日 

読売S41026


 読売新聞

〖日支展の畫家 今夜Chinaへ出発

東京側は十畝画伯等五名

来月から上海に開催〗

【日支両国の有力なる美術家の結合により

   日支連合絵画展覧会

は来る十一月一日より二週間上海徐園に開会する

日本側からは

   荒木十畝

結城素明、松岡映丘、松林桂月、

   池上秀畝

鏑木清方、橋本関雪、池田桂仙、河村曼舟、

川北霞峰、竹内栖鳳、都路華香その他 

東西両京の大家百余名が二百数十点を出品し

東京美術学校文庫主任北浦大介氏は

既に是を携帯して上海に出発、

従来日支美術家の連絡に盡力しつつある

   渡辺晨畝画伯

も既に上海に到着して準備中である。

又China側では上海が

   葉恭綽、

   王一亭、

   狄楚青 氏

等幹部となり奔走中で既に五六百点の

出品を蒐集し北方北平天津方面で

   前大総統 徐世昌 氏

を始め約二百点を出品上海に送った由であるが

東西両京の画伯連は一両日中に

上海に向ふ事となり

東京側は廿六日午後八時廿五分東京駅発列車

にて陸路長崎に向ひ

廿八日長崎出帆の連絡船長崎丸で渡支する

予定である

尚ほ今回 杭州の国立芸術院 に招聘された

齋藤佳三氏も右一行と同行する筈で、

一行氏名は左の如し

〖東京側〗荒木十畝、飛田周山、

勝田蕉琴、西沢笛畝、松本姿水

〖京都側〗川北霞峰、阿部春峰、

八田高容、登田微笑、松本一洋、大村廣陽、

山ノ内信一、田端秋涛 】

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この出発する昭和4年10月26日より

前の同月24日の

東京美術学校校長正木直彦の日記

*昭和四年十月二十四日付

正木S41024


【午後六時東京会館に

対支文化事業部長の招宴あり

China来朝の

  王済遠

  潘女史

  金女史

  張爰氏

と今度

 日支連合絵画展覧会

を上海に開催するに付き渡航する

  荒木十畝

飛田周山 勝田蕉琴 松本一洋

又杭州国立芸術院教授として赴任する

  齋藤佳三氏

今春渡支したる

  小杉未醒 梅原龍三郎

なと来会 一夜の交歓をなしたり】


▲昭和4年10月26日 

 大阪朝日新聞

大朝S41026


〖上海で空前の日支絵画展 

両国の大家を網羅し 

来月一日から二週間〗     

【日支両国の美術関係者が連合で大規模の

   日支連合絵画展覧会

を計画し、東京美術学校文庫主任

北浦大介氏が渡支準備中であったが、

いよいよ来る十一月一日から二週間

上海で開催されることになったので、

日本側の畫家

 荒木十畝

飛田周山、勝田蕉琴、西沢笛畝(以上東京側)

山内信一、川北霞峰、阿部春峰ほか

五画伯(以上京都)らが上海へ向け

二十六日午後八時二十五分の東京駅発で

出発することになった、

今回の日本側の出品は東西日本畫壇の

大家連を網羅し代表的作品二百数十点を揃へ

China側では

   前大総統徐世昌氏

を始め上海画壇の雄

   王一亭、

   葉恭綽、

   秋楚青

画伯の奔走で約七百点に上り

空前の

日支絵画大展覧会

となるので、各方面から非常な期待を

もつて待たれている、

なほ今回

   杭州の国立芸術院

に招聘された齋藤佳三氏も一行と同じ船で渡支するはず

なほ上海の会期がをはれば

大連でも一週間開催することになっている 】


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▲昭和4年10月26日 

 東京朝日新聞

東朝S41026

東朝S41026


〖日支連合で空前の大絵画会 

 来十一月一日から二週間

 上海に開催と決定〗     

【日支両国の美術関係者が大規模の

 日支連合絵画展覧会

を計画し東京美術学校文庫主任

北浦大介氏が渡支準備中であったが、

いよいよ来る十一月一日から二週間

上海で開催されることになり

日本側の畫家

    荒木十畝

飛田周山、勝田蕉琴、西沢笛畝(以上東京側)

山内信一、川北霞峰、阿部春峰外五画伯
              (以上京都側)

が上海へ向け二十六日午後八時二十五分の

東京駅発で出発することになった、

今回の日本側の出品は東西日本畫壇の

大家連を網羅し代表的作品二百数十点をそろへ

China側では

   前大総統 徐世昌氏

を始め上海画壇の雄

   王一亭、

   葉恭綽、

   秋楚青

画伯の奔走で約七百点にのぼり

空前の日支絵画大展覧会となるので

各方面から非常な期待をもって待たれている、

尚今回杭州の国立芸術院に招聘された

  齋藤佳三氏

も一行と同じ便船で渡支するはずである、

右につき

  荒木画伯

は旅装を整へながら語る

『日支連合●展は今回位大規模に

行ふのは始めてです、

私は二回目の渡支で知合ひもありますから

何かと便宜があると思ひます

連合展の趣旨は日支●●民の親善を

意味すると共に芸術上両者に益するところ

あること多大であると信じます、

上海の●期が終れば

大連で一週間開催することになっています』 】
(●は文字不明)


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▲昭和4年11月2日 

読売S4112

読売新聞

〖日支絵画展開く〗

【 (上海一日発聯合)

中日絵画展覧会は

本日午前十一時からコンノ―ト路の除園で

花々しく開会式を挙げた、

参列者は日本側からは重光総領事、

   荒木十畝氏、

China側からは

   張群市長
 
   王一亭氏

等を初めとし日支両国の畫家

其他百五十名の多数に上り、

先づ

   孫 文 氏

の写真に礼拝して後

   張市長

の開会の辞があり

次いで重光総領事の祝辞、

両国名士数名の祝辞朗読があって

午後零時半式を閉じた、

出品数は日支各二百点、何れも傑作のみで

人気を集めて居る、会期は二週間の予定である 】


▲昭和4年9月18日 東京朝日新聞
S4,9,18東朝日②

昭和4年9月18日 東京朝日新聞
〖上海で日支絵画展〗
〚大連特派員十七日〛
【日支両国画家の大家等が提携組織せ

る日華連合絵画展覧会は東方文化の発

揚と両民族親善に資するため外務省文

化事業部助成の下に十一月一日より向

う二週間上海において第五回展覧会を

開催することとなったが上海における

会期終了後は満鐡の後援の下に十一月

下旬から十日間大連で展覧会開催に決

定した】


▲昭和4年10月20日 東京朝日新聞
S4日華の出品画①**S4日華の出品画

昭和4年10月20日 東京朝日新聞
〖日華美術展の出品画〗

【来る11月1日より上海と大連とで

  日華連合美術展覧会

が開かれるが

日本側よりは帝展系日本画作家の作品百数十点を

出品することになり目下それぞれ準備中であるが

日本側代表者として荒木十畝氏は

来る26日門司発香取丸で上海にわたることとなった】


▲昭和4年11月2日 東京朝日新聞
S4,11,2東朝日①**S4,11,2東朝日②

昭和4年11月2日 東京朝日新聞・夕刊
〖日支現代絵画展・上海特派員一日発〗
【一日午前十時半会場たるコンノ―ト路

徐園に開会式挙行、出品日本側一流二百点余

China側四百点余、

荒木十畝氏は

「海外で日本画をこんなに多く展観し

たのは空前でChina画界に大なる刺激

を与えるであろう」と語った】


▲昭和4年11月2日 東京朝日新聞・朝刊
S4,11,2東朝朝刊**S4,11,2東朝

昭和4年11月2日 東京朝日新聞・朝刊
〖中日絵画展 昨日開会式〗

〚上海聯合一日発〛
【中日絵画展覧会は一日午前十一時から

コンノ―ト路の徐園で華々しく開会式を挙げ、

参列者は日本側からは重光総領事、

 荒木十畝氏、

China側からは

 張群市長

 王一亭氏

等を始めとし日支両国の画家

その他百五十名の多数に上った、

出品数は日支各二百点、いづれも傑作のみで

会期は二週間の予定である】


池上秀畝画伯の

日華(日中)連合絵画展覧会

実現のための準備活動模様

▲東京美術学校校長正木直彦日記

昭和4年

秀畝工作①**秀畝工作②

*昭和4年7月31日付、同日記

【 朝 池上秀畝氏来訪 

 近日Chinaより帰朝 

  王一亭 

  狄平子

の手紙を言つかりしよしにて

伝達伝言せらる 

今年の秋は是非来航すへきよし

を懇々と申来る】 


*昭和4年8月9日付、同日記

池上秀畝氏来りてChina上海土屋氏より来信ありて秋の

  日華展覧会

に付China側の準備の決定したる事項を

報告し来れる書状を交付せられたり】



◎国立公文書館アジア歴史資料センター
レファレンスコードB05016017700
S4土屋三井公文書

▲「 前略・・・・ 昨十九日 土屋三井銀行支店長の

 小官への内話に依れば

客月中旬 池上秀畝画伯江南地方遊歴の砌

当地に於て王一亭 及 狄楚青氏等と展覧会開催に関し

数次会合せられ両氏より在本邦関係者への伝言方依頼したる云々」




    1929年(昭和4年)

日華連合絵画展覧会

    奉天 展覧会



◆奉天展覧会 開催の前年(1928年/昭和3年)6月、

  張学良将軍の父君

  張作霖大元帥が日本軍の一部によって爆殺される

  ”満州某重大事件”である

img302.jpg


▲昭和4年10月23日 大阪毎日新聞
 
人見絹江さんと張学良将軍が握手を

している3段抜きの写真が

大阪毎日新聞(昭和4年10月23日)

に掲載されています。

S4人見嬢

人見さんは、

第9回オリンピック・アムステルダム大会

・800メートル第2位の銀メダリストです。

*その新聞の見出しには、

【“張学良氏と人見嬢の握手”
  
  ⋄⋄本社人見絹江嬢は既報の如く
    
 十月十八日奉天北陵の別荘で

   張学良 氏

と会見した、写真は同別荘庭前における握手】

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▲昭和4年(1929)12月3日 

 読売新聞

S4張将軍の所望

〖張将軍の所望で 奉天でも日華展
 
由緒の離宮を会場に開放〗

【 既報日華連合展覧会は

去る一日上海を振出しに同廿九日大連閉会

を以て打切ったところ

 奉天の

   張学良将軍

 から奉天開催の申込みがあったので‥‥

 俄かに 帰国を見合せ

 今三日より五日迄展観することになった

 委員一行中からは

   飛田周山、

   八田高容 両氏

が居残り事務方面は

   渡辺晨畝

   北浦大輔 両氏

が斡旋するため同地に赴いたが 

戦禍の奉展に美術展の催しは

恐らく之が最初のことで

   張将軍

も非常な乗り気で其会場も奉天城内の

清朝の有名な遺物で現在博物館になっている

愛親覚羅帝の舊離宮を開放することになった

右につき一日帰京した

同展委員 西沢笛畝画伯は語る

『今回の出品は日本側二百点、

China側三百点で上海の二週間、

大連の一週間の‥‥

入場者は今迄にない記録で毎日千人以上で

之は東京の展覧会でも帝展、院展其他一二を

除いてはない程の好成績だった、 

奉天の開催は一寸意外だったが

   戦乱中

にかうした催しの出来るところは矢張り

Chinaらしい 満鉄其の他の厚意により

   張将軍

の希望を容れることになった』と 】

大連市役所

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▲昭和4年12月4日 

 大阪朝日新聞

大朝S4124


〖中日美術展 奉天で開会〗

【<奉天特電三日発>

奉天満鉄公所主催の

   中日現代美術展覧会

は三日午後二時奉天城内宮殿で開会式を挙行、
   
   名誉会長 張学良 氏

以下日支名士多数出席して盛会だった 
 
同会出品点数は日本側二百十二点、

China側三百三十九点でその他●●として

China側名士所蔵の珍品百七十一点

が出品されている 会期は三日間である 】


〖盛京時報〗
1929民国18年、 盛京時報 表題

△盛京時報 民国18年11月24日(昭和4年11月24日)
・中日連合絵画展覧会 下月3日在故宮開幕
s4,11,24 奉天展-1
s4,11,24 奉天展-2

△盛京時報 民国18年11月30日(昭和4年11月30日)
盛京時報 s4, 11,30 奉天展-3

△盛京時報 民国18年12月3日(昭和4年12月3日)
盛京時報 s4,12,3 奉天展-3四書五経-1
**盛京時報 s4,12,3 奉天展-3
△盛京時報 民国18年12月3日(昭和4年12月3日)
盛京時報 s4,12,3 奉天展-3四書五経-2

△盛京時報 民国18年12月5日(昭和4年12月5日)
盛京時報 s4,12,5 奉天展-4

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*軍服姿の張学良氏・昭和4年(1929)12月4日 大阪朝日新聞
軍服張学良**S4,12,4張氏軍服**s4,12,4張氏窮状**張学良軍服

