* 日本画・荒木寛畝集成 / 寛畝号

日本画・荒木寛畝画伯集成

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以上

< 1月24日午前1時30分ごろ悪意ある文章の画面を発見しました。私共が公開しておりますカテゴリにある他の名前も確認しました。同様の悪現象が起こりました。

私共は退職後も社会参画したいと云う思いで
“日華連合絵画展覧会・暹羅日本美術展覧会、読画会”外のデータベース作りに邁進しています。

先考文献・研究の有無を調べ、ユニークでオリジナリティーのある作品を目指そうと今日までやってきました。
私共の企画段階で確認した事は、動乱の時代に戦争をしながらも、
同時に平和親善を理念に両国連合展覧会を開催したという事実。 人間は信じる事が出来るんだ!”

この事実を伝えたいという思いでスタートした企画です。

21世紀は平和に投資する時代です、21世紀は融和の歴史を求めています、

日中親善・日タイ国親善を理念にした絵画展覧会を実現した読画会に焦点を当ててきたのです。

そして売名行為や営業とは無関係の方針で進んでまいりました。
私共の願いはこれ等のテーマで資料集の追加・充実を次の世代に引き継いでいけたらと思っております。

今回の悪意ある文章の介入によって驚かれました皆様に対しまして、私共としまして誠に不本意な悪結果をもたらしたと、くやまれてなりません。
残念無念でなりません。

旧来通りの安定した情報公開の環境が戻るように願うばかりです。

どうか侵入しないでください。

お願いします。

ここに此の度の経緯を説明いたしました。
2012.1.24 3;26am シルバーネイル






  ≪寛畝号≫


寛畝 2-5_0001**寛畝 2**寛畝 3**寛畝 4**寛畝 **寛畝 6**寛畝 7**寛畝 8_0002**寛畝 9**寛畝 10_0002**寛畝 11**寛畝 12**寛畝 13**寛畝 14**寛畝 15**寛畝 16**寛畝 17**寛畝 18_0001**寛畝 20**寛畝 21**

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〖 荒木寛畝画伯集成 ・ 寛畝号 〗

 明治43年(1910)の美術雑誌、

  “美術之日本”

【本誌二巻四号に“寛畝号”と題して特別号を

 翁八十の壽宴日に発行】し

“荒木寛畝傳”を掲載しています。

門人 横地一畝 読画会会員・文学士(東京帝国大学文学部)の

“寛畝傳”掲載の経緯を序文に纏め、

続いて本分に移ります。


【荒木寛畝傳】

   門人文学士 横地一畝  

 記者曰く、此編は荒木寛畝翁七十の

壽宴を去三十四年五月十九日

神田開花楼に催せしに方り

翁の門生横地文学士の起草に係る者、

翁の詳傳蓋し爰に盡きたり、

今八十の壽宴に際し、翁の傳記に

新しみを感ずる人々の為めに

之れを掲才することゝせり

寛畝写真**寛畝写真_0001**
                (日本画大成所収)

引用* 帝室技芸員・正五位(陸海軍少将相当官位)
             ・勲六等(陸海軍中尉相当勲等) 
寛畝流行作家**寛畝孔雀
                 孔雀図「近代日本画壇の巨匠たち」展/朝日新聞社/1990


寛畝梅月**寛畝柳鷺**寛畝覇者



引用 
左から”○○・美術雑誌・美術之日本 大正7年(1918)・美術之日本 大正10年(1921)
 寛畝副長** 美術之日本大正7年_0001**美術之日本大正7年_0002
 



荒木寛畝先生は、本氏を田中と云ふ。

其先、田中民部大夫は、大阪落城の節、

徳川氏の為めに其家を没せらしかば、

後に芝の増上寺の俗役となり、

以て先生の父君永周に至りぬ。

先生はその三男にして、幼名を光三郎といへり。

天保二年六月芝の赤羽橋の邸に生る。

今は下谷区西町に住せり。

本年七十四歳の高齢を以て出でては、

東京美術学校、幷に高等工業学校の

日本畫教授を分擔し、入っては、

家塾の門生を指導し、また朝野の依頼に

應じて、其の健筆を揮ひつゝ、

老の将に至らんとするを知らざるものの如し。


”幼時の絵畫修業”

寛畝先生が、畫家として今日の名望地位を

得らしは、固より其の天稟の畫才と、

非常の勉強の結果とに外ならざれども、

先生をして、早く斯道に入らしめたるは、

全くその父君の先見に因れり。

先生が九歳のときなりき。

父君は先生の前途に就いて見る處あり、

後に先生の養父となられたる、

荒木寛快師の門に入らしめられたり、

是ぞ先生が身を後素の道に寄せられたる

初めなりける。先生は同時に他にて讀書、

算術を学ばしめられしが、

偏に畫のみを勵みて、他の學科を顧みず、

為に屢々父君より叱責せられたりき。

されど、先生は平然として、

たゞ己が好める畫道にのみ力を

用ひられければ、遂に父君も、

汝の様にては、到底前途奉公の

見込もあらざれば、寧ろその好める所に

従ふに如かじとさへいはるゝに至りぬ。

これより、先生は斯道の稽古に

余念なかりしかば、十一二歳の頃には、

師匠の家にて彩色畫などを見れば、

帰宅の後、私に之を模写し、

或は他より絵本類を貸り来りて、

日に之を模写することを

無上の娯楽とせられたり。

然るに、この事いつしか師匠の耳に

入りしかば、一日先生を呼びて曰く、

汝は未だ免しもせざる彩色物を描くとか、

甚だ以て不都合なり。此の如きことを

しては、筆端萎縮して技術進歩せずと、

かく叱責せらるゝこと再三に及べども、

先生は更に之を止めざりしかば、

師匠も遂に之を黙認せしが如く、

後にはその模写したる畫を見て、

其技の進歩を賞せらし程なりき。

而して、十六歳の頃に、寛快師は、

先生に琴碁書畫の密畫八枚を写さしめ

られしことありしが、先生の技量は

益々その師の認むるところとなりて、

終に寛快師と先生の父君との間に、

先生をしてその養子たらしむるの

約成るに至りぬ。

先生はその翌年に実父を亡ひ、

十八歳の時に家を出で、増上寺に

入りて、冠誉大僧正の随身となりぬ。

これは極めて閑散なる役なりしかば、

勤務の余暇には、益々絵画の研究を

怠らず、時々他より揮毫を依頼せられ

たることもありきといふ。

然るに大僧正は、いつしか先生の

絵画を能くすることを聞き、

その描きたるものを見せよと云はれ

しかば、先生はその自作の畫、幷に

模写したる図などを見せられしに、

大僧正大に感心して、更に三老日拝の

古畫を模写せしめ、

後に之を金襴表装にして、

その居間に懸け、先生を呼びて

云はれけるやう、

汝は頗る畫道に熱心なるが、

是実に汝が一生の守りともなりぬべし。

益々斯道を研究して怠らずんば、

後にはその名も世間に顕はるるに至らん。

此畫は特によく出来たればとて、

褒美をさへ賜ひぬ。

先生が其時のうれしさは、

今も忘れざる程なりとぞ。

先生はその大僧正の歿せらるゝまで

随身としてその左右に仕へられしが、

これよりさき、寛快師は先生の畫道に

熱心にして、其技術の進歩著しきを認め、

早くその家に来らんことを求められしかば、

彼の大僧正の歿せられしを機として、

その兄君とも相謀りて、

いよいよ荒木家には入られたるなり。

”荒木家の系譜”

先生の養家荒木氏は、徳川氏以前より

其名の顕れたる舊家なり。

先生の談に曰く、初め豊太閤の頃に、

荒木摂津守、同山城守といへる二人の

兄弟ありき。奥州に逃れて秋田城介に

頼り、客分として優遇せられしが、

三代将軍家光の時に至り不幸にして

秋田城介の家には世嗣なかりしかば、

百万石の所領を没収せられて、

奥州三春に五万石の新地を賜はり、

僅かにその家名を存せらるることゝなりぬ。

秋田安房守の家即ち是れなり。


是に於て、荒木摂津守は二千五百石を

得て其の一番家老となり、

弟の山城守は同家を立退きて浪人となりぬ。

先生の養家は即ちその後なりとす。


而して、摂津守の子孫は、

維新の際に至るまで、連綿として

秋田家の家老職なりしが、先生の

養父寛快は、其祖先とひとしく、

いはゆる浪人にて、絵画を以て

その職とせられたり。

然れども、常に大名の家にのみ

出入りして、民間には余りに顔出しを

せられざりしかば、世間には、

比較的その名を知るもの少けれども、

大名にその弟子も頗る多くして、

秋田安房守、幷に松平伊豆守など

よりは、出入扶持を貰ひ、

一生を安楽に過ごされたり。


随てその経歴変化に乏しくして、

面白きこともなく、また、注意すべき

大作をものせられたることもなきが如し。

先生は二十二歳にして荒木家に

入られしが、これよりは専ら身を

絵画に委ぬることなり、

二十五歳の夏には、初て地方遊歴の

志を起し、先づ上総より奥州へとて

出で立たれき。

然るに上総にて揮毫を乞者

案外に多かりしかば、

六月より十月に至るまで、

一箇所に滞在せり。

よりて、一旦帰国せられしに、

恰も安政の大地震にて。

その住宅も倒れしかば、其翌年に

至るまでは、その家の経営に

汲々として、再び出遊の余暇もなかりけり。


”山内容堂公の御召抱”

安政三年(1856・米国ハリス氏、

下田に着任;author)、

先生二十六歳の年の暮れに、

偶然山内容堂公に知らるる事となりて、

同家に御召抱の談判始りぬ。

是は、先生が居宅の近辺に、

黒田甲斐守といふ人ありしが、

容堂公の伯父にして、また先生の

義兄寛一氏の主人なりしかば、

一日容堂公の某家に客来ありし時に、

先生は寛一氏と共に、其席画に出でて、

容堂公に知られたるなり。

かくて、容堂公は甲斐守に

その内意を伝え、甲斐守より

先生の養父に談判ありて、

其事略ぼ決定せしが、

容堂公には更に先生の技量を

試みんとにや、先生を召して、

何が得意なるかを尋ね、

尺八の絹四枚に美人四人を描け

との命ありしかば、先生直に焼筆

(下絵を描く時に使う、木炭の筆;author)

を執りて、楊、西、張、王の四幅対を

墨描きにし、後一週間程に之を

彩色して差出されしに、

重ねて蓮を十二枚図様を変えて

描けとの命ありき。よりて、また

之を描きて差出されけるに、

容堂公の意に適ひて、

遂に山内家の絵所とせられたり。

是れ実に先生が出世の初にして、

其後暫しが程はそここゝの席畫

出でられたるのみ、他に何事もなかしが、

世の中は次第に物騒しくなりて、

天下の士人は、概ね砲術剣術の修業に

心を傾け、世間には浪人乱入の風聞など

頻りなりしかば、人心恟々として、

もはや畫などを顧みる者なきに至りぬ。

而して、容堂公も亦朝命によりて

京都に赴かれしかば、

先生はその留守居となりて、

江戸に留まられたり。


”阿房宮大幅の揮毫”

阿房宮**阿房解説①**阿房解説②
(荒木十畝氏蔵)日本画大成所収・昭和8年 東方書院刊行

さて、先生はその主人容堂公の

京都に赴かれてよりは、

日々無事に苦しまるるばかり

なりしかば、私に思われけるよう、

己も幼年の頃より今日に至るまで、

年久しく絵画の為めに苦心せしに、

今日となりては、時世一変して

又之を顧みるものなし。

余が如きものは、いかにも哀れ

はかなき境遇に陥りたるものなり。

然れども、天下の大勢は、又之を

如何ともすること能はず、而して、

己が地位を考ふれば、奉公の身なり。

一朝事あらんには、主人の為に

一命をも抛たざる可からず。

よりて、今生の思出に、己が技量を

尽くして、一大作をものせん、

これぞ絵所たる余が、この時世に

処する最良の方便ならんと思われしより、

遂に阿房宮の図の大作に

着手せられたり。
而して、この図を

作るには、先づ漢学者にも相談

せざる可からずとて、佐藤一齋

門人にて、先生が漢学の師匠たりし、

河野魯助に謀り、之が草稿を起されしが、

これより凡そ一箇年間は、晝夜

之が為めに心血を注がれし程に、

顔色憔悴して、人の注意をひくに至りぬ。

当時先生の友人等は、之を観て

大にその迂愚を嘲り、今日の如き

時世に、かかる事をする者やはある

という者も少からざりしが、

先生は之に答えて、己は剣術をも

能くせず、又砲術をも知らざれば、

今更に何をかなすべき。

主人よりは絵所として扶持を

受くれば、之が為めに倒れて

後止まんのみと、毫も親友の

忠告には耳を傾けずして、

静に彼の図の製作に従事せられたり。

されど、折々は浪人有志者などの

訪問して、時事を論ずることも

少からざりしかば、終に門戸を鎖して、

専らその揮毫に力を盡されたり。


かくて、略ぼその図を描き卒へられしは、

恰も薩摩邸に討手の向ひたる時

なりきとぞ。これより後は、天下の大勢

いよいよ切迫して、先生もまた

画筆を執るの暇なく、世人はただ

江戸立退きの準備に忙しきのみなりき。


”油絵の修業”

明治元年、先生は京都なる

容堂公の召によりて上京せられけるが、

恰も伏見鳥羽の戦争後にして、

京都もなかなかに血腥く、

また画筆を執るの暇なかりき。

暫くして、主上御東行の命あり、

而して容堂公はその先駆たりしかば、

先生もまた之に随行して江戸に帰りぬ。

これより明治五年に至るまでは、

容堂公の寵任極て厚く、日夜公の

左右に侍して、勤務に暇なかりしかば、

たゞ主人の前に席画を勤めらるゝ外は、

全く俗務の為めに忙殺せらるゝばかり

なりきとぞ。

而て、公の歿せらるるや、先生は

恰も魚の水を離れ、猿の木より落ちたるが

如く、茫然としてその為すところを知らず、

一時は厭世の念さへ切なりしが、

まだ妻子を棄つるに忍びずして、

再び絵画を以て、生活の資を供せん

との心を起されたり。

かくの如く、先生が再び絵画に従事

せらるゝに当り、

聖堂にて第一回の博覧会ありき。

時に欧州より、内田政雄の携へ

帰りたる、仏国の有名なる油画の

写し三枚出品せられたり。

これよりさき、先生は曾て舊主の

購入せられたる二葉の油画を見て、

大いに感心せられけるが、

内田の仏国より持ち帰りたるのを

見るに及びては、断然之を学ばん

との志禁ずること能はざりき。

よりて、其師を求められけるに、

先生の知人に川上冬崖といへる者あり。

もと日本画をも能くし、且つ油画の

事をも知りしかば、曾て開成所に於て、

油画を教授し、高橋由一の如きも、

その指導を受けたり。

当時は陸軍製図局に奉職せしかば、

先生即ち冬崖を訪問して、其志望を

述べ、且つ之を相談せられけるに、

冬崖の云へるやう、

先生の如きが油画を描かんとならば、

至て容易なりと、先生いよいよ之に

力を得て、遂に油画を初められたり。

然れども、冬崖は洋書に依りて、

僅に油画の描法を知りたるに過ぎず、

先生はただその説を聴かれたるのみ。

加ふるに、材料もなく、道具もなく、

また手本もなかりければ、如何せんと

思はれけるに、

その頃横浜に英人ワーグマンとて、

油画を能くせるものありき。

先生は之に就いて学ばんと欲し、

横浜に行きて其門人たらんことを

乞はれしが、ワーグマンは頗る

奇人にて、その入門を許さざりしかば、

さまざまに苦心せられける程に、

土州の人にて、国沢新九郎といへるが、

油画を学びて、欧州より新に帰朝せるあり。

この人は、初め法律学を修めんとて

英国に赴きしが、中途にして其健康を

損ぜしかば、遂に油画を学びて

帰りたるなり。

されば、その技量は頗る未熟なり

しかど、多くの絵手本を携えて

帰りたれば、翁は斯道の益を

得んとて、之を訪問せられけるに、

先方にても、大に喜び先生などが

試みられんには、何の造作もなき

事なり、拙者が学びたることは、

悉く伝授せんと云ひしかば、

先生はそれより、その教授を受けて、

切りに油画を稽古せられたり。

当時は油画を学ばんとする者頗る

多かりしかば、国沢の門人は

数百人にも及び、毎月竹川町にて

油画展覧会を開き、其門生の

油画をも陳列せしに、忽ちに高評と

なりて、来観人頗る多く、随って

その譲与を望むものも少からざりしとぞ。

さて、先生が油画の修業は、

川上冬崖の誘導によりて之を初め

られしも、冬崖はたゝその描法の

一端を知れるに過ぎずして、

先生は僅に其説を聴かれたるのみ

なれば、随ってその油画もなほ幼稚

なるものなりき。然るに国沢の門に

入られてより、初めて精しく油画の

描法を覚られしかば、大に喜んで

之が研究に力を用ひ、漸くにして

油画らしき油画を描き得らるゝに

至れりといふ。

これよりさき、我が政府にては、

墺国大博覧会に賛同して、

絵画の出品をも促されしかば、

先生は当時尚ほ未熟なりし油画を

出さずして、元来その得意なる

日本画を出されしに、

果たして博覧会にては好評を博して、

売却せられたり。

斯の如く、当時先生は油画の

研究に余念なかりしが、

明治七年には同藩士の切なる

勧誘黙止し難くして、

正院の地誌課に出で、十三等出仕

(判任官最下級)となり、

二十円の月給を得て


日本地図のことを扱はれしこと

三年に及びぬ。

この間にも油画の研究は一日も

怠らずして、その技術の進歩も

次第に現れしかど、一方に本務

ありては、その研究も意の如くなる

こと能はず、よりて、遂に断然意を決して

其職を辞し、全力を油画に傾注せらるゝ

ことゝなりぬ。

これより其技の進歩は益々著しき

ものありしが、財政は次第に窮乏を告げて、

幾多の困難と戦はざるを得ざることゝ

なりぬ。蓋し、先生が今日までの

間に於て、最も困難なる時代なりしといふ。


”先生が油画の成功”

先生は貧苦とかく戦ひつゝも、

油画修業の功を積まれければ、

その技の進歩益々著しくして、

当時、油画師として高名なりし、

五姓田芳松、高橋由一、次には先生

と三指を屈せらるゝに至りぬ

時に偶ま元老院にては、

天皇皇后両陛下並に皇太后陛下の

御肖像を掲ぐることゝなりしが、

その筆者としては、先生と、高橋由一

及び五姓田芳松の三人、

その撰に当りぬ。

而して、三人はその命を拝してより、

抽籤にてその分担を定めしに、

聖上は高橋由一、

皇后宮は五姓田芳松、


皇太后宮を先生

が描き奉ることに決せり。

是に於て、元老院より宮内省に願ひ、

御装束を拝借し、三人共に出頭して、

二日間ばかりに之を写し卒へしが、

御肖像は御写真によりて描け

との事なりき。よりて、先生は

命のまゝに、縦二尺二寸横一尺八寸の

額面に、先づ、皇太后宮の御顔のみ

下絵をつけられしが、御写真のみに

依りたることなれば、大方似させ

給わぬ所やあらんと思はれければ、

当時皇太后宮の御附なりし

萬里小路殿に、その事を言上せられけるに、

その下絵を御覧ぜられて、いかにも

似させ給わぬ所あるやうなれども、

何処とさして云ふこと能はず、

されば典侍の方々と相談の上にて、

何分の指図をせんと仰せらる。

二三日を経て、御召により出頭

せられけるに、典侍方に於ても、

何処とさして、其欠点を云ふこと

能はずとのことなれば、詮議の上

表向に拝謁を許るさるゝこと能はざれど、

その肖像の似させ給はぬは不都合なれば、

内々にて、近日の内に拝謁仰せ附けらる

べしとの事なり。

かくて、また十日程経て召されしかば、

今の青山御所に出頭せられけるに、

萬里小路殿の案内によりて、

恐れ多くも親しく皇太后宮に拝謁し、

前の下絵を直して御覧に入れられしに、

之にて可なりとの仰せありしかば、

先生は之によりて、

長五尺幅三尺五寸の額面に描き、

先づ青山御所に差出されけるに、

典侍方よりも、これにて至極宜し

との御詞さへありしかば、

先生の恐悦云はんかたなく、

更にこれを元老院に上納せられたり。

先生が、それまでの苦心は、

到底筆紙に盡くすべからずといふ。


”油画より日本畫へ復帰”

先生は、皇太后宮の御肖像を描き

我国の油絵師としては、

無上の名誉を博せられしが、

当時その苦心は一方ならざりしかば、

我れ油画をだに畫かずば、かゝる苦痛も

あるまじきものをとさへ思はれたりき。

時に、偶ま彼の内田政雄は、人をして

翁に忠告せしめけるやう、

先生は近来非常に油画に苦心せらるゝ

由なるが、是は実に無益の事なり。

寧ろ其の幼時より丹精せられたる、

日本画の為に其力を盡さるゝにしかずと、

然るに、先生は既に油画の

困難なることを自覚せられければ、

一旦翻然として油画を抛棄し、

日本画に復帰せんかとの考をも起れしが、

当時先生の画友中には、油画を描く者

多かりしを以て、先生が折角の英断を

遮り止め、却って油画を奨励せしもの

少からざりき。

よりて、先生は暫く画友の忠告に

従はれしも、その本志はこの時

よりして、もはや油画にはあらざりしなり。

かくて、先生は徐に当時の油画の

情況を考察せられけるに、

いかにしても、将来大成の見込

立たざりければ、遂に断然たる

決心を以て、これまで幾多の心血を

注がれたる油画を抛棄し、

更に日本画に復帰して、

その大成を期せんとせりされど、

其後三四年間は、尚ほ人の

依頼によりて、油画の肖像などを

描かれたることもありしが、

主として日本画の研究に

その力を用ひられたり。

かくて明治十七年(1884)三月、

第二回絵画競進会開設の時より、

先生は日本画家として、

其の旗幟を鮮明にし、

再び世に出でられたるなり。

これよりさき、

第一回絵画競進会の開設

せられし時には、

先生の知人某氏、

同会の内情を詳説して、先生に

その出品を止められしかば。

先生はその忠告に従はれしが、

第二回の時には、

又同氏の忠告によりて、

その製作を出陳し、

且その審査官の命をも受けられたりき。

さて、先生は油画を止めて日本画に

復帰せられしより、また日本画を以て、

数次宮内省の御用を命ぜらしが、

今の皇居御造営の時には、

その御杉戸を描き、其後も、

同省の御用を命ぜられしこと

一再ならず。

又、競進會、展覧会等には、

常に助力を与えて、斯道の発達

隆盛を図り、甞て高齢の故を以て、

未だ曾て労を厭はざるは、偏く人の

知るところなり。

然れども、先生の画家として、

これまで最も其の力を用ひられたるは、

学校に於ける絵画の教授なりとす。

即ち華族女学校、女子師範学校に

於ては、久しく日本画教授の任に

当たりて、日本画の普及と、

美術思想の伝播とに、力を尽されたり。

而して明治三十一年(1898)よりは、

東京美術学校の教授に転じて、

今は従六位に進み、

また明治三十三年には、

帝室技芸員に選ばれ、

以て今日に至りぬ。

先生が技術と名誉とに就ては、

余輩また何をか云はん。

而して、先生の令嗣十畝君、

青年画家として其名既に高く、

今や女子高等師範学校教授の職

にありて、日本画の教授に従事せり。

先生の如きは、実に古来斯道の

名家中に於ても、最も幸福なるものという可し。

引用
★印明治9年(1876)12/16読売新聞

『新ばし竹川町の開誘舎で見せる油画は、

此ほど川端玉章先生の野菜もの、

本町通りの馬車の水畫、

内藤先生の鞠に羽子、また新井先生の

豊島の渡より不二を見た図、高橋小先生

の駿河台より不二を見た図などの新畫を

差加えました。』

とあります。

★明治11年(1878)7/5横浜毎日新聞

『本港元浜町四丁目中山壽郎方に

寓居する鈴木正作(十九年)は、

一昨年の暮より、ペンキを以て

油絵風に人物と畫くことを考え出し、

爾来其事に心を籠めし甲斐あって、

此頃西洋婦人の姿を写真より模写し、

細かく彩色し一面の扁額に仕立て、

師範学校内なる博覧場へ出品せし由、

其巧なると左ながら油絵に異らず』



引用第二回絵画競進会(共進会)の

 審査長は土佐藩出身・細川潤次郎男爵でした。


 寛畝画伯は舊土佐藩出身の細川潤次郎の

ような明治政府要人たちとの太いパイプがあったようです。

土佐藩出身の細川潤次郎は坂本竜馬を彷彿とさせる。

海軍操練所で航海術を修め、中浜万次郎に英語を学び

「英文世界地図」を翻訳。

上海号を購入し自ら航海長となる。

「海南政典」「海南律令」の編集に與る。

土佐藩主に洋式汽船の必要を建議する。

横浜に赴いて汽船購入に当たるなど

土佐藩には≪坂本竜馬≫が二人いる

と思わせる細川の活躍です。

その細川潤次郎氏と荒木寛畝は昵懇であったようです。


細川潤①**細川潤②
 【日本人名大辞典(新撰大人名事典)平凡社/1979】



”先生が画風の伝統”


先生が、今日の画風は、

和漢古今の筆法に依り、

西洋の画法を参酌して、

古人以外別に一派を開きたる

ものなること、

その作品を観れば明らかなるべし。

然れども其の画風を形成したる

師伝に就いては、茲に一言

せざるべからざるものあり。

さて、先生が最初の画風は、

前にも記せるが如く、その養父

寛快君の筆法を伝へられたる

ものにして、まだ寛快君は

御旗本の隠居片桐蘭石(桐隠)の

画風を受けられたるなり。

而して、この片桐氏は、初め

木挽町狩野の門に入り、

後に渡辺玄對の弟子となりて、

専ら漢畫を学び、

特に人物畫に長せり。

故に、寛快君も亦人物画には

得意なりしも、山水にはあまりに

意を用ひず、花鳥には一層

不得意なりき。

然るに、寛快君の門人に、

江崎寛齋と云う者ありき。

寛快君西京に行かるゝに当り、

彼が指導をその友人たりし

大西圭齋に託せられたり。

かくて、寛快君には一年半程にして、

西京より帰られしが,其間に、

寛齋は圭齋の指導によりて、

頗る花鳥画を能くするに至りぬ。

よりて、今一層その研究に力を

用ふるこそよからめとて、其後も

尚ほ寛齋をして、圭齋に学ばしめ

られたり。

故に、寛齋は圭齋の門人

岡本秋暉とは、兄弟の如く交はりて、

専ら力を花鳥画に用ひしかば、

終には寛快師の得意とせられし、

人物画には却て不得意となりて、

花鳥家を以て世に立つに至りぬ。

されど、寛快君と師弟の関係は

始終変わらず、後々までも常に

その家に出入りして、其の師の

揮毫を助けしかば、先生はまた

彼を助けつゝ、教を受けられたり。

然るに、秋暉も亦寛齋と同じく、

常に其家に出入せしかば、

先生は又その指導をも受けられし

こと少からず、

この外には、南溟の子南華にも、

時々画法を聴かれたることありしとぞ。

先生がその日本画に関する師伝は、

此の如きのみ。

然れども、先生は中年にして

油画に転じ、大に西洋画法を研究して、

その長所短所をも具に知悉し、

更に日本画に復帰せられたれば、

おのづから、東西の画法を折衷して、

師伝以外別に一機軸を出されたるなり。

而して、先生が手腕の花鳥に

長ぜることは、今日世人の之を

知らざるものなけれども、

その人物画に至りては、

蓋し之を知らざる者少からざるべし。

先生が昔日描かれたる支那美人、

近年美術協会の絵画展覧会に

出品せられたる、鍾離権の如きは

先生が人物画に於ける技倆の

一班を窺ふに足るものなり。


”私の砕けた話”

(壮時の旅行)

帝室技芸員 荒木寛畝

“廿四の時東海道から”