S4・12/3の読売新聞は「張将軍の所望で奉天でも日華展」

と見出しがあります。

S4・12/4の大阪朝日新聞は「張学良氏は目下張作相氏らと

これら善後処置に悩みぬいているが事態如何によっては

奉天、南京の関係が一時危殆に瀕するかも知れぬ、

しかし奉天派は上下こぞって日本に援助を求めようとする意図は毛頭ない、

それは日本の利権要求を恐れるからである、

彼らはロシアが強圧を加えているのは日本の尻押しによるものなり

と解釈し内部における

    排日気勢

は以前にまして深刻である、」とあります。

12・3は日華親善のための「日華展 奉天で開催」、

12・4は「排日気勢は以前にまして深刻である」

どう考えればいいのか、難しい報道の資料です

~~~~++++~~~~~~~~~~

◎国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードB05016018100
s4教育部展表紙**s4教育部展-1**

@@@s4教育部展-2@@@
@@@▲昭和4年5月8日 東京日日新聞
〖 上海の美術展へ 洋画各派の出品
きのう関係者が下見して 70点近くを発送 〗
【 既報、China政府教育部主催の美術展覧会は20日から上海において開催されることとなったが同展から出品方依頼されたわが美術界では正木美術学校長を委員長にChina政府教育部美術展出品籌会を組織し出品を取りまとめ帝展、二科、春陽会、国画会から約70点の洋画を得て1日東京府美術館で関係者の下見を行ったので愈々上海に向け発送することとなった 帝展は岡田三郎助氏の「裸婦」和田英作氏の「裸体」藤島武二氏の「ヨット」満谷國四郎氏の「裸女」中村不折氏の「司馬相如と卓文君」等元老@が全部出品、二科も石井柏亭氏以下会員全部出品、春陽会も小杉未醒氏の「帰牧】以下山本鼎、足立源一郎、小山敬三、山崎省三、鬼頭甕次郎、小林徳三郎、岡本一平の7氏が出品、国画会も梅原龍三郎氏以下6氏がそれぞれ力作を出品するわが美術界では実現しなかった洋画の綜合展がはじめて海を越えて実現することとなった 】@@
**s4教育部展-3**s4教育部展-4**s4教育部展-5**s4教育部展-6**s4教育部展-7**s4教育部展-8**


◇日華(中日)連合絵画展覧会の実現に奔走する池上秀畝のこと
s4,8,20秀畝裕福-1**s4,8,20秀畝裕福-2
◎国立公文書館アジア歴史資料センタ-レファレンスコードB05016017700
▲昭和4年8月20日 在上海 田中副領事 岩村書記官殿
陳者、中日絵画展覧会開催に関する当方の準備振は屢次公信其他を以て報告致置たる處作19日土屋三井銀行支店長の小官への内話に依れば客月中旬池上秀畝画伯江南地方遊歴の砌当地に於て王一亭狄楚青氏等と展覧会開催に関し数次会合せられ両氏より在本邦関係者への伝言方を依頼したる處同画伯は自分は右展覧会の役員にも関係者にも非ざるも貴意の趣は本邦関係者に伝達するは勿論自らも及ぶ限り御世話致すべく展覧会開会中に是非再び来滬したき旨を述べ帰国したる趣なる處其後同画伯より数回に亘り王氏宛来信あり展覧会開催に関しては種々斡旋し呉れ居る趣を以て王、狄両氏より土屋に対し池上画伯は日本側委員には非ざるやに聞及べるが同画伯は江南地方へは数回来遊ありChina画界に知己多き関係上来るべき展覧会開催に関し御世話を蒙り度く期待し居る趣にて同画伯を日本側委員又は其他嘱託等の名義を与え同氏が表面的に活動せられ得る様に相成るに於ては該会に裨益するところ少なからざるべく来滬に関する旅費等は同画伯の裕福なるに顧み夫れには及ばざるべき旨内話の次第ありたる趣なるが右は本邦側に於ても事情の存することとは察せらるるもChina側希望の趣貴聞に達し置度く茲に内報致候間一応本邦関係者に於て御考慮を加えらるることと致され度此段貴意を得候  敬具


s4 秀畝 門前**s4,栖鳳秀畝富裕層

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*明治40年(1907)8月14日発表の正派同志會宣言書の正派同志会幹事長は荒木十畝です。
荒木十畝は、日華連合絵画展覧会の当初からの発起人であり日華展の中核的存在でもありました。そんな荒木十畝ですが、
明治40年文部省美術展覧会開設時には文部省に反対して「正派同志會宣言書」を提出しています。日本文化を尊重する気持ちの表れです。
御同様と申しては失礼かもしれませんが、
昭和4年(1929)の中日現代絵画展覧会に反対する立場の中国側の反対者がありました。
21世紀の私共は、20世紀当時の環境にあって愛国的心情から発せられた反対行動だと思います。
日華展の中核的存在の荒木十畝画伯が明治40年には文部省に楯つく行動をしたのです。
中国側の愛国的反発を十分理解できる素地がある事を我国の日本畫壇変遷史が教えてくれます。

S4中国画の日本化_0002**②M40正派宣言1_0001**③M40正派宣言2

① 昭和4年(1929)10月4日「中日現代絵画展覧会に対する反対運動に関する件」

②と③明治40年(1907)8月14日発表の正派同志會宣言書

〖 昭和4年(1929)10月4日
「中日現代絵画展覧会に対する反対運動に関する件」・国立公文書館アジア歴史資料センター・レファレンスコードB05016017800 〗
【(要訳)
*「前略・・・・
抑日本画家の団体は我国の夫れと異なり頗る組織的にして政府を背景とし一切の対外関係は悉く政府の指示に従い周到なる用意を以て遂に中国に代わりてChina文化の主人公たらんとし居れり而して北方人士が中日絵画連合展覧を弁理せるは我国政府の援助なき為不得已に出でたるものにて而も民国十五年締結の東方絵画協会簡章は特に慎重を期し全国画家の統一進歩竝対外的発展を企画せり是れ同会の名称を中日絵画協会とせず東方となしたる所以なり文化上国家に一定の方針なく且我国画界の現状に日本と接衝するも良好の結果を得られざるは明らかにして展覧会の如き徒に日本画作の宣伝となるのみにして中国画は将に日本化を受け其の画学危殆に陥ることとなるべし云々・・・・】」

*日展史 1文展編 1・日展史編纂委員会‖企画・編集

明治40年(1907)8月14日発表の正派同志會宣言書;
「〖 正派同志會宣言書 左の如く8月14日発表したり 〗
【 正派同志會宣言書
来る十月文部省管理の下に開設せられんとする美術展覧会は、
・・・・中略・・・・・
一部の評家動もすれば正派の作を以て常に倣古陳腐些の新意なしと貶し去るもの、果たして是れ眼識ある人の言と申さるべき哉。外国人の面相は見慣れざる眼には萬人一様の如く見受けられ候が常かとも存候。
我等正派の主張にして既に文部省美術審査委員会の所見と相容れざる限りは、我等折角丹青の作品を同会に提出して其審査を受けんことは断然避くべき事と存候、何となれば非なる標準を以て作品の優劣を律せられんことは何人も屑とせざる所、徒に正派の声価を失墜するに帰すべきは火を睹(み)るよりも明らかに有之候。假令い我等は知遇を千載の後に期し忍んで一時の汚辱を甘受するとせんも、一旦我等の作品を以て非なる標準の犠牲に供せんか、其結果や真に恐る可し。定見なき一般の観衆は不当の賞選に過大の信頼を置きて、世の趣味好尚漸く邪路に迷い、純正日本画の運命は終に永く衰頽に帰すべし。是れ豈に由々しき大事に候はずや。・・・・・】 」

~~~~++++~~~~~~~~~~

各委員畫家のスケッチや近況報告文

が掲載されています、それを御紹介致します。

▲昭和4年11月21日付
 
 読売新聞

画信1121


*<日華展委員畫信(1)>

【南支より 

霊厳山眺望 荒木十畝

西施が琴を弾じた琴臺のあとに登ると

太湖が一目に見える。

はてしもなく山から水、水から山へと

次々に重なってさすがは大国だなと

思はせるのである。(西沢笛畝記)】


▲同紙、同年11月27日付

画信1127_0002


<日華展委員畫信(4)>

【西湖新月 飛田周山作

渡支以来一同無事、日々見物やら宴会やら忙殺、

皆々閉口の模様に御座候、

十二日は杭州西湖付近の見物、

その前日湖辺最高の南高峰に登り

西湖一看候に銭塘江を臨み壮観天下第一

と称せんか、一同快哉、

夕刻下山、船を浮べ月を浴して帰る、

China文人墨客の昔を偲ばれ候

荒木十畝氏郵信)】


▲同紙、同年12月3日付

<日華展委員畫信(完)>

画信笛畝_0001


【 蘇州産土人形 西沢笛畝

Chinaの玩具は今二ッの道をあるいている、

遠い昔を其儘に―。素朴な味のある者と、

ぐっと近代式な輸入品とに判然と区別が出来る。

China独特の味をもった新しい玩具は

これから産れることであらう。】

▲昭和4年6月30日 大阪朝日新聞「尾上菊五郎の叙勲」
S4,6,30菊五郎


昭和5年(1930)  

日中芸術家交流模様


◇杭州国立芸術院 ( 昭和4年10月26日 読売新聞 参照 ) について関係記事を転載します。

〖 東京美術学校校長正木直彦日記(十三松堂日記) 〗

▲昭和5年(1930)7月11日付

【午後四時より精養軒に於て余の名を

以て美術家外交家等百五十人を茶会に

招待し今来朝中の杭州芸術専門学校長

   林風眠

以下教授八人を紹介するの会を開く

来会者百人

汪公使

岡部式部次長 横山大観など来れり】


▲昭和5年(1930)7月12日付

【 正午郊外淀橋なる齋藤佳三氏の招宴に赴く

   林風眠

外杭州芸術専門学校教授達を招かれしなり 】


〇 林風眠氏を中国旅行中の東京美術学校校長正木直彦が訪問する日記


▲昭和6年1月19日付

【午後二時に杭州に着 直に西湖飯店

に落着 略 夫より孤山に国立芸術専科学校長

   林風眠

を訪ふ 不在なり】


昭和6年(1931)

日華古今絵画展覧会(於 帝室博物館 )      
    と
日華連合絵画展覧会(於 東京府美術館)

 

▲昭和6年 日華古今絵画展覧会 
国立公文書館 アジア歴史資料センターレファレンスコードB05016019000 
img007.jpg  

img009.jpg


▲ 昭和6年4月20日 読売新聞 
img005.jpg
▲ 昭和6年4月9日 大阪朝日新聞
img006.jpg

▲ 昭和6年4月29日 大阪毎日新聞
S4,4,29張学良1**S6,4,29張学良

〖 名品を揃へて 日華古今絵画展けふ、東京で開く 〗

【 日華古今絵画展は廿八日午前十時から

東京上野府美術館で開会式を挙げた 会長清浦伯の式辞に次で

汪栄寶公使は名誉会長として日華の美術による親善を説いて大気焔を挙げ、

次で一木宮相、幣原外相、田中文相の祝辞を関谷、永井、中川各次官が代読、

上海代表の王一亭氏、

来賓代表の梁鴻志

も祝辞を述べた 

出品総点数六百点、前年の唐宋元明展をしのぎ名品揃ひで

現代画百七十余點の展観も大正十五年以来のものである、

出品の中には

前清内府(宣統皇帝)所蔵の趙大年筆「湖荘清夏図巻」

張学良氏蔵の汪承襦筆「百耆図巻」などがあるが

この百耆図巻と対立する汪承襦筆「写生手巻」二巻は

往年 張学良氏から秩父宮家に献上したが

今回宮家から御貸下げで計らずも並んで陳列され興味を呼んだ(東京発)】


▲昭和6年5月17日 

両展S6

 大阪朝日新聞 

〖皇太后陛下 行啓 両展覧会へ 〗

【皇太后陛下には帝室博物館の国宝展覧会

並に 日華古今絵画展覧会へ行啓のため

十六日午前九時四十分自動車にて

大宮御所御出門、

同十時五分博物館御着、展覧会場に臨御、

京都清涼寺所蔵の宋時代の作十六羅漢図四幅

をはじめ二十八點の国宝絵画につき大島博物館

総長並に溝口課長の御説明を聴し召されたが、

右羅漢図の表装はかって九条公爵家で寄進した

由緒あるものであることに御興いと深く拝せられた、

御晝餐後午後零時半同所御出門、

続いて東京府美術館内の

   日華展覧会

に成らせられて名誉会長

   汪China公使、

幣原外相、清浦会長、岡部副会長、

正木美術学校長各委員の奉迎を

受けさせられ岡部子の御案内、

   汪公使、

幣原外相などの御説明で

宋、元、明、清各時代の名作、

同地並に我が国美術品の代表作を

詳細に御鑑賞あそばされ

同三時四十分御機嫌麗しく還啓あらせられた
              (東京電話)】

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

▲昭和6年5月17日 

 東京朝日新聞

東朝

〖[ けふ國寶展へ皇太后陛下行啓

 日華絵画展へも ]〗

【 皇太后陛下には上野公園内の国宝展覧会並に

   日華古今絵画展覧会

へ行啓のため竹屋典侍御陪乗、入江大夫、

西邑事務官、高松権掌侍、西権命●供奉、

十六日午前九時四十分自動車にて大宮御所御出門、

十時五分博物館御着

各高等官、同待遇の奉迎裏に表慶館で御少憩、

同館勅任待遇以上に拝謁仰付けられ、

大島博物館総長より陳列品目録並に絵葉書を奉呈、

総長の御案内で展覧会場に臨御、京都清涼寺所蔵

の宋時代の作十六羅漢図四幅を始め二十八點の

国宝絵画につき総長並に溝口課長の説明を聴し召され

御晝餐後、右羅漢図の表装は曾て九条公爵家で

寄進した由緒あるものである事を聞し召され御興

いと深く拝された、

かくて午後零時半同所御出門、続いて

東京府美術館内の

   日華展覧会

に向はせられ

   名誉会長 汪China公使、

幣原外相、清浦会長、岡部副会長、
正木美術学校長各委員の奉迎を受けさせられて
岡部子の御案内、

   汪公使、

幣原外相等の御説明で宋、元、明、清各時代の
名作同地並にわが国美術品の代表作を詳細に
御鑑賞遊ばされ同三時四十分御機嫌麗しく還啓
あらせらる 】


△中華民国20年(1931)5月19日〖 申報 〗
◎東京中日古今画会紀要
1931,5,19 申報-2
**1931,5,19 申報-1


▲昭和6年 日華古今絵画展覧会 
国立公文書館 アジア歴史資料センター
レファレンスコードB05016019200
古今展表紙
**S6古今展1**古今展2


▲昭和7年版(1932)

「日本美術年鑑」

美術年鑑S7_0001


 古美術古美術界概観

【 今年での出来事として特筆さるべきは
 
 三月に開かれた朝鮮名画展、

 四五月の交 催された

    日華古今絵画展

 であった。
 
 朝鮮名画展は高勾麗、高麗の壁画の模写から、

高麗佛畫、恭愍王筆と伝えられる断片、

姜希顔、李上佐、安堅等の北派系統、

魚夢龍の梅、李霆の竹、および全明國の作

を経て、玄齋、謙齋以降の南画、壇園、園の

風俗画、更に朝鮮独特の肖像画までが系統的に

示されたことは日本内地は勿論朝鮮でもまづなく、

それは朝鮮総督府の後援、関野博士等の盡力

によることであった。

  日華古今絵画展

現代画家の作も多く見られた

古畫に比しては殆ど云ふに足るものなく、

古畫は前年の唐宋元明の展覧会に較べると、

これは元明清三朝の名画を主とし、

参考として宋の畫をも出したもので、

Chinaから将来したものゝ外、我国に来ているもの

をも多く合せ陳べたので近来まれに見る大展觀であった。

 又三月に催されたChina工芸展も、

研究に資すべき多くの出陳あり、

幾多の鑑賞家愛好者をよろこばせた。云々 】      

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

▲昭和7年版(1932・昭和6年の行事が記録されている)

美術年鑑昭和7年版

「日本美術年鑑」
 
 〖 日華連合古今絵画展
 (四・二八―五・二〇)〗

【 昨年の唐元明に引き続き元明清の古名画
 
 三百餘點を府美術館に展観。

 尚古名画と共に中日現代画会主催

   日華現代画展

 も同時公開された。】

ーーーーーーーーーーーーーー

▲昭和7年版(1932)

「日本美術年鑑」

〖博物館のChina畫展観
(四・二八ー五・一七)〗

【 日華古今展と同時に帝室博物館主催で、

国宝のみのChina畫竝に同系の日本畫

三十点の特別陳列があった。

牧渓筆京都大徳寺蔵の「揚柳観音図」「竜虎図」、

京都知音院出品「牡丹図」京都清涼寺出品

「十六羅漢図」を始め、川崎男蔵の銭舜挙筆

「桓野王図」島津公蔵の呂紀筆「四季花鳥図」

等個人所蔵の国宝も併せ展観された。】

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

▲牧野伸顕日記

 [メモ]
【 昭和6年5月16日付 

 博物館。
 
 日 華

 大宮様口供。 幣原男へ、副島の件。】

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

▲正木東京美術学校長日記

昭和6年五月十六日付 

【 雨後晴 夜来大雨早起尚止まず 

午前九時ころに至りて已む 

今日は午前九時四十分御発駕

皇太后陛下

先つ 帝室博物館に行啓 

国宝絵画御覧 御中食後

零時半 展覧会に行啓ありて

直に賜謁 零時五十分より古畫を

古き部分より御覧 直彦御説明を奉仕す 

午後三時半迄御覧あり 

三時四十分還御あり 

副会長子爵岡部長景氏と余とは

大宮御所澄宮御殿に参候

叡覧台覧の御礼を言上す 】


△昭和6年(1931)4月20日 読売新聞・陸軍通常礼装の軍服姿の天皇陛下
昭和6年4月20日 読売新聞 観桜会
△中華民国20年(1931)4月20日 大公報
1931,4,20大公報*1931,4,20大公報-2

・国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードB05016019000
観桜会ー2観桜会ー1



昭和9年(1934)

日華連合絵画展覧会

 < 於 東京・名古屋 >

 

@平成25年11月26日 「豊田さま 遅くなってすみません。
▲昭和9年(1934)5月24日 大阪毎日新聞
S9、第6回 日華展-1**S9、第6回 日華展-2
昭和9年5月24日 大阪毎日新聞
〖美術を通じて 日支融合を実現 連合絵画展開かる〗
【芸術を通じて日華両国民の精神的融合を計ろうとする日華連合絵画展覧会は外務、文部両省および東日後援で23日から東京上野公園内府立美術館で開催 当日出品された日本画は東京、名古屋および京都の一流画家の作品80余点、中華民国側は当代新進、名流の150点のほか参考出品として国宝的名画約30点、いづれも逸品揃いで 観覧者1000余名、中にも乾隆5年勅令を奉じ金昆陳、朴孫祐、丁観鵬、程志道、呉桂奉らの合作で当時の時代相を描いたいわゆる「敬豊図」の密画はその精緻鮮麗の筆触見るべきものがあった、なおこれらの出品は順次取替え展覧される】


▲正木東京美術学校長日記(十三松堂日記)/ 昭和9年(1934)
正木S9522

 *五月二十二日付 

【 午後二時東京府美術館に準備中の

 日華連合絵画展覧会

 を見る 

   金 開藩

  携帯の古畫の中には珍しきものあり

  丁觀鵬等五人合作の慶豊図巻

  蔡嘉の花草畫冊十二開

  文徴明 文嘉 謝時臣 仇英 銭穀

  等の合作畫冊 

  王元美 の跋あるもの等見るへし 】


 *五月二十三日付
 
正木S9523
 
【 午前中

   日華連合展覧会

  に行く 

  岡部子爵 外務省官吏 徳富蘇峰翁なと来観す】


▲国立公文書館アジア歴史資料センター レファレンスコード B05015760600
外務省S9許氏1**S9外務省 許氏2

天津市

件名標題(日本語)
2 天津市政府秘書許以栗 昭和九年六月二日
階層 外務省外交史料館>外務省記録>
   満支人本邦視察旅行関係雑件/補助実施関係
第十五巻  

「 九、六、六 2 天津市政府秘書許以栗 昭和九年六月二日起案 昭和九年六月六日決裁 文化事業部長上 第一課長 第二課長 天津市政府秘書許以栗ニ対シ本邦視察 手当補給ニ関スル高裁案 中華民国天津市政府秘書許以栗ハ五月二十三日ヨリ六月三日迄東京 上野公園ニ開催セラレタル日華連合絵画展覧会ノ為右代表者金開 藩氏ト共ニ来朝セル処今回許以栗ハ此ノ機会ニ本邦美術考古ニ関スル諸般ノ施設ヲ視察致シ度希望ヲ有シ居ルモ来訪以来滞在費用相嵩ミ旅行継続困難ナルニ付右ニ要スル視察費トシテ相当額補給セラレ度旨日華連合絵画展覧会副会長正木直彦氏ヨリ当方ニ申出アリタリ 右ハ対支文化事業トシテ有意義ナル計画ト認メラルルニ付昭和九年度対支文化事業特別会計事業費の項講演及視察費ノ○ヨリ右許以栗ニ対シ視察手当トシテ金三百円也ノ○ヲ支出スルコトト致度右仰高裁 」