○私の美術外に、砕けた話をしろと

云ふのかいト今茲八十の高齢に達した

寛畝先生は、下谷西町の画室の楼上

八畳の間に、暖かそうに締切って

机に向はれ乍ら畫帖を畫いていられた、

お弟子の永野静畝女史は翁の命に依って、

名古屋共進会出品の翁の自筆に係る

二尺幅の鷲に浪の図を示された、

そして余は翁の漢文的伝記以外の、

翁の面目の活躍したお話を伺ひたいと

思ったのである。

○由来、美術家には、

漢文的伝記を以て非常に自己の

生命を托し得た者と信じている

傾きがある、が、それは漢文的は

立派には相違ないが、

漢文の欠点として詰まらぬ事も

荘重らしく見せる代りに、

一向に個人性の面白味を発揮する

には物足らぬ、

丁度南画で妙儀山を写し

富士山を写し浅間を写す

やうな者で、真の妙儀富士浅間は

個々別々の山相を有している

に係らず、

南画では其真を伝ふ事に

拙なる如き者である。

○記者の今写しだそうとする伝記は、

そう云う南画的伝記でなく、

お墓に彫付けるような堅い伝記でなくして、

音羽屋は音羽屋、成田屋は成田屋、

と云う風に、其芸風の現われた

描写を試みたいので、

それで先生に砕けた話を願ったのである。

○一寸お断をして置くが、アワテ者は

砕けたと云ふと粉微塵に破損した者

と誤解するかも知れぬが、

云ふ迄もなく砕けたは通俗的な、

上下を取って除け袴を取って

お平に成った時のお話なのである

○翁は江戸ッ子である、

砕けた結構と云ひそうであるが、

維石厳々、剣道指南の達人とでも

云ひそうな翁には、音羽屋式の

砕けたイキな柄は、一寸調和がワリイ

○而かし翁は座談の達人である、

ワシが廿四の時、東海道から

ソレから伊勢大和、大和の長谷寺は

丁度牡丹が盛で、奈良へ廻って

二三泊して奈良の名所舊跡を

明細に歩るいた、それで塔の峰へ

打越して、吉野山と行った、

吉野から紀州の高野へ志し、

高野から和歌の浦和歌山、

加多の淡島から海岸を伝って

貝塚から大阪へ出ました

○大阪に三日斗遊んでいて、

それから昔しの帆前船三百石積

五十人乗に乗って、瀬戸内を

岡山へ行き、備中備後、

尾の道から宮島へ亘り、

七日降込められて、ソレから

取って返し備前の下村、鹽焚の

いる所でソコへ見物にまいった

○四国の金毘羅へ参詣し、

讃岐伊豫二ヶ国を少々尋ねる者が

有って廻って歩るき、

屋島のあたりを見て備前へ帰り、

岡山から播州路を西京へ出た、

西京から美濃路へ這入って

養老の滝を見物し、箱根に湯治して

帰ったが、日数百廿日斗遊んだ、

同行人は芝増上寺の

お寺の金のある坊さん、

親父の弟子で、詰まり雅友の僧であった

○翁の談話は此の如くに達者である、

ソシて語調が天保式の所が

難有いのみならず、

談話其儘を記述して如上の如く

立派な文章を成している點が

自分は少なからず偉いと思ったのと、

六十年前の記憶が明瞭に存して、

宮島に七日降込められたの迄

覚えていられるのは、アゝ亦盛んなり

と云つべしである、

記者は翁には半分足りぬ初老で

あっても廿年前の七日降込められたか

五日か十日かソレすら記憶には

存していぬのである、

翁の眼より見た小僧っ子久良岐の

早くも老込むに比して、

寛畝先生は確かに偉なる人間と

云はねばならぬ、四十年と一口に

云へば短かいが、一年三百六十日、

ソレへ四十を乗じた日数を翁は確かに

経過された、

カレンダーにしても四十冊は持ごたへ

がする、況んや此長年月を坦々たる

平途を行く如く老の阪の絶頂へ

進まれつゝあるに於いてをや


 ”旅中の話は奇だらけ”

○旅行中の話は、イヤ奇だらけさ、

伊勢で一週間イヤ十日程滞在した、

あの弥次喜太の藤屋へ泊まったト

翁は語り続けられた、

記者も先年伊勢へ夫婦連れで

出掛けまして、外へ泊まるのも

智慧がないと藤屋へ泊りました。

其時の狂歌に

  弥次喜太に負けぬ夫婦の遊山旅

     軽尻馬の音もしゃんしゃん

とやりましたと云へば、

翁はソレは面白いと受けられる、

○何でもソコの小ぢよくが放さなかった

ので珍談が有ったが、


一番可笑かったのは、奈良の

旅籠屋三輪の茶屋と云ふ文句の

三輪であったが、


一美人が有ってー

一寸先生待って貰らひませう、

一美人はケシカラねえ


と落語家なら云ふ所だが

記者故黙って書止めるー

旦那と自分と僕と三人で

引張合の筋と成って、

とうとう美人は来ず


(一寸ソコの所を先づ婉曲に

書いて貰らひたい、

若い時の話でも変に気を廻はされると

困まるからの意味を以つて

翁は笑って注意をされた)

翌朝の旅籠代が素的に高かった。


”肴三種と三朱の肴”

爰に又一つ滑稽が有った、

ソレは自分は武家流に口をきくので、

尾の道で晝(飯)を喰って、

船待をする、

所が宿屋へ肴三種斗出して

酒を飲ませろと云った所、

先方は三朱の肴と心得たから、

素的に御馳走を出されたので

驚いたね、そして中々喰ひ切れぬ

と云ふ大失敗、

其頃のは一人前百三十二文位

で有ったのに、三朱と云ふ金高

だからコテと肴を出した、

イヤハヤ江戸子の大失策さ

○ソレとは大変に事かはった

失策が又一つある、

吉野山から高野へと志した、

江戸ッ子の早合点で、桜を見て

ノコノコ山を下って来た、

其時後から致して、

オイオイと声を掛ける者が有る、

能く見ると大きな山の如き

五十斗の親爺が、

其顔色凄まじく目鼻大きく、

前歯が二本出て、

姿は雨具も持たず風呂敷包と

番傘一本の異様な男が、

後ろから声を掛けたら

コイツ来たワイと思った、

何しろ懐ろに百五十両(約45百万円)

路用を持っているので

大に用心をした、

ソレから段々声を掛けて話をすると、

愈々怪しい、

蒔ちまほうと山の上で休んで行くと、

下の渡し場にソイツが待っている、

ソレから仕方なしに段々行って

カムロに泊まった、

スルト同じ宿屋にソイツが泊まる、

同行人でないと宿屋へ断はって置くと、

朝になるとソイツが外へ出てチャンと待っている

○ソレが高野へ行って

スッカリ自分の間違で有った事が分った、

路々其男の話には、私は米屋の手代で、

米の相場を地方を聞いているが、

通常の體才ではスリに付かれる故、

スリの體才をして歩るくのだ、

所がお武家様と思って

お連れを願ったのです、

とかやうに物語った、

高野へ行くと三月廿日お祭の逮夜前で

立派に盛砂がして幕を張っている、

コッチは江戸流に宿では客を迎へる者と

ムヤミに山へ上った者の、宿坊がない、

何所へ泊まろうかナカと云ふ有様、

所が此怪しいと思った米屋の手代が

案内して呉れて、其宿坊へ行って見ると

丁重な扱ひを受けて、

始めて爰に疑念が晴れた、

帰り路に其米屋を尋ねた所立派な家であった。

○談尚盡きずして日は已に傾き、

家内漸く暗からんとす、

十畝氏夫人曾って記者に語って曰く、

父も丸で小児の様で朝早く起きて

夜も早く臥せれば、

翌朝気分に障りもありませんが、

何か力めて夜も遅かったり、

人様と長くお話をしていると、

スグ翌日気分が殊れませんから、

ヤハリきちんきちんと日々定まった

通りに致させますと、

成る程御老体然かるべきことで、

余りの長座は恐れと引下がる


○翁の此旅行は、

全く美術と関係なき呑気なる遊山旅にして、

八十の今日まで翁の感興を喚起す

を見れば、汽車汽船の文明の

交通機関なき当時にありては、

今日の欧米見物の面白さと毫も

変はる所なき者と知るべし、

記者も明治十七年京阪九州を

旅行せし時の感興は、

決して今日の旅行の如き

無味淡泊の者に非らざりしことを

記すれば、翁の此呑気旅行は

非常に面かりし者と思はる
  

<絵具屋千助>

    八十翁 荒木寛畝

“絵具屋五三郎”

○今晩は畫具屋の話をしやうと、

三月二十二日の雪の夜を、

八十の老畫伯は下谷西町の夜を

訪問した記者の為めに、

食後十畝氏の畫室へ

出かけられて語り出された

○此間ひだは、何を話したか、

一向忘れてしまったが、

繪の具屋に面白い話がある。

近来は、畫具屋と云ふ物は少ないが、

私の若い時分の畫具屋は、

舊政府の用達で、五三郎と云った

立派な畫具屋で、通三丁目に在った、

普通の繪具は勿論、箔道具も有った、

平常大中小の絹地が張ってあった、

何の為めにソンナに絹を張ってあるか

と云ふのに、

諸大名は我儘な者で、

誰ソレが来たから、一寸畫かせろ、

ソラ絹を持って来いと云ふ風だから、

どうさ引きの絹をすぐ五三郎へ

注文して取寄せる、それが為めの用意であった


”絵具屋千助”

○もう一つの絵具屋千助と云ふのが、

今でも久松町にある、

今は三代目であったと思ふ

全体はかうなのですよ、

詳しいお話をすると、

抑絵具屋と云ふ者は、前に申した

五三郎は受売屋だ、

群青緑青と云ふ者は長門から

来たもので、その長門のはCHINA

から来ていた、

その畫具屋が三軒斗有った、

近年は百姓か商人に成ったろうが、

其頃は清国人が長門で畫具屋を

していた、

其CHINA人の家に奉公していた者が

長門の者で、遂にソレがナニです、

長州の足軽に成り、ソレが其殿様に

従って江戸詰に来た、

時に何さね、畫の具製をすれば、

大に儲かると云ふ事を人に語った所が、

千助の先祖、今から三代前のですね、

其三代目前の千助と云ふ親治を

ワシは知っていたが、

少さな材木屋で有た、

所が長門の足軽が、どうだ合併して

畫具をやったらと云ふ話に、

それでは遣って見やうと云ふので

二人して群青緑青の製を始めて

大いに当たった、

是が日本人が畫具を製した始めなのだ

○其頃の群青緑青の種には、

足尾の銅山の黴の生えたのが

幾らも有った、

迂遠の話だが、絵具屋の仲買が

銅山の近所の百姓屋へ行って

婆さんや娘に頼んで、

川へ流れてくるのを拾はした、

孔雀石の川の中に転がっているのを

拾はして、仲買が二束三文で買っ来る。

ソレを千助が買込んで非常に利益を得た、

所が五三郎の方のはChinaから

受売したり、千助の店のを取次ぐ

のだから高い、五三郎の店の一円のが

千助の七十銭位の品だ、

後には畫かきも知って来て専ら千助の店で買った

○五三郎の方は徳川家の御用達

であるから、一朝事が有ると一手で

買占めて献上するから大に利益もあった

ので別に千助の店が安くても影響はしない、

以上は日本で群青緑青の製し始めのお話だ

○十一位の時に、親に連れられて

千助の家に買ひに行った、

トント質屋の様な家であった、

初代千助は自分の十四五迄生きていた、

今は三代、ソレとも四代目か、

千助の弟に治兵衛と云ふのが有った

~~~~~~~~~~~~~~~~~

●大村西崖君曰く、

審美書院創立の際に寛畝翁は喜んで

賛成して呉れて数株の株主に成られた、

其後畫家は株抔を多く持つ者でない

と云って、ソレ以上加入しなかったが、

何しろ武士的の立派な美術家である


【お大名の御席絵】 

    八十翁 荒木寛畝

○ソレから僕等が若い時に、

大名のお席絵と云ふ者が有った、

此の頃の様な席画の乱暴の者

ではない、

ソレは至極鄭重の者だ

○家々の代替りにお客をする、

お客のあしらひには、

必ず畫かきか無ければならない、

畫かきが出れば、

お客が好まなければならない、

万事ならないならないヅクメに

成っていた

○三十五菜の御馳走で、

大した者だ、

お客は午前九時頃から出掛け、

十時には屋敷へ這入った、

お客のお取扱ひはお城坊主が扱ふ、

我々も早く行く、畫具屋五三郎から

貼ってある絹地を取寄せる、

それはドッさり持って来る、

お客様がソレゾレ好む、

始めは焼筆を付けて見せる、

後には何の守様何のお好みと呼ぶ、

二時間位の間に大凡五十枚か

百枚位の好みが出る、

それが済むと畫かきも御馳走に與かる

○ソレは実に花々しい者だ、

今日決して再び見る事の出来ないもので、

今ではお席絵に出た者は僕一人だ、

玉章でも出ない、

これは畫かきも士族の方でないと

出られなかった

○大書院で行はれた、

お客は七八人を止まりとする、

是れは代替の大名の近親の人で、

役に就いて骨を折って呉れた人々だから、

大名がお目見えがすむと、

其盡力して呉れた近親の大名の

慰労会を必ず催した者だ

○其慰労会の席上には

必ず畫かきが無ければならぬ

事に定められていた

○ズット古るい所は、能であったが、

能は銭が掛って仕方がないと云うので、

畫かきに下って来たのだが、

畫かきの為めには都合よく出来ていた、

狩野派土佐派が主で

時に我々も交って出たのである

[高松宮様御成り・お席画模様」・日本美術協会報告第23輯
席画模様

 【山内容堂公の逸事】

         八十翁 荒木寛畝

“大兵の人”

○山内容堂公は、大兵の人であった、

此人は大名と云ふ中にも、

控えの中から出た人で、

控えと云うのは大名の大きい所には、

一生涯只喰はせて置く親戚がある、

丁度徳川家の御三卿の様な者だ、

容堂公も亦此部類の人で有った、

○所が土佐の大隠居があって、

若殿が家督を継いで早世した、

其舎弟が其跡へ出て土佐守に成ると死んで、

又其次のが又死んだ、

ソコで山内家も断絶すると云うので、

容堂公を厄介の中から引出して土佐守にした

○これは元、そう云う人で有るから

文武共に骨を折った、ヤカマシイ人で、

少々学問も有り、腕力が中々有った

○ソレで才物であって、経済の事も明るく、

政治の事にも亘った人で、

余んまり役に立ち過ぎるので、

我儘を云出して、酒斗呑んでいたが、

公武の間に斡旋して大に国家の事に

盡くした、ソレ故土佐の国に色々の

役人が出たのも、アノ人が有った為めである


“先見の明がある”

○此人の一寸した事で何でも

人の気の付かぬ所へ気の付く

奇妙の人であった、

誰れでも最初は馬鹿な事と

云っているが、後から感心する事斗であった

○酒が好きな為四十六で死なれた、

随分と酒を呑まれるので、

自分が私かに量って見た所、

一日は一升以上、一日は一升未満

であったが、

平均すると一日一升五合は

先づ欠かしつこは無かった

 ”至っての潔癖、文具一切を埋めろ”

○大名であるから至極我儘で、

極めての潔癖であった

○一寸した人か、側の女中でも、

決して自分の机の上に在る文具丈は

取扱はさせない、

必ず自分で毎朝毛バタキで箒いている、

或時一人の婦人が不案内で有った為め、

御前のお目覚めに成らぬ中にと

お机の上を掃除した、

所が大に怒られて、婦女なんどに

手に掛けられては大にキタナイ、

此文具一切は向後使用しないから、

直ちに文具を悉く埋めてしまえと云われる、

役人が困った、ソレは朱壇の机の上に、

玉の置物や、金銀の文鎮其他

其時の価格にして千五百両の品物を、

直ちに土中に埋めろと云い出したのだから、

役人も大いに弱って、

左様な事は決して相成りませんと

止めたが聞かない、然らばお子供様へ

お遣しに相成ってはいかゞと申上げると、

馬鹿を云え、自分でキタナイと感じた者を

人に遣わす事は出来ぬ、もし人にやって

差支が無ければ、此所にいる寛畝に遣ってしまふ、

が、ソレは出来ぬと云って、

自ら茶坊主へ差図をして穴を掘らせて

トウトウ悉く千五百両斗の器を埋めさして

終まった、

ソレは品川の邸であった、

後に誰が掘出したろうが、

先づソウ云った変り物なのであった


“所が矛盾した潔癖”

○ソレで極可笑な話は、

至極平凡碁が好きで、

寛畝に相手をさせる、

或時自分はシツが両手へ出来て

ウミで手が閉じた、

是幸ひとお暇を願って、少し休養しよう

と思うと一向にお暇にならぬ、

差支ないと中々許さないから、

汚い手で碁の相手をしていると、

女中やお妾抔は、

寛畝の手は汚なうござい升から

お控え遊ばせと申上げても

一向平気でお相手になさる、

是には皆が驚いた、

女中の掃除した文具が汚くて早速

埋めさして、自分の汚いシツの手を

平気で相手に碁をさしていられるのは

不思議な話さ


“何かに触れると詩作”

○机に向って、何かに触れると

詩作をやる、平生必ず机の上で

詩文を朝起きるとヤツている、

余り人物が出来過ぎた為め我儘の男であった


“贅沢な様で詰りは利益”

○所が容堂公は無駄銭をダラシナク

使った様に、世間で思っているが、

其実中々先見の明があって、

一時贅沢な様に見えるが、

詰り結局へ行くと大に利益に成っている

○一例を云うと維新の際大阪から東京へ

汽船でお出に成る、

其お荷物の多くは骨董品であったが、

大名は必ず長持ちへ道具を入れる、

スルト一器一物でも必ず真綿で包め

と云う命令で、其頃は鉋屑を多く詰めた者だ、

ソコで真綿の代金も非常な物で、

納戸方大に困ったが、仰せに従って

一々真綿を詰めた、

所が東京へ着いて見ると、一寸した

硝子の器さへ破損していない、

全く真綿のお蔭なので、

長持ちの方はサゝラの如くに痛んでも、

中味は少しも疵つかない、

道具にしても一個二千両も三千両も

するのがある、ソレが破損したら大変な

損害で、真綿所の沙汰でない、

東京へ着かれてから一々真綿を出した所、

真綿の山が出来た、直ちに納戸方へ

返しつかはせと云う仰せであった、

コンナ所は人の気の付かぬ事に先見のある一例です

○容堂公の身上を此火箸にタトヘルと、

丁度二分程を妻子の経済に使い、

後の二分程を役者や芸人に使い棄て、

中味の五六分は挙げて骨董書画に抛つた、

甚無益の様に見えるが、公の薨去の後、

珍品傑作斗で有った為め、

宮内省から侍従がお出でになって

其中から幾多お買上げになった、

従って書画骨董の価格も騰貴し反って

利益を得ると云う次第で、

公の先見の明のあるのに大に服した、

詰り贅沢の様に人に思わして

結局は利益になると云う大きな考なのである

引用 〖繁栄のための算術〗松下幸之助/文芸春秋・昭和39年(1964)8月特別号
松下①_0001**松下②_0001**松下③**松下④_0001**松下⑤ー1**松下⑥**松下⑦**松下⑧



 【嬉しき事悲しき事】
 
        八十翁荒木十畝

   (明らかに十畝は誤植と思われる、

    “八十翁荒木寛畝”が正しい)

“阿房宮の図を誉められた時”

○ソウさね、自分は欲の深い方だから、

只誉められたッて嬉しく思わないが

(ト冗談を云われる)

若い時僅かに阿房宮の図を畫いて、

人に誉められた時程、

一生に嬉しかった事は無かった


“悲い事は沢山ある”

○一番悲しかったのは親の死んだ時だが、

是は世間並みで云う迄もない話だが、

先妻の死んだ時、僅かに連添ッて三年目で、

今の総領の娘を残して死なれた時には悲しかった

○其中でも一番悲しかったのは

山内容堂公の死で、

此時斗りは世の中はアゝ詰らぬ者と思った、

今迄主従心持が能く出合っていた、

舊主も私の為めには耻を忍のんで呉れた、

私も舊主の為めなら命を捨てる位に思った、

ソレ位に思った故、此世は詰まらぬと思った、

以来は一切人と交わらないで

暮らそうと思ったが、

妻子が有るから筆を取て

妻子は養わねばならぬので、

坊主にも成れなかったが、

実際親の死んだ時よりも辛かった、

杖とも柱共頼んだ人に亡くなられたので、

是程悲しい残念な事はなかった、

一年半から二年斗は殆ど蟄居同様にしていた


“荒木の面は人間の面でない”

○容堂公の葬式の時、

品川の墓へ送った所、

板垣や後藤を始め土佐の役人が、

アレ荒木の面を見ろ丸で人間の面ではない

亡者の面らだと笑らッた 

○自分は其時鏡を見ないから

自分の顔は分からないが、

確かに亡者の顔をしていたらしかッた、

何でも此儘一所に容堂公の穴の中へ

這入ってしまはうかと思いつめた程であった


“植木屋に払う銭が無かった” 

土方(伯)が受人で、

正院と云った太政官へ出ました、
寛畝副長**美術之日本大正7年_0002

其の地理局へ出ていて、

漸く生活を凌いでいた、

皆な畫かきも出ていた、

が後には御免蒙ってタトヒ餓死してもいゝ

から畫かきで遣り通そうと思ったが、

中々に貧乏を極めた者だ、

或時植木を買って其銭に困った、

ソウ云ふ位に貧乏したが、

ソレでも性来の強情でとうとう

世の中にお辞儀をしないで凌いで来た、

第一共進会の頃から段々と

頭を挙げたか其迄は中々に辛らかった


引用

 土方久元伯爵は宮中にあって隠然たる勢力を持つ政治家として重きをなした。

宮中では土佐藩出身者が大きな位置を占めている点が特色です。

(同じ土佐藩出身の宮中の実力者である佐々木高行侯爵などを輩出している。)

また、戦前は、我が国最大の美術団体であった「日本美術協会」の会頭を務めています。

土方①**土方②**寛畝副長


坂本竜馬の「大政奉還」と、もう一つの「大政奉還」 
佐々木高行
 【日本人名大辞典(新撰大人名事典)平凡社/1979】



 ”荒木寛畝翁の雑話”

○先生の用墨は程君房、賓朱魯

○先生は芝赤羽河岸、

俗に御被官町で生まれた、

世にお竹大日如来と云われて

有名な女中のいた心光院の側で生まれた

○先生の歌沢の師匠は寅右衛門の

弟子の婆さんであった

○先生の用筆は別に特兆はない

○先生の常磐津の師匠は

 若太夫の弟子の婆さんである

○先生は至極達者で、

八十の老人とは見受けられない、

畫をかゝれる時は眼鏡を用いられるが、

平生は目鏡を用いられない、

顔も艶々して歯も揃っていられる、

歩くにも杖の必要を感じられない、

先日も一人で古梅園へ

墨を買いに行かれた、

久良岐が曾つて

「寛畝翁軍鶏のやうなる歩きつき」

と川柳を詠んだ通り、

どう見ても老いた武士と云う風采である、

先生の主張も亦此の如く泰然として

世の思潮外に立たれる所が頼母しい

★絵画共進会は農商務省主催の

絵画だけの展覧会です。

第1回絵画共進会は

明治15年(1882)10月に開催された。

此の第1回絵画共進会の規則中に

 「洋式ノ絵画又ハ其趣味ヲ帯ブル絵画ハ

  出品スルコトヲ得ズ」

という一項の設けられたに至っては、

一時洋画及び洋画風全盛の兆

あったのに徴し、驚くべき異変であった。 

 恰も工部美術学校廃止の直前

でもあり、龍池会の古美術奨励、

観古美術界の創設、

フェノロサ等の国粋日本美術鼓吹等

種々の理由の加算された結果

であるは疑ひない。

殊に国粋美術運動に動かされた事

多いであろう。

(明治大正昭和日本絵畫史・参照)

~~~~~~~~~~~~~~~~

 【余の知れる寛畝先生】

        門人 池上秀畝


“寛畝先生の隠芸は”

記者「先生の余技で一番振ったのは

   何でせうか」

秀 「歌沢が一番お得意らしいやうです、

   義太夫も幾分かやられ、

   いくらか三味線も弾かれるやうです

記者「あの頑丈な体格、剣術家

   とでも云ひそうな先生にして、

 此の如き余技の有るのは

 大に敬服せざるを得ません、

 サスがは江戸ッ子として

 面白い所が有ります、

 何も美術家は必ず余技に通じなければ

 ならぬと云ふ次第では有りませんが、

 音楽を理解するとか、文学を好むとか、

 綽々として専門以外に余裕が有ってこそ、

 大なる芸術家の面影を認め升、

 そして一面に於いて其時代の社会が

 如何にも余裕のあり、

 社交上の紳士として美術家も亦

 一面に勢力の有った事を証拠立てます、

 乍失礼現今の一部の美術家のやうに、

 美術以外の点に亘ると、只呑む喰ふ、

 即ち牛飲馬食か、否らずんば実感的以上に

 談話が及ばぬとすると、テツカンショから

 僅かに毛の生えた程度の音楽通で有ったり

 して、只胸中に鬱勃たる気魄を蔵しないで、

 理屈や気焔斗で社交に立たうとするのは、

 其余裕がなく、局外者から見ても少しく

 気の毒に思われるのが全然無いでも有りません、

 何も美術家が歌沢を歌い

 三絃を弄し得たとて別に称するにも

 当たりませぬが、社会はそう一概に

 理屈責めには行きません、

 余裕問題の上から、翁の余技の

 多々なるに敬服するので有り升

記者「酒はいかゞでせう」

秀 「酒はちっとも行かぬようです、

 十年以前迄は莨を呑まれましたが、

 病気後はやめられました、

 お茶は焙じた番茶を用いられ升、

 ソレから朝湯が大好きで、必ず毎朝

 欠かした事がなく、恐らく八十の今日でも

 矢張朝湯に行かれませう、

 朝湯から帰ると、キット生卵子を

 湯煎にしたのを呑まれる、

 是が亦十年一日の如く、

 若し卵子の用意がないと大に叱った

 者でした、是等は先生の摂生法で、

 長寿の一用件には成りませう

記者「成程江戸子としての翁が、

 朝湯好きなのは尤の次第で、

 先日十畝氏夫人から、伺ひましたが、

 八十の年に成る迄朝湯のお友達が

 矢張今年八十でお有りになるそうです、

 一寸面白いお話と思ひ升


“寛畝先生の苦心の作”

秀 「私の入門したのは第三博覧会の

 頃で、先生が苦心の作で、

 宮内省御用品の孔雀で

 極彩色の者と、

 高等女子師範の

 波に鴨の図であり升、
 
 其波に付いての苦心は非常の物であッて、

 到底今日の青年には其忠実な点に於いて

 夢にだも知らぬ点だろうと思ふのです、

 ソレは小田原大磯一帯の海岸へ、

 浪の研究に出かけられましたのは、

 凡そ何回だか分らなかッた、

 よくも飽きずに根気よく出掛けられました、

 そして先生が帰ッて来られましても、

 其ブックを見ると、単に波の頭丈しか

 畫いてないので、質問しますと、

 先生の云はるのには、浪と云ふ者は、

 アゝ良い形の浪が来た、写生しやうと

 思う中に砕けてしまうから、

 到底写生する術がない、

 只幾日も~其浪を詠めていて、

 深く頭へ入れて仕舞はねばならぬ

 と教えられました、

 此の如くに浪に付いて斗でなく、

 絵画に付いて忠実に研究される人は

 日本画には其類が少ない、

 分けて今日の青年にはかう云ふ話は

 薬になると思い升

記者「もう少し逸話はございませんか

秀 「先生は極めて平和なお方ですから、 

 逸話として伝記外には少ないやうです


“門下の誘導”

秀 「自分が先生に付いて特に感心しましたのは、

 今日でこそ老後であるから、

 そう門人の去就に付いて

 別に喧しく云はれませんが、

 自分の入門した頃には、先生は絵画に

 付いて特に忠実に苦心し乍らも一向世に

 顧みられぬ不平も有られたのでせうか、


 絵画抔は決してやるものでない、

 外の学問をやって出世をしろ

 と云って謝絶されました、

 私はソレでも折り入ッてお願いを

 したので許容されましたが、

 実に先生は門人に対して信切でありました、

 其一例を申し升と、我々が下図を着けている、

 其時に先生の家族の方が、一寸使いに

 行って貰いたいと頼まれる、

 此方も命令故に立たうとすると、

 先生は大変に怒られまして、
 
 苟もお前は畫を習いに田舎から態々金を

 使って修業に来ているのだから、

 タトヒ家族の者の云付でも

 絵を畫いて居らねばソレも差支ないが、

 畫を習ッている時に家の私用の為めに、

 絵画の妨げをさせるのは宜しくないと、

 家族のお方も散々に叱られる、

 又自分達には畫の為めの大に刺激と成りした

 “苦心して溜めた三百円を

  作品に投じる”