▲国立公文書館アジア歴史資料センター レファレンスコード;B05016021300
東方文化協会 日支連合絵画展覧会開催に関する件 昭和九年二月』
S9.jpg**S9日華展規定**S9名古屋展**s9,名古屋新聞**img482.jpg**s9,5,2助成費-2



 外務省文部省後援東方絵画協会主催
 日華連合絵画展覧会規定

第一 本会は日華連合絵画展覧会と称す

第二 本会は日華両国画家の新作絵画を陳列す尚参考としてChina古画を陳列することあるべし

第三 本会は昭和9年5月21日より6月1日に至る12日間東京府美術館に於て開会す

   附記

東京閉会後名古屋に於て数日間開会の予定に付其場合には継続出品方を更めて依頼すべし


(Author;

上記の外務省関連の公文書は

第 6 回 日華連合絵画展覧会 」

と推定しうる根拠となる資料ではなかろうか 。

大正10年(1921)から昭和4年(1929)の間に日華連合絵画展覧会は5回開催されたということですが、私共は昭和9年開催の日華連合絵画展覧会を第6回展として数えてもよいのではなかろうかと考えています。)

豊田さま
2013・2・28にあなた様のコメントを見つけました。有難うございました。
当方残念ながら第6回展の目録は持っていません。見つけましたら直ぐに発信いたします。今後ともよろしくお願い致します。

▲昭和9年(1934)6月8日 名古屋新聞
S9名古屋日華展 9,6,8**img016.jpg**ブログ用
〖 名作“慶豊図巻”の展観は今明日限り 
本社主催・Cina現代書画展覧会 きょうから名古屋美術クラブ 〗
【 外務省後援、本社主催のCina現代書画展覧会は大きい期待に迎えられて
いよいよ今8日から東区朝日町名古屋美術クラブに蓋を明けることとなり
7日は金開藩氏、東方絵画協会渡辺晨畝画伯立会のもとに本社係員の手で
すべての準備を整えた、
階上階下に亘り出陳点数は約200で民国現代絵画の粋をすぐり
大ケースの中には不朽の国宝的名作慶豊図巻が燦然たる光彩を放っている、
この図巻は乾隆皇帝がCina4百余州の治国泰平の姿を後世に伝えるため
時の大画伯丁観@ほか5名に勅命を下して描出された極彩色の風俗絵巻で
長さ3間、1巻中にえがかれた人物の数は2万余人の多きに達し丹精の極美
と称せられ、代々清朝の宝物となっていたもので、
この展覧は八九両日のみに限られている、
開場は毎日午前9時から午後6時までで入場料は30銭である 】

▲昭和9年(1934)6月9日 名古屋新聞
S9名古屋日華展-6,9-1**S9名古屋日華展-6,9-2

▲昭和9年(1934)6月10日 名古屋新聞
S9名古屋日華展 9,6,10


▲中外商業新報 昭和9年5月26日
中外商業S9

  

昭和 10年(1935)  

日中芸術家交流模様



塔影S10
 
▲「塔影」昭和10年8月10日発行

〖中華民国美術学究徒の来朝〗

日華親善の波に乗って、最近China学徒連が著しく来朝する中に、

  蘇州美術学校教授 胡粹中

が門弟三名を同伴

七月十七日朝神戸港入港のエムブレス・オブ・ジャパン號で来朝した。

氏は作品五十枚を携えて来て居り

東京中華会館で画展を開催する筈である。】





  昭和 12年(1937)  

**********************

〖 回顧七十年 〗正木直彦著 学校美術協会刊 昭和 12年(1937)
回顧表紙**回顧裏表紙**しな人5**しな人6

【さて、私がChinaへ行ったのは、前述べた大正十三年末のと、

昭和三年及び六年の三回であって、

対支文化事業としての用務を帯びての事だった。

その中、昭和になってからのは、

荒木寛畝(荒木十畝の父)の弟子に渡邊晨畝という花鳥画をよくする画家があり、

此の人が屢々Chinaに行ってChina人と交際する中、

Chinaに日本現代の美術を取揃へて見せて欲しい、

又、日本へChinaの絵も紹介して貰いたい、

-というような希望を述べられたので、

戻って外務省の対支文化事業部長の岡部長景子爵や私に相談をした。

これに対し、私は大賛成であったし、

政府としても一つ遣って見たらよかろう、と云う事であった。】

と東京美術学校校長正木直彦氏は、

「日華(中日)連合絵画展覧会」の開催模様を語っています。



   
昭和14年(1939)
日華連合絵画展覧会 復活計画  


▲昭和14年4月23日 

S14十畝渡支**S14,日華展再開
**S14十畝渡支②_0001**

 東京朝日新聞

〖 新Chinaの文化再建に 差伸べる

“温い手” 畫壇と仏教界から親善の使節 〗

【 新生China目指して我国の畫壇と

仏教界から同時に二つの美しい

親善の手が差のべられる、

戦火の中に自然消滅となった

  「中日絵画連合展」

を復活さすべく畫壇から六十八歳の

   荒木十畝 画伯

が乗込み

「日華仏教研究會」の復活を期して

仏教界から七十二歳の京都百万遍

前法主林彦明大僧正が出発、

共に新Chinaの文化再建設に老躯を

提げて進むことになったのだ 〗

【 「中日絵画連合展」

  が提唱されたのは大死(正)七年の頃、

   主唱者は 

   荒木十畝、

   該 晨畝 両画伯

らで折柄の排日の気運の中で種々な障害

を受けつゝも

  十一年に呱々の聲をあげ

日本畫壇の大家とChina一流の画人とが

共に東洋美術を研鑽し

 日本側からも竹内栖鳳、横山大観、

川合玉堂、山元春挙、小室翠雲画伯らが

参加し絵筆を親善の楔として苦難の中にも

堅実な発展を遂げ

一時は両国の四百余點に及ぶ作品が

出陳される等親睦の美果をあげて来たものだが

事変前の国際関係の悪化で會は自然消滅

となり戦火の中に流離して

China畫人達の消息も今は全く絶えているのだ

 ところが興亜建設の春に

”何とかして復活させたい“といふ聲が

最近我畫壇に強く起り

   荒木画伯

が愈二十七日東京を出発することになったのだ、

二十二日、豊島区長崎南町の自邸で語る
 
あの頃を思い出すと懐しい、

政界で鳴らした
   
   曾錕、
   
   徐世昌 氏

等も自分の畫を出品したり

會の世話をしたり

   呉佩孚、
 
   王克敏 氏

らもこの會に入っていました、

日本側では吉沢公使、坂西中将、

長岡外史将軍の骨折もあって

天津北京ではいつも大入の展覧会だったのです、

思い出す畫人達は

   呉俊郷、

   ◆◆士、

   汪大◆‥‥

何とかしてその人々を探し出して

あの會をもう一度前以上のものに

してゆきたいのです】

(当時の寄せ書に見入る荒木画伯・写真二段抜き)


▲ 日本美術年鑑  昭和15年版(1940)

s14日本美術年鑑①**s14日本美術年鑑②

荒木十畝渡支 〗

【 荒木十畝は皇軍慰問と美術による

日満支提携に貢献せんとして、

  四月二十九日門司発渡支した。

  先年日支両国間に展覧会を開いた

   東方絵画協会

  の事業を再開する希望である。】


   
昭和17年(1942)

==『日華文化の交流と読畫會』==
     永田春水
=================

荒木十畝画伯門下の永田春水画伯が、

昭和17年(1942)6月5日発行の

『読畫堂塾』という本の中で

「日華文化の交流と読畫會」と題して、

“日華連合絵画展覧会”

のことについて執筆されています。
   
   △

『日華文化の交流と読畫會』
        永田春水

読畫會が日本画の海外進出に貢献し

たことは斯界周知の事であるが、

日華聯合展覧會 や

シャム(タイ)首都開催展

の如きは、特筆すべきことであらう。

 私は、第一回日華聯合展覧會が、北京

に於て開催された時に、荒木十畝先生に

随行したので、その関係から日華展に就

いて記したいと思ふ。

 関東大震災前から 渡邊晨畝氏 が

屢々渡支して、当時の関東軍司令長官坂

西中将の世話で繪を描いていたが、

渡邊氏は、自分だけがChinaで繪を描い

ているといふ小さな事でなく、

日支両国の芸術交流といふ国際的にま

で進展させたいと念願して、

自分が 読畫會々員 であることから、

荒木十畝先生に相談した。

日華・美術使節①

十畝先生は、日頃から日本画の海外進出

といふことを考慮してゐられたので、

渡邊氏の提案を攻究の後、協議一決して、

  読畫會がその中心

となり、芸術を通じて、日支の握手をし

ようといふ事となった。

長岡外史中将の斡旋で外務省も積極的

に後援する事となり、

又China側では北京の

  金紹城氏
   と
  渡邊氏

との交誼が厚かった関係上、双方の交渉

は滞りなく進んだ。

  金紹城氏

は北京の富豪であり、有識者としての人

望も厚く、又絵画にも堪能な名士であっ

たので、China側の万事は

  金紹城

が斡旋する事になった。

 当時のChinaの大統領は曹錕氏であ

ったが、日華芸術展の計企を聞いて、双

手をあげて賛成し、種々なる便宜を計っ

てくれたので、プランは着々と進行して

行った。

大正十三年三月、日華連合展開催は、具

体化し渡邊氏の東導で我々は渡支する

ことになった。

十畝先生は、Chinaに見せるには、南画

も必要であるとし、

  親友小室翠雲先生

にも協力を乞ふこととなり、翠雲先生も

一行に加はられることになった。

一行は両先生の外に、東導役の*渡辺晨畝

*広瀬東畝、*太田秋民、*宮田司山、*森山香浦、それに私が加はり、

南画系から福田浩湖、佐藤華岳、久保田

翠岳を交へ、又荻生天泉君も之に加はり、

現地に於て在支中の西郷松玉女史が参

加して十三名であった。

日華連合芸術展は北京の中央公園に於

て二十日の会期をもって開催された。

日本側の作品とChina側の作品とが處

狭きまでに陳列されて、日華人の観覧者

が踵を接して集まり

Chinaに於ては有史以来の盛大なる合同

展というので、十五日間の会期が二十日

間と延期されたのであった。

China側では、我々一行を

  国賓待遇

をもって歓待してくれた。

日華・美術使節②

大統領の招宴は北京の宮城内で催され

た。曾錕大統領を首め各大臣が列席して、

日華聯合展が、両国の芸術交流の上ばか

りでなく、両国の親善に大きな効果を及

ぼすものであるといふやうなテーブル

スピーチが、各識者の唇から送り出て、

大なる面目を施したのであった。


(*大統領という呼称について )国立公文書館アジア歴史資料館 (レファレンスコード;B03050646100)
【 孫大統領の対外宣言書送付之件 】
M45大統領_0002



我々一行は北京滞在中、北京を中心に観

光するの機会をもった。文化殿、武英殿

等に於けるChinaの芸術を鑑賞したり、

萬壽山に西太后の豪華な生活を偲んだ

り、又China大官の案内で、明の十三陵

を訪れ、途中、八達嶺の万里の長城を心

ゆくまで眺めて、興亡の歴史を回顧し、

或は北京郊外の古墳を訪ねたりして、

北京滞在二十日間Chinaの風物に親し

むことが出来た。

又展覧会出品の買約も多く、

私が出品した「小春」と題する作品は、

大統領御買上げの一つに加はったが、

日本畫をChinaの貴顕や各方面に残す

ことの出来たことも亦大成功の一つで

あった。

 日華連合美術展はこの第一回展開催

を期として、今後は隔年毎に日支両国で

開催することになり、日本で開催すると、

次回はChinaで開催するといふ計画に

なったが、十畝先生の意見として、日支

美術交流といふ大きな国際的事業は、

  私塾 読画会 が中心

となるべきでなく、日支全美術の交流で

なければならぬといふ事から拡張して

  「東方美術協会

と改組して、会長に故正木直彦先生が就

任して、大々的に本格的に日支芸術の交

流の気運を高めることになった。

十畝先生は第二回開催の時にも渡支せ

られて、日華美術交流と国交親善のため

に盡力せられた。

 北京に於ける第一回展が終わってか

ら、私達一行は、南支方面へ旅行した。

初めは大同へ行く予定であったのだが、

その豫定を変更して南支行となったの

である。

 上海から蘇州杭州の風物の探勝に四

五日を費したり、西湖では、近郊の豪華

な庭園を見に行った。花鳥画の点景とし

てよく描かれる太湖石の面白さに打た

れたり、風雅な建築物に興じたりして畫

嚢を肥し、一ヶ月餘の時日を費して帰朝

した。

日華・美術使節③_0001
 
 その後、日支の美術交流は順調に進展

して行き、Chinaの古名画展を東京府美術館で開催した時の如きは、

Chinaの名画を殆んど網羅するの偉観を

呈し、各方面の絶賛を博した。

あれ位、Chinaの名画を一堂に蒐めたことは、嘗ってない事であった。

而も、唐、宋、元、明の代表的な作品ば

かりで、Chinaの名画が、現在、日本国

に於て珍蔵せられ、完全に擁護されてい

るといふ事実を、Chinaに示すことが出

来て、当時のChina人達は驚嘆したもの

だった。

その後、

  金紹城氏が逝去し、

  息 金開藩

が先考の衣鉢を継いで、この事業に尽力

していたが、

  満州事変 

が勃発して、日華連合美術展も開催され

ることなく、今日に至っているが、

日華連合美術展が、両国の親善といふ国

際的に貢献すること絶大なるものがあ

ったことは、

  十畝先生
    及
  故渡辺晨畝氏

の功績といふべきであらう。

話が前に戻るが、

日華連合美術展第一回開催後、上海で更

に上海の名士として名高い

  王一亭氏

を中心とした南方画家との提携を企図

して一週間合同展を開催し北京開催展

にも劣らぬ成功を収めた。

  王一亭氏

は、当時Chinaに於ける第一流の美術家

で、仏門に帰依し、China人の渇仰の主

となって、権門を誇る存在であった。

  北に 金紹城

  南に 王一亭

と、互ひに権門を競うていたのだが、

我々は王一亭氏に北京に於ける展覧会

の状況を報知し、南北合一を実現し、

全支美術家の提携をお互に心から祝した。

  王一亭氏

は非常に喜んで一行を、上海郊外の切徳林寺に案内し、

有名な蔬菜料理を饗応して歓待至らざるなきほどであった。

     ここまで
「日華文化の交流と読画会」の転載を終わります。

*印は読畫會会員

日華・美術使節④


   
昭和19年(1944)

▲昭和19年(1944)3月25日初版発行


日本絵画史表紙

420P.jpg


 ≪ 明治大正昭和 日本絵画史 ≫420頁~421頁

(著者石川宰三郎・㈱大日本雄弁会講談社) 

【――国際的美術進出、中華、伊太利、

独逸、泰國―― 日本の美術が、

国際的に海外へ進出した事実は

随所に説いたが、

大正期から昭和にかけて

   荒木十畝、

   渡辺晨畝

等の努力によって

数次 「日華美術展」

の開催されたのなどその著しきもの。

大挙美術家が渡支した事もあり、

相当の効果を挙げたものである。】


   

昭和23年(1948)6月10日出版
十畝先生表紙**十畝先生序文

美術使節**美術使節②_0001


昭和23年(1948)6月10日出版

== 「十畝先生」 ==

【 十畝先生 】 金井紫雲著

その中から”美術使節“を転載します。

内容は、

日華連合絵画展覧会 と

暹羅(タイ)バンコックにおける

暹羅日本美術展覧会

について書かれています。

―――――――――――――――――

 <美 術 使 節>

先生が七十余年の芸術的生涯の中には、

伝うべき事蹟も多々あるが、

その中の一として特筆すべきは

国際的の芸術運動であった、

即ち一は

  日華連合絵画展覧会

であり、

一は

  暹羅(タイ)国バンコック府

に開催された

  日本美術展覧会

であり、先生はともに美術使節として

これに赴き多大の成功を収めたのである。

日華連合絵画展覧会は、大正七年の頃

読畫會員渡辺晨畝氏が永きChina旅行

から帰朝し、同文同種の日華両国は親善

以て東洋恒久の平和と文化の進展を図

るべき責務があり此の際先づ両国の芸

術家が提携してこれに当たるべきを力

説し中国に於てもこれを希望して居る

旨を十畝先生に語ったので、先生も同感

で直ちにその運動を起こすべく計画し、

晨畝氏は日ならずして渡支して彼地の

芸術家を歴訪打診して促進に努め、

先生は内地にあって百方奔走してその計画

を進めた、これは唯に芸術上の交歓のみ

でなく延いては当時悪化の一途を辿っ

て居た両国の国際関係を此の芸術の握

手によって好転せしむべき希望を繋ぎ

得たからである。

同十年晨畝氏は再び帰朝し先生と熟議を重ね、

先生は自ら東西の芸術家を歴訪し、

翌十一年三月一日、

日本中国聯合繪畫展覧会

を天下に発表した、

即ち発起人としては

小堀鞆音、川合玉堂、竹内栖鳳、山元春挙、

小室翠雲の諸氏外先生とし、賛助員としては徳

川頼倫、渋沢栄一、犬養毅、山川健次郎

氏其他廿七人である。この運動は忽ち四

方に反響があり、中国に於ても非常な好

感と期待を以て迎へられ、

其年五月、中国美術界を代表して

 金紹城、

  陳師曾、

  呉

  煕曾

の三氏中国南北作家の出品約三百点を

携へ来り、丸の内東京府庁内商工奨励館

に於て

第一回の聯合展覧会

を開き、空前の盛況を呈し、

翌年は北京に於て開催

渡辺晨畝氏これか代表として渡支し、

また東京に劣らぬ盛況を呈した、

先生この時の出品は「春暖」である。

第二回は翌々十二年四月である、

此の時は先生自ら使節として、

西沢笛畝、飛田周山、

永田春水、松本姿水 等十一名を帯同し

て中国に赴き、

  金紹城、

  王一亭、

  呉昌碩 氏等

と会見展覧会は北京及び上海に開催し

て効果を挙げ、先生は各地の歓迎会や

公私の会合に臨んで火の如き熱弁を揮ひ

両国文化的提携を力説した。

 聯合展覧会は、更に日本に於ても上野

の府立美術館に開催され、これまた非常

な盛況を呈し両国々交上に多大の寄与

をなしたのである、

この時の先生の作品は

  「雨中牡丹」

であったが、これは北京の

  金紹城氏

の襲蔵するところとなった。

 先生が活動の中心となって多大の

成功を見た

  日華聯合絵画展覧会

は、到る處に大なる反響を見た、

外務省に於ても従来の両国関係が面白

くなかった処から、此の好転を図るべく

 日華連合絵画展覧会

の発起人を中心として、東西の芸術家に

呼びかけ、此の運動の拡大を図るべく慫慂し、

昭和元年を以て外務省後援の名のもとに

  東方絵画協会

が生まれ、先生をはじめ東西画壇の巨匠

は悉く参加し、こゝに名実ともに芸術上

の挙国一致的一団体は出現し、その主催

のもとに中国から各時代を通じての名画を集め、

日本に存する名画をも加へて、

  唐宋元明名画展

が、華々しく上野に開催された。

 この催しは古代の名画の展覧会であるが、

現代の絵画交換展を復活するも

将に此の好機を逸すべからずとなし、

先生は昭和四年、再び同志とゝもに中国

に赴き、彼地の有力者を歴訪して、

その年十二月に帰朝した。

然しこの時は、内外の情勢険悪にして、

  日華展

の再開を許さなかった、

然し先生の初一念は飽くまでその目的

を貫徹すべく、

第三次の中国行を決行した、

▲昭和 14年4月23日 東京朝日新聞 

S14十畝渡支**S14十畝渡支②_0001

▲ 日本美術年鑑  昭和15年版(1940)

s14日本美術年鑑①**s14日本美術年鑑②

〖 荒木十畝渡支 〗

【 荒木十畝は皇軍慰問と美術による

日満支提携に貢献せんとして、

  四月二十九日門司発渡支した。

  先年日支両国間に展覧会を開いた

   東方絵画協会

  の事業を再開する希望である。】


即ち昭和十四年四月出発して先づ北京

に到り、更に上海に赴き、各方面の有力

家を歴訪して六月帰朝し、大なる効果を

挙げようとしたのであるが、折悪しく

China事変勃発して戦乱の巷となり、

遂に今日まで再現の機会に恵まれずに了った、

然し此の行、先生の芸術上に得る處極めて多く、

作品の上には一層幽玄な趣きを加えた。

ここまでで、この本の“日華連合絵画展覧会”の記述は終わります。


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 補完資料集 *****
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≪大正8年(1919)≫
 4月15日発行
≪ 美術之日本 ≫ P13~19
〖 美術の宝庫China 〗
== 附日支連合美術展覧会の事 ==
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 <日華連合絵画展覧会実現経緯>
宝庫最後文_0001

≪大正8年(1919)≫

 4月15日発行

≪ 美術之日本 ≫ P13~19

〖 美術の宝庫China 〗

== 附日支連合美術展覧会の事 ==

          渡辺晨畝
   □
昨年七月青島に上陸し、先づ甞つて堀内中将

から聞いて居った嶗山に登った。

この山は秦の始皇帝が登って東海の蓬莱島を望み、

不老不死の霊薬を求めんが為めに、

徐福をして其処から童童男女数十名を率いて、

出発せしめたと云ふ、

古跡のある處で、風景の絶佳なる事は、

日本の妙義山よりも、もっと変化ある

非常に大規模のものである。

そして雲烟漂渺の間に、島が見えたり、

海が見えたりして実に奇観である。

日本の絵に描かれた蓬莱山は、

この景を採ったものだと云ふ。


 次に伯夷叔齊が薇を採ったと云ふ、

首陽山へ登って見た。元は深林であった

さうだが、今は一樹も無い。

山は高くはないが景色は却々に佳い。

 それより博山へ行った。

此処は孔子が齊の国王と魯の国王とを

峡谷に於て会見せしめて、其処で孔子が

齊王を叱って、其の威厳に●れしめて、

魯の占領せし土地を返さしめたと云ふ處で、

今は陶器の名所である。

 それから濟南に出て大明湖へ行った。

其処では畫舫と云うふ船に乗って見巡はった、

此処には星やその他いろいろのものを祭った

祠があって處々島になって見える。

そして湖水には蓮の花や蒲や種々の水草が

沢山あって、風景実に明媚である、

濟南の城内には太公望が釣をした古跡がある。

此処は水がグングン湧出して居って、

その釣を垂れた處には堂が建って居る。

 又Chinaの書物に『舜は歴山の麓に耕す』

といふことを書いてあるが、その山は濟南の

南方に聳えて居って其の麓に右の古跡がある。

其処は千佛山と云って、自然の山の巌石に

無数の彫刻があって却々立派である。
   
   □
濟南から南京へ行く鉄道で泰山へ行った。

そこは古へからChina五大名山の一に

数へられて居って、

Chinaの歴代の天皇が位を継ぐと、

必ず此山に登って善政を布かんが為めに

座禅をして行をしたと云ふ事である。

故に山上には天皇や学者の石碑が沢山

建てられてある。又其のうちに始皇帝の

『無字碑』なるものがある。

それは始皇帝はあゝ云ふ風に、

学者を坑中に埋め天下の書籍を焼き盡した

程の人物だから、自分は学問を無視する

と云って、泰山に登り之を建てたものである。

この山の神様は碧霞元宮と云ふ女神で、

祈願をすれば何事でも御利益があると云ふ。

その神像を拝したが実に立派で、

観音の如き気高い女神である。

この宮は二千年前の建築に係り、

瓦は緑青色とあって、壁は朱土、

緑青、群青などある。その彫刻建築共に

譬へやうのない立派な技術である。

泰山の頂上を日観峯と云ふ。

其処で太陽の登るを拝めば幸福がある

と言ひ伝へられてある。尚ほそこでは

東海を見ることが出来ると云ふ。

その日の登る方向は丁度我が日本に当って居る。

私はその山の頂上に殆んど野宿同様にして泊り、

そして野のシラシラ白んだ頃にその峯に登って行った。

夏であったけれども、海抜何千尺の高處であるから、

夜が明けない内は慄とする程寒さが酷どかった。

そこに乾隆帝の建てた碑があったが、

その碑の蔭に風を避け乍ら、日の登るを待った。

すると空がだんだん紅くなり、得も云はれぬ

壮観で太陽が登ったので、実に日出を絵に描くには、

斯る色斯る景色を描いたら非常に立派であらうと感じた。

釈尊が菩提樹下に苦行して居って、

十二月八日に明けの明星が東天に燦として

閃いた時に忽然として宇宙の真理を悟り

『一切衆生は皆な我が子なり』

と言って、一切衆生を救はんが為めに、

茲で非常な決心を起されたと云ふ事であるが、

私などは凡夫の悲しさにChina第一の名山

日観峯の頂上に旭日昇天を拝しても

大理想を起こすことも出来なかった。

尚ほ孔子が弟子の顔子を連れて泰山に登り

東海を望んで『天下は小也』と云った処に

『孔子天下小所』と云うふ石碑が建って居る。

そこは日観峯の後方に当る頂上である。

尚ほその一番上の方に玉皇頂と云って、

其処に宮があって中に天柱石と称する、

地球の中心であると云はれている石が

頭を出して居る。

  □
それから段々山を下りると、

始皇帝が雨に遭ふて避けたと云ふ松の木がある。

その松の木に五太夫の位を授けて、

五太夫の松と称せられ、

それを額に書いて石門に掛けてある。

そこに立って眺めると前に対松山

といふ山があり、南方に徂徠山と

云ふ美しい山があって、泰山では

此の辺の景色が最も佳い。

それから下りると、等母宮といふ尼寺があって、

建築は却々美麗である。その裏に滝があって

其処に自然の巌石に金剛経を彫っている。

その大きさは一尺四方余りあって、

王義之の書いたものだと云ふ。

見ると六朝時代のものに相違ない。

その辺りも景色が佳く、実に泰山は

到処景色の宜しい山で、一歩々々画題に適して居る。
  
  □
それから孔子の生まれた魯の曲阜へ行って、

墓所の聖林を拝見したが、その規模の

大い事は驚くべき程で、

六十万坪以上の面積を有し、

周囲に城壁を廻らして居る。

其処に千八百年前の建築等があり、

其他歴代の皇帝が修理した丹碧の

実に壮嚴なる建物が沢山ある。

其処に孔子の墓が土饅頭に大く出来て居って、

大理石の大きな碑があり、其の上に雲龍を

彫刻し、其の下に『大聖至聖文宣王』と記してある。

 その前に始皇が六年間、墓前に喪服していた

と云ふ処に始皇の碑が大理石で建てられてある。

それから孔子の子白魚の墓もある。

尚ほ孔子の子孫の歴代の墳墓がその裏手にある。

 又孔子の生れた古跡に建って居る大成殿へも

参観した。実に立派なもので、壮嚴とか雄大とか

云ふ言葉は斯う云ふ処から現はれたものであらう

と云ふ感が起った。

その境内の広い事、城壁の壮嚴なる事、

殿の大建築なる事、大美術なる事は驚くべきで、

前面の柱は二抱え半もある蝋石で、

高さ数丈継目も疵もないのが十本あり、

何れも雲龍の浮彫としてある。

その御殿の高さは七八丈あって、

天皇の登る階段は大理石の一丈幅で長さ三丈位あり、

それが矢張り雲龍の彫刻をしてある。

その他杏檀といふ建築があって、

此処が孔子が門人を集めた処であると言はれて居る。

 又詩禮堂、孔子の使った井戸、古宅の跡、

其他建築物が沢山あって、何れも精巧壮嚴の美術である。

 其他Chinaの天子が天下を取る毎に、

仁政を布かんが為めに必ず孔子の廟に参拝して

修繕をし建築を献納したもので、

天皇、学者の献納した建築や碑が無数にある。

その碑には皆な碑亭と云ふのが附いて居って

実に壮嚴な畫題に適した建築である。

   □
孔子はあれ程の大聖人であったが、

一生は甚だ不遇であって、餓死せんとした

こともあり、実に気の毒な生涯であったけれども、

その説いた真理は国を治め身を修める真理

の教えであったから、二千五百年の今日に

至っても其の子孫は連綿として続き、

その人望は皇室よりも高く、巨万の富を積み、

非常に名望がある。

 孔子の墓には毒草を生ぜず鳥も巣を送らず

と言うふて居るが全く孔子の尊像の前に

参拝した時には聖賢の徳が身に迫って

何となく敬慶の念が起こって心は清々した。

 最近革命の時にChinaには天皇がなければ、
国が治らないと云って、天皇になるやうな
人格者を求めたが見当たらず、
孔子の子孫の衍聖公ならば、名望家だから
この人より外ないと云ふので革命の名士が
訪問して天皇たらん事を強いて願ったが
それは飛んでもない事だ。どうか許して呉れと
辞退して、それからは人にあまり遇うはれないと云ふ。

私も何か記念に子孫に書いて貰ひたいと思って、

紹介を得て訪ねて行ったが、會はれなかった。

その原因は右述べた皇帝辞退の事からであると云ふ。

 それより二三丁離れた処に弟子の顔子の廟がある。

それも非常に立派なもので、堂々たる建築である。

其処に顔子の古宅の井戸などもあって、

其の側に松の木の非常に面白いのがある。

即ち井戸の東に当って虎皮松と云ふ

普通の松の如くして鱗なく、白い皮の斑紋に

似て光沢あって、松脂の匂がして四人で抱える程の

大木で、周時代のものであると云ふ。

之を繪にしたならば余程面白いものが出来るだらうと思ふ。


引用 《Author》

名作“ローマ帝国衰亡史”の著者、

エドワード・ギボンの『ギボン自伝・ちくま学芸文庫』には

<我々は名誉の評価に際しては、

財産の贈物よりも造化の神の贈物たる

天分を一層重視し、

我々の先祖の中での社会公共の

利益を最も増進する性質を評価して、

その著作が最も遥かな後代にまで

教化と愉楽を伝えるであろう人間の

子孫の方が、国王の後裔よりも一段と

高貴であると判定するように心懸ける

べきであろう。

私の考えでは孔子の家系は世界で最も

輝かしいものである


我々ヨーロッパの大名や王侯が、八百年

もしくは一千年の懸命な遡及の果てに

すべて中世の闇の中に埋没するに反して、

孔子の子孫は中華帝国の広大な

平等性の中で二千二百年以上にわたって

平和な名誉と恒久的継承を維持していて、

現に今日でもこの家族の首長は君主及び

民衆からこの人類で最も賢明な人物の

生きた似姿として崇められている。

中略

私自身はと言えば、私がもしも自分の

先祖に将軍や政治家あるいは高名な

著作家を持っていたならば、さぞや子

としての愛から彼らの生涯や著述を

勤勉に研究するであろうし、

この偶発的な関係からある種の喜びの

感情、敢えて言えば虚栄心が自分の胸に

萌すかもしれない。

だが私個人は、彼らの称号や財産の

思い出よりも彼らの個人的功績にこそ

一層多くの喜びを見出すものであり、

それ故に私は軍人の名声よりも

文人の名声に一層深く感動し、

マリウスよりもキケロから、

そして第一級のガータ勲爵士よりも

チョーサー(14世紀の英国詩人)から

自分が出ていると聞くことを格段に喜ぶだろう、

と敢えて一言したい。

孔子の家系は私見によれば
地上で最も高貴である。
この哲学者から現在の彼の子孫の家長まで
七十代の権威ある世代がすでに経過し、
現在の家長は、Chinaでこれまでに
四千四百二十五年間栄えてきた
輝かしい家系の始祖と信ぜられる
黄帝から数えれば百三十五代と数えられている。