秀「もう一ツ先生に就いて敬服しています

 のは、今の下谷西町の家を建築する

 以前に、三筋町の汚い家に住はれて

 極めて不遇でいられた、

 其困苦の中から非常に節約されて

 其頃丁度今から廿年前の金で

 三百円を溜められて、

 家でも建てやうかと志されたのでせう、

 然るに前申しました傑作の浪に鴨、

 孔雀の二点を畫く為めに、
 
 一切他の依頼を謝絶しまして、

 其二点を畫上げられました、

〖御参考2作品〗
寛畝鴨図寛畝鴨解説
****寛畝孔雀

 其費用が二百五十円を要したので有りました、

 幸いにも其位に心を込めた者でしたから、

 孔雀が二百円で宮内省へお買上げに成り、

 先生も非常に自分の畫が世に歓迎された事に

 力を得られたのでありました

秀「今の青年畫家に、其今日ならば

 苦心して溜めた該当二千円の金を、

 作品用に費やす丈の勇気の有る人が

 有りませうか、

 先日も同門の倉石君とも談じて、

 さすがに一流の人に成るのは違った者だ

 と嘆称したので有り升、

 今日塾から出る青年の多くは少し金が出来ると
 
 スグ小成に安んずる傾があるのは先生のかかる

 苦心を学ぶことに気の付かぬだろうと思ひ升


“三条公の知遇”

秀 「先生が元住はれた三筋町の家は、

 実に我々の住宅よりも劣った住居で 

 有りました五十時代の先生は

 此の如く何でも隣に義太夫語が

 住んでいましたと覚え升、

 我々が入門した当時、

 先生は八畳の座敷を畫室としていられました、

 別に沢山も室がないので、私は其八畳の 

 片隅の半畳程の所へ陣取って

 稽古したもので有り升

秀 「三条公の亡なられる少し前に、

 金屏風に桜と紅葉とを畫かれました、

 其頃は中々容易に金屏風抔の依頼者は

 無かった者で、先生も大に乗気に成られた

 と見え升、

 其写生の為に上野公園へ先生のお供で

 出掛けましたが、上野の中を散々歩きまして、

 一の桜は東照宮前の枝を写生され、

 紅葉は一ト抱もある大木で、其所在地を

 忘れましたが、何でも見事な大木で、

 ソレをスッカリ写生せられました、

 然るにソレが出来上がる少し前に

 公は薨去に成りましたが今でも

 公の邸に存していませう、

 先生は三条公の死を深く悲しまれました、

 其頃の新聞にも「画伯條公ノ墓前ニ泣ク」

 と云記事が当時の新聞に出たのでも知れます、

 それから自分の知っています傑作の

 一としては、先生が神奈川県富岡の

 三条公別荘を中心として、公と同舟で

 富岡一帯の海岸を一直線に極彩色で

 写生した絵巻物で有ります
 
 ソレから條公と日光へ行かれまして、

 華厳、裏見、霧降の三瀑布を三幅対に

 畫かれて差上げられました、

 中が華厳、左が裏見、右が霧降でした、

 其時は丁度東京開市三百年祭の時で、

 お暇乞をされると、公が暫く待てと云はれて、
 
 手づから短冊へ滝と三百年祭の歌とを

 書いて賜はったので、ソレは今も西町に

 表装して保存されて居り升、

滝の歌は

   身も清く思ひける哉滝の音に

         耳も心も洗ひつくして

 と思ひ升

引用 ◇三条実美(1837~91/孝明天皇の側近として

宮中の要職にあり、公卿急進派の第一人者。

63年文久の政変によりいわゆる七卿落ちの一人として長州へ下る。

明治新政権後、太政大臣となる。)

三条実美が長州へ落ちる時に、

土佐藩士の土方久元は付き従っている。

三条実美の母が土佐藩主山内家の出身である所から、

土佐藩出身者を重用したのでしょうか?

その中の一人として山内容堂に近侍した荒木寛畝も、

“三条・土佐藩系”に連なるのでしょうか?

≪御参考≫
三条実美の父、三条実萬(さねつむ)の正室は、土佐藩主山内家の娘
三条実萬_0001
*新聞集成明治編年史



“写生は極めて喧ましく云はれた”

秀 「先生は油畫も学ばれましたから、

 写生は日本画家としては類の無い程、

 丁寧にされる、従って門人にも喧しく

 写生を命じられました、

 我々が御一所に行くと、動物園でも

 何所でも行かれる、尤其頃は依頼者も

 少なく多忙で無かったからでも有りませうが、

 午後になると其所で食事されて

 又写生に取掛ると云ふ風で、一身悉く

 写生的で絵画と云ふ事より外は先生の

 頭脳中には無かったと見え升

秀 「学校の教員と云ふ事は、其頃は

 大嫌ひであった、ソレが細川潤次郎氏

 が来られて、大に説かれたのでトウトウ

 女子高等師範の教授に出られ、

 華族女学校、美術学校へも出られる

 やうに成られたのでした、

其頃邨田丹陵や御楯門下の人々が青年会

を興して自分にも出品しろと勧告されました時、

先生は絶対に禁止されて、

一人立に成って作図でも出来筆力も十分

立つての後なら、いざ知らず、自分一人で

図も出来ぬ中から騒ぐのは青年美術家の

本分でないぞと云はれました、

ソレから歴史書や唐人物の縮図抔も盛んに

やられました、

大作の一なる阿房宮図も其等の結果の一でせう


“古川家の畫”

秀 「古川寅之助氏にある孔雀も極彩色の

 大作の一ツでした、

引用 **寛畝筆 松鶴図屏風部分・男爵 古川虎之助氏蔵
寛畝鶴屏風 
寛畝孔雀屏風**寛畝筆 孔雀図屏風部分・男爵 古川虎之助氏蔵
屏風解説**日本画大成 大正篇(一)昭和8年東方書院刊行 


 
 古川家と先生との関係は、

 市兵衛さんと一所に足尾へ行って

 水彩画で足尾の製鋼所をスッカリ写されました、

 足尾へは長く滞在されました、

 右の関係から古川家では先生を深く

 信じられましたが、市兵衛氏没した際に
 
 先生は嘆息して曰はれるには、

 オレにはどうして、かう保護者に

 縁が少ないのだろう、先には容堂公を亡ひ、

 又條公にお別れをし、

 少し力になってくれると思ふと、

 直ちに故人に成る、

 古川さんもその如くだと嘆息せられました


“家相方位の通”

秀 「先生の家相方位に明るいのは

 有名であり升が、小石川伝通院の

 小島碩聞信心で、ソレは横山町に

 いられた時に火事に逢はれ、
 
 ソレ迄も非常に不遇でいられたのを、

 其時分から段々順境に向はれたので、

 砂撒き抔をやられるのも全く境遇の

 逆境から生じた事で有らうと思ひ升が、

 中々家相方位に明るく専門も踝足であり升

 (三月十九日)

~~~~~~~~~~~~~~~~~

『美術家として武士的の所を探る』

       文学士 高津鍬三郎

       文学士 横地一畝

駒込追分町の横地文学士を訪問する、

学士偶な風邪の気味にて早く床中に在り、

余を其枕頭に導く、高津文学士

亦後れて到る、

談は多く寛畝先生の事に亘る、

今爰に之れを記述す

高「自分と寛畝先生との関係は、

 女子高等師範学校教授の関係です、

 あの先生は畫かきとして 人物の

 確かりとしている点を採ります、

所謂武士的の所を自分は採るのである、

其見識は,一つの見識を守って行かれる、

教育の法が厳格である、其ヤカマシイと

云ふ事は今日の言葉で云へば

開発的なのである、

彼の世の多くに存在している粉本を

写させる形式的の教授法でなくして、

本当に腕を馴らす所が、自分の先生に

対して殊に良い所だと思ふのである

横「写生を元として作図をさせる故、

 門人が稽古に骨が折れる

高「それ丈先生が門人の面倒を見る、

 ソレは自分がやる時に苦心した故に

 門人にも本当に腕の立つやうに

 してやらうと云ふ親切な考より

 起るのである、

門人を取るにしても頑固過ぐる様に、

叨りに門人にしない、

もうちつと門人を取ればよいと

我々が思ふのに、一向に取らない

横「寧ろ、デモ畫かきは最初から謝絶する、

 體の弱い為めに畫家になる

 と云ふのは、頭から謝はられる

高「畫かきと云ふよりも、

 顔を見ても武士と云ふ方が適当している

高「先生は実に義理堅い一の美点がある、

  貧乏の時に世話に成った人とか、

 多少の世話に成った人には、

 其恩義に感じて世話をする、

 其一例として、絵画を依頼するにしても、

 平生世話に成る人は特別に

 骨を折って畫いて下さる、

 決して此畫の報酬は幾らすると

 云ふ様な考は毛頸頭に措いてゐられない

横「山内容堂公のお畫師として

 召抱へられてから、

 先づ御用人といふ格で、

 奥の方は一人で捌き、

 恩義に感じて能く働かれた

高「何でも容堂公の死んだ時には、

 先生は一時厭世的になって

 世を遁れやうとした

横「容堂公が今戸に居つた頃には、

 よく世話をされた、

 一時は容堂公が金を使ひ過ぎるので、

 今戸付近の貧民に憎まれて

 暗殺されかかったことがある、

これは伝記にもあるから略すが、

先生は公から金を戴いて貧民に

施して公の評判を回復した

高「先生は公の財政を能く世話をして
 
整理された、

容堂公は能く金を遣はれた、

かう云ふ逸事がある、

容堂公は盛んに骨董を買入れ

られるので、寛畝先生は公に

骨董の帳面を作れと勧めたが

度々云っても作らぬ、

ある時公の申さるるには

元是骨董は人生生活の

必要品ではない、

つまり道楽品である以上は、

万一紛失した場合に、

其罪を整理者に負さねばならぬ

と云はれた、

其後公の歿後果して後藤象二郎

板垣退助等の旧臣がやって来て、

道具の目録を尋ねたが

一切無かったの寛畝先生に責任が

無かったので始めて、公の恩恵の

大なのと又書画骨董を愛しても

ソレがめに志を奪われぬ度量の

大きいのに先生も驚いた

と云ふことである、

世の中には皿一枚で人を殺した例しもあるのに

横「容堂公の側に先生はいられたから、

 当時の名士が多く出入りした為め、

 其感化を受けたものと見えて、

 先生の鑑定には感服する、

先生が骨董に対して平凡の

一語の批評も、深い所まで見た

批評であって、到底我々の

千言万語と同じことを一言で

云盡される、

ソレは道具類斗でなく室内装飾に

ついても目が高い、

全く容堂公の感化で、我々の批評

以外に飛放れた軽妙な評語を下される


“雅邦と寛畝の優劣”

横「雅邦には墨のコナレはあるが、

  寛畝翁の強い点、

  筆力の雄健はない、

  京都の松年の強味にモウ一層

  温健の所を加えた者である

横「西洋のミケール、アンゼロと云ふ

 風がある、油絵の完成する時代に、

 油絵は女のする仕事だと云って、

 フレスコ法で押し通した、強い一方で

 立っていたアンゼロと対比するに

 明治の大家としては荒木さんに

 許す事が出来る

高「先生の畫は強い方であるから

 花鳥にしても鷺とか鷲とか云う

 強い性質の動物が殊に成功している

横「漢画風の人物畫が得意で、

 画系が桐陰派の人物畫であるから

 人物が得意であるにも係らず

 世間の眼が下っているから

 ソレを見てくれぬので花鳥畫を畫れているが、

 鐘離権の図斗は殊に得意である、

 今日の所外にアゝ云ふ畫を畫く人がない、

 雅邦にしても温雅のノロッとした筆は有るが、

 先生のアゝ云ふ筆、アゝ云ふ種類の畫は見受けない

高「畫かきとして感心なのは維新の後

 畫の廃れた時、此時勢がどうなるか

 分からぬと云ふので、後世に残さん為めに

 阿房宮の密画を寝食を忘れて畫いた

 なぞは大に談ずべき逸事であらう

横「畫の審査に就いても八釜しい、

 美術協会を度々騒がした為め、

 暫く審査員を省かれていた

高「審査でも皆武士気質で、

 自分の信じた所を侃々と述べて

 少しも顧慮もない点がエライ

語り尽きずして午後十一時に及ぶ、即ち

辞して去る、此他棚橋一郎、野口保與ニ

氏の寛畝翁評を記せんと欲せしも時日

なければ見合す事とせり

~~~~~~~~~~~~~~~~~

『読画塾畫系』

荒木十畝氏(寛畝嗣子)

荒木十畝名は悌ニ郎、

明治五年九月三日肥前大村に生まる、

朝長兵蔵の次男、


幼より俊爽他の群童に殊なる、

中学に在りて教師をして其異材なるを

認めしめたりと云ふ、

明治廿四年十二月上京して、

荒木寛畝翁の門に入り絵画を学ぶ、

翌年翁の長女を嫁り荒木姓を襲ふ、

廿七年中東京女子高等師範学校嘱託教授と成り、

後教授に任ぜらる、

尤理論に長じ教授法親切を極め生徒の

心服する所と成る、

屡々其職を辞さんとして許されず、

日本画會幹部委員と成り十年一日の如く

会務に盡す

第一回公設展覧会の設立せらるるや、

某派圧制甚だしきに激し東洋画の為めに

之に反抗し正派同志会を起こし

大に社会の耳目を聳動せしむ、

後公設展覧会審査委員に命ぜらる、

氏の性向正直にして忠実、言行一致を

以って自己の主張とす、

故に畫家の氏に信頼する者多し、

氏東洋畫擁護を以って自己の天職と

信じ異論者に逢へば必ず侃々諤々として

其主張を述ぶ、

人氏を以って時に野心家とし

時に喧し屋と誤解する者ありと雖も、

氏に深く交際する者は氏の真に斯道に

忠実にして、極め正直なる、頭脳の明晰なる

美術家として推奨する所たり、

寛畝翁子ありと云ふべし

長男光太郎(十七歳)次男寛(十四歳)