私は何の躊躇も留保もなく私の個人的な

感情を述べてきたし、今後もそのように

心懸けるであろう。

それ故に読者諸賢も尊卑の別なく

この主題に関しては、自分自身の

内心の声に傾聴するように

私は奨めたい。

この種の感慨が正当、少なくとも自然で

ある事実を、私自身は自分の祖先から

何一つ栄光や汚辱を引出せぬ故に

この主張に何らの利害を有しない人間として、

一層深く確信するものである。>

『ギボン自伝・ちくま学芸文庫』より 

▲大正8年(1919)8月6日・大阪毎日新聞

【巴里で山東問題宣伝中の

 孔子様の末孫 第七十五代の後裔と自称する孔祥柯】

孔子パリ**T8孔子パリ


     □
其処から有名な朱水へ舟で渡り、更に済南に戻って来た。

此時済南では山東省一の蔵幅家、

  王鴻陸

と云う人に招待されてその蔵品を見せて貰ったが、

唐時代の名品殆んど百点程あった。

その時私はChinaの名画には驚くべき技量の

ある事を認めて、それよりしてChinaの古畫を

見なければ東洋美術の真髄は得られぬと考へた。

故に其後はChinaの名望家、蔵幅家を訪問して、

成るべく多くの古畫を見る事を力めた。

又此地では陸軍中将の

  馬良

其他の人々の繪の依頼があったので、

暫く滞在して之を描いた。

 それから北京の方へ参り、

第一に八達遠嶺の万里長城、弾琴峡及び居庸関等へ

行って、見物したり写生したりしたが、

山の趣は日本の山とは違ひ、皆な南画に

あるやうな山である。殊に居庸關の辺りは

尤も風景に富み、山水画家は垂涎去る

能はざる名所である。

 それより田中博士、萩野博士、和田学士、

西田大尉、それに私と五人その途中にある

第一の鳥居は大理石で、

高さ七丈五尺、広さ三十間の建築で、

雲龍、狂獅子などを彫へてあるが、

明の初めの彫刻だから、殊に獅子杯に

至っては、一見飛躍するやうな勢のある

成功の作である。

そして文皇帝の御陵に至る途の両側に

石造の駱駝や馬や人などの種々の彫刻や

大理石の像があって、皆壮大大目を驚かす

に足るものである。

その辺りより遥かに北方を望めば、

天壽山の黄瓦は色鮮かに輝いて居る。

それは明の成祖の御陵である。

又谷を隔てゝ十三陵が、一眸の中に集まり

點々として見える。

 それから門衛を呼んで門を開かしめて

廓内へ入ると、杉や柏の樹木が鬱蒼として

繁茂して居る。これより稜恩門を過ぎて

稜恩殿を拝観した。これは東西三十間、

南北十五間餘の建築であって、

御殿中の柱が三十二本、その高さ五丈餘、

皆楠の円柱である。その天井は百種の龍の極彩色で、

その前方には百花の極彩色を施してある。

又周囲の欄干は皆大理石の彫刻である。

この絢爛の有様を見ると、明の成祖の威厳は

成程斯う云ふものであったかとつくづく感ずる。

 この御殿の後方に文皇帝の御陵が、

非常に大きな土饅頭を為して、山かと

見間違ふやうに見える。其処に成祖の碑が建てられ、

碑亭があって実に堂々たるものである。

その規模は日光の如くにして、もっと大い建築で、

非常に壮大である。

その他の各陵も殆んど同じいものだが、

併し代が末になる程、規模が幾分づゝ劣って来て、

十三代目の崇烈帝(これは縊死した天皇

の陵の如きは、ホンの申訳のやうなものが

建って居つて、甚だ淋しく、明の末路が偲ばれた。

此の崇烈帝の陵の前に殉死した坊さんの碑がある。

忠と云ふ事はChinaでも尊んで立派な碑を建てゝある。

  □
それから北京へ戻って、先づ宮中の武英殿を拝観した。

此処には宗代頃からの皇室に伝はって居る

Chinaの国宝、その他康熈、乾隆の幼帝が

富と権威とを以て蒐集し、又宮中に於て

造らせた美術品が沢山あって、実に非常なものである。

純金の寶物としては、人の大さよりも

大なる仏像、楼閣の如きもの、凡て佛の

装飾となるもの、

その他の美術品が皆悉く純金の製作である。

それから玉の寶物の部へ行くと、玉ばかりの

種々の彫刻があり、

又宝石の部へ行くと、凡ての物が寶石ばかりである。

又古銅器になると、隋の時代から周代或は

宋代頃の銅器が無数にある。

それから青磁陶器の部へ行くと、矢張り陶器類ばかりで、

その他蒔絵、硯、墨、絵具に至る迄、

結構と云はうか、珍品と云はうか、

寶の山に入ると云ふは実に此事だらう

と云ふ感が起った。

尚ほこの美術品を売払ったならば

世界の戦争が出来る程の莫大の価値が

あると云はれている。

 次に文華殿を拝観した。

其処には書と畫と丈が陳列してあって、

康熈、乾隆の幼帝が富と権威とを以て、

集めた物の外皇室が画家を奨励して描せた

美術品もあり、学者を奨励して胎したものもあり、

実に名品許りである。

東京から態々此処迄見に行っても宜いもので、

東洋美術の研究としては、之れ以上の有益な

ものは無からうと思ふ。

 是等は宣和、御府、明の文淵閣を経て、

乾隆帝の石渠秘笈に収めた国宝であって、

若し一朝北京が敵に包囲せられた時は、

熱河の離宮に蒙塵して再挙を図る為めに、

此の武英殿と文華殿とに、その軍用品の用意として、

斯くも多くの美術品を蒐めて居ったもの

とも云はれて居る。それは実に唐、宗、元、明迄

の名家の書画を網羅し盡してあるから、

之を見た時には、繪に酔ふと云ふ事はあゝ云ふ事かと、

心恍惚としてその室を去られないやうな心持になった。

 私はChinaの名画、美術品は

東洋美術を通り越して、世界の美術たるを疑はぬ。

そしてChinaの名画に至っては

、一木一草一点と雖ども苟くもせず、

決して軽率な筆は使って居らぬ。

東洋美術を研究するには、どうしても

此の文華殿を拝観することは、

畫家に取って尤も必要な事と思ふ。

   □
尚ほ文華殿と武英殿の間に太和殿がある。

其処には皇帝の玉座がある。

皇帝の椅子のあるその周囲の柱は

二丈周りもある、金色にして

雲龍の彫刻をしてある。

その四本の柱の上が日本で云へば日光にある

天蓋のやうなものが天井になって、

その中が純金の渦巻いた龍である。

その龍の口から鎖が下って、

白金の直径三尺位の玉と、尚ほ周囲に

同じ白金の六個の小玉とが附いている。

之れは明の永楽年間の建築当時から

今に錆びないから、プラチナに相違ない。

その玉の下が天皇の椅子である。

その椅子の左右の肘掛は唐獅子の彫刻で、

それは生けるが如き名作である。

その後方に寄りかゝる所に雲龍の彫刻があって、

その後方が丁度日本の屏風のやうな形をした

唐木の彫刻である。そして四本の柱の周囲の

柱は朱塗りの一丈周り位のものが数十本ある。

その天井は百種の龍の極彩色である。

御殿の周囲の建築は日光を見るやうな

もっと大規模の極彩色で、桝形を為して居る、

その周囲の欄干は三段になって、大理石の

彫刻である。御殿に登る階段は三つあって

中央は皇帝、両側は臣下の昇降することに

なって居る。実に堂々たるもので日本から

行って見ると、雄大荘厳に全く驚かざるを得ない。

その裏の中和殿が皇后の玉座で、

規模は稍々小さいけれども、

皇帝のものと殆ど大差が無い。

   □
それから元宮中の御庭になって居たのが、

今は公開されて中央公園と言はれて居る。

其処に社稜壇と云ふ古い建物がある。

此処で今年私共は展覧会を開かうと思ふて居る。

それから萬壽山は実に立派なものである。

もと此処に明の離宮があって、

それを延命閣と云ったが、

英仏軍が北京占領の時分に焼いて了った。

今は焼趾が残って居る。

此時分捕った翡翠が、今日英国の博物館

に収められてあって、

それが世界第一の翡翠で非常な珍品であると云ふ。

 その少し西に当って現在の離宮がある。

それは実に立派な大建築で、昆明湖

と云ふ湖があり、一方は山になっていて、

楼閣廻廊があり、高い処に仏閣があり、

それから大理石で造った舟の彫刻、

中島に渡る大理石の橋などあって、

其の欄干のぎぼしの上に獅子が彫ってあって、

一々形の変わったものである。

そして宮殿の黄瓦、丹碧の文彩燦として

今の碧湖の水と相映照し、遥かに龍王廟

の楼閣、玉帯の長橋、湖心に浮びて輪奐

の美を極め、話に聞いている秦の始皇の

阿呆宮といふものは、之れの少し大規模の

ものだらうと云ふやうな感が起こった。

建築、彫刻、風景、何れも畫題に上すべき

結構優美なものである。

 そこから遠くを眺めると北京宮城内の景山、

北海等が一望のうちにあり、その北海には

島があり、橋があり、廻廊がありて、

中に楼閣があり、処々に伽藍があり、

其の伽藍は丁度仇英の繪に見るやうな大建築で、

五個の亭がある。

仇英が美人が蓮池に舟遊びなどして居るのを

描いたのは、此処が多く畫題になったものであらう。

 景山は萬壽山の丁度東に当って居る。

その地は元が初めて都を北京に置いた時、

若し北京が敵の包囲を受けた時には、

燃料に差閊へるやうな事があってはならぬ

と云ふので、石炭を積んで山となし、

其処に木を植えて、五個の阿屋を建てた

其処を北海の上から見るのは、実に善い畫題である。

 明の末路を考へると、明の十三代の

崇烈帝が敵将の李自成に攻立てられ、

今や内城も危く見えたので、

百官を召したが皆駭いて応ずるものは無かった。

そこで策の施すべからざるを悟って、

皇太子を遁れしめ、皇妃を自殺せしめ、

宮姫数名を切って、最後に帝は景山へ登って

此の形成を見、最早や是れ迄なりと覚悟を定めて

遺勅を認め、景山の亭に於て縊死を遂げた

のであるので、私は北海を望み見た時、

徐ろに明の末路を思ふて、感慨無量であった。

 尚ほ此処にある天壇と云ふのは、

天皇が民の疾苦を救ひ、五穀豊穣の

祈りをした処である。又雍和宮と云ふのは、

元と蒙古及び西蔵の僧侶の為めに、

離宮として提供した処である

何れも建築は立派なもので、

一として畫題にならぬものはない。

併しその幾部分は、壁落ち雨漏り、

殆んど荒廃に帰しているのは、

美術の為め誠に惜むべきである、

   □
それから孔子の廟へ参拝した。

其処に石皷と云ふものがある、

それは隋の時代のもので、

三千年前の文字

三百字許り残って居る。

威厳のある実に立派な文字で、

China文字の歴史的珍品と云はれて居る。

その他皷樓、白雲観、玉泉山、西山、

碧雲寺等も見るべきものである。

その碧雲寺にある佛像は明の初代頃の名作

と云はれ、実に生けるが如き威厳を具へて居る。

文殊、普賢の像の如きは、其技神に入り、

餘りに物凄い感じがして、到底一人で

寺内に入って行っては、長く見るに

忍びざる程の名彫刻である。

その外、畫佛寺へも詣でた。

 尚ほ北京滞在中には、

北京第一の蔵幅家である、

  顔世清

を訪問して、非常な名画を拝見した。

その時氏は一度には見せ切れぬから、

一週間に一度づゝ見に来て呉れ

と云はれた程で、その豊富な蔵品には、

驚かざるを得なかった。

 それから今のChinaの畫家には、

北京其他に技量の優れた畫家が澤山あるから、

私共は今秋を期し、

Chinaの畫家と日本の畫家との

聯合の展覧会
を、

北京の中央公園に於て開会したいと思って居る。

それは相互の研究ともなり東洋美術の為め

実に有益な催しであらうと思ふ。

 先づ第一回は他から助力を借りることも、

一寸困難かも知れないから


殆んど自費を以て畫家に出品を願って

第一回を開会
し、

それより年に一度宛是非続けたい考である。

第一回が好結果を奏すれば、

Chinaの有力家及び日本側の有力家よりも

援助を受ける事は容易くなるから

次回からは安々と補助金を仰いで、

開催される事になるであらう。

その為め今秋七八月の交には、

夫等の準備旁々、再び北京に向かって

出立する積りである
。(談)

〖美術の寶庫China

 ==附日支聯合美術展覧会の事==

            渡辺晨畝〗

転載完了



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大正8年(1919)5月発行

雑誌“美術之日本”