皆聡明にして中学に学ぶ、

翁の喜び推知すべし、

氏常に旅行を好み、名山大川を跋渉し、

写生を力む、木曽道中写生帖の如き

其尤見るべき者、

曾って飛騨より立山に登りし如きも

又其勇を見るに足る、

又花鳥類の研究写生に至っては実に

深く其精粋を極めたる者と云ふべく、

一々理論に依って之を説明し教授す、

此点に於いては多くの美術家中

氏の右に出づる者莫かるべし、

氏の道楽としては写真あり、

翁の壽像の如きは氏の撮影に係る者、

又音楽を好み以って美術上の労を慰す

と云ふ、氏の上に於いて尤多とすべきは、

芸術家としての堅き信念抱負断行等の

真勇あるにあり、

但し其技は目下進歩中に属し、

其性時に神経的にすぎ狭量の傾なきに有らざるも

他日必ず大成を期して進まるるを見れば

我美術界の為めに亦喜ぶべきの點なりとす


“池上秀畝氏”

池上秀畝は、

明治七年十月十日信州高遠町に生まる、

其先代狩野休真の門に出で休柳と号す、

休柳の子は氏の父にして秀華と号し

四条派を学び豊彦門人たり、

氏年十六にして父に伴われて上京す、

父氏の為に其師を撰ぶ、

当時の大家は滝和亭、川辺御楯の二人にして、

雅邦幽谷未だ声名なし、

父滝川辺二家の教授法に慊らず、

再び氏を伴ひ帰国せんとす、

偶人ありて荒木寛畝翁を推奨す、

時に翁孔雀の下図を壁に貼り

苦心備さに到るを見て、

即ち氏をして即日翁の門に入らしむ、

廿五年一旦帰国し又上京す、

三十二年日本画会に残月野狐の図

を出し好評あり、

三十八年始めて薬研堀に一家を構え、

衆議院議員大岡育造氏の末妹を迎ふ、

妻名緑畝女史と云ふ、又寛畝の門人なり、

伉麗頗ぶる渥し、

同氏の畫歴を見るに、

明治廿七年以後日本美術協会に出品

 褒状を受くる事前後八回

同三十二年以後日本画会に出品

 当選七回

同三十四年以後絵画研究大会

 及歴史風俗畫會に於いて銅印を受くる事三回

同三十七年以後日本美術協会に出品

 銅牌を受くる事ニ回共に宮内省御用品と成る

同四十年東京博覧会に出品二等賞牌を受く

同年以後皇后宮職、御用品、皇太子殿下

 韓国皇太子殿下の席品を勤む

氏は尤山水中の花鳥に軽妙の筆を有し、

席画中の有っても氏の右に及ぶ者少なし、

氏亦曾って洋画を学び写生は極めて

熱心にして到底之に匹敵する

日本画家は少なし、


一たび氏にして門を出づれば

必ず写生帖を懐ろにす、

氏の近き旅行は雪中の木曽、

雨中の駒ケ岳、波涛の金華山等にして、

一々親切なる写生着色帖を作くる、

積んで大冊を成す、

十畝氏嘆じて曰く、

秀畝は真に畫の好きな男なり、

いかに労れし時と雖も畫いて呉れ

と云ってイヤと断った例しなしと、

氏又好んで人物畫を作くるも、

人物品位を欠き未だ成功せず、

氏は景趣共に現はるゝ山水中の鳥類

を可とす、しかも従来は旧様の形式に

囚われしも近来大に悟る所あり

徐々に其写生中の或物を発揮せんとす、

氏亦獣類に長ず、鹿の如きは成功せる者

と云ふべし、

読画会塾中の異彩のみならず、

日本画家中尤有望の人たり

“広瀬東畝氏”

寛畝翁已土佐の藩主山内容堂公の

知遇を獲たり、土佐よりして後継者の

出づべきは元宜しく其所たるべし、

広瀬東畝は明治八年二月廿六日

高知県高岡郡佐川町に生まる、

廿七年南宗派を天野痩石翁に学ぶ、

痩石翁は亦一種の人格を備へし

奇人物なり、

明治三十一年上京して寛畝翁の門に入る、

同三十二年より四十二年迄

美術協会絵画展覧会に出品し、

一等褒状四回、ニ等褒状ニ回、

三等銅牌五回を受け、

御用品の栄を擔ふこと数回、

米国聖路萬国博覧会に暁雉の図を出し

銀牌二等賞を受く、

其他の受賞は煩を避けて之れを略す、

三十五年東京高等工業学校図案科助教授

として日本画を担当す、

氏の性温厚着実近来読画会を代表して

美術界に尽力すること屡々、

其畫風亦温厚謹厳毫も浮華の態なし

★正木東京美術学校々長の十三松堂日記より

昭和5年1月29日

午後四時広瀬東畝を弔問す

 二十七日午前二時半に卒中にて死したるなり

 五十六 惜しむへきなり

 東畝は印癖ありて多数の古印印材を集めたり

 文三橋の幽印に見るへきものあり

 是は悉く戸田子爵家より譲られたるものとそ

 栄之の秘戯図巻十二カ月に書き分けたるもの

 にて精細艶美を極む

 景色も尤も見るへきものなり

★日本名画家伝 物故篇・青蛙房刊

『広瀬東畝は、名は済といい、

高知県佐川町に生まれ、

はじめは南宗画の天野痩石について学び、

のちに荒木寛畝につきました。

明治三十二年(1899)二十五歳の時から

日本美術協会やその他の展覧会に

出品して入賞し、

作品が宮内省や東宮職の御用品となり、

日本美術協会会員で、日本画会の委員でした。

文展には入選でしたがいつも好評で、

昭和二年(1927)第8回帝展のときに、

帝展委員をつとめました。

作品として「よぶかたへ」「谷間の雪」「逸気横生」

「信州焼ヶ岳」「新霜」「深山の秋」「霜おくころ」

などが有名です。』


“倉石松畝氏”

読画会中にありてハイカラを以つて

目さるゝ者に、倉石松畝あり、

ハイカラとは畫風のハイカラにして

風采のハイカラを云ふに非らず、

今氏の手柬に依って之を記さんに 

 拝啓御葉書拝誦、色々御取調恐入候、

御申越の儀無官の太夫の小生

申上候程の経歴更に無之、

出身は信州松代、初め同地の畫家

関愛山翁に南画を学び、

後出府寛畝翁に師事致し候迄にて、

餘は御存の通り、ゼロの人間に御座候、

平生写真嫌の小生独写の物一枚も

無之候間代りに拙作一葉同封御送り

申候、是とても思ふ様の物には無之候へ共、

外に手元に持合無之可然御取計被下度し云々

同門鈴木啓処君評して曰く、

是で同窓の中でも倉石君がどう変化するか、

大に見物であろうと思っていると、

蓋し他は多く成功したるに不係、

氏のハイカラ畫風は将来いかに発展するかを

予想する者、氏にして力めて怠らず、

心機一転化してアル物を胸中に生ずるを得ば、

必ずや一躍大に刮目すべき者あるべし、

氏多病幸に自重せられたし


“鈴木啓処氏”

利益と名誉の外に超然として、

余りに呑気過ぎたる観ある者を鈴木啓処とす、

氏は蓋し楽天家の尤なる者、

明治六年四月下野宇都宮市池上町に生まる、

戸田香園に就いて学ぶ、

明治三十三年上京して寛畝翁の門に入る、

傍ら前南禅寺管長大徹禅師に就いて禅を修す、

徹叟居士の称あり、

故に霊山を渉猟するを楽しみ、

男體庚申白根富士及び日本アルプスの

白馬山系を探知ぐる、

六年前下谷清水町五番地に住し、

塚原渋柿園の女を娶る、
(つかはらじゅうしえん・1848~1917/

歴史小説家・AUthor注記)

氏の作品としては正派同志会展覧会へ

五尺に七尺の極密の孔雀桜花図

を出品し、又着想を主としたる作品に

日本画会に出品したる白馬山頂図あり、

氏傍ら花卉草木を愛す、

氏の白馬山を探ぐる数次、

人以って高山植物の為めとす、

氏笑って曰く余豈に植木屋ならんや、

只高山の霊気を吸って心霊を清錬するのみと、

氏をして今一歩趣味眼を以って

高山の秘を写し出し、其朝霞暮烟、

嵐生雲去の状態を捉らふることに

力めなば、決して今日の啓処の此に非らざるべし


“五島耕畝氏”

近く、読画塾を出てゝ一家を構えし者に、

五島耕畝あり、

氏は茨城県久慈郡中里村の人、

名は貞種明治十五年四月三日生る

初め水戸の松平雪江に学び、

後ち瀧和亭の門人原丹橋に従ふ、

丹橋死して翁の門下と成る、

去四十二年神田開花楼に

耕畝畫会を開き盛会を極む、

氏近く新妻を迎へて

下谷区清水町十二番地に移る、

氏の余技中に皿廻らしの手品なり、

天下一品の称あり、

亦以って氏の多芸なるを知る、

氏の発展は今日の修養の大小如何にあり、

氏為めに大に考ふる所ありと慶すべし


“横地一畝氏”

横地一畝 名は清次郎、尾州名古屋の人

明治四年九月廿日に生まる、

明治三十一年帝国大学国文科を卒業す、

氏幼より絵事を好み

十才の頃南宗派柴田芳洲に学ぶ、

又狩野派春章に学び、又奥村石蘭に学ぶ、

小学科中にありて絵画は常に満点を得、

又べレホスター動物畫を鉛筆にて模写し

やゝ洋画の趣味を得、

中学三年生の頃油畫を学び

藤田正忠に従ふ、

家計やゝ困苦を告ぐ、

即ち校長の周旋に依り

名古屋愛育社の補助を得て上京、

第一高等学校予科二級に選抜さる、

此間苦学を力め双六の納本或は

織物の役者の似貌、植物細胞等の

掛図を作くる、

已にして日本画の趣味大に進み、

遂に大学に入るに及んで国文科を

選定せしは、大に東洋美術の為に

大なる批評家たらんと欲してなり、

高津学士の紹介を以って

寛畝翁の門に入る時に明治廿八年なり、

入門の際水彩画を翁に示す、

翁先づ日本画の初歩よりして筆力の

練磨の要を説く、已にして大学在学中

美術協会に鷹の図を出品し褒状を受く、

翌年雉子秋渓の図を出し首席の褒状を受く、

後一躍して正派同志会の審査委員と成る、

而かも氏が専門家たらずして、

学習院の教授として立つ所以は、

専門家としてはソレゾレ準備の出費

多大にして、苦学より出でたる氏の耐え

得る所に非らず、

且氏は横地氏に養はれて其姓を襲ふ

事と成れり、

氏は現下美術批評家として立ちつつあれ共、

未だ大に活動せず、

蓋し其一面教育上の人たるが為めなるべし、

氏の談話中に子供の時から畫に時間を費し、

写生は専門家に劣らぬ材料を多く持ッているが、

筆の上に纏める事がない、

目の進むと共に自分の畫が次第に

人に示されられなくなる、

畫を知るには畫を作くるより、困難、

畫の妙味を先へさきへと知る、

人の畫を評するに天然の研究をして

置かぬと、作以上―実技家以上に

考が有らねば批評は出来ぬ、

自分は大学院に入って自分は経験を

美術と文学と云ふ様な側に手を付けたが

卒業後其道に入ッて研究しやうと思ふた者の、

扨漠たる者で、十分研究するにも大仕掛で

なければ専門の美術家には成れず、

其中親も送ってしまひ、戦争に出て

五年間は軍隊に使はれた、

大学院も何も纏まる事がなくして通り過した

と云へり、

又畫の批評について左の如く云はれた

ラスキンは畫を見るは畫家に限ると云ッたが、

素人の評と畫家の評とは、ドチラがドチカか

と云へば、畫家も一半は素人である、

花鳥家にのみ生命有って、仏画になると

能く分らぬ、

其付属物の意味が分らぬ、素人には

又此一線が利いているとかいぬとか

云ふ事は分らぬ、色彩の事も分らぬ、

が素人にはヒマがあるから中々に研究する、

けれ共流派すら分らぬ素人では仕方がない、

ラスキンの云ったのは素人の良い方面を

畫家の備へたのを云った者である

氏の意見は頗ぶる長かりしも今之れを略す、

要するに氏は向後東洋美術の批評家として、

古美術の解剖者として、

又東洋美術の辯護者として美術壇上に

立つべきの人なり、

氏は油絵及日本画焼畫等に長ず、

本郷区追分町六十二番地に住す


“其他の門流”

親戚荒木寛友翁を始め、翁の門下に

女流には中山彩畝上原桃畝、永野静畝

等の女史あり、

又青年には石川廸畝以下多くの門人あれど

今は省略することゝせり、

総数七十人以上を有する者を、読画会とす、

是れ皆荒木寛畝翁の分身なり

荒木寛一**荒木寛友

*(荒木寛友は、荒木寛畝の義兄荒木寛一の息子)
*現代日本美術家全録 大正3年(1914)画報社


“寛畝翁の慈善”

      門人 鈴木啓処

寛畝先生は、内所で人を助けることが

好きである、

一例を云ふと前の大溝へ車がハマッた時に、

ソレを引出してやった、

又付近の貧乏人へ匿名で金を恵んでやる

ことが度々あった、

いつも積善之家有餘慶の七字を堅く信じ

且躬行されつゝあった、

ソシてお前なぞも先祖の餘慶が有るから、

かうして畫などをかいて楽な仕事していられるのだ、

だから善を積なければならぬと教へられた


“十四年前の寛畝翁”