気運①**気運②**気運③

『美術上日支連合の気運』   
      渡辺晨畝
   △
【前回に少しく述べた通り、

今秋の九月十月の交を卜し、

北京に於て開かんとする

 日支連合美術展覧会

は、東洋画の真髄研究の為めに、

日支畫家が協同して

 第一回の展覧会

を開かうとするのである。

それに出品するChinaの畫家は、

同国衆議院議員にして現在China南画の

大家たる金紹城氏、

女子師範学校教授包公超氏、

清朝の宮中に居った

を初めとして、外幾多の名家がある。

そしてChina側の顧問としては、

前大臣周自斎氏、

外交部顧問顔世清氏、

前大臣王古敏氏、

China銀行総裁陳漢第氏、

陸軍中将曲同豊氏、

同 馬良

その他の名士であって盡力する。

又日本の画家で既に賛成して出品する

人々は山田敬中、

読画(会)荒木十畝、池上秀畝、広瀬東畝、倉石松圃(畝)、

荒井寛方、川(河)合英忠、勝田蕉琴、野田九浦、

町田曲江、荻生天泉、鳥谷幡山の諸氏、

それに私などで、

尚ほ鳥谷氏と私とが幹事として

外知名の畫家数十名専ら経営の任に当たって居る。

    △
それから前回の補遺として尚ほ少しく

China美術のこと述べて見んに、

東洋画の一番盛んなのは、Chinaでも

矢張り佛教傳来以後のことで、

唐宗(宋)の時代就中宗の時代を以て、

最も進歩発達し而かも異彩を放った時代

と云ふべきであるが、


その以後に至っては、明時代にあれ程に

奨励保護したけれども、迚も宗代には

遥かに及ばぬものがあった。

実に東洋画の本統の真髄を現はしたものは、

宗の時代であると謂へる。

それから元の成吉汗が西洋を征伏した時に、

遉にあれ丈の大英雄であったから、

見識もあったと見えて、

西洋の文学美術は亡さなかった。

却って北京城に西洋の学者、大美術家を

多く連れて来て、研究させたやうな有様であって、

当時西洋画と東洋画と技倆を比較して見て、

西洋画家が東洋畫家に敬服して、

却って東洋画を研究して帰った人も多くあった。

尚ほ元の時代に於て丁度今日の日本の

印衆象の研究して居るやうな誠(試?)みを

Chinaでもやったことがあった。

   △
尚は清朝に至って、乾隆帝の時に

イタリ―の西洋画の名人が、

北京の宮中に於て優遇せられて、

油絵を描いて使はれて居たが、

Chinaの名画を見て居るうちに、

自然とその畫に驚くべき技量の

あることを感得して、

油絵を擲って東洋画を研究し、

尚ほ畫名を郎世寧とChina風に

名前を附けて、

遂に東洋畫の専門家となり、

却々の名人となった。

其人の描いた繪を文華殿でも見た。

尚ほ彼方で名士を訪問した時には

それを見たが実に立派な東洋畫であった。

その画家の描いた絵は日本の京都の

博物館にも保存されてあると云うことである。

西洋画の大家と雖とも、東洋画の意味深き

趣味に敬服して、それを研究したと云ふことは、

東洋画の全く世界の美術と云ふことを

認められることは明である。

   △
文華殿で宗時代の●聖子の鐘馗と

鬼との絵巻物や

 顔世清 氏

の邸で同人筆蛮王拝佛の

畫巻を観たが、その文華殿のものは

極彩色の密画であって、蛮王拝佛の方は

墨絵でこれはChinaにも殆んど稀な寶物だ

さうであるが、

その鐘馗と鬼との畫巻の鐘馗が馬に乗り、

その後を美人が車に乗って居てその鬼が

その車に綱を附けて引張る處の姿勢や、

後押する姿又車の下より車を押す態度、

又その鬼が数十も描かれてあって、

その変態或は働き具合、綱を引くのに

力が入り過ぎてトンボ返りをした様子から、

その身体の働き方が実に言葉にも盡せない程の

名画であった。

それから又蛮王拝佛の図は

釈迦に浪と岡があって、浪の上に雲が現はれて、

その雲の上に蓮華座があってその上に

釈迦が泰然と座禅をして居り、それを蛮王即ち

希臘、西蔵、蒙古、印度、China、韃靼、土耳古邊の

王が拝して居るのである。その面貌、骨格、

服装等実に細密の墨絵であって、

一々各国の人種、表情、人物の変態等実に

驚くべき技量で、神品と云ふものは斯る名画の

ことを云ふのであらうと思った

『●は“龍”と云う字の下に“共”が付いた一文字』

   △
尚ほ前回述べることを洩らしたが、

労山と青島の間に浮山と云ふ山がある。

これは堀内将軍が青島を陥れるのに、

此の山に敵が砲台を築いて居って、

殊に北方の軍隊は馬を連れて居ったので、

青島へはどうしても進めない。

そこで決死隊を編成して、

佐藤少佐以下がこの山で

名誉の戦死を遂けたのであるが、

今私は一人でこの山に登って、

その戦跡を吊ひ、我が同胞の戦死した場所を

見た時には、日本の忠勇なる軍人が

此処で斃れたかと思ふて、無量の態慨に堪へず、

野菊の花を手向けて聊かその霊を慰めた。

この山は東方に海を眺め却々景色の佳い山である。

青島の砲台も元はエルチス、ビスマークら

云ふのであって日本で占領してからは、

朝日砲台、その他の名称に変わって居るが、

それを見た時に、独逸で経営した規模の

完全なことは砲台の山の中は皆地下室があって、

その地下室から又他の砲台に通ずる「トンネル」が

出来て居って、

又大砲のある処へは地下室を大砲の砲庫から、

電気のエレベータで、砲弾がグングン揚がる

ことになって、それを直ぐ大砲に詰めて

打つことになって居る。

二十三珊砲からその他の砲が

沢山据え付けられてあったのを見ると、

実に独逸が軍事に於いては世界中で

最も長じて居ることを感じた。

又独逸が東洋に根拠を設けて世界を征伏

せんとする野心のあったことも考へ得られた。

 併しそれに恐れて居たが、八達嶺の

万里長城に行った時に秦の始皇の築いた

ものだと云ふことだが、実に蜿蜒として

山から山に続き、

蒙古との堺に築いた処の長城は練瓦と石とで

造られ実に大規模のものである。

独逸の砲台に恐れて居たが独逸に設けて

あったやうな中から、上に登る階段が造られ、

要所要所の櫓には烽火を揚げて敵の来襲を

知らしたのである

その信号に依って居庸館へ直ぐ通ずる

ことになって、それから南口で又烽火で

知らせることゝして、その信号を知ると

直ぐ北京城にその信号が届いて、

防備の手配をすることになっている。

軍備の跡のことを見ると二千年前の品が、

今の独逸の砲台にやって居るやうなことは、

頂上に施してある。

 それから元が造った北京城は厚さ六丈五尺、

高さ五丈五尺 元の堅固不抜のChina文明は、

世界文明の魁をなしたと云ふことが歴然として居る。
 
 美術に於てもその通りで、世界の美術であって、

東洋畫と云ふよりも寧ろ世界の美術である。

それが今日では少し以前の趣が衰へて

居るのは、実に歎ずべきことである。

それに就いても日本とChinaとが聯合して、

東洋畫宗時代のやうな名画の現はれんことを、

希望して止まない次第である。

斯くして雙方で研究して行けば

東洋画の真髄は此所であると云ふ

帰着点を歴然と感得せられるであらうと信ずる。

   △ 
大湖石と云ふのは能く畫題に描く

最も貴い石であるが、之れはChinaでも

餘程貴いと見えて、

孔子の詩禮堂の前に一個、

それから顔子の廟の前に一個、

それから済南で鎮守府の指令官の官邸

(明時代の建築)に於て一個を見た。

それから北京の宮城内に七八個もあり、

萬壽山では五六個を見たが、

却々形の変化があって、何となく品位の

あるやうな美しい石であった。

 Chinaの紳士の応接室には、

玉とか、青磁とか、堆朱とか、印材とか、

彫刻物とかの非常に立派なものを

机の上に飾って居って、何萬と云ふものが

並べられてある。

それがズット偉い人になると、

応接室を五ツも六ツも通されるが、

一々そう云ふ飾り付があって実に

驚くべきものである。

そう云ふ美術品がなければ、

紳士として貴ばれないと云ふ

古代からの風がある。

それ位に美術品を貴ぶから、

名ある美術品は容易なことでは

手離さない風習である。

    △
それからChinaの芝居、男優も女優も見たが、

多くは水滸伝とか三国史とか云ふような

戦争ものを演じて、

日本のやうな悲劇と云ふものがない。

その衣装は実に金、銀、寶玉目を驚かす程の

燦爛たる立派なものである。

その芝居には歌を多く入れてあって、

その声が瑯々として実に美しい声で、

大変快感を与へるけれども、

残念乍らChina語が分からぬから、

聞き分けることが出来なかった。

併し美術としては立派な価格があるものと思った。

そして日本のやうな幕間と云ふやうな

切り々がなく、引込んでは出で、

引込んでは出でして繰返して居る。

それを四時頃から夜十時頃迄見て居ても

退屈することがないが、只胡弓や蛇皮線

或は木を叩くものや、さう云ふやうな囃しが

引きも切らず囃し立てるので、

日本のやうな悠長なる芝居を見て居た頭では、

一寸騒々しく感じた。(談)

これにて渡辺晨畝画伯の

”美術上日支聯合の気運”と題する

文章の転載完了


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日支聯合絵画展覧会

▲大正8年(1919)6月15日
美術雑誌“美術之日本”

〖日支連合絵画展覧会 渡辺晨畝〗

【在北京三菱支店長秋山禧氏、

坂西陸軍少将閣下、岡村副官、

其他の名士の高配に依り、

  China大官

  顔世清、

  周自齊、

  金紹城、

其他の諸氏に協議をして呉れられた結果、

  日支連合絵画展覧会

を北京の中央公園又は官中の傳心殿に於いて

今秋十月一日より開会することに決定した。

China畫家も既に出品の用意に取りかゝられた筈である。

日本画家にては

  読画会                                    

の社中

  荒木十畝、

  池上秀畝、

  広瀬東畝、

  倉石松畝


其他の諸氏、それから荒井寛方、河合英忠、

野田九甫、勝田焦琴、飛田周山、町田曲江、

田中頼章、山内多門、荻生天泉、鳥谷幡山、

其他の諸氏、それに私なぞが出品することに決定した。

之れは東洋美術の真髄を研究するには

実に有益なる展覧会であらうと思ふ。
 
 東洋画の本家、数千年来研究を続け

世界に語るべき名画を現して来た所の

China の畫と、

其の風を学んだ所の日本畫、

又千年来の研究に依り日本独特の妙技が

現はれて今日では又世界に認めらるゝ所の

日本畫とを、四百餘州の首都北京に於て

一堂に並べ、展覧会を開くと云ふことは、

歴史あって以来無いことで、

実に名誉なる展覧会であることを喜ぶ。

斯くして日支連合して年々研究を続け、

之を又日本の上野公園に於ても開くこと

にしたいと思ふ。

殊に今回の北京の展覧会が好果を奏すれば、

China及び日本の政府からも相当の保護を

与えられるものと信ずるから、

日本の諸画伯は此の際奮って各畫を

出品せられんことを切に希望する。
   
   □
尚ほ此の展覧会には参考品として

Chinaの唐代頃からの名画を出品して

貰って拝見もし、又此の展覧会を

日本に於て開くときにも矢張り

China の國寶とも云ふべき名画を

出品して貰って陳列する積りである。

既に昨年北京第一の蔵幅家

  顔世清、

  金紹城、

  王克敏

の諸氏が目下美術思想の盛なる

日本にChinaの古畫の展覧会を開いて

日本の人々に見せたいと言って居られた

こともある程だから、

日本で展覧会を開く場合には

是非Chinaの名画を日本へ運んで出品して貰って、

我々畫家の参考に供したい精神である。

 右の如く日支連合の絵画展覧会を

開くやうな気運に向ったのは、

美術上にてChinaの諸名家画家と交際を為し、

打ち解けて快談したり、

又名画を拝見する度に其妙技に敬服したから

日本の画家とChinaの畫家連合して

研究をしようと云ふ、

美術に貢献の精神に固るのだけれども、

之れに就ては特に私のChina遊歴に就て

非常の恩顧を蒙りたる

陸軍中将長岡閣下、同堀内閣下、同森川閣下、

山口子爵、原口博士、藤崎保線課長、陸軍大将本郷閣下、

同少将森岡閣下、鈴木大佐、高田大佐、

山東鉄道課長中村氏、同保線所長市江●氏、

陸軍少将坂西閣下、三菱支店長秋山氏、三井の大村氏、

吉富氏、華勝公司の白井忠三氏、林氏、

其他の人々の御配慮の賜と感謝せざるを得ない

故に此の展覧会を永遠に続けて

東洋美術の妙技を極め、

宋時代の如き名画神品を世界に輝かし、

以て幾分にても右の御恩に報じたいと思ふ。(談)】

“日支聯合繪畫展覧會”転載 了


〖御参考〗
▲昭和6年(1931)4月18日 読売新聞

  陸軍少将坂西氏の記事
坂西勅選議員

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大正12年3月20日発行 美術之日本
China.jpg**China公使館②**China公使館③

大正12年3月20日発行 美術之日本

China公使館に於ける古名書画展観追記
           渡辺晨畝
    □
旧冬十一月の末、北京

顔世清氏

より一封の書留郵便が到着した。其の文面には『昨年春の

日華連合展覧会

に渡東する考であったが、時恰かも奉直の戦雲急なるの場合に遭遇し、

遺憾乍ら東京に参って諸公に拝顔するの栄を得なかったのが残念であった。

此度少しく暇が出来たので約一ヶ月の滞在の見込みを以て

観光旁々東京に参り、前年より約束を致して置きたる

自分の所蔵の古名書画百三十点を携へ行き東京に於て

展覧会を開き、日本博雅の君子の清鍳に供したいと思ふから、

其の準備旁々盡力して呉れ』と云ふ意味を記してあった。

其の国宝とも謂ふべき名画を多数携へ来ると聞いて、

所謂大陸人物の態度が見えて先づなつかしく思ふた。

其時自分は少しく不快で休すんで居ったけれども、

氏は前年より親密なる交際を続け、且つ

日華連合展覧会

の為めには非常の努力をして呉れたる

発起人

のことなれば、之れは責任を以て盡力しなければならぬと決心し、

はね起きて外務省に行って顔氏の知人を訪問し、

何か同氏より通信あらざるかと聞きたるに、

何もなしと云ふことであった。

其他実業家方面にも顔氏の知人があるので問ひ合はして見たが、

此処にも通信がなかった。

そんな訳で有力なる相談相手も得られず非常に心配して、

展覧会を開く会場ぐらいは準備をして置かなければ

顔 氏

に対して徳義も責任もないことゝならうと思ひ、それより河合、

荒木(十畝)、

小室、小堀氏等に相談して日本美術協会の会場でも

借りて置く方が宜しからんと相談して

顔氏の来るを待つて居たところ、

十二月五日頃顔氏はChina公館に到着し、

速達郵便を以て自分に着京を知らせたから、

忽惶として公使館に到り、久し振りにて

北京の親友と握手をした時、北京にての想出多く、感慨無量であった。

   □ 
そこで展覧会を開くにはChinaの国宝とも云ふべき

名品のみなれば展覧会場、及び取締り保管等に大責任あり、

甚だ心配の旨を申述べたところ、

China公使 廖 氏

は之れに同情して寧ろChina公使館に於て展観し

日本の公衆の鑑賞を乞ふ方が宜しからうとの申出によりて

相談纏まり、

十二月十七日より二十三日迄China公使館内に陳列して

諸公の清鍳を仰いだのである。

其の展観品は唐宋元明清迄の名品揃ひなれば、

観覧せられし名士君子も非常に満足せられ、

画伯諸氏の参考となったことも少なくなかったであらうし、

又日支国交上にも大に好影響を与へ、又此の挙を御聞き遊ばされて

  久邇宮殿下

も台臨を賜はり、御賞鍳の後

 顔世清氏

『邦彦王』

と御真筆を賜はり、

 顔氏は感泣して自筆の書と畫とを献納したところ、

  久邇宮殿下

より特別の思召を以て銀盃を下賜せられた。

顔は光栄に浴して感喜したるのみならず、

日本の宮殿下の御高志のほどは

China国民に大に喜ばしい感情を懐かしめることゝ思ふ。

次で顔氏が自分の寶物を自費を以て日本に携帯し、

自費を以て日本公衆の展観に供したるの挙は

東洋美術研究の上に於て貢献する所少なからざるべし

との趣旨を以て外務大臣、渋沢子爵、岩崎男、後藤市長の

招待あり又朝野名士の連合歓迎会あり、

大観、観山、玉堂、鞆音、十畝、翠雲氏等

発起の画伯団の盛んなる歓迎会もあり、

顔氏の厚意に報ふるに至れり盡せりと謂ふべく、

同氏も非常に喜び、大に満足して一月十六日帰国の途に着かれた。

 又此の展覧会中

廖公使は日本の画伯玉堂、大観、観山、鞆音、霊華、映丘、十畝

翠雲及び自分をChina公使館に招待して公使が國より

伴ひ来れる料理人に自慢のChina料理を作らせ

乾隆時代の器に盛り、叮重なる酒肴を備へて

長夜の宴を張られ、快談夜を更かし、其の酒宴中、

公使は美術は国境がない、

日本の芸術家とChinaの芸術家と提携して

年々研究会を東京、北京に開会して

東洋美術の声価を世界に発表する

と云ふ計画は非常に東洋美術の為め、

両国交誼の為め衷心より賛成する所である』

と挨拶あった。

美術が斯の如くして国民と国民との親密なる交際を

結ぶやうになった事は

同種同文の同胞の将来の為め大に慶賀すべきことゝ信ずる。

   □
此の携帯せられたる多数名画の幾部分を写真に撮って

日本に残し度とは鑑賞家及び画伯等の頻りに

希望する所であって自分も之を実行したいと思ひ

盡力して居るうちに二三の方面から撮影を申込んだ

人々もあったけれども悉く之を拒絶し、

前に審美書院と黙契せし所あった為め、

義理を重んじ独り審美書院に於てのみ

唐宋元明名品七巻だけを実物大に撮影したれば

早晩審美書院の手に依りて、此の名画の複本を

頒たるゝことゝ思ふ。

之れは美術界の参考資料として実に有力なるもの

と信ずる、

之れに就て審美書院の窪田主幹が非常に熱心に盡力せられ、

犠牲を払うて之を撮影せられたことは、

美術界の為めに大に感謝すべきと共に又

審美書院の権威であり名誉であると云っても宜しからうと思ふ。

其の畫巻は左の七種である。
 
一、 五代董源設色渓山図巻

之れは元の柯敬仲、明の董玄宰、清の端陶齋の収蔵の

経歴ある名品であって、高雅重厚の筆致を以て幽澗、

屈曲、景山の景趣変化に富み、江山奇峭無盡惓むことを知らず、

我国にて未だ甞って見ざる所の神品である。

二、 宋李龍眠蕃王禮佛図巻

其の経歴は宋の宣和書譜、紹興内府の収録、

元、明、清の石渠寳笈に入りたるものである。

海波渦巻く處に一朶の白雲現出し、光明を放つ佛端然として

蓮座に在り、丘陵に各国の蕃王あり、跪座して手を合はす者あり、

後方十数人の異種国王佛を拝する図であって、

崇厳なる白描の細筆を以てしたる仏陀の大慈悲心の尊容実に気高く、

各国異人種の相貌の変化、心理の表情、服装、模様の相異、

渦巻く海波の変現等実に神品と云ふべく、精妙と云ふ外ない。

墨絵白描にして此の神妙の風情を現示するは実に敬服の至りで、

幾多の絵具顔料を用いるも到底斯の如く精巧なることを得まいと思はれる。

東洋畫の真髄は実に茲に在りと謂はざるを得ない名品である。

三、宋女冠素然水墨明妃出塞図巻

之れは世界一品の孤本で、二品なき珍品である。

其の経歴は曾て梁の蕉林景剣泉の収蔵にかゝり、

元人陸勉強天錫の題詩がある。

之れは四百餘州は愚か全世界に此の一品より外遺品なし

と云ふ珍品であって、

王紹君が蒙古外夷に漢の安全を祈るが為めの

結婚政略の犠牲となりて夷國に騎行するの光景を

水墨白描を以て描いたもので、

護衛の騎兵等に擁護せられ、朔風雪を吹き、

寒気玉肌をとほすの有様、其の心中の感慨に

堪えざるの表情、侍女の琵琶を抱いて従ふの有様、

護衛兵の面貌肢體の変化、馬のあしがき等悉く変化活動し、

小馬と犬を配置したるの働らき、補景に片隈を以て雪景を

現はしたる如き、繊維、精巧、絶妙と言はうか、精妙と言はうか。

而かも一點の色を用いず墨のみを以て此の表情の気分、

其の活動の状態を現はしたるは敬服の外なく、

東洋画の真理は墨と筆に在りと賞賛するも過言でないと信ずる。

婦人にして此の神品を描くは尋常の者ではなからう、

何物にか徹底したる信仰ありしものならんと察したるに、

果たせるかな後世を棄てて尼となりし人であったと云ふ。

四、元王蒙設色秋林書屋図巻叔明至精作
 
王摩詰董源を歸宗として一家を成す

此の秋林書屋は独特の皺法宕縦にして秀潤、峰巒、江邊、紆余曲折、

天真古淡、実に神品である。黄鶴山樵の名を聞けども、

斯の如き名品に接したる我等は幸福と謂はねばならぬ。

五、元銭選(舜挙)設色秋華図巻

    明宣徳鍳賞各璽あり

草花数種と蝶と蜻蛉とを畫きたる繊巧精妙の写生画にして、

蝶と蜻蛉との羽の繊維、色彩等実物と毫も異るなく、

其の着色の繊麗、筆致の妙、日本では未だ見ざりし名画である。

応挙が非常に発奮し、絶倫の精力を以て写生に盡し、

遂に一派を成して日本の応挙と謂はるゝの栄誉を

世界に輝やかしたるは、此の銭選に私淑したからである。

六、明文徴明寒原宿莽図巻
       至精品
古木寒林の描写、筆致縦横、風趣淡然、実に逸品である。

七、明董其昌設色仿黄公望山水巻

         第一出色の作

之れは皺法、樹法の変化、風趣高尚、淡彩秀麗、亦妙品と謂ふべき珍中の珍品である。

此等の古名品を審美書院より出版することになったことは、鍳賞家、

芸術家の参考資料として貢献する所少なからざるものと信ずる。】

つづく



「おわり」に際して

前掲、大正12年3月20日発行の“美術之日本”に 

“China公使館に於ける

古名書画展観追記“

と題して読画会会員渡辺晨畝画伯が

日中美術交流の模様を書いておられます。

【 又此の展覧会中 廖公使は日本の画伯玉堂、

大観、観山、鞆音、霊華、映丘、

十畝、翠雲及び自分を

China公使館に招待して

公使が國より伴ひ来れる料理人に

自慢のChina料理を作らせ乾隆時代の器に盛り、

叮重なる酒肴を備へて長夜の宴を張られ、

快談夜を更かし、其の酒宴中、

公使( 廖公使 )は「 美術は国境がない、

日本の芸術家とChinaの芸術家と提携して

年々研究会を東京、北京に開会して東洋美術の声価を

世界に発表すると云ふ計画は非常に東洋美術の為め、

両国交誼の為め衷心より賛成する所である
」と挨拶あった。】

とあります。

また、

十畝さん経営の“読画会”の古参の会員である

渡辺晨畝画伯に付いて美術全集・日本画大成 

昭和篇(昭和8年東方書院発行)には

渡辺晨畝氏は、日本Chinaの親善は、

外交によるのみでは効果がない、

宜しく芸術を媒として相互の融和を図るべきである


と言ふ建前をもって、

China滞在中に自費をもって

Chinaの窮民、貧児、病者を救った経験から、

大正八年(1919) 日華連合展覧会を創設して、

東西画壇の有力者は勿論、外務省の後援を得て、

日支芸術の紹介と共に、両国間の意思の融和に努力して、

今日に及んでゐる。】と紹介しています。

China公使 廖氏渡辺晨畝画伯のお二人の心遣いは、

共に“東洋”“親善”にあります。

此の着眼点を歴史的遺産として、

後世は大切に守らなければならないと思います。

1921年(大正10)から1929年(昭和4)の間に5回、

日中連合の展覧会が開催されて居ました。

北京で開催された第1回展の次は東京で

“日華(中日)連合絵画展覧会展”を開く

と云う具合に交互に日本と中国の都市で開催されました。

この開催期間中には、概略ですが次のような大きな動きがありました。

国内では

     1921・原敬首相が暗殺され

国外では

    /ドイツではナチス党が結成されてます。

以後

(西暦年)

22・シベリア撤兵終わる/イタリア國ではムッソリーニ首相となる、

23・関東大震災/中国孫文、北伐を決定、

24・アメリカ國排日移民法成立/中国国民党全国大会(第一次国共合作)

25・治安維持法公布/中国5・30事件(排日運動)、

26・大正帝崩御/中国蒋介石北伐開始、

27・金融恐慌/中国蒋介石クーデター南京に国民政府成立、

28・張作霖大元帥爆殺/パリで15カ国の不戦条約、

29・世界恐慌の影響により糸価暴落/ニューヨーク株式大暴落し世界経済恐慌おこる。

政治的、軍事的、経済的大動乱期にあって、

日中の芸術愛好家たちは、もろもろの難局にありながらも、

純粋な創造行為である日華(中日)連合絵画展覧会

の交流を日中間で実現していたのです。

私共は、このような人間性に溢れた

日中交流史のあった事を発信したいと思ったのです。

私共は、新しいミューズである

“純粋な人間性”に奉仕する尊さを、

日華(中日)連合絵画展覧会史の

データベースを作りながら感じるのです。

純粋な人間性に奉仕する心が、

余りに一途な為に、

他者からはバランスを欠いた様に見えて、

誤解される一面もあります。

しかし、荒木十畝率いる読画会の皆さまは、

芸術を愛する人間性に信頼していました。

そして国際美術交流の“前衛”として

日華(中日)連合絵画展覧会に奉仕するのです。

戦局にある当時でした、

人間性の尊さの根拠の一つに絵筆の力がある事を

日華(中日)連合絵画展覧会が証明しています。

私共は、ここに後世のためのメッセージを読み取りたいのです。

弱肉強食の野獣性が横行する当時でした。

しかし、

荒木十畝画伯率いる読画会の皆さまは、

学問・芸術に奉仕する人間性の証として

“日華(中日)連合絵画展覧会”を実現されました。

読画会会員と中国側の芸術家の皆さまは、

“日華(中日)連合絵画展覧会”

の理念である”日中親善”という、

純粋な人間性に奉仕する心を歴史に刻印したのだと思います。

    つづく





* 日本画

日本画の定義 ・ The definition of Japanese painting

断固抗議します!
私共のサイト上の写真をクリックすると、赤地の画面に次のような悪意のある文章が大文字で写し出されました。
【 これは報告されている安全でないWebサイトです
Blog―imgs―26,fc2,com
このページを閲覧しないことを推奨します
代わりにホームページに移動します
このWebサイトは個人情報や金融情報を盗み取る可能性のあるお使いのコンピューターへの脅威を含むWebサイトであると報告されました
▼詳細情報 】
以上

< 1月24日午前1時30分ごろ悪意ある文章の画面を発見しました。私共が公開しておりますカテゴリにある他の名前も確認しました。同様の悪現象が起こりました。

私共は退職後も社会参画したいと云う思いで
“日華連合絵画展覧会・暹羅日本美術展覧会、読画会”外のデータベース作りに邁進しています。

先考文献・研究の有無を調べ、ユニークでオリジナリティーのある作品を目指そうと今日までやってきました。
私共の企画段階で確認した事は、動乱の時代に戦争をしながらも、
同時に平和親善を理念に両国連合展覧会を開催したという事実。 人間は信じる事が出来るんだ!”

この事実を伝えたいという思いでスタートした企画です。

21世紀は平和に投資する時代です、21世紀は融和の歴史を求めています、

日中親善・日タイ国親善を理念にした絵画展覧会を実現した読画会に焦点を当ててきたのです。

そして売名行為や営業とは無関係の方針で進んでまいりました。
私共の願いはこれ等のテーマで資料集の追加・充実を次の世代に引き継いでいけたらと思っております。

今回の悪意ある文章の介入によって驚かれました皆様に対しまして、私共としまして誠に不本意な悪結果をもたらしたと、くやまれてなりません。
残念無念でなりません。

旧来通りの安定した情報公開の環境が戻るように願うばかりです。

どうか侵入しないでください。

お願いします。

ここに此の度の経緯を説明いたしました。
2012.1.24 3;26am シルバーネイル




合理的疑問

日本画に対応する英語は、いったい幾つあるのでしょう?

朝日新聞 1995(平成7年)9月1日(Japanese Pictures)

朝日新聞日本画**朝日日本画2

“<日本美術>誕生”(Japanese paintingJapanese picture)
(1996年12月10日第一刷発行 発行所㈱講談社)