         ★久良岐

自分が寛畝先生をお尋ねしたのは

今から十四年前、報知社にいた頃で、

ソレに姉の乙名が華族女学校の教授

であったので先生も亦教授で幾分か

先生を知人の様な感じがした、

永田町の学校の応接室で

先生の軍鶏の挿畫を戴いて

報知新聞へ掲げた、

是が新聞へ美術家の肉筆を掲げる

最初の者と云ってもよいのである

~~~~~~~~~~~~~~~~~

  第五回美術家大會所見

洋食の向ふ三軒両隣   一禾

大一座フホークの音で七分酔ひ 久良岐

フロックの尻を巻くッて焙る也  同

★久良岐とは、川柳中興の祖と

称される阪井久良岐

(明治2年・1869~昭和20年・1945)

のことではないでしょうか。

“私の砕けた話”の中で久良岐が

自作の狂歌を披露し、また川柳も載せています。

 ◎弥次喜多に負けぬ夫婦の遊山旅

     軽尻馬の音もしゃんしゃん

“荒木寛畝翁の雑話”の中で、

『先日も一人で古梅園へ墨を買ひに

行かれた、久良岐が会って

《寛畝翁軍鶏のやうなる歩きつき》

と川柳を詠んだ通り、云々』とあります。

久良岐の作品が、

狂歌一首と川柳三句が寛畝傳に載っています。

これらが、阪井久良岐の全集に

載って居るでしょうか?

この方は、一個の生活者として、

忙しい日常の中に詩味を見出し、

文芸性を汲み取る川柳の方法的

有効性を広めた功労者であったようです。

私見ですが、アメリカで流行している

アメリカ版俳句“6Wordsシックスワード

(First boyfriend, now gone, never left;

初めての彼がまだ心の中に居る)

は誰でも参加し易い民主的な文学です。

約束事にうるさい俳句とは違い、

煩わしい日常の中に詩味を見付ける

庶民の“川柳”こそが、“6Words”に並行して

世界的に受け入れられるのではないか《Author》


『雑録』

《荒木寛畝畫系》

寛畝門人 文学士 横地清次郎

寛快荒木先生小傳付桐陰先生小傳

荒木氏姓は藤原、摂津守村重の弟

山城守重種の後なり。

初め村重の織田氏に従ふや、

弟重種亦信長に属し、伊勢亀山の城を守る。

後村重丹羽明智諸将の離間にあひ

款を毛利氏に通じて信長に抗するに及び、

重種同族と皆之を諌めしかど村重肯ぜず。

織田氏の攻伐にあひ、伊丹花隈の諸城

陥落して村重、重種、共に族人と自盡す。

重種の子重正、縫之亮と称す。

亦父に従って自殺す。

時に縫之亮の子孫左衛門猶幼なり。

其母之を懐きて亀山城を遁る。

成長して秋田城介に依る。

城介安倍氏客分を以て之を優遇し、

特に城介の片諱季の一字を賜へり。

季重これなり。

爾来荒木氏累世季字を傳へて

今日に至る。

寛快翁の季舜、寛一翁の季縄、

寛畝翁の季吉、寛友翁の季鐸

と称する皆是なり。 

 大阪の役、季重秋田氏の勢に

加はりて大手に寄す。

曾ま寄手の軍押崩され潰乱して退却せしに、

孫左衛門芝居を立去らずして高名せしかば、

褒美として御召料の具足を賜はりたり。

後季重故ありて秋田氏を辞し、

安藤右京進に依る。

浪人分として知二百石を給せられ、

安藤氏の居城高崎に在りて病没せり。

季重の子季種、権太夫と称す。

父の知を襲ぎて安藤家に仕ふ。

其子季貞、清右衛門と称す。

鳥居左京亮に給仕し百五十石を食む。

子季延、通称宇左衛門、

実は清右衛の甥なり、

本多氏より入りて家を継ぎ、

鳥居丹波守に仕ふ。

其子季満、亦清右衛門と称す。

鳥居伊賀守奏者番たり。

季満の嫡子季平、通称は八郎、

家を襲ぎ鳥居家に仕ふ。

後故ありて主家を辞し、

一時田沼主殿頭に出仕す。

天明二年病を以て仕を致し、

処士を以て甲州流軍学を教授し

以て業となす。

軍書数百巻今なほ荒木氏に傳襲せり。

寛快先生は八郎季平君の次子なり。

天明五年を以て江戸芝新銭座に生る。

先生名は季舜、字は挙公、号は達庵、

別に蓬生の号あり。通称は弥次右衛門、

幼字を福助といへり。

初め本多氏を冒しゝが、

嫡子弥太夫早世の後に

家を継ぎ荒木氏に復す。

先生幼弱にして父を亡ひ、

慈母の手に鞠育せらる。

而して少頃の地所、若干の資財は

父君の遺産として継承せられしかば、

富裕とにはあらねど、

折しも泰平の化に浴し、

長閑なる春風裏に人と成りて、

憂き世の惨味に触接することなかりき。

齢ニ十歳に垂んとして一日易者先生を

相して曰く、噫多福の少年、惜らくは

薄命にして寿五五を出でじと。

蓋し当時先生体質虚弱、健康とかくに

勝れざりしかば、自らも長寿を期せず。

漸く易者の言に信を置くに至り、

謂へらく易者の言或は以て信すべし。

露命固より長きを保し難し。

何ぞ区々として小節に労するを要せんや。

如かず身心の歓楽貪り、思ふが儘に

振舞ひて此短生涯を盡さんにはと。

是より性向頓に一変して復世事を意とせず、

遊蕩耽酒の間空しく数年を消過し、

易者予言のニ十五歳は過ぎぬ。

資産概ね散じて余す所なきに至って、

先生身は愈健勝に、近く寿命の尽きぬべき

様子もあらねば、再び往いて彼の易者を見る。

詰まるに前言を以てす。易者大に喜んで

賀して曰く「善哉、子能く散じて吝まず、

身の禍根を消せり。寿今より長かるべし」と。

先生呆然として答ふるに辞なし。

悔悟して去る。今更に無謀の挙を悔ゆれども

及ばず。覆水盆に復らず。

発奮激励立身の志を立て、こゝに新生涯を始む。

其専攻の業として選択せしは

予ねてより嗜好深かりし畫道なりしなり。

一時芝増上寺山内の一院に寄食し、

ひたすらに丹青に心をひそめぬ。

その師事せし所は幕府旗下の隠士

桐陰公子にして、後には飯倉片町なる侯の

畫塾に入りて同門桜間青崖氏と共に

門生の指導に盡されたり。


《桐陰家系》

桐陰公子は幕府旗下の士、

代々三千石を領し芝愛宕下日影町に第す。

茶道石州流の祖片桐石見守貞昌の弟

貞晴の後なり。

桐陰嫡子を以て家督を継ぎしが、

故ありて早く隠れ、弟に譲り、絵事を修し、

六法三昧に身を終ふ。

蓋し桐陰とは片桐氏の隠居なるより

自から修して斯かく名づけたるもの、

其実は号にあらざるなり。

号は蘭石、通称は処翁、一に自然叟の名あり。

幼にして畫を嗜み、初め木挽町狩野家に学ぶ。

当時武家式正の畫は狩野の一派に制限せられ

たるを以てなり。

番衆として番入の後幾もなく勤仕の煩を厭ひ

隠居せし後は其私淑せる渡辺玄對の門に

入りて専ら人物畫を究め、終に一家をなし

妙を極む。

蓋し漢畫南北両宗の粋を抜きたる南北合派と

称する一流は恰も侯の時代に当たりて勃興せるもの

畫界機運の自から然らしむるものにして、

桐陰侯も馬孟燕父子、玄對等に並びて

此派の創業元勲の一将たりしなり。

侯資性恬淡、世に阿らず、名を求めず、

釋雲室、広瀬臺山と交遊親密にして

常時書畫の雅筵常に彼等と共に

上席を占めたりといふ。

侯の作畫多くは諸侯の家に蔵れ、

世間為に知るもの稀なり。

今の子爵片桐家は石州公の後にして

一門の宗家たり。

嘗ては桐陰の傑作大幅あまた蔵せられしが、

維新の際散逸して今存せずとぞ。

関羽の図、達磨の図など、人物畫の振はざる

当代稀に見る所の大作なりし由

子爵家家扶大河原老人の語られき。

其作中の一なる東方朔は紙本の大作にして

雄憚の筆力以て侯の畫風を見るべし。

蓋し図は謝時中に資れるもの、

現に寛快先生の令孫寛友翁の蔵する所なり。

又肖像は侯自から写す所、丙子秋仲と

手記せられたれば即ち文化十三年侯

五十八歳の時の自畫像なり。

簡略なる描線能く侯の風丰躍如たらしむ。

衣紋勁猷亦其筆力を見るべし。

寛快先生師翁の像を作らんとして

下絵に苦心中、侯曾ま之を見て

自から筆を下し以て与へきとぞ。

処翁文政二年巳卯七月二十六日を以て歿す。

年六十一。渋谷祥雲寺に葬る。

法名を蘭石軒幽渓処翁居士といふ。

処翁嘗て寛快先生に語て曰く、

余百年の後忌日を弔ふの志あらば須らく

鰯に奴豆腐を以て之を祝せよと。

されば先生家を成して後

毎年二十六夜の忌日に当り

門生一同を先師の自畫像前に會し、

追慕の宴を開くを常とせりといふ。

寛快先生処翁の門に入りてより十数年、

人物畫を専攻し終始一日の如く、

精を盡くし妙に達す。

美人畫は特に其得意とする所なり

花鳥山水亦能くせざる所なし。

増上寺山内清光寺の住職得誉上人は

先生の姉の子なり。

一に大名、ニに寺方

と唱はれし当時の俚諺に漏れず、

自ら多少の余裕有りしものか


善く其叔父君を看る。

先生為に家事に焦慮するに及ばず、

或は師の畫塾に寄食して心を丹青に

専にするを得たり。

世に媚び名を博するを先とせず、

古畫の模写に心をひそめ、

奈良京都鎌倉等大刹の名畫

概ね模写せざるはなし。

その頃嵯峨清涼寺の釈迦仏、

毎四五年一回、両国回向院へ

出院開帳の事ありけり。

開帳の寶物中に傳李龍眠十六羅漢の

名畫ありき。先生此名畫の模写を思ひ立ち

たりしが当時の事情は容易に之を許さず。

開帳の都度然るべき手蔓を求めて許可を得、

毎回僅にニ幅づゝ是を写されき。

而も毎回初穂料として金弐分宛を奉納

せしめられき。

余裕なき当時の先生に対しては二分の金

決して小額にはあらざりしなり。

此金を投じ、繁冗の手続を労とせず、

毎回開帳を機として模写に尽瘁せられしかど

容易に完成に至らず。

後、畫友間部下総守寺社奉行の要職に在るに及び、

特別の詮議を以て残余の幅を一時に

貸与せられしを以て終に十六羅漢全部

を写し終るを得たりといふ。

此一時を以て先生の古畫研究に対する

熱誠の度を表明するに足れり。

かくて先生技著く進み、名漸く顕はる。

年四十始めて一家を構へ、

芝森元の先生小路に居住す。

赤羽橋の北に心光院有り。

俗にお竹大日如来と呼ぶところ、

其西側より森元本通に至る一小路あり。

謂ゆる先生小路是なり。

鼓の名人清水助五郎、

剣道の達人馬場某、故実の大家松岡氏、

伊藤常次郎氏、南郭の後服部氏等の

諸名家其北側に軒を連ねたり。

寛快先生の家せしは南郭の西隣なりき。

安政大震の後森元の通夜渡辺玄對翁の

舊地を購ひて是に移れり。

寛快先生内田氏に娶る。子無し、

親戚の子寛一を養うて嗣とす。

後又増上寺行者田中永周氏の三男

光三郎を養ひて子となし共に箕裘の業を承かしむ。

今の帝室技芸員正五位荒木寛畝翁是なり。

《Author》

名作“ローマ帝国衰亡史”の著者、

エドワード・ギボンの『ギボン自伝・ちくま学芸文庫』には

<我々は名誉の評価に際しては、

財産の贈物よりも造化の神の贈物たる

天分を一層重視し、

我々の先祖の中での社会公共の

利益を最も増進する性質を評価して、

その著作が最も遥かな後代にまで

教化と愉楽を伝えるであろう人間の

子孫の方が、国王の後裔よりも一段と

高貴であると判定するように心懸ける

べきであろう。

私の考えでは孔子の家系は世界で最も

輝かしいものである。

我々ヨーロッパの大名や王侯が、八百年

もしくは一千年の懸命な遡及の果てに

すべて中世の闇の中に埋没するに反して、

孔子の子孫は中華帝国の広大な

平等性の中で二千二百年以上にわたって

平和な名誉と恒久的継承を維持していて、

現に今日でもこの家族の首長は君主及び

民衆からこの人類で最も賢明な人物の

生きた似姿として崇められている。

中略

私自身はと言えば、私がもしも自分の

先祖に将軍や政治家あるいは高名な

著作家を持っていたならば、さぞや子

としての愛から彼らの生涯や著述を

勤勉に研究するであろうし、

この偶発的な関係からある種の喜びの

感情、敢えて言えば虚栄心が自分の胸に

萌すかもしれない。

だが私個人は、彼らの称号や財産の

思い出よりも彼らの個人的功績にこそ

一層多くの喜びを見出すものであり、

それ故に私は軍人の名声よりも

文人の名声に一層深く感動し、

マリウスよりもキケロから、

そして第一級のガータ勲爵士よりも

チョーサー(14世紀の英国詩人)から

自分が出ていると聞くことを格段に喜ぶだろう、

と敢えて一言したい。

孔子の家系は私見によれば

地上で最も高貴である。

この哲学者から現在の彼の子孫の家長まで

七十代の権威ある世代がすでに経過し、

現在の家長は、Chinaでこれまでに

四千四百二十五年間栄えてきた

輝かしい家系の始祖と信ぜられる

黄帝から数えれば百三十五代と数えられている。

私は何の躊躇も留保もなく私の個人的な

感情を述べてきたし、今後もそのように

心懸けるであろ。

それ故に読者諸賢も尊卑の別なく

この主題に関しては、自分自身の

内心の声に傾聴するように

私は奨めたい。

この種の感慨が正当、少なくとも自然で

ある事実を、私自身は自分の祖先から

何一つ栄光や汚辱を引出せぬ故に

この主張に何らの利害を有しない人間として、

一層深く確信するものである。>



“寛快の交友”

寛快先生が親交最篤かりしは