佐藤日本画誕生


~~~~++++++++~~~~



≪ 合理的疑問 ≫

7月1日(2009年7月1日時点)に近所の図書館から

“<日本美術>誕生”

(1996年12月10日第一刷発行

著者 佐藤道信 発行所㈱講談社)

を借りてきました。

佐藤日本画誕生

気にかかる個所は

『日本画と洋画が相対概念として

現われはじめるのは、

明治10年代後半である。

「日本画」の語がはじめて現われるのも、

明治一五年フェノロサが龍池会で行った講演

「美術真説」(小冊子として刊行)で使われた、

Japanese painting(picture)の翻訳語

としてだった。

伝統絵画を示す「日本画」じたいが、

西洋からのイメージ(英語)の反転(翻訳)

として成立したのである。』

一読後の感想は、

Japanese painting(picture)と書いてある不思議さ。

この本の出版は、

1996年12月10日第一刷発行とあります。

この本の出版1年前の

1995年9月1日の朝日新聞夕刊には、

“日本美術誕生”の著者(佐藤道信氏)も

写真入りで紹介されています。

朝日新聞日本画**朝日日本画2


その朝日新聞夕刊(1995・9/1)の

“学問を歩く/揺らぐ

《日本的な美術》上”

という記事の中で、

『「美術真説」は英語で行った講演。

草稿は見つかっていないが、

前年の同内容の講演草稿は、

米国のハーバード大学に残っており、

<日本画>に対応するのは

Japanese Pictures

だという。

<日本画>の流行は、英語の翻訳語が

もとだったと類推される。』

とあります。

朝日新聞夕刊には

<日本画>に対応するのは

Japanese Pictures」だという

と明確に複数形で書いてあります。

それなのに、一年を経過すると

何故、 <日本美術誕生>という御本では、

“<日本画>の語がはじめて現われるのも、

明治一五年フェノロサが龍池会で行った講演

「美術真説」で使われた、

Japanese painting(picture)

の翻訳語としてだった。”

と載せるのでしょうか?

なぜ、2種類の言葉を併記するのでしょうか?

Japanese painting と
Japanese picture  では

各々意味が違います。

直訳すると、

“日本絵”、“日本の絵”と

“日本絵画”、“日本の絵画”です。

“日本画”と云う言葉ではありません。

不思議でならないのです。

出所は同じ”美術真説”なのに、

専門家らが指摘する

<日本画>に対応する英語が


○Japanese painting
○Japanese picture
○Japanese Pictures

という具合に、3種をあげておられるのです。

この状況を例えてみると

あるペットショップでの出来事です。

チワワとブルドッグと複数のシェパードたち、

これら3種の犬たちが店頭に並んでいます。

客 「この小さな犬の犬種は何ですか?」
店主「柴犬です」

客 「この中位の犬種は何ですか?」
店主「柴犬です」

客 「この大きな複数の犬たちの犬種は何ですか?」
店主「柴犬です」

客 「では、柴犬の特長は何ですか?」

ざっとまあ、こんな具合の状況と思います。

“あいまいだ”

という言葉はこういう状況下で

使われるものではないでしょうか?

さて、

美術真説は、上記3種の英語の内、

本当は、

どの英語が<日本画>と対応しているのか?


ここに、合理的疑問の発生する余地があるのです。

本当に、ハーバード大学に残されているという

“美術真説”の講演草稿を実見されたのか?

それを関係者に問いたいのです。

<日本画>と云う言葉の誕生に、

翻訳という作業が、どうかかわったのか?


◇ガントレット富美子女史

大正10年3月31日 東京朝日新聞
ガントレット_0001
ガントレット

〖 ガントレット富美子さん

―文化学院で可愛らしい先生振り

◇忙しい暇をぬすんで

◇日本画や琴のお稽古 〗

【 小作りな姿、やさしい心持ち快活な身のこなし、

本当に可愛らしいガントレット富美子さんは

今度駿河台に生れた西村伊作氏の文化学院に聘されて

一週に二時間の英語を受持つ事となり

いよいよ可愛らしい先生振りを発揮する

◆嬢は昨年八月米国より帰朝早々

英国大使館に勤むる事になって大忙しの中へ

尚日本画の稽古を志し

  荒木十畝

の門に入って昨今メキメキと上達した、

其実は美術学校が男女共学となる噂を聞いて

其処に最初の女生徒となる訳であったが

共学の議は纏らなかったのである

◆『 以前米国では南カリホルニアの学校で

西洋画をやり室内装飾法から配色法衣服の着方など迄

やりましたが 』と富美子さんは絵筆をおいて

私は色よりも線の方がよかったのです、

西洋画とは全然趣が違って居ますので

日本画は難しいと思はれますが面白くって私は大好きです


と余念もない

◆悧発な上に英国の紳士風と母君の思慮深い愛の中に

育てられた嬢は早くから多技多芸の人に仕込まれて

米国に行って修業をし益役立つ婦人に出来上った

昨今は琴の稽古もして居る相な 】
<2010・8・14追加>




日本画様式  

   日本画とは

   形式的構成要素(平仮名様・刃文様・省略様)

       と

   内容的構成要素(歴史的エピソード・話題性・伝統性)

   の2つの構成要素から成立すると仮定します



◇美人を定義するのは難しい。

では日本画はどうでしょう、

実は、日本画は曖昧な言葉ではないのです。

定義できるのです。

明らかな形式的構成要素と内容的構成要素があるのです。

日本画は、まるでワインのようです。

ブルゴーニュ産か、ボルドー産か区別できるように

ドイツには白ワイン、

フランスには赤白ピンクと、

お国の気象・地理的風習的条件の違いにより、

ローカル色の強い種々のワインが生まれ、

豊かなワイン世界を現実のものとします。

ローカル色の強調こそが、豊饒のワイン世界を構成するのだと思います。


日本画様式の油絵、

日本画様式の水彩画

日本画様式の花鳥画、

日本画様式の人物画、

日本画様式の抽象画

と明瞭に指摘できるのです。

確固とした形式的構成要素があるのです。

前置きが長くなりました。

では「山の井会」の記事から紹介いたします。


日本画の形式的構成要素

  平仮名様(日本画の線) 
 
山の井会」と日本画の描線

ここに大正5年発行”美術之日本”の一つの記事がございます。

山の井會


”▲山の井会 同人荒木十畝、岡田正美、尾上柴舟、佐藤梅園、

加藤義清、岡 麓の六氏は二月四日十畝氏邸で本年の発会を開いた。”

とあります。(美術之日本:大正5年=1916年2月15日発行)

日本画会のリーダー荒木十畝画伯の邸内でどのような内容が

語られたのか。

日本画とは何か? を調査中の発見でした。

日本画壇にあって

保守派の巨頭と伝えられる荒木十畝画伯と

平仮名書道界のリーダーである尾上柴舟・

同じく高名な平仮名書家である岡 麓

の文字が目に飛び込んできました。

「昭和の藤原行成」と呼ばれた尾上柴舟と

アララギ派の歌人で平仮名書家として有名な岡 麓が

十畝氏邸に出向く会合とは、一体何の集まりなのか、

私邸で開くのだから「山の井会」とはよほど親睦的な集まりだろう、

居並ぶ面々はどういう人達なのか、

そして、

この「山の井会」が私共の調査している

《日本画とは何か》とどう結びつくのか

ここで近年の日本画観の一例を見てみます。

◆日本画は明治期に作られたあいまいな絵画である

◆意識的に創出された新しい伝統である

◆日本画には客観的な様式などない あいまいなのが日本画だ

◆大日本帝国下にあってこそ有効な日本画という言葉であった
 
 わけだが、今日その言葉の有効性が問われ始めている


と一面的に取り上げられております。

そして、日本画という言葉を(風景画)(人物画)(抽象画)

というジャンル別に置き換えるのが実体に合った見方だと

今日的状況を解説されます。

はたして、そうか?

「山の井会」の趣旨を調べる手だては今のところメンバーを

調べるしかない、一人一人の経歴を調べよう、同名異人の

場合も当然予測されるが、五名も同名異人とは考えにくい。

とにかく当たってみよう。

大根がいっぺんに畑に出来るように、

思いつきは順序よく一本づつ生えてくるのじゃないのです。

あっと言う間に生えてきた思いつきを整理して、

まず「山の井会」のメンバーを調べる作業にかかりました。

〇 尾上柴舟 1876(明治9年)~1957(昭和32年)

       東京女子高等師範学校教授・日本芸術院会員。
       
      大正12年(1923)「平安時代の草仮名の研究」をもって

       文学博士となる。明治中期における仮名書道の古典復帰運動

       に明確な体系を与えたものとされる。
       
      「昭和の藤原行成」と称揚され昭和前半期の(かな)書道界を

       指導した。

       十畝画伯も東京女子高等師範学校教授を長く勤められ、

       二人の接点は

       普段から日常的にあったのではなかろうかと思われます。

〇岡田正美 1867(慶応3年)~1923(大正12年)

      文部省国語科書道教員検定委員。温厚な書風で知られた。

     「書苑」誌上に書風の感覚や姿態を「剛健体」「優美体」「幽雅体」

     などの分類をした。

〇佐藤梅園 1876(明治9年)~1923(大正12年)

      小野鵞堂に入門、その書風を受け継ぎ当時としては独特の派手な

      経営法で多くの門人を指導し山野紅蘭・安達松石など輩出した。

〇加藤義清 1862(文久2年)~1941(昭和16年)

      大正11年御歌所寄人となる。

      古筆に深く参究し上代様仮名の名手であった。

〇岡 麓  1877(明治10年)~1951(昭和26年)

      アララギ派の歌人。聖心女子学院の習字の教師をした。

      その歌風は典雅で艶があり含蓄深く、真に古来の伝統を

      生かした最後の一人と言われています。
      
      1949(昭和24年)作歌者として芸術院会員に推されたが、

      書も豊潤端麗な独特の書風を樹立した。

      岡 麓全歌集・岩波文庫版(入木道三部集)の校訂者。

      「何うまき ものと思うと とはれしに
               餅とこたえて 餅をば貰う」

       岡 麓の歌は、将軍家直参医家の富裕な育ちからくる卑しさのない、

       都雅さと渋さが身上だそうです。正岡子規門下。      

       野鳥

      “野鳥礼讃”(巣林書房発行)という本の著者は、

      内田清之助農学博士、

      見返は荒木十畝、題字は岡麓とあります。

      ここらあたりからも“山の井会”のメンバーであろうと思われます。

〇荒木十畝 1872(明治5年)~1944(昭和19年)

      東京女子高等師範学校教授・大正13年帝国美術院会員・

      昭和12年帝国芸術院会員。

      大正11年(1922)日華連合絵画展主宰

      昭和6年(1931)タイ国で日本美術展覧会

      中心的役割を果たす。

      読画会を主宰し

      花鳥画の大御所と呼ばれる。
       

引用 
     ▲「愛鳥自伝・中西悟堂著/1993,11 平凡社刊」には
      (花鳥画の大御所荒木十畝画伯

      豊島区要町のお宅に訪ねたのは、)とある

     ▲保守派の巨頭(河北倫明美術論集第五巻・418頁)

        愛鳥自伝**河北論集


      画壇における立場は

      保守派の巨頭(河北倫明美術論集第五巻・418頁 所収)

      とあり文字通り明治・大正・昭和の三代にわたり

      理論家、絵画教育者として日本画壇を指導し続けた。

      標榜するところのものは

      「守旧漸進主義」であり著書に「東洋画論」がある。
      
      第二次大戦後、横山大観・竹内栖鳳・川合玉堂らの陰に

      かくれて戦後の美術界にあって忘れ去られた日本画壇の

      恩人であり

     (絵描き風情)と見下す戦前にあって

     画家は学者であり理想家であり精神家であると志を明らかにし、

      さげすまれた(絵描き)の社会的地位向上に尽力した巨人である。

引用(現代日本画大鑑・昭和11年・昭森社)近代絵画/小林秀雄著新釈 詩経/目加田誠著/岩波文庫
古今日本書画名家全伝/昭和6年/二松堂刊

十畝宣言**近代絵画ルノアール**十畝之詩**十畝棟梁


以上がメンバーの略歴です。ある一つの共通項が見つかりました。

いずれも、平仮名書道の名手なのです。

{平仮名の描線}が{日本画の描線}であろうという

当初の想定が、当たらずといえども遠からず 

という思いでした。

日本画家が平仮名書道の名手たちをわざわざ自邸に招いて

話す一番の話題は{日本画の描線}であろうことは

容易に想像できます。

この記事の発見で

{平仮名の描線}が日本画の重要な構成要素である

という想定がはっきりとした形を持つようになってきました。

偶然に発見した「山の井会」の記事から

心細い資料の発掘という地味な作業に、はずみがつきました。

絵画は「線」で「形」を描くのが基本です。

「日本画とは何か」を定義したくて

日本画会の会員をまず調査し、

並行して日本の名品群から

共通した特色を抽出しよう

と考えました。

日本人の好きなパターンを割り出し、

ひと目で誰もが納得する

客観的日本画様式を備えた作品

は、この絵ですと提示できることを最終目標に設定しました。

ごいさぎ頭①頸①羽根①_0001足①

頸②羽根②あし右

荒木十畝作品”五位鷺図”が典型的な日本画であります

この基本的構想をもとにして調査を始めたわけです。

そして、次のような条件も設定していました。

 ◆日本の名品を調査して共通する形状的特色を探し出し、

  その形状に名前を付けること。

 ◆千利休が「茶」を完成させ「茶庭」を付属させて「茶道」を集大成

  したように、荒木十畝画伯が日本画の集大成者の一人であり、

  またその事を証明する作品を発見し解説したい。


こんな思いの中での「山の井会」の記事の発見でした。

このグループのメンバーから推理しますと当初の想定通り、

「日本画の描線」は国字「平仮名の描線」であるという

着眼点にくるいがないと思われました。

一冊の美術雑誌の小さな記事の発見が、私共の着眼点の

裏づけとなりました。

「日本画の定義」という大きなテーマにのぞんでいる

私共にとって、明るい展望を授けてくれたという

思いで一杯になりました。

暫くしてさらに決定的な資料を発見するのです。

====================

*かな描法

かな描法表紙

かま描法②**かな描法③**かな描法④**かな描法⑤**かな描法発行所**

かな描法裏表紙

「かな描法」という冊子がございます。

開いてみると

〖 これが仮名の線で描いた絵です。〗

と絵入りで例示してあるではありませんか、

このような解説をした前人がいたのです。

資料をもっともっと集めたら出てくる

考えんでも自然にでてくる 

平仮名の描線による日本画の体系が確立される

のではないか 

そんな思いがふと浮かぶ瞬間でした。

「日本画の描線は平仮名の線である」という命題に

実証的な資料で裏付けられた思いでした。

その著者は

田中 魁堂(たなかかいどう) 明治29年(1896)~昭和51年(1975)

古写経研究に情熱を注ぐ 日本写経総覧 かな描法 他の著書あり 

文学博士・帝塚山大学教授・日本芸術院賞受賞・日展評議員・千草会々長

田中魁堂(たなかかいどう)氏は、

その著書「かな描法」で次のように解説されています。

・ 東洋の芸術は線が根本である

・ 仮名は日本固有の文字である

・ 書画同源とか書画一致論は仮名の線が絵であり、

 絵の線が直ちに仮名の線であり得ないとしても日本趣味に

 醇化された大和絵は、その発達において仮名と軌を同じうする

 ものであらねばならぬ


とあります。

そして、実際に平仮名の描線を研究し日本画を描かれた画家に

吉川 霊華(きっかわれいか)画伯がおられます。

書道辞典(東京堂出版)の吉川霊華の項では、

 大和絵の描法と「かな」の線の共通点を見出し

 秀潤けい抜な書は画法と一致している

と解説されています。

吉川霊華画伯の名作「離騒」は美しい白描画であり清明感あふれる

近代日本画の名品とされています。

また「かなの鑑賞基礎知識(至文堂発行)」という本には

 「かな」の線は、書のみでなく大和絵の世界にも窺える。

 源氏物語の登場女性の黒髪の線や「引き目鉤鼻」

 いずれもシャープな線描写である。近代に吉川霊華の

 ように大和絵を製作するための基礎として、平安朝の

 「かな古筆」を自ら臨書したということであるが、いかにも首肯されよう

と指摘されています。

戦前の石井伯亭著「日本絵画三代志」の中でも

 白描画の得意の吉川霊華は故実と和学との教養に富み、

 ・・・中略・・・・其の流麗な描線は其の「かな文字」と共に

 綺麗な上品なものであった

と評されております。

 「かな」の描線が重要な「日本画様式の構成要素であることは

明らかであり、これらの資料から十分に裏付けられると思います。

では、「かな」の描法は具体的にはどのようなものなのでしょう。

その運筆は漢字の書き方と大きく異なるようです。

言葉で申しますと

「かな」の場合は、

スー・スーという心持で伸びやかに大らかに

書くようです。

「かな」描法は虚の世界と実の世界とを「惣合」する

運筆を最大の特色とし、


一典例として「し」という文字は、

起筆は虚空間から始まり、

実線は筆が紙面に接し、

細く書き始め段々筆圧が加わり、

描線は太くなり、

また、細くなりながら筆を虚空間に抜いて終筆する

ようになります。

第三者が見ても、

どこから起筆しどこで終筆する

のか判りにくいのです。

書かれた実線は運筆運動の過程に表れた

痕跡とでも呼べるモノなのです。

おおげさに申しますと、

始まりがどこであり、終わりがどこかも不明である描線が

平仮名の線」の特色であり、

始まりがどこで、終わりがどこかも不明であるということは

無始無終」を感じさせます。

無始無終」は「神性」を連想させます。

この意味で、平仮名の描線は、

神性

を感じさせるのです。

日本の精神風土の体質は、

物と心の「惣合化」や

虚と実が未分である事、

つまり「一体化」というバランスを目指す傾向が強いように思われます。

漢字の場合は、

トン・スー・トンと打ち込みの起筆と押さえる終筆の2点間

に、これ以外ないという確信的な線を引いているようであり、

まさに正邪を明確にする

中国的合理性を感じさせる描法という印象です。

中国儒教は「怪力乱神」を語らず なのです。

次に「平仮名様の描線」を特色とする作品群をご紹介いたします。

====================

平仮名様の描線を特色とする作品群

彫金画(ちょうきんが)

長常下絵**長常小柄_0001**かな描法④
【(日本の美術 第64号 刀装具・至文堂 発行)を参考】**(かな描法)

日本彫金のお家芸であり、柔らか味のある

「片切彫(かたきりほり)」の

刻線こそは「平仮名様」の描線に一致すると思います。

「片切彫(かたきりほり)」は

片切鏨で片方を深く他方を浅く切り込んだ

線彫りにする技法で、

絵画における付(つけ)立(たて)画法の筆勢を

そのまま彫り上げるものだそうです。

濃淡2種の墨を筆につけ一気呵成

に対象を描いて陰影や立体感を同時に表現する

方法が付立(つけたて)画法だそうです。

要するに付立(つけたて)画法は、没線描法なのです。

ですから、片切彫を、付立画法の意味する輪郭線を描かずに

濃淡で立体感を表す技法という説明では解説しきれないと思います。

私どもには、「片切彫(かたきりほり)」は、平仮名様の刻線に見えるのです。

〖私どもは、「片切彫(かたきりほり)」と呼ばずに、

平仮名彫(ひらがなほり)」と呼ぶことを提案いたします。〗


ここに一人の名人彫金師をご紹介します。

一宮長常(いちのみやながつね)

と申されます。この方は、享保5年生(1720)~天明6年(1786)

の間に活躍された方です。

彼の残した作品と下絵が残っていますが、

どう見ても私共には片切彫の線は

平仮名様の描線に見受けられて仕方がありません。

下絵に描かれている数匹のネズミのアウトラインは

平仮名の「新月形」「紡錘形」などと呼ばれる

「かな」にはいつも使われる描線のように見える実例です。

平仮名の描線を模した片切彫の線で構成された作品は、

平仮名様の描線が重要な見所であり

日本画様式を備えた新しい金属板に描いた

新日本画だと思うのです。

筆を鏨に変えて出来た「彫金画」とでも呼べる

新しい日本画の誕生です。

また、エピソードとして

朝鮮国王が清国の乾隆帝への贈り物として

日本の対馬侯(対馬藩主)に依頼したところ、

対馬侯は長常に制作を命じ、喜ばれた

という逸話が残されているそうです。

海外で認められる「日本美」の一つに

「彫金画」があった事を物語るエピソードです。

≪歴史読本/昭和48年6月増刊号≫
一宮①**

南山清_0002
南山清_0001


「片切彫」の技法は明治期の加納夏雄から

昭和前期の清水南山にまで引き継がれました。

日本彫金のお家芸的技法が「平仮名様の描線」の

「片切彫」にあると直感いたします。

大日本彫_0002
【(日本の美術 第64号 刀装具・至文堂 発行)を参考】

「大日本彫一宮長常」と冠した彼の署名が残っておりますが、

これなどは国字の平仮名の描線を

日本的特色と見て、「片切彫」という彫金技法で

美しく仕上げて見せたという充足感と心意気が

「大日本彫一宮長常」と書かせた理由だと存じます。

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◆ 古筆平仮名

継紙(つぎがみ)国史大辞典6 吉川弘文館
継ぎ紙、散し書き**継ぎ紙山_0002**継紙解説

伝藤原行成の「升色紙」は平仮名の描線がもつ太さ・細身

・伸びやかさ・自由さを感じさせる多様な描線群の造形美です。

絵のように対象物の再現ではありませんが運動感・解放感の

表現にはうってつけの描線でしょう。ライン・アートの「ひらがな書」

を隆盛に導かれたのは醍醐帝の御英断でありました。

平仮名で表記された和歌の古今集(西暦905年)を勅撰されたのです。

平仮名を正式な日本語表記法である国字とされて以来、平仮名は

漢字の補助文字という偏見から解放されたのです。

日本文化にとっての金字塔であったわけです。

新しい文化創造の始まりでした。

源氏物語や和歌、連歌、俳句の発展と並行して書画の親和的世界

に発展します。

源氏物語の「引き目・かぎ鼻」の描線が平仮名の描線と同じように

見受けられます。スーと筆を入れ実線を引きスーと抜いていく感じが

見て取れるのです。

 カンディンスキーは、点・色・線で精神を表現できると考えていたよう

ですが、平仮名の特色ある描線を鑑賞すると(非現実の虚)と向き合い

(見えない世界)に積極的に没入することで、バランスよく日常からの

ストレスを薄めてくれる他力的癒(いや)しがあるように思われます。

文字の一つひとつは読むことができ、伝えることが出来ればよいので

あって、形よい文字を追求するという価値観ではなくて、情緒を線に重ね

あわせる表現力を第一義的な価値としたのが、大和文字である平仮名

なのではないでしょうか。

だから一文字も左右対称形のツンと澄ました文字はなく、

凸凹型が基本なのです。

「癒(いや)し」の文字が「平仮名」の特色のように思われます。


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◆ なぜ継ぎはぎだらけの「松林図」が人気があり高い好評を得て

 日本水墨画の代表作品とされるのか?

長谷川等伯(1539~1610)の松林図屏風は、独特の筆順の

描線で松葉が出来上がっているように見えます。

平仮名書道の

「逆入(ぎゃくにゅう)」

という筆法を応用しているのではないか、

等伯逆入

松葉の上と下の位置関係で申しますと、下側が揃いすぎています。

松葉を描く方向とは反対側へ筆を戻すように、筆を上下に一拍子

で線描きしているように見えます。「ひらがな」の「逆入」の線と

見えるう訳です。この「平仮名様」の描線で松葉が描かれている

からこそ他の松林図より抜きん出て見えるのではないか、

つまり「逆入」という平仮名の書き方で仕上げられた点に

松林図の特色があるように見えます。


*〘 御参考 〙

「逆入平出(ぎやくにゆうへいしゆつ)」の用筆法について

{”書道芸術”・出版社:中央公論社〈第10巻〉「趙之謙(ちょう しけん、1829年 - 1884年)」}

の〖解説〗(187頁)には

【書評】

<趙之謙は最初、書は顔法を学んだに違いない。

当時の習わしとして、郷試には顔法でなければならなかったからである。

従って二十歳代の作品には顔法が見られる。

その後、阮元の南北書派論や包世臣の書論を読み、大いに感動し、

刺激され、北碑に専念するようになった。

包世臣(1775-1855)は古法を悟る要諦として

執筆運峰の法を論じて、

「執筆は普通のいわゆる撥鐙法に近いが、

ただ食指を高くかかげて、鳥の頭のように曲げて

筆を執るべきである。

かくすることによって

  逆入平出の書法

が可能となる。

  逆入平出

とは筆左に向かって斜めにして後、

やや偃し、筆尖が低きに着くと、ただちに逆にして

筆毫は紙上に平舗せざるを得ないことになる」と解いている。

趙之謙はこの「逆入平出」の法に心酔し、

更に独自の解釈を加え、

筆先を逆に打ち込み、