間邊松堂、大西圭齋、立原杏所、渡辺崋山

等諸家にして、

桜間青崖は桐門の同窓として殊に親しかりき。

崋山も時々来訪して粉本の貸与を請へり、

杏所一日芝日影町を過ぐ。

一骨董舗の鄽頭畫幅を懸く。

洞陵王銓の筆する所呂洞賓の図なり。

杏所垂涎措く能はず立處に

購ひ帰らんと欲す。

而して代価相協はずして心中私かに

帰途再び立寄りて是を決せん事を期して去る。

杏所去りて幾もなく寛快先生亦偶然

鄽頭を過ぎ同畫幅を見る。

注視良久しうして価を問ひ

購求して携へ帰れり。

一歩を後れて杏所再び骨董舗に

到れば王銓の畫既に無し。

主人備に客の相貌を陳し購ひ去りしを語る。

杏所主人の語によりて客の寛快先生

なりしを推知し直に歩を抂げて之を追ふ。

至れば先生方に其畫を壁上に展べ

賞嘆自失、人の来れるを覚らず。

杏所来由を告げ情を陳して

充分の利附を以て譲り受けん事を

懇請せしかど、

先生固く辞して竟に応ぜず。

杏所遺憾遣る方なく憤慨して別る。

是より先、杏所甞て藍田叔の畫

一幅を所蔵せり。

其畫はもと渡辺玄對の蔵にかゝる

有名なる藍田叔十二幅の一にして、

往時玄對が長崎奉行の嘱に依り

漢畫の鑒別に従事せし頃

十二幅六圓の低価を以て買ひ得たるもの、

玄對歿後杏所亦低価を以て求め

得たるものなりき。

寛快先生此畫の譲与を杏所に請ふ事

数回、杏所遂に時価六圓を以て求めに

応ぜん事を許諾す。

約成りて先生曾ま餘財なく、

直に履行する能はず、

荏苒うち過ぎたり。

前記日影町の事ありしより後数年、

先生一日金を携へて杏所を訪ひ、

彼の藍瑛の一幅を獲ん事を請求す。

杏所曰く諾、但し時価今昔の差あり、

六圓の前約は其儘にて履行する能はず。

金二十五圓以下にては応ずる能はずといふ。

蓋し当時古畫の海外に輸出せらるゝもの

漸く多く、従って時価の騰貴も著しかりしは

さる事ながら、先に玄對が十二幅六圓にて

獲たる一幅に對し、今杏所の二十五圓を

要求せるは法外の沙汰なり。

親友の間柄然るべからざる所為なり

とて是より交情漸く疎しくなれりとぞ。

想ふに日影町の一事深く杏所の銜む所

となりしに因るべく、道に熱心なる両家の争は

誠に一美談ならずやと寛畝翁の常に語る所なり。

寛快先生嘗て清人の名手に畫を請はん

と欲し、人に託して和絹彼土に珍らしとて

China絹に取替へて寄越せたる山水畫ニ幅

その落胆奇態にして何人も読む能はざり

しが、杏所辛うして判読して朱昂子なる

ことを知るを得たりといふ。

此畫今寛友翁の蔵たり。

先生大西圭斎と友とし善し。

先生の京都漫遊の為発途するや、

門人江崎寛斎を圭斎に託し畫を学ばしむ。

其帰るに及びて寛斎は既に圭斎風の

花鳥を伝へ、頗る之を善くす。

先生大に喜び、なほ将来の指導を

托せられしかば、寛斎は両師の間に

往来して薫陶を受け、其技大に進めり。

名寛斎は寛快の寛、圭斎の斎に資りたる

ものなりといふ。

当時圭斎門の秀才に岡本秋暉あり。

寛斎如上の関係より秋暉亦寛快先生に

出入し親睦厚く、其人物畫の依嘱を受くるや

寛快大抵之を代筆せりといふ。

寛快亦花鳥に於て秋暉に得る所多く、

寛一寛畝両翁が秋暉の長を伝ふるもの

亦此関係に出づといふ。


“寛快門人”

門人には前記寛斎技を以て最著る。

中村寛亭、三春の人、先生歿後郷に在りて

畫を業とす。門人多く、十数年前老を以て

彼地に歿せり。

野川水は初文門の雲峯に学び後、

先生に就く。畫を能くす、鐡拐の字ありし

奇人なり。故滝和亭翁一時教を

寛快先生の門に受けしも水の

同伴せるによれり。

此の他間部安房守松斎、松平伊豆守松岸、

水谷主人南、荒木内匠蘭阜、僧月坡

及び秋田安房守麗山等皆其門に在り。

殊に秋田松平の両侯は各数口の俸を贈りて

先生を優遇せり。

蓋し荒木の祖もと三春家に故あり。

藩主熹季特に親戚の禮を以て寛快を

延き優禮常に渥かりき。

斯くて先生の作畫多くは諸侯の家に蔵れ、

民間に伝はるもの鮮しと雖、

𠑊然一家をなし、大に賞用せらる。

老境に及び家道饒裕、加ふるに

嗣子寛一、養子寛畝、

一は秋月藩に一は高知藩に共に絵所として

任用せられしかば、優遊晩年を送り、

七十六歳の長寿を享け、

安政七年庚申正月九日を以て歿せり。

法名を圓光院寛快日舜居士といふ。

牛込弁天浄輪寺に葬る。

寛畝翁本姓は田中氏増上寺の行者

田中三家の一に出づ。

幼にして畫才あり、初め他家に養子たる

べき約あり、

父君養家へ土産の一にもと志し、

友人寛快先生の門に丹青を学ばしめき、

翁の天才と熱心とは速に勃発して

長足進歩を呈し夙に嶄然として

頭角を見はす。

父君の歿後荒木氏の懇請によりて

師家に養子となり、義兄寛一を補佐して

只啻後素の道に盡せり。

寛快先生後に翁を分家し

別に一家を創せしむ。

其の肖像は、嗣子寛一先生の筆する所、

当時寛畝翁亦之を補く。

畫賛は三春の藩主安倍麗山侯の、

物する所にかゝる。

蝦蟇仙人の図は寛快先生の筆、

款して木舜といふ。寛友翁の家に伝ふ。

旭陽松樹の図は先生が山内容堂公に

召見せられ席上に揮毫せるところ、

今寛畝翁の家に伝ふ。

両図共に大作にあらずといえども

亦以て筆意を見るに足れり。


“荒木寛一小傳”

荒木寛一名は季縄、修して木縄といふ。

梅隠斎の号あり。

木舜寛快先生の嗣

実は医師鎌田周庵の長子なり。

文政十年五月十日武州多摩郡五日市に生る。

蓋し周庵の父本多此母氏は

寛快先生の先君八郎氏の舎弟にして、

先に出でゝ鎌田家を襲げり。

親戚の間柄なるを以て、出生前既に約成り、

荒木氏に嗣として幼にして養家に入る。

頴悟夙に畫を能くす。

人物花鳥は父君を師とし、

山水は桜間青崖に受く。

年甫めて九歳芝神明前の旗亭車屋

に於て名弘め會を開催し盛会を極む。

以て先生の已に有為の材たるを知る。

十四五歳の時知恩院宮既下御下向

三緑山御滞在の事あり。

先生寛快先生と共に召見せられ、

御席画を勤む。

遂に近侍に召され、宮還御の際

扈従して京に上る。

知恩院寶物有名なる蝦蟇鐡拐の双幅

及び他の名の親しく之を臨摹し

大に得る所ありて帰東す。

技大に進み、幾くもなく畫を以て

黒田甲斐守に仕へ俸若干口を給せらる。

三春の秋田家、延岡の内藤家、

出石の仙石家亦各扶持若干口を給せらる。

此外相良松浦山内溝口諸家特に先生の

畫を愛用せり。

又舊幕諸侯先生を聘して揮毫を托する

もの多く、勵精執筆日も維れ足らざる

ばかりなりき。

土佐の藩主山内容堂侯は黒田甲斐守の

甥なり。黒田家に賓来して時々荒木氏を見る。

絵師を招聘せんとして事を黒田侯に謀る。

先生乃ち義弟寛畝を推挙して之に応ぜしむ。

容堂侯曩に黒田家賓禮の席畫に寛畝を識る。

豫ねて其才を奇とす。是に於て喜んで之を聘す。

寛畝翁時に年二十六、

爾来侯の為に寵用せられ知遇一方ならず、

仕へて明治五年侯の薨去に至るまで

一日も渝らず寛一先生亦厚く侯に寵遇せられ

恩賜の物尠からず。

先生亦此種の嗜好至りて深く、

常に座右に備へて愛玩措かざりきといふ。

明治維新の後先生作る所の畫の

著名なるものを記さんに、

明治五年宮内省御用帳臺御帷に

鶴蘆の図を揮毫したる、

同年墺國維納大博覧会に春の花鳥の図

を出陳して賞状金圓を下賜せられしを始として、

明治十三年、

同十四年の内国勧業博覧会、

同十六年、

同十七年の内国絵画共進會に出品して

毎回賞牌を受けたる、

同十六年に宮内省御用御杉戸に

水墨梅之図を揮毫したる、

同年増宮様御殿御座の間杉戸に

四時花鳥図を作りたる

皆著名なるものなり。

十六年絵画共進會の出品畫は

宮内省御用の名誉を負ひたり。

明治二十年四月中風の病に犯されてより

後は先生一に静養に留意し、爾後筆を執る

こと稀なり。

門人中尾徳満氏進めて先生を池上本門寺に

伴ひ、時々院内に宿泊せしめて静に病を養はしむ。

気の進む折々は先生毫を揮ひて

技を試む。当時の作猶大坊に存せり。

院主上人深く之を徳とし報酬する所

有らんとせしかど先生常に辞して受けず。

唯院主再三懇々の誠意を無下に

却けんも本意なき事に思ひ

然らば祖先の法會を執行し賜ふを得ば

望外の幸福なるべき由述べられしかば、

院主大に喜び茲に先生祖先の為に

一大法會を修し、

桐陰老公、青崖先生寛快先生

追福の雅會を開く。

上人自から導師となり、高僧の来會

するもの数十名其儀盛大を極む。

時に明治二十五年九月中旬なり。

友人淵邊徳蔵氏游萍と号す豫ねて

先生と交遊篤し。時年七十六、

当日雅會の事を主宰し斡旋大に至れり。

席上の光景を写生し、図に題して曰く、

回想群賢殆百年   一時清賞盡登仙

余風不滅猶如許   嘆楽談笑文雅筵

斯くて先生病漸くすゝみ終に起たず。

翌二十六年四月二日溘焉として逝けり、

享年六十有七、

法名を吾楽院日乗寛一居士といふ

牛込市谷浄輪寺の先塋に葬る。

先生質性温厚而も恬淡世事に心を労せず。

養父母に奉仕すること極めて厚く、

亦好みて隣人の窮迫を救へり。

随て理財の道に疎く、日常家居の際の如き

興至らざたば容易に筆を手にせず。

家人往々缺乏を訴ふるあるも、

平然として毫も意に介せず。

悠々老を楽んで世を終ふ。

知る人皆敬慕せざるなし。

門人には本田寛栗、南寛明最技を以て著る。

此外龍沼内藤侯、節堂上杉侯、碧雲溝口侯、

扇岳相良侯、楽水松浦侯及び秋田御隠居

玉鈴女史、蟻川清香女史、武井梅圃、

中尾梅坡等皆先生の門に遊び

一時隆盛を極めたり。

寛一先生長谷部氏に娶り三男二女あり。

女は先に澤善養氏歸く。

澤氏後故ありて荒木氏を継ぎて分家す。

その子享吉氏畫を野口幽谷翁に学び、

現今鐡道院に奉仕し、間餘筆硯に親しむ。

二男某氏商に従ひ早く歿す。

三男義之氏山名貫義翁の門に学び

土佐派を善くす。分れて一家 創す。

寛一先生歿後長子寛友其箕裘を継ぎ名当代に著る。
               
長井一禾鴉に名あり寄す

是は此れ路機山の明鴉     岐

   亜米利加一のハイカラの聲


『寛畝翁の談片』

○ワシは人間が下作の方だから、

鐘馗の畫は暁斎のがすきだね、

雪舟のも悪くはないが、衣紋の線が

薪雑ぼうを押付けた様で面白くない、

鐘馗の衣紋の線は強くて変化が欲しい、

去年は依頼で毎日々々四月頃は鐘馗を

畫いて、終ひには飽きて終まったが、

今茲は依頼が少ない

○三条公は洵に質素でエライお方で有った、

富岡の御別荘と云っても、ホンの粗末な

邸であった、日光へ御滞在中も

三代将軍の御霊屋の別当所の

寺の住職と御懇意で、

一日お出でに成って、和尚と自分畫かきと

二人をお相手に晝の十二時から

晩の十二時迄、精進料理でお酒を召上がって

遊んでいられる、

畫かきや坊主の話でソレで満足して

お喜びに成って一日ユックリしていられる

所は全く世塵の外にお心があるものと

見られる、実に感心しましたよ

○昔し東洋絵畫協会が出来た時に、

日本では始めてだので全国の畫家が

競って入会した位で、

実に良い會で有ったのだが、事務員の

良くない為めに、とうとう発達せずに、

僅かに東陽堂の雑誌に名残を止めた、

ソレから高橋玉淵や邨田丹陵抔が

東洋絵画協会の中から別に青年会を起こして、

中々隆盛だったが、チョロリ岡倉に持ってかれた、

何も岡倉が持って行ったと云ふのでは

ないが、ヒドイ賞を呉れたので、

皆な怒って異分子が退会してしまったのだ、

東洋絵画協会は未だに惜しく思はれてる

○ワシは自分から進んで世に求めない、

自然と世の要求するのを待っている

気の長い話だが、自分から世間に

求めると其反動の酬いが来る、

世間と云ふ奴は多く平凡な者だから、

ユッタリと時機の熟して向いてくるのを

待つ方が得策だと思ふ

○山内容堂公の活動された時代には、

自分にも敵が多かった、

始終アトを付けられた事もあった

○三条公は餘り人をお近付けに成ら無かった、

お居間へ伺候する者は

◆武村耕靄女史位であった、

自分は舊主の関係から御懇意に成ったのである

“荒木寛畝傳”転載終了


◆ 武村耕靄女史は、

名は千佐子、字は貞子、玉蘭斎と号す。

嘉永五年江戸に生る。山本琴谷、春木南溟に師事して、山水花鳥を能くす。

女子高等師範の教授となる。(お茶の水女子大学の前身)

其の他御前揮毫の栄を賜ふ。

大正四年六月八日歿す、年六十三
(日本画大成・日本画人名辞典)


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Silver Nail(銀の釘)

Author:Silver Nail(銀の釘)
アマチュアの研究者です。
インターネットをお借りして、私どもの研究成果(日華展と日暹羅展等)を内外研究者に公開し、利用して頂くことで、私どもの目差す社会還元は果たせたと考えております。

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